日本基督教団 玉川平安教会

■2020年6月7日

■説教題 「人を裁くな、自分を裁くな」
■聖書  マタイ福音書 7章1〜6節


○ 病院の待合室で見た光景です。

 幼稚園前と見える男の子が、待合室に備付の絵本を読んでいます。未だ字は読めないでしょう。正しくはめくっていました。ペイジを開く度に、指を嘗めます。

 隣に座っていたおばあさんが、これをたしなめます。未だコロナウイルス騒動の前でしたが、汚いしお行儀が悪い、たしなめられるのも当然です。おばあさんは叱って言います。

「悪い癖だね。お母さんがそうするのかい」

 その直ぐ後、このおばあさん本人が、週刊誌のページを、嘗めた指でめくっていました。自分では全く気付かないようです。

 人間は、案外に自分のことが見えません。良い点でも悪い点でも自分のことが見えません。


○ 大昔の話です。池袋駅の東武東上線ホームに並んでいました。大変な混雑でした。ホームの通り道がなくなるほどの混みようでした。

 始発電車のドアが開いた瞬間、列の横からさっと割り込もうとした青年がいました。一番前に並んでいた人が、この青年の襟首を掴んで、引き釣り戻し、更に投げ飛ばしました。青年は実に見事にスッテンコロリン、ホームに仰向けに倒れました。

 そこに居合わせた人たちはどう思ったでしょう。良くやった。拍手喝采でしょうか。


○ 私は、「大変なことになった。これはまずい」と思いました。何故なら、この青年は柔道・空手の有段者で、喧嘩ぱやい、中学・高校時代は所謂番長です。

 つい最近も、「真空飛び膝蹴り」で人気があった沢村忠の目黒ジムからスカウトされたばかりでした。…何でそんなことまで知っているかと言うと、私の弟だからです。

 小学校の時は、今日は何人ぶん殴って泣かせてやったと自慢して帰って来るような乱暴者でした。

 大学生の時に、アパートの近くで喧嘩の仲裁に入ったまでは良いのですが、こじれて、結果は、この二人ともを、所謂ボコボコにしてしまいました。

 弟は私に言います。「兄貴、まずいことをしてしまったよ。警察沙汰になったら、退学になるかも知れない」流石に焦っていました。

 ところが後日談。ボコボコにやられた二人が、警察に届けるどころか、一升瓶を下げて謝りに来たというのです。弟を見知っていたようです。訴えるどころか、誤りに来たのは、やられてみて、弟を、その筋の人だと思ったらしいのです。


○ そんなことがありますから、投げ飛ばされた弟が、そのままでいる筈がない。投げ飛ばした男を捕まえて、逆に殴る蹴るするかも知れないと、私は危惧しました。

 しかし、弟は、何故か投げ飛ばされたままで大人しくしていました。悪いことをしたという自覚があったのでしょう。

 弟は、喧嘩ぱやいのですが、一方正義感が強く、弱気を助け強気をくじくという任侠タイプです。それがなぜ割り込みをしたのかというと、実は、母親が田舎から夜汽車でやって来て、体調を崩しました。上野から池袋までは何とかやって来たけれども、もう限界という状態だったのです。せめて、電車で座る席を確保したかったのが、割り込みの理由でした。

 弟を投げ飛ばした人は、もしかしたら、後で知人に自慢話として話したかも知れません。

 「けしからぬ学生を投げ飛ばしたやったよ。無様にひっくり返ったよ」と。


○ ここまで極端でなくても、似たような体験は誰もが持っていると思います。

 例えば、疲れ果てて、腰掛けているのもやっとなのに、前に立った人に、今時の若い者は年は寄りに席を譲ることも出来ないと嫌みを言われる場合があります。

 先ほど申しましたように、人は案外に自分のことが見えません。まして、他人のことは見えません。まして、他人の心の内など見えるはずがありません。分かっている筈だという気持ちは裏切られます。


○ 1〜2節。

 『「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。

  2:あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる』

 ここ数週の説教で繰り返しお話ししています。『裁く』とは、重さを量るという字が元です。

人の罪の重さを量ることが裁きです。『人を裁くな』とは、そもそも人を量るな、人の値打ちを量るな、人の値打ちを数字で置き換えるなということでしょう。

 別の言い方をすれば、表面に現れた数字で、人の値打ちを決めるなということでしょう。

 もしそんなことをすれば、自分も同じ目に遭う。つまり、心の内側などは全く見て貰えずに、表面的なことで量られ、値段を付けられ、そして売り飛ばされてしまうということでしょう。


○ 現代は、人間の値打ちを数字に置き換えるのが大好きです。先ず偏差値、ありとあらゆる学校が偏差値でランク付けされます。ですから、どこそこの学生ですと言った瞬間、「ああ、偏差値60か」と値打ちを量られ、裁き捨てられてしまいます。今は、英語検定の得点の方が決定的でしょうか。

 年収いくらという裁きもあります。昔は、月給いくらと言うのが普通でした。これですと未だ漠然としています。ボーナスは別ですし、様々な手当があります。しかし、年収と言うと、それで全て決まってしまいます。年収これすなわち人間の値段であるかのようです。

 他にも数字があります。身長、体重、女性ですとスリーサイズ。スリーサイズを聞くと「すごい、美人だ」となります。

 現代人は、このような数字の奴隷となって生きています。ややすれば、この数字に殺されてしまいます。


○ 3〜4節を読みます。

 『あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、

  なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。

   4:兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。

   自分の目に丸太があるではないか』

 これは、具体例を挙げるまでもありません。3度目、繰り返して申します。人は案外に自分のことが見えません。まして、他人のことは見えません。まして、他人の心の内など見えるはずがありません。


○ 5節。

 『偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、

   兄弟の目からおが屑を取り除くことができる』

 トルストイの『人生論』にこんな場面があります。女の人が、床の拭き掃除をしています。懸命に頑張って拭きますが、床はちっとも綺麗になりません。それどころか汚れが増すようです。理由は簡単です。雑巾を絞るバケツの水が酷く汚れていたのです。

 誰も、バケツの汚い水で雑巾を洗いはしないでしょう。そんな愚かな人はいません。しかし、自分の心が汚れているのに、他人の失敗をあげつらい、口汚く罵る人は、います。ざらにいます。


○ 話が飛躍するようですが、今日のテキストは短く、論旨は明確なので、少し脱線します。

 マルコ福音書10章に、バルテマイという盲人の話が載っています。マタイ福音書20章にも並行記事がありますが、マルコの方が明確なので、マルコで引用します。

 一部省略して引用します。

 『バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。

 47:ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」  と言い始めた。

  49:イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。

  50:盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。

  51:イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。

  盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。

 52:そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

  盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った』


○『あなたの信仰があなたを救った』と言われた盲人の信仰とは、一体何を指すのでしょうか。盲人の熱心さと取ることも出来ますが、違うように思います。信仰とは「何をしてほしいのか」というイエスさまの問いに、迷わず直ちに『目が見えるようになりたいのです』と言ったことが信仰です。つまり、この盲人は自分に何が欠けているかが分かっていたということです。見えないということが分かっていたということです。

 何度も申しますように、人には自分の姿が見えません。自分の罪が、自分の欠点が見えません。

 盲人は『目が見えるようになりたいのです』と言う前に、『わたしを憐れんでください』と言っています。神の憐みを願っています。神の憐みがなければ生きていけない存在だと分かっています。


○ ヨハネ福音書9章41節。

 『今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る』

 見えると言い張るところに罪がある、見えると思っている者は見えず、見えないと自覚している者ほど、見える … このような考え方、表現が聖書の随所にあります。特にヨハネ福音書に目立ちます。


○ 残されているマタイ7章6節を読みます。

 『神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。

   それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう』

 何だか、5節までとは色合いが違います。無関係とさえ見えます。

 まずは、5節までとは切り離して読みたいと思います。

 なるべく単純に読みます。難しく考える必要はありませんでしょう。

 「豚に真珠」という言い回しの語源です。辞書で引きますと、「豚に真珠、猫に小判」、価値の分からないものに、上げても意味がないと書いてあります。その通りでしょう。値打ちが分からないと感謝されないばかりか、むしろ反感を買います。

 同様に、信仰のない者を相手に、どんなに神さまの教えを説いても無駄だ、話は通じないという意味で語られて来たと思います。その通りかも知れません。


○ この解釈だと、次の箇所7章7節以下と関連があることが分かります。

 『「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。

   門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

  8:だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる』

 この7章7節以下の裏返しが、7章6節です。

 求めていない者に与えても喜んでは貰えない、それどころか反発を買ってしまう、そういう意味になります。


○ さて、改めて7章1〜5節との関連で読んで見たいと思います。

 『神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。

   それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう』

 犬には、神聖な物の価値は分かりません。そも、見えません。豚には真珠の価値は分かりません。そも、見えません。

 やっぱり、見える見えないという主題の話なのです。


○ 鳥瞰図という言葉があります。普通には、鳥が高い空から見下ろすように、地上の様子を描いた地図のことです。ここから、鳥瞰するという言葉になり、大局的に物を見るという意味になります。俯瞰とも言います。昔ベ平連の小田実が、鳥瞰図よりも虫瞰図が大事だと主張しました。大局的に物を見ることよりも、地面を這いずり回る虫の視点で物を見る、虫瞰だと言うのです。その通りかも知れません。

 大局的に物を見るのは結構ですが、虫けらの世界は見えません。もっとも、虫には世界のことは見えないでしょう。井の中の蛙どころではありません。


○ 可視光線、不可視光線という言葉があります。赤外線などは人間の目には見えません。しかし、暗視カメラなどに使われて、人間の目には真っ暗闇の世界を写真に写すことが出来ます。可視光線では見えないから、映らないから、存在しないわけではありません。見えなくとも存在しています。それに特別な光線を与えて見えるようにするのが暗視カメラです。

 人間の心の奥深くは見えません。しかし存在します。見るためには特別のカメラが必要です。特別な眼が、特別な光が必要です。この特別な眼、光のことを、愛と呼びます。

 この特別な眼、特別な光、それも感度の良い特別な眼、特別な光を持っているのは、神さまだけかも知れません。