日本基督教団 玉川平安教会

■2020年1月19日

■説教題 「主は我らの正義」
■聖書  エレミヤ書 23章1〜6節 


○ 今日の箇所を読むために必要な、予備知識が、直前のエレミヤ書22章までに記されています。是非読んで頂きたいのですが、必ずしも、分かり易いものではありません。短時間で黙読して頂くのは無理でしょう。

 そこで、今日の箇所を読む前に、22章までに記されていることを元に、ユダの国の歴史をなぞってみたいと思います。ごくごく簡単に端折って申します。

 

○ 宗教改革を断行したヨシヤ王は、メギトの戦いで、エジプトのパロ・ネコ軍に敗れ戦死してしまいました。これは、ユダヤの歴史上の一大事件であり、聖書・ユダヤ教にとっても、決定的な出来事です。後々ヨハネ黙示録を通じて、ハルマゲドンの戦いに結び付く訳ですから、キリスト教にとっても大事件です。ハルマゲドンという架空の地名に、メギトという実際の地名が織り込まれています。

 今日の箇所は、ヨシヤ王の戦死の後のことです。この時以来、ユダはエジプトに隷従させられます。


○ ヨシヤ王の後を嗣いだのは、その子のヨアハズでした。しかし、彼はエジプトによって退位させられ、その兄、ヨヤキムが王となります。彼は、全くエジプトの傀儡の王に過ぎませんでした。更にその子どもがヨヤキンです。エレミヤ書では、コニヤと記されています。

 この二人の王は、民を重税で苦しめたと記されています。

 紀元前597年、コニヤはカルディアのネブカドネザルに敗れ、王位は、彼の叔父に当たるゼデキヤに引き継がれます。

 

○ 名前を覚えることさえ困難です。しかも、新共同訳聖書と口語訳聖書で名前の表記が違いますので、大混線します。

 しかし、大きな混乱が続いた時代、ユダヤ人を導く真の王が不在であったということがお分かりいただければ充分です。

 この間のことは、歴代誌下36章に順序良く記されていますので、こちらをお読みになった方が分かり易いかも知れません。

 列王記下ですと23章以下になります。こちらの方がより詳しく出ています。


○ エレミヤ書23章1節。

 『「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる』

 この預言が、全く現実のことだったのです。『牧者たち』とは、ヨヤキム、コニヤといった王たちであり、王の傍にいる貴族や軍人そして宗教家たちのことです。

 彼らにとって、大事なものは、自分の地位であり、安全であり、財産です。彼らにその命運を委ねている国民のことは、王や貴族軍人、そしての宗教家の関心に入っていません。

 彼らは決して、馬鹿ではありません。今の政権が危ういことを知っています。自分の立場がいつかは崩れることを覚悟しています。だからこそ、その地位を利用して、今の内にせっせと蓄財に励むのです。

 国の未来など知ったことではありません。


○ 現代の世界でもこんな王や大統領が存在します。例えば、アメリカを徹底的に批判していながら、その財産をアメリカの銀行に預けている、アメリカの会社の株をしこたま持っている、そんな大統領のことが、しばしばニュースになります。

 いち早く、家族を外国に逃がす指導者のことが伝えられます。

 国だけではありません。会社だって同じことです。

 こんな指導者の下にいる国民や社員はたまったものではありません。

 教会はどうでしょう。そんな牧師なら、教会員はたまったものではありません。


○ 2節。

 『それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、

   こう言われる。「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、

   追い払うばかりで、顧みることをしなかった。

   わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる。』

 これが、現実です。

 今日は詳しくお話しする暇はありませんが、責任はただ王にのみ存在するのではありません。そうでなければ、民が滅ぼされることはなかったでしょう。

 外国から嫁いで来た王女が持ち込んだ偶像を、最新流行の宗教として受け容れ、これを拝み、エレサレム神殿にまで持ち込んだのは、民そのものなのです。


○ 3〜4節には、新しい、正統な王が誕生し、正しい政治が行われること、羊は、元の牧場に帰ることが許されるという預言が語られています。

 『「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、

   もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。

  4:彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、

   おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる』

 ちゃんと羊の面倒を見る、羊のことを一番にする羊飼い、つまり、王が与えられるという預言です。

 国民は飼う者のない羊ではなくなるのです。

 

○ より詳しくは、5〜6節に預言されています。

 ここは、詳しく見なくてはなりません。

 『見よ、このような日が来る、と主は言われる。

  わたしはダビデのために正しい若枝を起こす』

 『正しい若枝』、微妙な表現です。

 つまり、ダビデの家に繋がる血統だけれども、必ずしも直系ではありません。若枝、つまり、新しい枝です。傍系です。

 一番簡単に言えば、新しい家系です。

 先程名前が挙げられたような人々と、その系統は最早用いられません。


○5節の後半、

 『王は治め、栄え この国に正義と恵みの業を行う』

 前半は、問題なく、分かります。問題は後半です。

 『正義と恵み』です。

 この箇所、口語訳聖書ではこのようになっています。

 『主は仰せられる、見よ、わたしがダビデのために一つの正しい枝を起す日がくる。

   彼は王となって世を治め、栄えて、公平と正義を世に行う』

 口語訳のように『公平と正義』ならば、しっくりと来る気が致します。しかし、口語訳が正しくて新共同訳聖書は間違いということではありません。

 因みに『公正と義』とする注解書が二つありました。


○ 羊を飼うには、何が一番大事なことなのか、二つの相反するように見える事が、共に大事なのです。

 一つは、統制です。群れを一つにまとめる統率力、リーダーシップが何よりも必要です。

 これは、角度を変えると、決断力となります。信念とも言えますでしょう。

 結局は信仰です。神の御旨を信じて、迷ったりためらったりしないで、進むべき道を選び取っていく、それが真の王です。

 実際、旧約聖書の歴史書を読みますと、この観点から、正しい王と、悪い王とに評価が分けられます。

 

○ 無数に例を挙げることが出来ますが、一つだけ、上げましょう。

 イザヤ書7章1〜2節が最も適当かと思います。

 『ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである。

  アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、

  エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。

  2:しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、

  王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した』

 信念ではなく、常に政治的なかけひきで生き延びるアハズ王は、この時息子を人身犠牲にして、シリア・エフライム同盟と交渉しますす。


○ さて、このように説明している間にも、公正という話が、愛・情ということと重なってまいります。公正・義ということと、愛情とは相反するどころか、不可分離的なのです。

 義とは、この二つを兼ね備えたようなことであって、決して、愛情の反対の極に存在するものではありません。


○ 何故正義と恵みなのか、この辺りは、重要なことのようです。

 一つの例でお話し致します。

 義という漢字を、改めて見て下さい。羊の下に我という漢字があります。

 羊の下が大きいならば、美です。人は、羊が大きいこと、豊かなことという概念から出発したのです。まあ、あまり羊とご縁ない私たちにはピンと来ません。

 漢和辞典で羊を見ますと、いろいろと普段見慣れない漢字があります。成る程と頷くものが少なくありません。

 義とは、背負うようにして、羊を大事に慈しむことだとしたら、どうでしょうか。羊を養うのに、最も必要なことは、愛情なのです。つまり、真の王は国民を愛し、そのためには命がけになって戦うのです。

 これは、偶然かも知れませんが、良い羊飼いの譬えと重なります。


○ 何でも、旧約聖書の中だけでも、羊を意味する単語が18種類有るそうです。漢字は、あくまでも、漢民族や日本人の、感性の中から生まれたものですから、漢字を元にして、聖書を論ずるのはあまりにも乱暴です。しかし、この羊に関しては、聖書も、漢字も、同じようなことを考えているのではないでしょうか。


○ 6節を読みます。

 『彼の代にユダは救われ イスラエルは安らかに住む。

   彼の名は、「主は我らの正義」と呼ばれる』

 ここでは先ず、ややこしいことを先に言わなくてはなりません。「主は我らの正義」とは、先簿と名前を挙げた王たちのその後の王、ゼデキヤ王の名前です。

 しかし、この王は、とても、6節に描かれるような王ではありません。

 列王記下24章18〜20節を引用します。

 『18.ゼデキヤは二十一歳で王となり、十一年問エルサレムで王位にあった。

  その母は名をハムタルといい、リブナ出身のイルメヤの娘であった。

  19.彼はヨヤキムが行ったように、主の目に悪とされることをことごとく行った。

  20.エルサレムとユダはキの怒りによってこのような事態になり、

  ついにその御前から捨て去られることになった。

  ゼデキヤはバビロンの王に反旗をひる翻した』。

 

○ エレミヤの預言はゼデキヤとは無関係なのか、それとも、見事に期待外れだったのか、何だか良く分かりません。

 しかし、そもそも、エレミヤが、ヨシヤ王をどのように評価していたのかでさえ、定かではありません。

 『彼の代にユダは救われ イスラエルは安らかに住む。彼の名は、

  「主は我らの正義」と呼ばれる』

 この預言にぴったりと当て嵌まる王は、残念ながら、ユダヤの歴史に登場しません。この預言が成就するのには、イエス・キリストを待たなくてはなりません。

 逆に言えば、私たちは、エレミヤの預言をイエス・キリストのこととして聞くことが出来ます。聞かなくてはなりません。

 『見よ、このような日が来る、と主は言われる。

   わたしはダビデのために正しい若枝を起こす』

 『彼の代にユダは救われ イスラエルは安らかに住む。彼の名は、

  「主は我らの正義」と呼ばれる』

  

○ クリスマス以降、イザヤ、エレミヤと、旧約の大預言者を読んでいます。ここにこそ、キリストが描かれています。真に、キリストを知るには、クリスマスをお祝いするためには、イザヤ、エレミヤを知ることが不可欠です。イザヤ、エレミヤを読み、そこに描かれるキリストを求めることが、クリスマスを待つことであり、クリスマスの喜びを味わうことです。