日本基督教団 玉川平安教会

■2022年12月11日 説教映像

■説教題 「世界で最初の礼拝

■聖書   マタイによる福音書 2章7〜12節 


★最初に民数記22章のお話しを致します。

 民数記は、その題名の通りに、イスラエル民族の部族・氏族の名前の一覧を上げ、また、神殿建物とお祭りについての詳細な規定を述べることに、大部分の紙数を割いています。私たちには、あまり関心の持てない、正直、退屈な文章が綴られています。しかし、その中で魔法使いバラムの逸話だけは、例外的で、不思議で教訓的な物語が展開されます。

 先ず、とにかくに、バラムの物語を紹介しましょう。

 バラムは、メソポタミアの町ペトルの住民で、簡単に言えば占い師です。バラムは、評判を聞きつけたモアブの王に招かれました。イスラエルを呪うために、です。初めは気乗りがしなかったのですが、報酬に気持ちを動かされて、ついに、これに応じました。(民22:1〜)。

 招かれて行く途中、ろばが三度までも立ち止まり、梃子でも動こうとせず、道を変えざるを得ませんでした。それでも鞭を振るってろばを進ませようとすると、ついに、このろばが口をきいて、バラムと不思議な問答をします。

 27〜30節を引用します。

 『27:ろばは主の御使いを見て、バラムを乗せたままうずくまってしまった。

  バラムは怒りを燃え上がらせ、ろばを杖で打った。

  28:主がそのとき、ろばの口を開かれたので、ろばはバラムに言った。

 「わたしがあなたに何をしたというのですか。三度もわたしを打つとは。」

  29:バラムはろばに言った。「お前が勝手なことをするからだ。

  もし、わたしの手に剣があったら、即座に殺していただろう。」

  30:ろばはバラムに言った。「わたしはあなたのろばですし、

  あなたは今日までずっとわたしに乗って来られたではありませんか。

  今まであなたに、このようなことをしたことがあるでしょうか。」

  彼は言った。「いや、なかった。」』


★聖書世界では、驢馬は、愚鈍・頑固を象徴する動物と考えられているそうです。しかし、驢馬の背に乗った魔法使いバラムの方が、驢馬よりももっと愚鈍で頑固です。それは、金の欲に目が眩んでいるからです。

 この不思議を体験しては、バラムといえどもモアブ王の言いなりにはなれません。王の意に反し、イスラエルを呪わず、かえってイスラエルの勝利とその敵の滅亡を預言せざるを得ませんでした。その預言の内容は、24章に記されています。

 さて、この後に、バラムは結局金の欲に迷いました。モアブの女性たちを用いて、イスラエル人たちをバアルの祭儀に誘います。結果、イスラエルに大きな災害を及ぼしました。(民31:16、ミカ6:5、)。バラムはミディアン人と共に殺害されます。(民31:8)。

 この故事から「バラムの迷い」(ユダ11節)、「バラムの教え」(ヨハネ黙示録2:14)の表現が生まれました。


★「バラムの迷い」こそ、人間の現実を言い表しています。人間は、正義と悪との区別が出来ないのではありません。神の戒めを知らないのではありません。神の言葉を知らないのでもありません。自分の欲のために、これを歪め、結局無にし、そして結果、滅びるのです。

 驢馬よりも愚かで、驢馬よりも頑固なのが人間です。そして、その愚かさ、頑固さの背景にあるものは、欲望なのです。


★魔法使いバラムとマタイ福音書の博士たちとの間には、幾つもの類似点があります。

 新共同訳聖書では『占星術の学者』、口語訳聖書では、博士と訳されています。ギリシャ語原文はマギ、ペルシャやバビロニアで星占いをする者がこのように呼ばれていました。英語のマジシャンの語源です。

 魔法使いバラムもマタイ福音書の博士たちも、要するに星占いをする者です。かつ、両者共に、本来ユダヤ教とは無関係の異教的背景を持っています。


★同じ星占いでも、細かい相違点を上げるならば、魔法使いバラムは、旧約預言書で忌み嫌われる口寄せ・霊媒師などに近い性格を持っており、博士たちは、より学問的な、今日の天文学者に通じていると言えるかも知れません。

 しかし、両者の決定的な相違点は、そも何のために、星を見るのか、占いをするのかと言う点にあります。

 マタイ福音書、2章2節と11節をご覧下さい。2節、

 『「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。

  わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。』

 11節、

 『そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、

  また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。』

 博士たちは、礼拝することを目的として、長い旅をして来ました。また、自分の宝物を捧げることを目的として、長い旅をして来たのです。

 彼らは、長い旅の果てに、何を得たのか、物質的には、何も得られません。出世した訳でもありません。お金や出世に結びつくような、重要な新知識を得たとも言えません。

 しかし、彼らは、『その星を見て、非常な喜びにあふれた。』と記されています。

 一方のバラムについては、既に見た通りです。金の欲に目が眩んで、ついには、滅んでしまいます。余人には見ることの出来ないものを見、余人には聞くことの出来ないものを聞くという、特別な能力を持ちながら、欲に目が眩んで、我が身を滅ぼしてしまいます。


★さて、クリスマスは、2000年の間に、人間の欲望によって、すっかり歪められてしまいました。学校でも町内会でも、クラブ活動でも、どこでもかしこでもクリスマス会と言う名前のパーティーが開かれるのに、教会にやって来る人は僅かです。この事実がそもゆゆしきことですが、まだしも、かも知れません。

 かつて、日本のサラリーマンにとって、クリスマスとはキャバレーでの飲み会を意味した時期がありました。今や若者にとって、クリスマス・イブとは、恋人同士ホテルで一夜を過ごすことなのだそうです。

 クリスマスをサンタクロースの誕生日だと思っている人が本当にいます。松江で、「教会でもクリスマス会をするのですか。」と真願で聞かれたことがありました。ブラックユーモアではありません。


★真のクリスマスを取り戻さなければなりません。

 真のクリスマスを取り戻すためには、礼拝としてクリスマスを守ること、これが先ず第1です。次に、何かを貰うことを考えるのではなくて、捧げることを、考えなければなりません。

 教会に行ったら何か良いことがあるかどうか、ではありません。他の人のために働いたら何か良いことがあるかどうか、ではありません。神さまの御用に用いられることに、真の喜びがあります。

 用いられるとは、自分の主義主張を実現することではなくて、神さまの御心を実現するために捧げ、働くことです。他の人の喜びのために働くことの中に、自分自身の喜びを発見するのです。


★クリスマスを『星を仰ぎ見る時』と言う人がいます。その通りでしょう。『星の時間に生きる』と言ったのは、シュテファン・ツヴァイクです。つまりは、遠大な計画の下に生きることです。

 それに比べて、バラムの欲は、結局目先の欲、人間の欲です。このような欲は、滅びにつながります。神さまの計画に生きる者が、神さまの遠大な計画の下に生きる者が、『星を仰ぎ見る』者が、『星の時間に生きる』のです。

 そのためには、謙虚に神さまの言葉に聞かなくてはなりません。誘惑を捨てて、雑音から耳を閉ざして、静かな心で、神さまの言葉に聞かなくてはなりません。

 そのためのクリスマス礼拝です。


★バラムの預言の内容そのものには、未だ触れていませんでした。簡単にお話致します。 12〜13節、

 『バラムはバラクに言った、

  「わたしはあなたがつかわされた使者たちに言ったではありませんか、

  たといバラクがその家に満ちるほどの金銀をわたしに与えようとも、

  主の言葉を越えて心のままに善も悪も行うことはできません。

  わたしは主の言われることを述べるだけです』。

 『バラムはバラクに言った』と、ちょっとややこしいのですが、バラクとはモアブの王のことです。驢馬の教訓によって、魔法使いバラムは、ここでは、『わたしは主の言われることを述べるだけです』と、自分の役割を心得ています。

 その預言の内容を見ましょう。17節の後半から。

 『ヤコブから一つの星が出、イスラエルから一本のつえが起り、モアブのこめかみと、  セツのすべての子らの脳天を撃つであろう。

  敵のエドムは領地となり、セイルもまた領地となるであろう。

  そしてイスラエルは勝利を得るであろう。』

 バラムの預言は、モアブ王バラクの思惑とは全く逆に、モアブの滅亡とユダヤの隆盛を約束するものでした。


★この内容は、モアブ人は勿論、私たち第三者の耳にも、あまり、聞こえの良い響きではありません。あまりに血なまぐさく、残酷な気がします。しかし、神さまの言葉ならば仕方がありません。私たちに抵抗できるものではありません。また、ユダヤ人にとっては、拍手喝采を上げるべき内容です。

 ところで、この預言が成就するのは、17節、

 『わたしは彼を見る、しかし今ではない。わたしは彼を望み見る、しかし近くではない。』

 遙か未来のことです。ユダヤに救世主が誕生するのは、バラム・バラクの時代から、1000年以上も後のことです。

 そして、時代の隔たり以上に、内容の隔たりがあります。


★救世主は、確かにバラムの預言の通りに、ユダヤの民を救うべく登場します。

 マタイ1章21節、

 『彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。

  彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。』

 しかし、救いとは、必ずしも、他の民族をうち破り、支配するという意味ではありませんでした。『彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。』この表現に既に暗示されているように、ユダヤの民の悔い改めを説くものでした。

 彼は、ルカ福音書に拠れば、大勢の神の軍隊を伴って、誕生します。しかし、この軍隊は、武器を持たず、讃美歌を歌います。


★ルカ福音書2章10節以下。

 『「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。

  きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。

  このかたこそ主なるキリストである。あなたがたは、

  幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。

  それが、あなたがたに与えられるしるしである」。

  するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、

  御使と一緒になって神をさんびして言った、

  「いと高きところでは、神に栄光があるように、

  地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。』

 ここでも、讃美の礼拝が持たれます。平和の歌が歌われます。

 ここでも、神さまの時間は、人間の時間を遙かに超えています。神さまの計画は、人間の思惑を遙かに超えています。


★ 東の博士たちは、先祖から星の言い伝えを受け継いで来た人たちでした。その発端は、イエスさまの誕生から遡ること、4000年です。王を意味する木星と、地の果てを意味する土星が会合する時、地の果てパレスチナに、新しい王が誕生するという預言・信仰は、4000年間、伝えられ続けました。

 イザヤが平和の王の預言を伝えてからでも、800年の月日が流れていました。彼らは、星を望み、星の時間を生きたのです。

 先週の聖書研究祈祷会、この言葉が与えられました。ペトロ二 3章8節です。

 『愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。

   主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。』

 私たちも、礼拝を守り、聖書の言葉に聞き、神を讃美して、平和を祈るならば、星の時間を生きることが可能です。

 クリスマスの礼拝の蝋燭は、星の象徴です。沈黙して、神の言葉だけを聞き、雑念を追い払って、平和を祈るべき時です。祈りの中にこそ、『星の時間』があります。