日本基督教団 玉川平安教会

■2020年5月17日

■説教題 「敵を愛しなさい」
■聖書  マタイ福音書 5章38〜48節


○ 最初、説教題を『復讐するは我にあり』にしようかと考えました。今日の箇所にはぴったりですし、『敵を愛しなさい』より、遙かに強いインパクトがあります。しかし、思い止まりました。理由は二つあります。一つは、『復讐するは我にあり』は直接にはローマ書の12章19節の言葉だからです。

 『愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、

   わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります』

 これが該当箇所です。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』、この通りの原文です。しかし、『復讐するは我にあり』に比べたら、何とも間の抜けた表現です。同じ意味なのは分かりますが、気の抜けた炭酸で割ったみたいに、間抜けな翻訳に聞こえてしまいます。

 ローマ書12章については、後で改めて触れます。


○『復讐するは我にあり』にしなかった理由の今一つは、佐木隆三にこの題名の小説があり、緒形拳主役で映画化され、あまりにも有名だからです。私は一時期、佐木隆三に惹かれ、当時出版されていたものは殆ど読んだと思います。ちょっと時間を使いすぎたかも知れません。

 小説を読み、映画も見ましたが、はっきり言って、ドキュメンタリータッチの小説の内容と、『復讐するは我にあり』という題名とは全く関係がないと思います。全くではないかも知れませんが、この題名は内容を表してはいません。とって付けたようなものです。これについても後で少し触れます。


○ 順に読みます。

 『「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている』

 出エジプト記21章23節以下、申命記19章21節に当該句があります。しかし、出典はハンムラビ法典と言った方が正確でしょう。中近東世界で、大事な律法、むしろ常識として語られていたことです。

 元々は、正しい裁きを意味します。犯した罪に見合った罰、釣り合いの取れた刑罰が必要だという意味です。

 これが律法とされていたのは、『目には目を、歯には歯を』とは異なる刑罰、復讐があったからです。簡単に言えば倍返しです。片目を潰されたなら、両目を潰す。家族の一人を殺されたなら、相手の家族二人を殺す。これがむしろ当たり前でした。復讐、敵討ちです。


○ このような敵討ち、倍返しをしていたら、終わりがありません。家族の一人を殺されたなら、相手の家族二人を殺す、そうしたら相手は4人を殺すでしょう。その倍また倍とやっていたら、たちまち、とてつもない数になってしまいます。どちらかの家族又は部族が皆殺しにされるまで終息はありません。


○ ハンムラビ法典の『目には目を、歯には歯を』とは、これを止めなさいという教えです。果てしのない憎しみ合い、殺し合いは止めなさいという教えです。丁度釣り合いの取れた刑罰で終わりにしなさいという教えです。

 ついでですので、少し脱線してお話しします。マタイ福音書7章1節。

 『「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。

  2:あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる』

 ここに出て来る裁くという字と量るという字は、本来同じ意味です。

 犯した罪に見合う刑罰を与えるためには、その罪の重さを量らなければなりません。天秤で釣り合いを取らなければなりません。ここから、重さを量るという言葉が、裁くという意味になりました。面白いことに、ギリシャ語でも漢字でも日本語でも、全て同じ図式です。重さを量るが裁きになり、裁く人が裁量する人となり、裁量する人は政治家になります。つまり、政治家とは『目には目を、歯には歯を』を正しく裁量する人のことなのです。

 

○ マタイ5章の39節以下は、以上のことを前提としていますが、そこから、更に一歩踏み出しています。

 『しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。

   だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。

  40:あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい』

 限りない寛容・優しさと聞こえます。そういう解釈で間違いないでしょう。しかし、この言葉も一緒にお読み下さい。

 先ほど引用したローマ書の続きの箇所です。

 『「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。

   そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」

 21:悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい』

 これは箴言25章21〜22節を踏まえています。

 『もしあなたのあだが飢えているならば、パンを与えて食べさせ、

   もしかわいているならば水を与えて飲ませよ。

  22:こうするのは、火を彼のこうべに積むのである、主はあなたに報いられる』

 簡単に解説します。

 誰かに酷い目に遭わされました。何とか仕返しがしたい。『右の頬を打』たれたから、相手の『右の頬』も『左の頬をも』打ってやりたい、しかし、それをしたなら、終末の裁きの時に、裁きの天使は言うでしょう。「あなたは右の頬を打たれた。その分打ち返した、だから帳尻は合っている。それどころか左の頬をも打った。その分借りが出来ている。あなたは裁きを受けなくてはならない」敵は無罪放免になってしまいます。

 

○『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。

   そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』

 敵が地獄の炎に焼かれる時に、あなたが与えたパンが炭火となって、彼を焼く火力を増すだろうということです。

 このような考え方は、『主の山上の説教』で一貫しています。

 マタイ6章5節。次週の箇所です。

 『「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。

   偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。

   はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている』

 偽善者、偽りを行う者です。悪い奴です。『彼らは既に報いを受けている』成る程、表面栄えているようだけれども、その中味は腐り始めているんだ。悪病が巣くっているか、家庭崩壊しているか、とにかく『既に報いを受けている』んだと解釈してしまいますが、違います。

 報酬は、ギリシャ語でミソス、解り易い言葉ではボーナスです。『彼らは既に報いを受けている』もうボーナスを貰ってしまっている。つまり、終末の裁きの時に、人前でした祈りに依って、天国に入ろうとしても、人々の賞賛という『報いを受けている』帳尻は合っているから、もう天国で貰えるものはないという意味です。

 このことは、次週もう少し詳しくお話しします。


○ さてこれ以上ややこしい話をする必要はありません。

 『復讐するは我にあり』とは、一般に誤解されているような、自分で復讐するという意味ではありません。神さまが復讐するという解釈も正確ではありません。

 裁きは神さまに委ねなさいという意味であり、神さまに委ねられないのは、そも神さまを信頼していないからだということなのです。


○ さて、後半の43節以下もこの大前提に立って、読まなくてはなりません。

 『「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている』

 隣人を愛しなさいという部分については、先週の説教で取り上げました。今日は省略します。後半の『敵を憎め』は、実は聖書には存在しません。

 しかし、『隣人を愛し、敵を憎め』は一番解り易い正義でしょう。どうも『隣人を愛しなさい』と『敵を憎め』は、ワンセットになっている気がします。ワンセットになっていると、とても解り易いのです。

 以前の説教で、『必殺仕掛け人』の話をしました。ちょっと繰り返しになります。昔この番組が好きで見ていました。しかし、前半の貧しい者弱い者が苦しめられる場面は、見るのが辛くなります。そこで、後半だけ見るようになりました。要は悪党が懲らしめられる場面、殺される場面です。これを見ると爽快感があります。

 ある時、子どもに聞かれました。「この人どんな悪いことをしたの」「知らない」

 何だか知らないけれども悪党だ、それがやっつけられると痛快だ。どんな罪を犯したのかまでは、関心がない。それが『隣人を愛し、敵を憎め』、実に解り易い正義なのです。


○ 44節。

 『しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい』

 先ほど言いましたように、38節以下を大前提にして読まなくてはなりません。しかし、祈りを『燃える炭火を彼の頭に積む』ためと解釈するのはどうでしょうか。

 イエスさまは、ここで更に一歩踏み出しておられるのです。

 『敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい』とは、その方が復讐の手段として有効だという意味ではありません。

 『復讐するは我にあり』です。裁きをなさるのは神さまです。罰するだけではありません。裁きそのものをなさいます。

 私たち人間は、ややもすれば、裁きは私がしますから、神さまは刑罰を与えて下さい。そんなふうになってしまいます。

 自分で裁判し有罪判決を下しているからこそ、「神さま、何であの悪党を罰せずに野放しにしておられるのですか」などと言い出すのです。


○ 45節が44節の説明です。

 『あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、

   正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである』

 不倶戴天の敵という言葉があります。倶に天を戴かず。一緒の世界にはいられない程に憎しみ・嫌悪が強いという意味で使われます。それならば、どちらかがこの世界を去るしかありません。それは出来ません。

 海の中の生き物について考えさせられることがあります。サメは数キロ離れていても血の臭いを嗅ぎつけるとも言われます。確かに、海の中は一つの水の中にいろんな生き物が住んでいます。同じ水を吸い吐き出しています。排泄もします。汚いなと思ったりします。しかし、人間も同じだということを、この度のコロナウイルス騒動で思い知らされました。人間も海の中の生き物と同様に、いろんな生き物と同じ空気を吸い吐き出しています。だから感染します。

 良い悪いは別として、どんな生き物も同じ世界に住んでいて、同じ空気を呼吸しているのだと、思い知らされました。否応なしに。

 そして、このいろんな生き物が一緒に住んでいて、同じ空気を呼吸している世界を、神さまは支配しておられます。

 私たちの国にはタップリと新鮮な空気を下さい。そして私たちが吐き出した汚い空気を、隣の嫌な国に送って下さい、それは出来ません。


○ 46節。

 『自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。

   徴税人でも、同じことをしているではないか』

 理屈が飛躍しているように聞こえますが、『復讐するは我にあり』という主題と全く合致しています。『復讐するは我にあり』別の角度から見れば、『報酬を与えるは我なり』でしょう。

 裁きとは審判です。天秤で量ることです。悪行は刑罰という報いを受け、善行は報酬という報いを受けます。その観点から読めば自ずと分かります。

 『自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか』当たり前のことをしただけですから、ご褒美はありません。期待できません。


○ 47節。

 『自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。

   異邦人でさえ、同じことをしているではないか』

 46節と全く同じ理屈です。

 しかし、『自分の兄弟に … 挨拶した』ことを、善行だと思っている人はいるようです。

 テレビのニュースでしばしば聞きます。犯人を知っている人の感想、人物評です。

 「きちんと挨拶する良い人だったのに」逆に「ろくに挨拶もしない人でしたよ」

 まるで挨拶が決定的に大事なことのように言われます。

 逆に言えば、簡単な挨拶で好感度が全然違うのですから、挨拶した方がよろしいでしょう。「こんにちは」と挨拶が言える子どもは、たったそれだけで、とても良い子になれます。おじいさんおばあさんだって同じでしょう。


○ 48節。

 『だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、

  あなたがたも完全な者となりなさい』

 完全な者とは、『汝の敵を愛せよ』という主の言葉を守る人です。せめて、これを大事に思い、実践しようとする人のことです。