日本基督教団 玉川平安教会

■2020年11月15日 説教映像

■説教題 「人生の目的と手段
■聖書  ルカによる福音書 14章15〜24節 人生の目的と手段




○ 今日の箇所は、礼拝出席の問題と重ねられて読まれることが多いと思います。それが普通の読み方でしょう。少なくとも、牧師がこの箇所を読めば、どうしても、関心は、その方向に流れます。

 現代人は誰もが忙しく、なかなか教会に通う時間を作ることが出来ません。別の言い方をすれば、教会に行かない、或いは行けない理由が沢山あります。行かなくとも良い口実が無数にあるという言い方も出来るかも知れません。


○ 40年も前のことですが、大曲教会の伝道師だったとき、町で見知らぬ人に挨拶されました。この人は大曲教会員でしたが、私は認識できませんでした。1年以上前、赴任した時に挨拶に行ったものの、私はその人の顔を覚えていませんでした。

 この人が、「昨日は〜」と、礼拝を休んだ言い訳をします。そして、次の礼拝に出られない理由を述べます。


○ 主任牧師にそのことを話しまして、「実はその人の名前を聞きそびれた、分からない」と言いますと、牧師は直ぐに見当が付いて、「○○さんだ」。私が覚えていなかったこと、名前を聞きそびれた不手際を詫びますと、「気にしなくても良い。彼は戦争が終わってから一度も礼拝に出ていない」と言います。その時点で戦後40年近く経っていました。

 40年礼拝に出ていなくとも、心のどこかで、来週こそ行かなくては、来週こそ行きたいという思いがあったのでしょうか。毎週毎週、神さまにお詫びしていたのでしょうか。そうだとすれば、それはそれで大変なことです。歪んでいますが、教会への思いは強いのかも知れません。出席した方が遙かに気持ちは楽だと思うのですが、どうして出席出来ないのでしょうか。未だに不思議でなりません。


○ 勿論、今日の箇所を礼拝出席と結びつける読み方への反発もあります。この譬え話が語られた時に、イエスさまが、或いは著者のルカが、礼拝出席やまして教勢などというものを意識したかと言うと、そんなことは考えられないからです。

 確かに、食卓への招きは、神の国、即ち、教会の礼拝への招きを象徴していると言って、間違いありません。その意味では、礼拝出席の問題、更には教勢と重ねられて読まれるのも仕方がないと思います。

 しかし、もう一つの読み方も出来ますでしょう。もっとストレートに読むことも出来ます。

 それは、この神さまの食卓を、神の国むしろ天国と重ねて読むことです。

 そんな風に申しますと、随分飛躍した話に聞こえるかも知れません。少しずつ読んでまいります。

 

○ 後半から先に読みます。18節。

 『すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。

   どうか、失礼させてください』と言った』

 畑を買った人とは、誰のことで何を象徴しているのか。そこから考えます。

 食べ物を作るのが畑です。人生を豊かな食べ物で満たすのが、畑の役割です。豊かな食べ物、これもまた譬喩です。食べ物も、それを生み出す畑も、人生を生きるための道具です。

 しかし、これらのものは、おうおうにして自己目的化します。財産そのものについて、同様のことが言えます。

 牛も同様に、畑を耕すための道具・手段です。道具・手段に過ぎません。当時の牛は貴重品です。今日で言えば、高級な農機具でしょうか。どんなに優れた機械でも、道具・手段に過ぎません。しかし、何時の間にか、それが自己目的化してしまいます。

 農機具では分かり難いかも知れません。車ならどうでしょうか。車は大変に便利な機械です。いろいろと役立ちます。車なしには現代文明は成り立たないとさえ言えます。しかし、車こそ、往々にして自己目的化します。必要以上の外見やスピードなどを求め、肝心な目的などはどこかに行ってしまいます。

 時計も同様です。何百万もするような時計を持っていても、残念ながら時間は同じです。高価な時計があれば時間が増える訳ではありません。


○ このことを言い換えれば、人生にとって大事なものは、目的地か、それとも途中の道か、という話になります。人生とは何所か目的地に辿り着くための途中の道筋なのか、それとも、人生そのものが究極の目的なのかということです。

 これは、初めから極端な議論でありまして、簡単に言い切れるようなものではありません。

 私たちには簡単に割り切れませんが、聖書の中にも、多様な表現がありまして、ある箇所では、人生そのものの美しさ、素晴らしさを歌いますし、他の場所では、人生とは、何所か他の場所に行くための廊下のようなものであると言った表現にもなります。


○ 畑を所有する人、牛を財産として持つ人、妻や子、家族を持つ人、そういう人は、この地上に留まり続けることだけを考えてしまいます。何時までも留まっていられるような、また、留まっていなければならないような、気持ちになっています。

 そして、神の国に行く心の用意は全くありません。

 この譬え話では、神の食卓への招きがあったのに、それをお断りしてしまうのです。

 立派な船を建造して、内装まで凝って綺麗に仕上げるけれども、何時までも出航しません。


○ 代わりに招かれたのは、13節に上げられていますように、当時のユダヤ教では、最も、神の食卓から遠いと考えられていた人たちでありました。

 何故、彼らが選ばれたのか、それは、逆説です。

 この地上で、立派な生活を築き上げ、おそらくは、少なくとも、世間に後ろ指を指されない程度には、信仰生活を守り、地域社会でも、会堂でも、信用を得ていた人たちは、自ら、神の国の食卓を拒み、我が家の食卓に拘り続けます。

 そして、我が家に食卓を持たないような人たちが、神の国の食卓に連なるのです。


○ 兎に角、今日のこの箇所を読みますと、主張ははっきりとしています。

 ここに、永遠に留まれるものならば、生きることそのものが素晴らしい、そういう価値観もありますでしょう。しかし、私たちは、この地上にあっては、旅人でしかないのです。否応なしに、余所に移って行かなければなりません。

 永遠に留まることのできない場所に拘り続けるのは、愚かなのです。

 この箇所を読んだだけで、今のような注釈をしておりますと、随分、飛躍しているように聞こえるかも知れません。


○ 25節以下をご覧下さい。25節以下では、今持っているものを捨てるということが、強い調子で、説かれています。26節。

 『もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、

   更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。』

 オウム真理教などを連想して、怖いようだし、あまりイエスさまらしくないような気もします。しかし、実は、イエスさまには、同じような例話が他にも有ります。たとえば、富める青年のように。決してここが例外的なのではありません。

 私たちが究極の目標と考えるものを、イエスさまは、単なる道、道具、術、通過点と考えていることは間違いありません。


○ 27節。

 『自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、

   わたしの弟子ではありえない』

 他の財産は持たないで、ただ、十字架を背負ってついて来る者でなければ、イエスさまの弟子ではないと言い切っています。

 ここでも、これが逆説であるということを忘れてはなりません。

 勿論、「はい分かりました」といって、着いて行く者もありますでしょう。しかし、多くの者は、背中に背負っているもののために、決断することが出来ません。

 そういう現実を振り返ることこそが、求められているのです。

 私たちが、神の国よりも、我が家の食卓を求める者であるということを知り、それを認めることから、本当の信仰生活が始まるのです。


○ 問題は、人生を貫く価値観の問題です。前半部分に戻ります。今日は長くなるので聖書朗読からは外しましたが、7〜14節に記されているのは、地位に拘泥した人々の生き方とその空虚さと言うことでしょうか。急がないで順に申します。

 私は、ここに記されているような体験を実際にしたことがあります。大曲教会の伝道師だった時のこと、教会員の結婚式がありました。彼女の両親も更にその祖父母、更に曾祖父が教会員です。4代目ということになります。

 司式は、当然、主任牧師が努めました。私は、細々とした雑用をしまして、まあ、主任よりも余程忙しい目をしました。さて、披露宴、主任牧師ともに料亭の宴席にまいりました。ところが、私の席はありません。主任牧師が怒りまして、まあ、そういう所が、この牧師の良い所なんですが、一番上座が牧師、その隣に私の席をこしらえさせまして、後は、一つずつ順繰りに下がりました。

 帰り際、今度は、私の分の引き出物がありません。招かれていなかったのだから当然です。とても気まずい思いをしました。


○ もし、招かれて出掛けた宴会に、自分の席がなかったなどということになったら、これは大変です。名誉が汚されたという思いになってしまいます。

 私たちは、そういう席順のことに、大きな拘りを持っています。そして、そのような感覚を、教会の中にも持ち込んでしまいます。

 席順のことは、本質的な問題ではないかも知れません。しかし、席順に拘りを持つことは、決して些末な問題ではありません。

 上座に座らされる会合ならば出席するけれども、そうでないならば、出席しない。そういう場合があります。自分が主賓で、その席の中心なら喜んで出るけれども、他の人が中心で、自分は盛り立て役なら出席したくありません。私たちの教会にはそんな人はいないと思いますから、幸いですが。


○ 蛇足も良い所かも知れません。諄いかも知れませんが、極端な一つの例で考えて見て下さい。

 松江北堀教会で葬儀が執り行われました。100人入ると身動き出来ない位の会堂なのに、500人を超える列席者が予想されました。そこで、献花を終えた人は、順に、脇の非常口から出て貰うことにしました。そうしますと、人の流れが一方通行ですから、スムーズに行くと考えました。

 ところが、ある人物が、絶対反対だと言うのです。玄関から入った者は、玄関から出る、これが鉄則、脇の非常口から出るのは、初めから通用口を使う使用人だけだと、こう主張するのです。

 まあ、そういう考え方もありますか。


○ しかし、もし、船が沈みそうになったとします。この人は、どうするでしょう。正面のタラップから入った以上、そこからしか出ない、こういって、頑張るのでしょうか。

 神の国の食卓を、一流レストランのごとくに考えて頂くとしたら、それも結構かも知れません。そんな意味合いで教会を大事に思う人もあるかも知れません。

 そういう人には、マナー良く振る舞って貰い、勘定もチップたっぷりと払って貰いましょう。そして、まあ、ゆっくりと、船と共に沈んで貰うしかありません。

 神の国に入る資格を、何か、勲章でも授与されることのように考えるとしたら、それも結構かも知れません。


○ しかし、イエスさまの食卓には、結局、13節、21節に描かれるような人々が招かれました。資格・権利を持っているように見えた人々が、それを拒んだからです。

 本当に資格・権利を持っているのは、それを求めて止まない人なのです。

 今日は脱線気味の例話が多くなってしまいました。序でにもう一つ。

 これも古い話です。ある教会の老夫婦を牧師と訪問した時のことです。80歳を過ぎた夫の方が、私に初対面の挨拶をして下さいました。

 いきなり「私は狡い信徒です」。「えっ」と答えるしかありませんでした。

 「私は会社を定年になり、ゴルフ三昧の日を過ごし、70歳を過ぎてから、洗礼を受けました。それまでは、飲む打つ買う、散々好き勝手をし、70歳を過ぎて、欲がなくなってから、洗礼を受けました。狡いクリスチャンです」。

 こうも言いました。「若い時に聖書を読んでいないので、今一所懸命読んでいます。直ぐ忘れてしまうので、ノートに書き写しています。あまり時間がないと思って、新約聖書から始めましたが、写し終えたので旧約に取りかかりました。」

 この人は結局、10年以上かけて新約聖書を10回以上、旧約聖書も全巻、写し終えてから、天国に召されました。


○ ヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』もトルストイの『光あるうち光の中を歩め』にも、同趣旨のことが記されています。

 イエスさまの声を聞いて、その後に従うのに、「今暫くご猶予を」はありません。その時は今です。今しかありません。

 しかし、今とは、10代20代の若い内とは限らないかも知れません。70代も、今です。80代も、今です。東京神学大学では、60代、70代の新入生も珍しくありません。