日本基督教団 玉川平安教会

■2022年11月27日 説教映像

■説教題 「イエス誕生の次第

■聖書   マタイによる福音書 1章18〜25節 



★ 自分の婚約者が、誰のものとも知れない子供を妊娠したと言う、あまりにも辛い出来事に、ヨセフは、夜眠れない程に苦悩します。当然でしょう。愛する者に裏切られたと言う絶望、得体の知れない男に対する嫉妬、自尊心の崩壊、そして、やがてやって来る世間の人々の同情の眼差し、蔑み、こう言ったことを考えたらば、眠れなくなるのも、仕方がありません。マタイ福音書は、そんなヨセフの胸中を子細に描くことはしませんが、19節20節の簡潔な表現でも充分に察しがつきます。


 ヨセフは苦悩の中で、一つの結論を出しました。それは、自分の利益や面子を考えてのものではありません。むしろ、自分を裏切ったマリヤの利益・世間体を優先させました。


 『夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、


  ひそかに離縁しようと決心した。』


 聖書は、あっさりと何事でもないかのように記しているだけですけれども、この結論に至るまでのヨセフの懊悩は、いかばかりであったか。



★ところで、『ヨセフは正しい人であったので』と言う箇所は、すんなりとは読めません。何故なら、『公けになることを好まず、ひそかに離縁』する、これは、表面的に見れば、律法に違反する行為です。重大な違反行為とさえ言えましょう。


 申命記22章21〜22節には、このように記されています。


 『その女を父の家の入口にひき出し、町の人々は彼女を石で撃ち殺さなければならない。  彼女は父の家で、みだらな事をおこない、イスラエルのうちに愚かな事をしたからで    ある。あなたはこうしてあなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。』


これが律法の規定です。ユダヤ教では、この規定を守るのが、正しい行為・人です。


 そこで、『ので』に当たる接続詞を、通常とは逆に取って、『にも拘わらず』と翻訳するのが正しいと唱える学者がいます。どうでしょうか。『ヨセフは正しい人であったにも拘わらず、彼女のことが公けになることを好まず』何だか、別の響きを持ってしまいます。


 私は、このまま、『ヨセフは正しい人であったので』と言う翻訳が良いと考えます。そしてその意味合いは、ヨセフは、自分を裏切った者のために、律法に違反して、彼女を救う決断をした、その行為を、聖書は敢えて「義しい」と表現していると読むべきでしょう。



★ もし、ヨセフがマリヤに裏切られたことによって傷付いた己の心と、己の名誉のことばかりを考え、怒りに身を任せていたなら、決して、天使の声を聞くことはなかったと思います。


 以前にも申し上げましたが、魔が差すという言葉が、あります。魔は、悪魔の魔と書きますが、実は、あいだ=間のことだそうです。一瞬の心の透き間に入り込んで来るのが魔です。これは、聖書の箴言ではありませんが、しかし、妥当するものがあると考えます。また、間は魔とは限らないと思います。


間が人を思いやる心である場合は、この心の透き間に、天使の声が聞こえて来ます。そして、怒りや憎しみ、欲望の場合には、悪魔がささやくのではないでしょうか。


 思い悩む人、苦しむ人、眠れない夜を過ごさなければならない人、しかし、その時に、悪魔の囁きを聞くか、天使の慰めの声を見出すか、これが、マタイの言う、正しい人と、正しく無い人との違い、分かれ目、でしょう。



★さて、天使から、ヨセフに告げられた告知の内容は、信じがたいものでした。


 『ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。


  その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。』


処女が聖霊によって妊娠すると言う、理性では何とも捕らえがたい事柄が、告げられます。そこで、昔から、これを信じられないと言って、躓く人があります。またその逆に、この奇跡に非常に魅力を感ずる人もあるようです。聖書に描かれる他のどんな奇跡よりも、清らかで、神々しい印象がするからでしょう。


 しかしながら、処女懐胎があり得るか無いかと言うことを、此処で議論しても仕方がありません。そも聖書は、このことに、つまり、有り得ない筈の事が実際に起こったと言うことに、強調点を置いていません。説得力をもって説明しようとはしていません。



★そうではなくて、聖書が強調したいのは、この点です。つまり、『聖霊によるのである』この言葉が、最大の強調点です。では聖霊がどうやって人間の娘を妊娠させるのか、そんな話ではありません。この出来事が、マリヤの裏切りによって起こったのでもなければ、他の男の介在があるのでもない。マリヤがキリストを妊娠する事が、聖霊の意志なのだ、一人の村娘が神の子を妊娠する事が、聖霊の意志なのだと強調しているのです。


この出来事の全体に、ひいて言えば、ヨセフの苦悩も、必然的なものである、決して偶発的なものではなくて、起こらなければならなかった事なのだと、言うのです。ここには、神の意志が働いている。意味がある。そのように、述べられているのです。



★一番簡単に言えば、産みの苦しみです。ヨセフは産みの苦しみを味わったのです。非常に不思議な事なのですけれども、マリヤへの受胎告知が描かれるのはルカ福音書であって、何故か、マタイ福音書には記されていません。マタイにはマリヤへの受胎告知はありませんし、そもマリヤは殆ど登場しません。まして、マリヤの産みの苦しみには全く触れられていません。マタイでは産みの苦しみをするのは、ヨセフなのです。


産みの苦しみ即ち、新しい何かが生まれて来るための苦悩です。新しい何かが生まれて来るためには、どうしても避けて通ることの出来ない、産みの苦しみが存在します。


 私たちの苦悩も、私たちの時代の苦悩も、産みの苦しみなのでしょうか。今、日本と言う国が味わっている苦しみは産みの苦しみなのか、それとも断末魔の喘ぎなのか、それが今、神さまによって問われ、裁かれようとしているのではないでしょうか。



★ 21節。


 『彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。


  彼は、おのれの民 をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。』


イエスという人名は、旧約聖書のヨシュアに相当し、『主は救う』と言う意味を持っています。モーセによって、出エジプトの出来事後のイスラエルを託された指導者がヨシュアでした。イエスという名前は、出エジプトの出来事そしてイスラエルの建国と重ねられているのでしょう。つまり、人々を罪から救い、神の国を建設する、人々を自由にする、それがイエスさまの使命なのです。


 


★22〜23節。


『すべてこれらのことが起ったのは、


  主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、


  23:「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。


  その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。


  これは、「神われらと共にいます」という意味である。』


この箇所だけを読んでは、前後のつながりも分かりませんし、何のことやらさっぱり分かりません。少しマタイから脱線しても、説明が必要でしょう。インマヌエルという言葉について、なるべく簡単に説明致します。


 インマヌエルと言う預言が初めて語られるのは、イザヤ書7章です。


今この時、シリア・エフライムの連合軍がエルサレムの都に迫っています。国の命運が定まらず、王も民も、正に『風に動かされる林の木のように』動揺しています。人々は、何とか、国家と民族を生きながらえさせるための術、徴を、見付けようと必死になっています。そのための具体的方策を巡って、党派が生まれ、四分五裂の有様でした。


 しかし、王アハズは、自分で決断するのが怖く、状況が変化するのを待っています。このような切羽詰まった状況で、手をこまねいていて、事態が好転するなどと言うことは有り得ません。どんどん悪くなる一方です。



★アハズの選択は最も安直な物でした。決断を回避して、選択肢が狭まり、否応無しに答えが与えられるのを、唯、待っているのです。


 待っているのには、もうひとつの理由が存在します。あわよくば、この動乱に乗じて、兄弟国イスラエルの国土が自分のものとなるかも知れないという欲です。


実際、アッシリアが参戦し、シリア・エフライム連合と正面から衝突し、ユダは漁夫の利を得る格好で、イスラエルを占領しようと考えます。しかし、この目論みは外れ、アッシリアは、連合軍を簡単に蹴散らした後、その全軍で、ユダに攻め入ります。



★戦争という国家の危機は、また、千載一遇のチャンスでもあります。しかし、決断を回避することしか知らなかったアハズに、チャンスなどは存在しません。イザヤ7章14節。


 『それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。


  見よ、おとめが みごもって、男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。』


 イスラエル・ユダのために新しい本当の王が与えられるというこの預言は、二重の意味を持っています。つまり、新しい王が誕生するとは即ち、古い王は廃され、王家は廃れるということであり、その王の下にある国家の体制は崩されるということです。


 乙女がという表現は、後々いろいろな問題を生みますが、第1に強調されていることは、処女がどうのこうのというような事ではありません。新しい王が、女王や王女の腹から生まれて来るのではないという意味です。従来の王や貴族や軍人・そして祭司階級からは、新しい王・キリストは生まれて来ないという意味です。



★そして、一方、これは、インマヌエル、今日のマタイのクリスマス物語に引用されていますように、神が我らと共にいますという意味であり、滅びの後の回復、救いを約束するものです。


つまり、「インマヌエル=神が我らと共にいます」という約束・しるしは、或る者にとっては、滅びの預言であり、また或る者にとっては、救いの預言です。


 そんなに難しい論理ではありません。要するに、神を求めている者にとっては救いの預言であり、神を拒む者、ここで神に登場されては具合が悪いという者にとっては、滅びの預言なのです。



★ マタイ福音書に戻ります。24節。


『ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。』


ヨセフは、苦悩の中で、マリヤを庇うと言う、苦しい決断をしました。しかし、そのようなヨセフだから、また、天使の預言を受け入れることが出来ました。苦悩の中に沈み込んでしまって、自分では決断出来ずに、成り行きに委ね、結果的に、マリヤの身の上を、村の長老会による裁判に引き渡すような、もしヨセフがそんな人であったとしたら、天使の預言をも、決して受け入れることは出来なかったでしょう。


 


★ 『インマヌエル=神が我らと共にいます』


 時代の苦悩と真っ正面から向き合い、そうして初めて、天使の声を聞くことが出来るのです。そして、この産みの苦しみが無ければ、未来は開けません。私たちの教会についても、教団についても、全く同じことが宛て嵌ります。


 今私たちには、苦しみがある、この苦悩の中で祈り、天使のお告げを聞くか、それとも、悪魔の囁きを聞くのか、道は二つに分かれてしまうのです。



★ 最後に、25節。蛇足とも見えます、と言ったら怒られるかも知れませんが、何だか、そんな気さえ致します。が、読みましょう。


 『しかし、子が生れるまでは、彼女を知ることはなかった。


  そして、その子をイエスと名づけた。』


天使のお告げは成就し、男の子が産まれた、そうして、天使のお告げに従って、イエスと名付けられた、これで良いのに、ローマ・カトリックは、余計な事を言いまして、と言うか、無理な解釈をして、マリヤさんは、結婚して後も、生涯処女であったと言います。


普通に読めば、『子が生れるまでは、彼女を知ることはなかった』つまり、性的な関係を持たなかった、だから、その後は、性的な関係があったとなります。にも拘わらず、ローマ・カトリックは、マリヤが生涯処女であったと主張します。


 その結果、聖書に登場する主イエスの兄弟、あれは、ヨセフの連れ子だと言うややこしいことまで言わなければならいことになりますし、それらの兄弟は、当然全員イエスさまより年上になります。そうしますと、使徒言行録に出で来る主イエスの弟で、エルサレム教会の指導者であったヤコブも主の弟ではなくて、兄だったことになります。


 聖書が言っていることと違うし、意味がありません。しかし、こういう無意味な、拘り、根拠のないマリヤさんとクリスマスの美化が、今日の、イエス・キリスト不在のクリスマスを造って行ったのだと思います。


 日本中でクリスマスのお祝いがあり、皆が浮かれている、しかしそこには、キリストは、いません。そも、必要ともされていません。一言で言えば、偽クリスマスです。



★本当の、クリスマスの意味は、苦悩する者と共に、苦悩する時代と共に、神は居て下さると言うメッセージ、このメッセージに対する信仰です。


 私たちは、私たちの時代は孤独ではありません。私たちの時代の苦悩は、無意味なものではありません。今、新しく、生まれ出ようとするものが存在します。そのための苦悩、産みの苦しみなのです。