日本基督教団 玉川平安教会

■2020年12月27日 説教映像

■説教題 「喜びと希望の信仰]
■聖書  ルカによる福音書 19章11〜27節 




○ この譬えには三つの主題があります。厳密には二つと言うべきでしょうが、計三つの主題と言っておきます。最初の二つを前提にして、第三の問いが生まれて来ます。これを勘定に入れて、計三つの主題と言っておきます。

 第一の主題は、神の国は何時到来するのかということです。この主題については、ごく簡単に触れられていますので、注釈の方も、簡単に申します。

 この時代のキリスト者には、『神の国は直ぐにも現われる』と思っている人が少なくなかったようです。このように考える人々、または教会に向けて、この譬えは語られています。

 回答は、簡単と云えば簡単です。エルサレムに於けるイエスさまの死と復活によって神の国が直ぐ現れるものではないことを、12節で間接的に述べています。イエスさまは、『遠い国』、即ち天の彼方に旅立って行かれたのだから、お帰りになるまでは時間が要る、また、王位を受けられても、直ぐに裁きのために戻って来られるのではないと、譬えを借りて教えています。

 これは原始教会の中に一般に見られた疑問、何故、終末は遅れているのかという問題への回答でもあります。


○ 二つ目の主題とは、勿論、最初の主題と無関係ではなく、それを前提としたものです。これも、先ず答えを先に言ってしまうならば、私たちキリスト者、または教会は、終末の時まで、主が来られる時まで、どのようにして日を過ごしたら良いかということです。


○ 第三の問いとそれに対する答えについては、最後に申しましょう。

 第一と第二の主題を確認しましたので、これを前提に、順に読んでまいります。

 先ず、12節、及び14節について。

 『ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった』

 この箇所は、或る史実を下敷きにしていると考えられています。ヨセフスの『戦記』、また『古代誌』に、この事件に関する記述が載っているそうです。私はヨセフスのほんの一部しか読んだことがありませんので、載っているそうですとしか言えません。

 当時のユダヤ人指導者たちは、へロデ大王の息子の一人アルケラオスがへロデの死後、王に即位することがないようにと願って、ローマに直訴しました。これを阻むべく、アルケラオスはローマに出掛け、逆に訴え出ます。結果、ローマ皇帝は、彼をユダヤとサマリアおよびイドマヤの代官に任じました。アルケラオスはローマから帰還した時、直訴者たちに復讐、殺害しました。しかし、後に、紀元六年には、ローマ帝アウグストゥスに廃位させられます。

 勿論、アルケラオスとイエスさまを重ねているのではなくて、出来事の共通性を指摘しているのに過ぎません。

 

○ 13節。

 『そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、

  これで商売をしなさい』と言った』

 この譬えはマタイ福音書25章14〜30にも描かれます。双方の共通点は、ある人が旅に出るとき、自分の僕たちに自分の財産を預けたが、披らは能力に応じてその一部を増やした。しかしその中の一人は主人が厳しい人であるのを恐れて、金に手をつけなかった。それが帰ってからの主人の怒りに触れ、預けられた金も取り上げられ、持つ者に与えられ、彼は罰を受けた、というものです。

 しかし決して些末とは言えない点で相違が多く、マタイはマタイ、ルカはルカで読まないと却って混乱の元かと思います。

 一番大きい違いは、マタイでは、5、2タラント、1タラントと、与えられるタラントに差がありますが、ルカでは同じ1ムナです。この違いは、解釈に影響を与えない訳にはまいりません。

 もう一つ、文脈が大分違います。ルカの譬えは、まだザアカイの家での出来事、そこで語られた譬えですが、マタイには、そもそも、ザアカイの話は存在しません。


○ 15節。

 『さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、

  どれだけ利益を上げたかを知ろうとした』

 このムナが何を意味しているかが、何しろ問題です。マタイのタラントという言葉は、既に一人歩きしています。タラントつまりタレント、才能という意味で用いられています。最早日本語です。

 ムナも、同じ貨幣の単位ですから、本来はタラントと同じ意味に取ってよろしいのですが、既に述べたように、10人に同じように1ムナずつ与えられたというこの一点をとっても、タレント、才能と解釈することは出来ません。むしろ、機会、そして時間的猶予という意味に取るべきでしょう。


○ もし、マタイが才能の意味でタラントを用いていると定すれば、このような解釈になります。「人それぞれにタラントが与えられている、豊かに与えられたものも、そうではないものも、神さまの恵によって与えられたものなのだから、それを大事に用いなければならない。まして、自分には才能が与えられていないなどと僻んで、乏しい能力まで腐らせてしまってはならない」

 更には、人にはそれぞれに与えられた分というものがある、という解釈まで生まれるかも知れません。

 少なくとも、ルカに関しては、このような解釈は成り立ちません。ルカでは、同じムナ、つまり、チャンス時間が与えられたことが強調されています。


○ 16〜17節。

 『最初の者が進み出て、【御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました】と言った。

 17:主人は言った。【良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、

  十の町の支配権を授けよう。】。主人は言った、

 【よい僕よ、うまくやった。あなたは小さい事に忠実であったから、十の町を支配させる】

 僕と呼ばれていますが、彼らは後に町々を支配するというくらいですから、ここでは奴隷という意味ではありません。

 一ムナは百ドラクメ、当時の労働者三か月分の生活費程度です。この1ムナが十ムナになりました。十ムナとは、完全な数の象徴です。既に前提として申し上げたように、主人とはイエスさまを指します。また同様に、再び帰って来るとは、再臨のことです。このことを重ねて読めば、解釈は自ずと明かになります。

 教会は、再臨の時までに、主をお迎えするのに相応しい姿になっていなければならないという意味です。10の町を支配させるとは、必ずしも、10の礼拝所を持つ大教会に成長するとかと取る必要はないでしょう。数のことが問題になっているのではありません。

 数のことではないだけに、主をお迎えするのに相応しい姿とは、より厳密です。このことは、教会に与えられている大きな課題です。最大の課題でしょう。主をお迎えするのに相応しい姿になるべく、教会は日々を送っているのです。

 

○ 18〜19節。

 『二番目の者が来て、【ご主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました】と言った』

 ここは、16〜17の延長で読めば良いでしょう。完全とは言えないまでも、相応に努力したし、成果も上がったということでしょう。特に深読みする必要はありません。


○ さて、問題は、20〜21節です。

 『また、ほかの者が来て言った。【御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしま  っておきました。

 21:あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、

  恐ろしかったのです】

 譬えの意味は、良く分かりません。何回です。しかし、誰を揶揄しているかは、はっきりしています。イエスを自分たちの主または王として認めないユダヤ人のことを暗示しています。決して、神さまから与えられた才能を生かすことの出来ない怠け者という意味で用いられているのではありません。

 ここで、この譬え話のヒントとなった史実を、思い出して見なくてはなりません。当時のユダヤ人指導者たちは、へロデ大王の息子・アルケラオスが王に即位することがないように直訴しました。同様に、ユダヤ人は、イエスをキリストとは認めず、彼が王位に着くことを拒否しているます。これが、第3の僕の姿に重ねられているのです。


○ 21〜23節は、解釈が難かしい箇所です。バブル時代とその崩壊とを経験した私たちの観点から、何故、慎重なのがいけないのかと考えても絶対に答えは見えて来ません。しかし、この僕がユダヤ人を比喩しているという前提で読めば、いろいろと見えて来るものがあります。

 ここには、ユダヤ人の神理解・信仰が漫画的と言いますか、むしろ、似顔絵のように誇張されて描かれています。デフォルメには違いありませんが、写真以上に、その本質を描き出しているのです。

 つまり、21節。

 『あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、

  恐ろしかったのです』

 これがユダヤ人の基本的な神理解です。

 神は厳しい方で、人間はこの暴君の前にオドオドとして、とにかくに落ち度のないように、 … そういう理解です。先日触れました『放蕩息子』の兄と同様です。神を恐れ、怒りに触れないように仕えるのです。


○ 『では』、主人は言います。

 『なぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、

   帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに』

 この僕は、要するに悪いのは主人だと言い、何もしなかった自分の責任を主人の責仕に転嫁しているのです。


○ ユダヤ人がどうだったかはともかく、信仰者と呼ばれる人の中に、このような人が存在することは間違いありません。むしろ、一つの典型です。

 このような人にとって、神は、恐怖の対象であって、この人は、地獄に落ちないように、絶えず他人の行動は勿論、自分自身の行動まで、心の中まで見張っています。その結果は、当然ながら、神の国に入るための行動は、何もしません。何も出来ません。

 悪から自分を守るだけ、もっとはっきり言えば見張るだけ、法律や規則を守るだけでは、地獄に落ちないようにするには十分かも知れませんが、神の国に入るのには不充分であるというのが、ここで教えられていることの内容であろうと考えます。


○ 24〜25節をご覧下さい。

 『そして、そばに立っていた人々に言った。【その一ムナをこの男から取り上げて、

  十ムナ持っている者に与えよ。】

 25:僕たちが、【御主人様、あの人は既に十ムナ持っています】というと、』。

 特に25節。これは単純な不満、つぶやきではありません。神の裁きに対する不満、つぶやきです。何より、神の恵みというものを数字に置き換えて測り、自分をも他人をも、自分の価値観・物差しで測っています。

 評価に拘ってはなりません。不満、自分が正当に評価されていないという不満は、神を知らない人の不満です。

 恵みを数えて生きなければなりません。

 今日の譬え全体が、必ずしも、個々人に向けられたものではありません。教会です。教会こそ、評価に拘ってはなりません。不満、自分が正当に評価されていないという不満は、神を知らない人の不満です。

 恵みを数えて生きなければなりません。


○ 26節。

 『主人は言った。【言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、

  持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる】

 金持ちはその資本を用いてどんどん豊かになる、貧しい者は、マイナスの資本つまり借金でどんどん貧しくなる、という話である筈がありません。

 これは神さまから与えられる恵みの話です。神さまから与えられた恵みを数え感謝する者は、神さまからより恵みを与えられますが、感謝出来ない者は、恵みなど与えられていないという者は、最早神さまの恵みを受けられないという話です。


○ 2020年最後の主日礼拝です。私たちは、この特別な年を過ごしてまいりました。とても感謝出来ない体験をされた教会員がいます。そのような方々に、無理矢理でも感謝しなさいと言うことは誰にも出来ません。しかし、その困難の中にいる人にこそ、神さまの言葉が語られます。『安かれ』『怖れてはならない』。どんな時にもこの言葉を持っていることが、信仰者の慰めです。どんなに辛くとも、『安かれ』『怖れてはならない』、この言葉を持っています。