日本基督教団 玉川平安教会

■2020年8月23日

■説教題 「十字架につけられ
■聖書  マルコによる福音書 15章21〜32節 


○ 十字架と復活を報道する4つの福音書間には、いろいろな違いが存在致します。そこには些末とは言えない大きな違いもあります。それらの違いの中で、誰が十字架を背負ったのか、これは、大問題でしょう。十字架こそ、キリスト教の生命線です。その大事な大事な出来事を伝えるのに、報道する者によって違いがあるなどということが許されるのでしょうか。そのような大問題になります。マルコ福音書は、クレネ人シモン説を伝え、ヨハネ福音書は、イエスさま自らが背負ったという説を伝えています。


◯ クレネ人シモン説とイエスさまご自身説との折り合いを付けること自体は、可能かも知れません。観察した時間の相違ということで、説明出来ます。

 つまり、最初の内は、イエスさまご自身が十字架を背負っておられたのですが、疲れて跪いたので、そこからはクレネ人シモンが担がされた。その前半部を、ヨハネ福音書は報道し、後半部はマルコ福音書が報道したと言えば、何とか説明はつきます。

 しかし、姑息な説明です。普通に読めば、やはりマルコ福音書はクレネ人シモンが背負ったと言い、ヨハネ福音書は、イエスさま自ら背負ったと言っています。明らかに食い違います。

 そして、このことだけではありません。十字架と復活の記事を巡って、4つの福音書間で少なからぬ相違が存在します。


◯ 神殿の聖所の幕が真っ二つに裂けた、これは大事件です。しかし、報道に食い違いが見られます。マタイ福音書では、イエスさまの十字架と共に地震が起こり、死者がよみがえったとあります。これだけの大事件が、他では全く報道すらされていません。

 もし、福音書を新聞報道に準えたならば、あまりに報道にずれがあって、結論は、殆ど信憑性がないということになります。

 東京スポーツ、東スポという新聞があります。見出し以外は全部誤報だとまで言われる新聞で、これはもう、東スポはそういう新聞だということで開き直り、定評を得ています。

 下品な新聞であるのは承知で、私は何度も騙され買わされました。私は、長島監督という見出しがあれば、もう駄目、分かり切っているのに騙されます。長島解任、と大見出しが踊る、買って見ると、新聞が二つに折ってある、その隠れた側に、か?とあります。まあ、そんな調子です。


◯ 福音書は、新聞記事とは違います。そもそも客観的に事実のみを記すというような視点では、記されてはいません。もっと文学的と申しますか、実存的と申しますか、否、はっきりと信仰的な観点から述べられています。

 それを読み誤って、新聞報道のような公正さ正確さ緻密さを求めるならば、完全に裏切られます。東京スポーツ並みだということになってしまうでしょう。


◯ では、4福音書にはでたらめが書いてあるのか、全然信ずるに足りないのか、勿論そうではありません。

 つまり、マルコ福音書が強調したいのはこの点です。「この私ではなく、通りかがりの人間に過ぎないシモンがクレネ人十字架を背負った。私が担うべきであった十字架を、本来関係のないクレネ人シモンが十字架を背負った。通りすがりに過ぎないクレネ人シモンが十字架を背負った」と言っているのです。罪の告白をしているのです。そこにだけ関心が存在するのです。

 そうして、ヨハネ福音書、「私ではなく、鞭打たれ傷つき、疲れ果てていた主イエス自らが、十字架を負わなければならなかった。代わって担うべき弟子たちがそこにはいなかったから、イエスさまが自ら背負わなければならなかったのだ」と、罪の告白をしているのです。そのことにだけ関心が存在するのです。


○ 23節。

 『没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった』  

 『没薬を混ぜたぶどう酒』は、痛み止めの効果があるそうです。それを拒まれたのは、イエスさまの目的が、十字架の上で苦痛を受けることにあるからです。

 つまり、イエスさまはその意志に反して十字架に架けられたのではありません。計算外の失敗で苦難を受けられたのではありません。イエスさまは自らの意志で、十字架への道を選び取られたのです。十字架こそが、イエスさまの地上の旅路の目的地だったとも言えます。

 このことは、マルコ福音書の受難記事が、イザヤ書に述べられた苦難の預言の成就として描かれているという事実とも重なっています。


○ 24節。

 『それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、その服を分け合った、

  だれが何を取るかをくじ引きで決めてから』

 これは、詩篇22篇18節の影響です。ここでも、イエスさまの十字架が預言の成就であること、つまり、偶発的なものではなくて、必然的なものであること、十字架なしには、神の救いの業は完成しないことが述べられています。

 

○ 25節も同様です。

 『イエスを十字架につけたのは、午前九時であった』

 午前9時という時間は、ヨハネ福音書とは合致しません。ヨハネ福音書では、昼12時に判決が下されます。マルコ福音書では、以後、3時間刻みで、12時に全地が暗くなり、午後3時に絶命、このような整然とした時間の経過を示すことで、全てが神の御心のままになされたことを表現しています。マルコ福音書では、偶発的な要素は何もありません。

 このように申しますと、過去数回の説教で申し上げたことと矛盾していると聞こえるかも知れません。その通りです。

 群衆が『キリスト・イエスを十字架に付けよ』と叫んだのは、バラバ・イエスを救いたいがためであって、『イエスを十字架に付け』ることに本意があったのではないし、ピラトがそれを受け入れたのも、治安を維持するという目的のためで、イエスさまを十字架に付けたいと考えていたの訳ではない、そんな風に申し上げてまいりました。

 人間の側に焦点を当てて見ると、イエスさまが十字架に付けられたのは、偶然が積み重なった結果であるかのように見えてまいります。

 しかし、と申しますか、それだからこそ、マルコ福音書は、ここで、イエスさまの十字架の必然性を強調しているのです。


○ これがマルコ福音書の十字架理解です。十字架の出来事を人間的な観点から説明しようとしても、それは、出来ないことです。十字架は、神の業、神の救いの業なのであって、他の観点、他の視点から説明することは意味がないと強調しています。

 これは決定的に重要なことです。例えば、イエスさまの十字架の出来事を、悪しき権力・体制と闘った結果であるというような説明は、人間的な説明です。それが歴史的な事実であるかどうかと言う議論もありますでしょうが、少なくとも、マルコ福音書は、そのような人間的な説明を退けています。人間的な説明、人間的な観点は、どんな説明をしようとも、結局、全て、十字架の出来事を偶発事と認めることです。もっと違った帰結もあり得たことになってしまいます。

 イエスさまが十字架には架けられないで、もっと違った仕方で、勝利を獲た可能性もあるということになってしまいます。つまりは、十字架は敗北だったということです。あらゆるキリスト教的新興宗教は、ここに問題があります。イエスさまの十字架では救いは完成されないという点が異端なのです。

 しかし、マルコ福音書によれば、十字架の出来事は偶発事ではなく、必然的なことです。それが、神の意志です。勿論、計画の挫折や敗北ではありません。


○ これは、勿論、十字架の意義ということと重なっています。

 何故、イエスさまは十字架へと向かわなければならなかったのか、そこが、イスラエルの王の玉座だからです。玉座に座って、王位に着き、イスラエルの王となることが、神の救いの業だからです。

 

○ 結論を急がず、もう少し先を読みます。26節。

 『罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった』

 これまでにも見てまいりましたように、マルコ福音書は、イエスさまに敵対する人々に、間接的な仕方で、大変皮肉な仕方で、一種の信仰告白をさせます。この箇所もそうです。ローマの兵士たちは、イエスさまを愚弄するために、この罪状書きを架けました。しかし、結果的に、マルコ福音書は、またも、「ユダヤ人の王」と言わせています。この罪状書きは、正しく、イエスさまを言い表しています。

 罪状書きは、十字架の上に付ける札です。板に記して掲示するのはローマの習慣であったそうです。


○ 27節も読みます。

 『また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた』

 二人の強盗について、詳細は不明です。ルカ福音書では、この二人を巡って非常に印象深いエピソードが語られていますが、マルコ福音書にはありません。何度も申し上げていますように、マルコ福音書は、3という数字には強い関心を持っています。3は、十字架の物語の鍵となる数字です。しかし、この強盗には特に関心がないようです。

 この点でも、マルコ福音書は、十字架を神の救いの計画、神の業と見ているのであって、その人間的な側面は、敢えて、無視しています。マルコ福音書も、少し前の箇所では、ペトロのことといい、裸で逃げ出したある若者の話といい、十字架の出来事を巡る登場人物に大いに関心を払い、人間のドラマとしても描いているのですが、この肝心要の十字架の場面では、そのような人間的な思いを退けて、神の業として描いています。

 否、もう少し正確に言いますと、人間的な側面では描ききれない、説明仕切れないと言っているのです。

 否、もっと正確に言いますと、人間的な思い、人間的な見方と神さまの思いとの、大きな違いを、描いているのです。


○ 29〜32節。

 『そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。

   「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、

 30:十字架から降りて自分を救ってみろ。」

 31:同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、

  代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。

  32:メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」

  一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった』

 ここも、先程の26節と同じような論法です。彼等は、イエスさまを罵って実に冒涜的なことを言います。しかし、これが、極めて逆説的な仕方での、信仰告白になっています。これ程に、イエスさまを正しく言い当てた表現は、他にありません。

 『他人を救ったが、自分自身を救うことができない。32:イスラエルの王キリスト』

 これこそが、私たちが信じ、王と仰ぐ方です。『自分自身を救うことができない』という表現はちょっと問題ですが、『他人を救ったが、自分自身を救うこと』をなさらない方、それが私たちの王です。


○ このことも考えて見なくてはなりません。

 『今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう』

 私たちは、この人々と、同じことを言って、イエスさまを罵っているのではないでしょうか。

 何々したら信じよう。何々を見せてくれたら信じよう。イエスさまに条件を付けています。イエスさまを相手に取り引きしています。

 本当は、全く逆の筈です。神さまの側が、「何々したら救って上げよう。何々を見せたら、助けて上げよう」。これなら解ります。しかし、十字架に架けられた方は、人間に条件を出されることはなさらないで、全く、無条件に人間に救いの手を述べられたのです。にも拘わらず、人間の側が、神さまに対して、条件を出しているのです。


○ しかも、その条件とは、イエスさまが絶対に受けられることのないものです。何故なら、十字架から下りるということは、王の玉座を否定することであり、王位を下りられることです。もし、イエスさまがそれをなさったならば、人間の救いの可能性は全く絶たれます。

 ですから、『今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう』これは、イスラエルの王を拒否することです。

 しかし、そのことに気付かないで、『十字架から降りるがいい』、人々は、群衆は、今もそのようにイエスさまを十字架に架けられた方を罵っています。

 「十字架からおりて来ない者は信じない」そう叫んでいます。

 このことは、教会そのものにも当て嵌まると考えます。教会に向かって、「十字架からおりて来ないならば信じない」そう叫んでいる者は少なくありません。しかし、イエスさまが十字架から下りてしまったならば、それはもう教会ではありません。


○ 32節の最後の部分が残っていました。

  『一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった』

 これは何とも悲しい人間の現実です。

 たまたまであっても、イエスさまと一緒に十字架に架けられる者が、つまり、自分自身大きな重荷を負っている者が、イエスさまの苦しみに気が付くかと言うとそうでもありません。むしろ、自分自身の苦しみの故に、イエスさまを呪っています。

 自分を救ってくれる可能性を持った唯一の方を退けています。

 それが悲しいかな、人間の現実です。

 多くの者は、自分の苦しみの故に、イエスさまから、十字架の苦しみを知っておられる方から、離れてしまうのです。

 苦しみの中で、今、隣にイエスさまがおられ、十字架に架けられているのに、イエスさまを否定するのです。

 マルコ福音書ではなくて、ルカ福音書ですが、二人の強盗の一人が、イエスさまに私を覚えていて下さいと懇願します。その男に、イエスさまは、天国を約束されます。天国の約束を受け取った人間は他にはありません。

 私たちも、苦しむ時に、イエスさまの近くにいるということを思い出さなくてはなりません。

 『今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう』そうではなくて、『他人を救ったが、自分自身を救うこと』をなさらない方を、信じ、その十字架を見上げていたいと思います。