日本基督教団 玉川平安教会

■2020年2月9日

■説教題 「恵みの約束を果たす」
■聖書  エレミヤ書 33章1〜13節


○ エレミヤの預言とその生涯とは、深く結び付いています。今日の箇所こそ、エレミアの人生を踏まえなければ、正しく読むことが出来ません。しかし、そのために1時間2時間と時間を費やすことは不可能です。今日の箇所に直接関係する、必要最小限に止めることに致します。

 32章で、エレミアは、国が滅びようとする時に、敢えて故郷アナトテの村に土地を買い求めました。更に、土地の証書を素焼きの壺に入れ、この土地に穴を掘って、埋蔵しました。それは、やがてまた人々が土地を買い求め、取り戻し、耕作することが出来るようになるという預言を、言葉だけではなく行動で示したものです。エレミヤならではの行動預言です。

 32章14〜15節にはこのように記されています。

 『「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。これらの証書、すなわち、

  封印した購入証書と、その写しを取り、素焼きの器に納めて長く保存せよ。

  15:イスラエルの神、万軍の主が、

  『この国で家、畑、ぶどう園を再び買い取る時が来る』と言われるからだ。」』


○ しかし、事態はますます深刻になります。誰の目にも、いよいよ滅亡を免れることが出来ないと映った時、人々は、その恐怖から、何とも愚かしい行為に走ります。

 その間のことは、32章33節以下に記されています。

 『彼らはわたしに背を向け、顔を向けようとしなかった。わたしは繰り返し教え諭したが、

   聞こうとせず、戒めを受け入れようとはしなかった。

  34:彼らは忌むべき偶像を置いて、わたしの名で呼ばれる神殿を汚し、

  35:ベン・ヒノムの谷に、バアルの聖なる高台を建て、息子、娘たちをモレクにささげた。

   しかし、わたしはこのようなことを命じたことはないし、ユダの人々が、

   この忌むべき行いによって、罪に陥るなどとは思ってもみなかった。」』

 いよいよ国が滅びる、それを避ける術はないと知った人々は、一種のパニック状態に陥りました。自分たちの息子・娘を、ベンヒンノムの谷に連れ出し、これを殺してバアルに捧げたのです。息子も娘も捧げますから、どうか私だけは助けて下さいと、愚かな残虐な行為に走ったのです。このような捧げものは、勿論真の神さまの御心に適う筈がありません。


○ 私たちは先ず、この歴史的事実そのものに、聞かなくてはなりません。深刻な危機を迎えた時、どのように対処するのかということです。狼狽えて、正気を逸した行動を取るのが最も愚かなことです。慌てたり、藻掻いたりしても、事は深刻になるばかりです。むしろ、じっとしていた方が良いでしょう。

 そして、最善は、エレミアのように、平和が回復した時に備えた行動を取るのです。むしろ、平時のような行動を取るのです。それが神の裁きに対する信頼であり、つまりは信仰なのです。

 これを、例えば私たちの教会・教団の状況に当てはめて考えるならは、自ずと、私たちの取るべき行動が示されてまいります。今、どの教会でも、教会員の高齢化が問題となり、礼拝を初め、諸集会が低迷しています。戦後のキリスト教ブームの時代にキリスト者となった方々が、今80代90代になっていますから、高齢化が起こるのは当然と言えば当然です。これに加え、紛争以降の40数年間、若い人への伝道が停滞しましたから、多くの教会では、老人ばかりで若い人はいないという様になっています。

 この事態にどう対処するのか、どうやって人を集めるのか、人を集めるためならば、私たちの教会の伝統を変えても良い、というような発想をしてはなりません。

 そうではなくて、近い将来に、新しい人が、大勢見えることを前提に、見えても困らないような備えをすることが肝要なのです。


○ 大げさな言い方に聞こえるかも知れませんが、エレミヤ的な発想が必要です。真に願い求めるのならば、事が成就した時に備えるのです。神さまが必ず私たちを恵んで下さる、この会堂に人がいっぱい集まるようになるということを前提に備えをなさなければなりません。

 地方都市ではまま見られる現象があります。教会員が高齢化し、建物が老朽化した。その時に、土地を切り売りしたり、郊外に移転したりして、その差額で会堂を新しくします。当初は、建物が綺麗になった分、教会もリフレッシュするようです。しかし、間もなく、教勢はがた落ちします。

 広島では同じ手を二度繰り返した教会があります。かつて、礼拝出席が200名近くもあり、有数の大教会だったものが、今では20名ありません。

 仙台のある教会は、会堂建築に際して、普通なら少しでも他の教会から援助を集めようとする発想を、全く逆に、自分たちの得た恵みを感謝するためにと、建築にかかった費用のナンパーセントかを、教区に献金しました。その教会は、教勢を倍近くまで上げています。


○ さて、このようなエレミアの思いにも拘わらず、33章1節。

 『主の言葉が再びエレミヤに臨んだ。このとき彼は、まだ獄舎に拘留されていた』

 エレミアは、獄に投じられました。エルサレム陥落の日まで、ここに縛られることになります。逃亡出来ないように狭い古井戸の中に入れられていた時期もあります。

 エルサレムは城郭都市です。狭い城内に、大勢の人々がひしめき合い、餓死者が出るような状況となりました。死者を城外に運び出すことも、葬ることも適わず、街に死臭が溢れるというような様でした。

 後日、都が占領された時、兵士たちはエレミヤの預言が正しかったことを思い知らされ、彼らは、エレミヤが一緒にいれば安全だと考え、結果、エレミヤを担いでエジプトに逃亡しました。この後のエレミヤの消息は分かりません。

 そもそも、ユダヤが滅びるのは、バアル=バアルゼブブ=ベルゼブル(悪魔)という名前のバブルの神に迷信的な信仰を捧げた結果です。それが破綻したら今度は、先程の引用箇所で見ましたように、人々は迷信的な信仰に逃避しました。そして、更に、エレミヤを担いでエジプトに逃げた、最後の最後まで、迷信的な信仰を離れることが出来なかったのです。


○ エレミヤは、今、国が滅びようというその時に、預言しています。6〜7節。

 『しかし、見よ、わたしはこの都に、いやしと治癒と回復とをもたらし、

   彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す。

  7:そして、ユダとイスラエルの繁栄を回復し、彼らを初めのときのように建て直す』

 この預言は基本的には慰めの預言かも知れません。しかし、ちょっとタイミング的に早過ぎます。滅亡の直前に回復を預言することは、滅亡を前提としているが故に問題があります。本土空襲が始まった頃に、戦後の平和を預言したら、非国民と言われてしまうでしょう。8節。

 『わたしに対して犯したすべての罪から彼らを清め、犯した罪と反逆のすべてを赦す』

 滅亡、捕囚を前提とした回復の預言です。

 本土空襲が始まった頃に、やがて東京大空襲があり、原子爆弾が落下されるであろう、しかしその後、戦前にも無かった平和と繁栄が実現すると預言しているようなものです。


○ さて、6〜7節の回復の預言の中身を見なくてはなりません。

 具体的な内容です。そして、注目いただきたいのは、この事実です。つまり、健康と癒し、繁栄と安全、これは、エレミヤがその生涯を通じて戦い続けなければならなかった偽預言者が盛んに預言したことと同じ内容です。偽預言は人々に、癒し・健康・平和・富を預言しました。その故に人々から、受け入れられたのです。

 エレミヤと偽預言の戦いについては何度か申し上げている所ですので、詳しくは申しません。神の言葉を正しく宣べ伝え、また真実の愛国的な気持ちからユダヤへの裁きを語るエレミヤの預言は、全く人々に受け入れられませんでした。それに比べて、己が金儲けのために、また立身出世のために王や軍人たち向けに、神が必ず平和を下さるという楽観的な預言を語る偽預言者は、民衆にも熱狂的に歓迎されました。

 もし、国難に当たって、見捨てられた民衆と共に、本当に神さまに祈り、神さまに平和の実現を訴えたのならば、エレミヤはこれらの預言者を偽預言者とは呼ばなかったでしょう。偽預言者は、人々がバブルに浮かれていた時に、また、バブルがはじけたものの未だ現実を直視出来ず、むしろ直視したくない時に、健康と癒し、繁栄と安全を説きました。全く絶望的な状況となった今は、既に逃亡したのでしょうか、肝腎な時にはもういません。責任を負うことをしないから、偽預言者と呼ばれるのです。

 イザヤ書にも新約聖書にも、偽物の羊飼いの譬えが出て来ます。いざという時、本当に必要な時にはいないのが、偽物の羊飼い、雇い人に過ぎない羊飼いです。


○ この10年20年の間にも、預言者・予見者・占い師・祈祷師・霊媒、そう言う類が無数に現れましたが、どうでしょう、彼らは、本当に事が起こるタイミングではもう、逃げ出して、どこにもいません。あれほど騒がれたノストラダムスの大予言はどうなったのでしょうか。その他にも、惑星直列現象だの、いろんな預言がありました。しかし、それは事が現実に起こるはずの数年前まで騒がれるだけで、肝腎な時には、もう、下火になっています。それらの偽預言者は、その時には、そこには、もういません。


○ エレミヤの回復の預言の、もっと本質的な部分は、8〜9節そして10節以下です。

 ここでは、エルサレムの復興が預言されています。また、12〜13節では、牧歌的な生活の復興が預言されています。

 前半の8〜11節も、後半の12〜13節も、決してバブル時代の経済的な繁栄を歌っているのではありません。もう一度好景気がやって来ると言っているのではありません。もっと素朴な、土地に根ざした、一人ひとりの地味で堅実な労働が幸福に結び付くようなシンプルな生活が説かれているのです。

 また歴史を振り返る格好になります。先程来、バブルと言う表現を何度も用いました。イスラエル・ユダヤの歴史には、正に、バブルの時代が存在したのです。これも詳しく申し上げる暇はありませんが、イスラエル・ユダヤの地理的歴史的環境は、不思議に日本のそれと似通っています。イスラエル・ユダヤが繁栄するのは、南北また東の大国間で、力がバランスを保っている時です。南北また東の大国が三竦みの状態、言わば冷戦構造になると、これらの国々の間で直接の貿易交流がなされませんから、イスラエル・ユダヤがキャスティングボードを握り、また交通・貿易の利を得て、繁栄します。しかし、それはそのまま、近い将来の破綻と結び付いているのです。正にバブルははじけるべく存在するのです。


○ ですから、エルサレムの復興とは、バブルよもう一度と言うこととは違う筈なのです。しかし、人々は、バブルの夢を忘れることが出来ません。そして、現実に、もう一度やって来ました。北王国が滅びた後、アッシリアが国力を落とし、エジプトにも混乱が続き、そしてカルディア=新バビロニアが次第に台頭してくる、そのような状況が、またまた、三竦みの冷戦構造を作り出し、またまた、バブルがやって来たのです。北王国イスラエルが既に亡いだけに、ユダヤがバブルを一人占めにしたとも言えましょう。

 しかし、バブルははじけるべく存在するのです。バブルが生まれたという状況が、そのまま、やがて来る破綻を預言するのです。

 ですから、エルサレムの復興とは、バブルよもう一度と言うことではなくて、イスラエル・ユダヤの実力と申しますか、本来あるべき姿、自然風土や環境に見合った経済の仕組みに回復しなくてはならないのです。更に、イスラエル・ユダヤの本来の政治的形態に帰らなければならないのです。


○ 14〜16節には、かなり直接的に終末的メシア政治の理想が預言されています。

 最後にと言いますか、今日の箇所のまとめとして申し上げます。ここは、直接イエス・キリストに触れられた預言ではありません。しかし、新約聖書の理念に通ずるものです。神の国の原点であり、復活信仰の原点として重要、不可欠のものです。


○ 復活信仰を、私たちはどうしても個々の人間の復活として考えてしまいます。しかし、その前提として、イスラエル・ユダヤの場合には、国家・民族の復興=復活が存在します。だから具体的には、再び正統な王が立てられるとか、再び祭司が正しい祭儀を司る、とかというような表現になります。そして、そのようなものの考え方の究極に、終末に於いて真の王=メシア・キリストが王として大祭司として、預言者として立つというメシア信仰があります。

 更にそのようなユダヤ教的メシア信仰の成就として、キリスト教の復活信仰が存在するのです。この前提を無視して考えれば、復活信仰はどうしてもオカルト的なものになってしまいます。そして分からなくなってしまうのです。

 どんなに考えても分かりません。私たちの身体が復活するという事実、その時のこと、その様のこと、手順のこと、どんなに考えても分かる筈がありません。その結果、私たちの思いは、どんどんオカルト的な方向に流れて行くか、さもなくは信じられないということになってしまいます。どちらにしろ、無意味です。

 神の国に通じる地上の教会の存在、教会の頭としてのイエス・キリスト、教会という神の国の預言者=キリスト、大祭司キリスト、王=キリスト、の復活によって、神の国の歴史が始まるという信仰なのです。最初の人間であるアダムによって、人間の存在が始まったように、復活のイエスによって、新しい人間の存在・歴史が始まるという信仰なのです。

 イスラエル・ユダヤの復興が、個々人の財産の復興ではなくて、民族の復興であり、民族の矜持と信仰の復活であったように、現代に於いても、教会と無関係に、個々人の復活信仰はあり得ません。教会と無関係な復活信仰は唯のオカルト信仰です。教会=神の国への信仰が無くては、復活信仰はあり得無いのです。やがて来る神の国を信ずることは、復活信仰と一つ事柄なのです。


○ 復活の主についても、私たちの信仰の内容は、厳密に言えば、単に『イエスが復活したことを信ずる』ではありません。これだけならば、所詮はオカルト信仰です。イエスが復活したことを、「復活することだってあり得る。科学的には否定されても、私は信ずる。」それではオカルト信仰です。

 そうではなくて、『十字架に死し、復活されたイエスと共に神の国が到来したことを信ずる』のが、復活信仰です。私たちは単にイエスが墓の中から甦ったことを歴史的事実として信ずると言い表すことが私たちの信仰なのではありません。そういうことよりも、そのイエスが、私たちの王である、だから、このイエスと共に神の国が始まったということを信ずるのが、復活信仰です。

 更に言うならば、私たちはやがて召される、死んで行く、死んでしまうことで滅びるのではなくて、その時にこそ、真に神の国の国民となると信ずるのが、復活信仰です。

 クリスマス、即ち新しい王の誕生、即ち、新しい王の名の元に新しく国民が集められ、新しい王国が形成されることです。クリスマス、即ちエレミヤの預言の成就なのです。滅びたと見えた国の復活なのです。