日本基督教団 玉川平安教会

■2020年1月26日

■説教題 「新しい契約が立てられる」
■聖書  エレミヤ書 31章27〜34節 


○ 新潮文庫に『ナチス狩り』という本があります。何だか嫌らしい題名です。興味本位の劣悪な本の響きがします。それで敬遠される向きもあるのではないかと想像致します。逆に題名に惹かれて購入した人は、がっかりしたでしょう。そのような期待に応える怪しげな作品ではありません。

 巻末に夥しい文献一覧が上げられていることからも分かりますように、ピューリッツァー賞の実績があるジャーナリストが綿密な調査の元に記した本です。

 著者はハワード・プラムというアメリカ人で、同じ新潮文庫に『隠された神の山・モーセの宝を追え』が収蔵されています。『ナチス狩り』の本来の題は、『旅団』です。軍隊に於いて、軍団よりも上の単位の旅団です。更に、『復讐と救出の叙事詩』という副題が付いています。『旅団、復讐と救出の叙事詩』それが、『ナチス狩り』になってしまったのです。

 確かにインパクトはあるかも知れませんが、大分、読者を減らしてしまったように思います。

 それはともかく、このノンフィクションには、おそらく、殆どの日本人が知らないでいた事実が記されています。私は全く知りませんでした。つまり、第2次世界大戦末期、それは同時に、イスラエル建国前夜、既にパレスチナに移り住んでいたユダヤ青年から志願兵を得、ユダヤ人の旅団が形成されて、イタリア戦線に送られ、実際に戦闘に参加したということです。


○ 3人の兵士と一人の女性の身の上に起こった出来事を通して、ユダヤ人国家の形成を巡る裏事情のようなことを綿々と記していますので、その概要さえお話しすることは不可能です。二つのことだけ紹介させて頂きます。

 ナチスとの戦争が終わった時、それまで、信じがたい噂として囁かれていたことが、むしろ、現実からすれば矮小化されたニュースだったということを、旅団の人々は知らされました。ロシア以西のヨーロッパ社会に暮らしていたユダヤ人800万人のうち、600万人が虐殺されていたのです。

 ホロコーストの様子などは全部省略致します。大概の日本人が知らなかったこととは、先ず、次のことです。この旅団の隊員の間に、密かに結社が結ばれ、彼らは、収容所の派遣将校・官吏などを探し出し、次々と処刑しました。その人数は、約300人です。


○ 第2の点はこのことです。この処刑は長くは続きませんでした。何故なら、既に南米など外国へ逃れた者がいたという事情もあって追求が困難になったことと、何よりも、もっと緊急の課題が生まれたからです。

 それは、何千何万というユダヤ人が、ナチスの収容所を逃れたものの、今度はイギリスの収容所に留め置かれていたからです。これらの人々が、パレスチナに移住し、結果、独立運動が力を得ることを、イギリスは恐れました。また、ヨーロッパ諸国も、自分たちの国の再建の目処が立たない状況で、ホロコーストを生き延びた200万人のユダヤ人は、ただの邪魔者でしかありませんでした。彼らは戦後も、依然として収容所での生活を強いられていたのでした。

 そのような状況下で、正に、スパイ映画を見るような、しかし、実話が展開して行きます。武器を盗み、車を調達し、軍の船までも欺き取って、彼らは、ひたすらに、テルアビブを目差しました。

 その出来事が、この本、『ナチス狩り』の主要な内容です。

 この話の大転換点は、カトリックの修道院に収容されていた一人のユダヤ人少女を奪還することにありました。

 ナチスやその協力者、黙過していた一般民衆、彼らへの恨みを忘れたというのではありません。まして、赦すことなど出来よう筈がありません。しかし、それよりも何よりも、緊急のことが生じたのです。

 家族全員、それどころか親戚縁者も含めて知り合いの全てをガス室で殺され、全くの孤児となり、今は、カトリックの修道院で、待遇はともかく、事実上囚人となっている少女を救い出し、彼女が天国のように夢見るパレスチナに送り届けることが、最優先課題になったのです。

 この少女の救出に成功した後は、ヨーロッパからパレスチナにユダヤ人を密航させることが、彼らの仕事となっていきました。


○ 所謂シオニズム運動については、その前期の様子をシュテファン・ツヴァイクが記していますし、ナチの残党が南米に逃亡するのにローマカトリックが協力したことは、グレアム・グリーンが詳細に描いています。『沈黙のベルファスト』で知られるブライアン・ムーアにも、同趣旨の本があります。

 『ナチス狩り』に描かれたことは、多少の脚色はあっても、全くの事実です。


○ 前置きが長くなってしまいました。

 これも前置きかも知れません。今日の箇所を含む31〜32章は、内容的に独立した文書と見なされるのが普通です。学者によっては、エレミヤのものではなく、もっと後の時代のものだと考えます。一節一節、一語一語を分析して、ここはエレミヤに基づく、ここはそうではないという研究もあります。そういう難しいことは、申し上げるつもりはありませんし、必要もないかと考えます。

 ただ、31章の2〜5節に、ちょっと目を通して頂きたいと思います。

 2節、『つるぎをのがれて生き残った民は、荒野で恵みを得た』

 4節、『イスラエルのおとめよ、再びわたしはあなたを建てる、あなたは建てられる』

 5節、『またあなたはぶどうの木をサマリヤの山に植える。

     植える者は、植えてその実を食べることができる』

 ユダヤの民は、繰り返し繰り返し、ホロコーストを体験して来ました。以前に詳しく申しましたように、創世記の22章に、アブラハムがイサクを献げるという出来事が描かれています。いろんな多様な解釈が成り立つ箇所かも知れません。しかし、一番単純に言えば、そして、一番肝心なことは、ユダヤ人とは、信仰のために我が子をも献げたアブラハムの子孫だということであり、ユダヤ人とは、信仰によって神さまに献げられたイサクの子孫だということです。

 この時、アブラハムは薪の上にイサクを載せました。つまり、全てを焼き尽くす献げ物としてです。これがホロコーストです。ユダヤ人は、イサクの子孫なのです。

 ユダヤ人は創世記の昔から、ホロコーストの民なのです。焼き尽くされた生け贄です。


○ しかし、ここでは、全くの滅びが預言されているのではありません。滅びの預言で終始するのではありません。回復が語られています。滅びを免れるという預言ではなくて、滅びの後で、回復される、再生されるという預言が語られています。確かに、あまりエレミヤ書らしくないという印象は致します。

 今日の箇所も同様です。

 27節。

 『主は言われる、見よ、わたしが人の種と獣の種とをイスラエルの家と

  ユダの家とにまく日が来る』

 畑仕事に擬えた表現ではあります。しかし、案外に、実際的な表現かも知れません。麦ならば、種まきから一年足らず、場合によっては、半年足らずで収穫を見ます。しかし、葡萄とか、イチジクとかオリーブとか、果樹の場合はそうもまいりません。これらの果樹こそ、ユダヤ人にとって貴重な財産です。

 獣、羊や山羊、そもそも、彼らを養うための、牧場、どうしても時間がかかります。そして、回復・再生までに一番時間が、手間がかかるのが、人間でしょう。


○ 28節。

 『わたしは彼らを抜き、砕き、倒し、滅ぼし、悩まそうと待ちかまえていたように、

  また彼らを建て、植えようと待ちかまえていると主は言われる』

 畑を開墾する様子に擬えて語っています。しかし、生きた人間を相手にする時も、これが、実際かも知れません。

 『彼らを抜き、砕き、倒し、滅ぼし』これらも、また、神の業なのです。

 そんな恐ろしい神さまは嫌だという方もありましょう。そんな恐ろしい神さまだとは考えたくもありません。しかし、エレミヤは確かに、このように記しています。

 多分、そんな恐ろしい神さまは嫌だというのは、比較的に、穏やかで豊かな日々を過ごして来た人の発想ではないでしょうか。

 辛い思い、死んだ方がましだというような、日々を体験した者にとっては、逆に、ここにこそ、『彼らを抜き、砕き、倒し、滅ぼし』この厳しい表現にこそ、救いの可能性が見えて来るのです。


○  一番簡単に説明すれば、こういうことです。『彼らを抜き、砕き、倒し、滅ぼし』たのが、単にアッシリアやバビロニアの仕業であるならば、その先には、何もありません。唯、恨みが、憎しみが残るだけです。復讐する以外に、何もなす術はありません。

 しかし、人間の知恵では計り知れない神さまの御心が、そこに存在すると言うのならば、『彼らを抜き、砕き、倒し、滅ぼし』たのが神さまの御旨から出ているのならば、『建て、植えようと待ちかまえている』という主の言葉があるのならば、なすべきことは、復讐ではなく、もっと緊急のことなのです。


○ 29〜30節は、その前との関係がよく分かりません。今、捕囚のために苦しんでいるのは、ユダヤ人の先祖たちの100年以上も前から積み重ねられて来た罪科によるけれども、一端神さまの刑罰を受け、滅びを体験した今後は、罪と罰の清算が済んだのだから、これからは話が別だと言うことでしょうか。

 これから、全てのことがやり直されます。新しい契約が、神さまと人との間に締結されるのです。


○  33節。

 『それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。

  すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。

  わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる』

 『それらの日の後に』簡単に記されていますが、これが意味する内容は、徹底的な破壊です。捕囚です。国を失い、家屋敷を失い、家族をも失うような体験です。その果てにある回復を、再建を約束しているのです。そのくらいならば、なんとか、滅亡を免れさせて貰えないだろうか。そうは行きません。

 『わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす』これも、簡単に記されていますが、大変なことです。

 契約の記された石版が失われ、勿論、これを入れていた聖櫃もなく、更に神殿も崩されました。その時に、尚、否、その時にこそ、一人ひとりの心に、契約の言葉が刻まれたのです。

 人が飼う馬や牛や羊には印が押されます。焼き印です。今、焼き印がなくなって自由になるというのではありません。焼き印は、その心に押されるのです。身体に記される場合よりも、より、完全なもの、絶対に消すことの出来ないものなのです。

 34節こそ、真に、理想の契約共同体・信仰共同体の姿があります。


○ さて、今日の箇所の預言全てが、キリスト教会に当てはまります。むしろ、キリスト教会のためにこそ、私たちの人生のためにこそ、この預言は語られたのではないかと思うくらいです。

 私たちは、洗礼に於いて、心の一番深い場所に、焼き印が押されました。刻印も入れ墨も、現代の医学をもってすれば、消すことが出来ます。しかし、心の一番深い場所に、押された焼き印は、どんなことをしても取り消すことは出来ません、本人が忘れていても、この事実は変わらないし、神さまの記憶に刻まれています。


○ 31章8〜9節。

 『見よ、わたしは彼らを北の国から連れ戻し/地の果てから呼び集める。

   その中には目の見えない人も、歩けない人も/身ごもっている女も、

   臨月の女も共にいる。彼らは大いなる会衆となって帰って来る。

 9:彼らは泣きながら帰って来る。わたしは彼らを慰めながら導き/流れに沿って行かせる。

   彼らはまっすぐな道を行き、つまずくことはない。

  わたしはイスラエルの父となり/エフライムはわたしの長子となる』

 泣きながら帰ってきます。正にホロコーストを免れた民です。多くの家族を愛する者を失いかろうじて生き延びた、人々です。そこには、涙しかありません。


○ 31章15〜16節。

 『主はこう言われる。ラマで声が聞こえる/苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。

   ラケルが息子たちのゆえに泣いている。

  彼女は慰めを拒む/息子たちはもういないのだから。』

 しかし、神は絶望しきったこの民に、言われます。31章17〜18節。

 『泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、

  と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。

17:あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る』


○ この預言は、『ラマで声が聞こえる』だけを取っても、クリスマスに直結しています。

 『ナチス狩り』にもう一度触れます。彼らが『ナチス狩り』に終始していたならば、そこには救いはなかったでしょう。ナチの残党を皆殺しに出来たとしても、そこに満足はありませんし、平和も戻らないでしょう。

 この歴史小説が語っているように、祖国に帰る、神の国に帰るという大目標が与えられて、彼らにとって復讐は第1目標ではなくなってしまいました。たになすべきこと、優先することが出来ました。祖国の建国という緊急の課題が出来ました。それが、彼らの救いになります。

 この故国の再建、神殿再建も、繰り返されて来た、ユダヤの歴史です。


○ 私たちにとっても同じことでしょう。

 今、なすべき第1の課題は何か、最優先は何か、それを見据え、取り組むことが、救いに平和に直結することです。