日本基督教団 玉川平安教会

■2020年4月12日

■説教題 「神は王となられた
■聖書  イザヤ書 52章7〜12節


○ 落語で、本題に入る前に、直接本題とは関係ない四方山を、挨拶のように語るのを、まくらと言います。和歌の枕詞と同じ語源、同じ意味合いを持つそうです。説教でも、このまくらを大事にする牧師がいます。教会員にも、枕が好き、長い程良い、聖書釈義などは短い程良いと考える人があるようです。

 私はこれが大嫌いです。枕などは短いほど良い、なくても良いと思っています。せいぜい30分しかない説教の時間を、枕に費やすのはもったいないと考えます。

 枕が良かったのは、林家彦六くらいです。この人の枕なら、1時間でも聞いていたいと思います。実際、60年位前のラジオでは、殆どを枕に費やしていたように記憶しています。それとも、未だ小学校前でしたから、枕を聞いている内に寝てしまったのかも知れません。


○ 嫌いだ、要らないと言ったら傲慢でしょうか。謙虚に言えば、苦手です。下手です。ですから、この枕も無駄に長くなっています。枕の本題に入ります。説教の本題ではなく、枕の本題です。

 今日はイースター礼拝です。どこの教会でも、普段の倍程の出席があって、礼拝後には、愛餐会を持ったりイースターエッグが配られたりと、楽しい時間を過ごします。しかし、今年は、予想だにしなかった新型コロナウイルス騒動により、礼拝開催が危ぶまれるような状況になっています。実際多くの教会で礼拝休止と聞きます。

 私の親友は、この4月に転任し新しい教会に赴任しましたが、5日の礼拝は10数名、12日は、原則教会員欠席とし、牧師だけで礼拝を守るそうです。

  … こんな風な話が、多くの教会で、説教の枕として語られていると想像します。


○ 話が落語に戻ります。落語に何故枕があるのか。今は、寄席に看板があります。番組表もあって、随分前から、演者と題目が予告されています。昔は、それがなかったそうです。それどころか、今は噺家の横手に題目が記された小さい看板みたいなものがありますが、これも、昔はなかったそうです。

 咄家は、枕を語り、その間に客層を見、反応を見て、それからその日の演目を決めるのだそうです。どんな咄が受けるか、客を見定めることが、既に咄家の技術なのでしょう。

 昔の教会には、週報なんてありません。聖書箇所、説教題の予告もありません。もしかしたら、牧師は、枕を手掛かりにして、出席した教会員の顔触れを見、反応を見、聖書を読み、説教に入ったのかも知れません。それが、今に残る説教の枕の所以ではないでしょうか。

 客を見て客に合わせて話すのは咄家の技量でしょうが、牧師も客を見るのでしょうか。


○ 私の場合はやっぱり枕は止めた方が良さそうです。際限なく枕が続いてしまいます。

 今日の説教題は『神は王となられた』としました。イースターよりも、クリスマスにふさわしい説教題です。実際、暮れのアドベントで、既にイザヤ書52章を読んでいます。その際には、当然、クリスマスとの関連で説教いたしました。イザヤとクリスマス記事には、多くの共通点があります。深い関連があります。と言うよりも、イザヤの影響下にクリスマス物語が記されたと言っても良いでしょう。

 そのイザヤを、レントに入ってから、ずっと連続して読んでいます。十字架の出来事は、イザヤの影響下に、もっと強く言えば、イザヤを下敷きにして記されています。共通関連するのは至極当然のことです。


○ この箇所の主題は、誰が読んでも、解放であり、自由です。

 解放・自由と言いますと、私たちは、何事からも、何者からも、全く自由になるという意味に取ります。解放されたからには、自分が自分の主人公であり、何をするも、しないも自分の勝手、それが多くの人にとっての、自由であり、解放でしょう。


○ しかし、イザヤ書52章の1〜6節、今日の箇所の直前に語られている解放・自由は、意味合いが違います。解放されたからには、自分が自分の主人公であり、何をするも、しないも自分の勝手、そういうこととは大分違います。

 ここに語られているのは、バビロンの王と、バビロンの神から自由になって、自分たちの本当の神を礼拝し、彼を王として立てて、それに仕えるという話です。


○ このことが、クリスマスと関連します。クリスマスとは、新しい王が立てられた出来事です。

 1節に遡って、読みます。

 1〜2節には、50年も続いた異国の地での奴隷生活から解放され、故郷に帰ることが許されるという預言が語られています。都エルサレムが、外国の軍隊の軍靴に踏みにじられるようなことはもう起こらないという預言です。

 3〜5節は、分かり難い表現ですが、簡単に申しますと、こういうことです。

 神は、罪を犯したユダヤ・イスラエルの民を、懲らしめるために、異邦人の手に渡した。単純に、自分の民を奴隷として異邦人に売り飛ばしたというのではない。

 しかし、その結果、周辺の国々に住む人々は、「あの神さまはなんともだらしない神さまだ、自分の財産が略奪されるのを手をこまねいて見ているだけだ」と、イスラエルの神を、嘲っている。

 辱められた神の名を回復するために、今、イスラエルの民は、解放され、郷里に帰る自由を与えられる。その際に、何か自由の代償が要求されるようなことはない。只で捨てたのだから、只で取り戻す。このような論理です。


○ 今日の箇所の、解放・自由とはこのような意味合いの解放・自由です。

 異国の王のために奴隷にされていた者が、本当の王によって、贖われて、本当の王の持ち物となった、奴隷となったという意味合いです。

 何だか、まやかしのような論理だと聞く人もあるかも知れません。しかし、歴史上も実際に起こったことです。ヨーロッパの中世史では、そんなことが繰り返されます。スコットランド、イングランド、フランスの間では、頻繁に起こっています。


○ スコットランド、イングランド、フランスでは、王の名誉と富のために、一端失われた王の位を、領土を、そしてそこに住む民を、戦争によって取り戻します。そうしなければ、王の名前が汚れるからです。

 これと同じ話です。イスラエルが解放され自由を得たのは、自分たちが耐えに耐えて試練を乗り切ったからではありません。過去の間違いを悔い改め、新しい正しい生き方に立ち帰ったからでもありません。

 イスラエルの惨めで不名誉な有様に、このままでは神さまの名前が汚される、『それゆえ』、これ以上放置しては置けない。取り戻し、救わなくてはならない、そうでないと、あまりに矮小化した言い方ではありますが、神さまの名前が廃れる、そのような意味合いです。それが3〜5節に記されていることの意味です。

 ややこしいのですが、このややこしさの中に神さまの気持ちが込められていまです。


○ ところで回復される神の名前とは何か、それが6節で言及されています。

 『見よ、ここにいる』。これが神さまの名前です。

 出エジプト記3章の神の名前と、本質的に同じです。その名前の意味は、出エジプト、そしてカナンに入植し、困難を重ねて、イスラエルを建国する人々と共に、神はおられるという意味です。歴史の始まりから、歴史の終わりまで、人々と共に、神はおられるという意味です。

 勿論、この名前には、バビロンでの捕囚の50年間も、神はイスラエルの民の中におられたのだ、エジプトでも、アッシリアの侵略にシオンの丘が侵される時も、神はイスラエルの民の中におられた、そういう強調が込められています。


○ 今申し上げたようなことは、日本語の解放という言葉の持つ意味とは違うかも知れません。ならば、解放の字は、取り下げても良いと思います。3節の贖いの方が適当かも知れません。

 しかし、贖いもまた、日本語本来の持つ意味と、聖書とでは些末ではない違いがあります。いっそ、救出ならどうでしょう。

 それ以上に、日本語の響きと申しますか、多くの人々の考える意味合いと異なるのが、自由でしょう。聖書の自由を日本語、日本人の感覚で捉えようとするのには無理があります。


○ この辺りで、イザヤ書は、クリスマスよりも十字架との関連が濃く見えて来ます。

 ヨーロッパで王がその名誉を取り戻すための代償は何であったか。要は戦争ですから、代価は、兵士とされた人民の命です。王が名誉つまり名前を、領地を、そこで奴隷的に働く農民を取り戻すために、支払われる代価は、兵士とされた人民の命です。

 ここが、ヨーロッパの王、ヨーロッパに限らない地上の王と、真の王キリストとの決定的な違いです。キリストは、自分の名前を取り戻すために、兵士ではなく、農民ではなく、ご自身を、十字架に架けられ代価・犠牲とされました。これが、十字架の出来事の意味です。


○ さて、後半の7〜10節は、細かいことを申し上げていれば、切りがないでしょう。一方、1〜6節で読んだことを前提にして貰えれば、十分お分かりいただけると思います。

 7節の「良き知らせ」「良い知らせ」とは、平和と解放もしくは贖いもしくは救出、まあ、簡単に、平和と救いとの知らせであるということになります。この「良き知らせ」に相当するのが、新約聖書では、エバンゲリオンつまり福音です。福音のそもそもは、戦に勝利したこと、マラソンの起源と言われる出来事に重なります。

 それから、王子が誕生したこと、これはクリスマスに重なります。そして、それを告げるラッパの音、これがエバンゲリオンつまり福音です。


○ 7節。

 『いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。

   彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/

   あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる』

 ここでも、解放とは、救いとは、そして平和とは、真実の神が神として、正統な王が王としておられること。それに礼拝し仕えること。これを意味します。

 また、これこそが、真実の神が神として、正統な王が王としておられること、これを宣べ伝えることこそが、教会の役割です。平和を説くことが教会の使命だと考える人は少なくないでしょう。その通りです。そして、平和を説くとは、真実の神が神として、正統な王が王としておられること、クリスマスに於いて、それが現実になったこと、だから、クリスマスに出席すべきこと、これが、平和を説くということなのです。

 

○ 8節。

 『その声に、あなたの見張りは声をあげ/皆共に、喜び歌う。

   彼らは目の当たりに見る/主がシオンに帰られるのを』

 クリスマスは大いなる喜びです。歓喜の日です。しかし、それは沢山のアトラクションが用意されているからではありません。プレゼントがあるからではありません。『主がシオンに帰られる』からです。

 逆に言えば、他のことを楽しみにした瞬間に、真の喜びは陰に隠れてしまいます。


○ 9節。

 『歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、

   エルサレムを贖われた』

 『歓声をあげ、共に喜び歌え』その通りでしょう。しかし、このように呼びかけられているのは、むしろ命じられているのは、『エルサレムの廃虚』です。

 『見よ、ここにいる』、この神さまは、廃墟に住む人を、つまり、喜ぶべき根拠を何一つ持たない人を、慰め、励まし、『歓声をあげ … 喜び歌』わせることの出来る神さまなのです。

 私たちは、それぞれに喜ばしいことと、裏腹に不安なこととを抱えながら生きています。喜ばしいことと、不安なこととが釣り合いを取っています。やや不安の方に傾く人も、ひどく傾く人もありますでしょう。しかし、全て相対的なことに過ぎません。

 大きく傾いていても、神さまは言われます。『歓声をあげ、共に喜び歌え』

 この言葉を根拠に、不安が平安に変えられるのがクリスマスです。


○ このことは、イースターに当て嵌まります。イースターにこそ当て嵌まります。

 ヨーロッパの王が、戦争に勝利するとは、別の言い方をすれば、多大な犠牲を払ったということです。犠牲・投資なくしては勝利はないでしょう。あらゆる戦争、あらゆる大勝利は、言い換えれば、その犠牲の大きさに他なりません。

 小さい犠牲、小さい投資では、大きな報いはありません。ですから、大きな犠牲が払われました。兵士、農民の命ではなく、王そのものの命が代価として支払われました。十字架です。普通の戦争では王が死んだならば、敗北を意味します。しかし、十字架の死は、勝利をもたらしたのです。それが、キリスト教の福音です。大胆な逆説、これが福音です。


○ さて、落語には、枕と共に、さげ、おちが不可欠です。枕がない場合でも、さげ、おちはあります。話の一番最後に、ほんの短く語られます。1行2行に過ぎません。おちに導くために、咄があるとさえ言えるかも知れません。

 説教はどうでしょうか。短く落ちが語られたなら、その説教の印象は強く残るかも知れません。しかし、逆に言えば、落ちの記憶だけが残ります。それならば小咄で済むでしょう。矢張り、落語でも説教でも、枕ではなく、下げではなく、本題が肝心です。

 枕が苦手な私は、下げも得意ではありません。無理に語りません。ただ、このことだけを申したいと思います。神さまは、ご自分の栄光のために、今日のようなイースターをそのままにはなさいません。どのような犠牲を払ってでも、きっと取り戻して下さるでしょう。


○ 小学生の頃、彦六の枕を聞いて寝てしまったと申しました。説教の枕こそは、眠りを誘うのではないでしょうか。安眠ならそれもよろしいかも知れません。

 落語の下げは不可欠かも知れません。しかし、説教の下げはどうでしょうか。神さまの言葉、聖書の品格を下げることになりはしないでしょうか。それが心配です。