日本基督教団 玉川平安教会

■2022年8月21日 説教映像

■説教題 「顔を見苦しくするな

■聖書   マタイによる福音書 6章19〜21節 


★随分昔に、こんなニュースを聴いたことがあります。一人暮らしのご老人が亡くなりました。狭い家に一人で住み、貧しい暮らしをしていましたが、孤独死し、警察が調べた結果は、何ら事件性はなく、老衰に近い病死でした。そこまでは珍しくもない話で、ニュース性はありません。

 ところが、居間の天井裏から大金が見つかったのです。昔の話ですから、金額は忘れましたが、4000万円だったかと思います。それだけのお金があれば、もう少し裕福な暮らしが出来たでしょうが。やはり老後の心配からでしょうか。節約に節約を重ね、天井裏にため込んでいました。

 そして、そのお札は、ネズミに食い散らかされて、ネズミの巣にされていました。

 ネズミに食われているのに気づかずに貯めていたのか、もっぱら死後に囓られていたのか、詳しいこと、正確なことは分かりません。


★正確なことを知りたいと、ネットに頼りましたが、正確な日付も忘れましたから、調べることは出来ませんでした。しかし、似たような話が、今日でも繰り返し起こっていることが分かりました。中国には、今の話をそのままなぞったような記事がありました。

 ネズミに囓られたお札は、お札として痛痒するのか無効なのかという点に感心がある記事でした。


★これは漫画的な程に、典型的な出来事です。人の死が絡んでいるのに、滑稽だという感想が、先に立ちます。

 4000万円のお金を正しく使っていたら、もう少しゆったりと生きられたでしょう。そのお金で療養したら、もう少し健康で長生きできたでしょう。天井裏にお金を隠し貯め込む人生は、滑稽であり、かつ惨めです。

 しかし、一方で身に詰まされます。我がことでもあります。老後、何一つ心配ない蓄えは、どのくらいの金額になるのでしょう。なかなかそれだけの蓄えは出来ません。それこそ、身を粉にして、働きづめに働かなくてはならないかも知れません。健康を損ね、死期を早める程に。


★お金で心配を全く拭うことは出来ません。お金があれば、先端医療も受けられますが、臓器移植はどうでしょうか。少なくとも、臓器をお金で買ってはならないでしょう。

 フィリピンなどで臓器を買う日本人がいるというニュースもありました。その当人ではありませんから、安易に批判は出来ませんが、結局、お金で命は買えません。人生そのものを買うことは出来ません。

 お金で命を買う話が、小説の世界にはあります。複数あります。無数と言っても大げさではありません。その粗筋さえ紹介する必要はありません。結局は似たり寄ったりです。お金で買った人生、買えた人生は、所詮自分の本当の人生ではありません。

 他人の命を買うことは出来ませんし、買ってはなりません。


★シュテンファン・ツヴアイクに、『見えざる蒐集』という短編小説があります。目に見えないコレクションです。これは、粗筋と言うよりも、落ち、ネタばらしを話します。

 戦後、ヨーロッパの美術品、絵画がナチによって盗まれ、名作がちりぢりになってしまいました。ところが、ある個人蒐集家が、とてつもない作品を所蔵しているという噂が伝わってきます。主人公の語り手は、苦労してこの人の元に辿り着き、たくさんの絵画を見せて貰います。収集家は、情熱を込めて、作品を語り、時にそれを入手するためにどんなに苦労したかを語ります。

 ところが、作品はどれもこれも、一目で贋作と分かる粗末なものでした。収集家は目を病み、視力が殆どありません。

 絵の値打ちも分からない家族が、売り払い、偽物を飾っていたのでした。

 しかし、彼は自分が目で見て感動し、大きな犠牲を払って手に入れた名画の世界に生き、そこに浸りきっているのです。


★19節。

 『「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、

   さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。』

 全くその通りだと、多くの人が感じています。『地上に富を積んではならない』とは、ギリシャ語原文ではなどと細かいことを言う必要もありません。『積んではならない』と言うよりも「積んでも意味がない」「積んでも役には立たない」という意味合いです。

 日本の国でさえ、何度も繰り返されたことです。貯金がただの紙切れに変わる体験をして来ました。もしかしたら、今もそうかも知れません。高齢化社会の年金問題を初めとする財政危機を救う、手っ取り早い道は、物価の高騰です。数年の内に物価が倍になれば、実質的には年金は半分になりますし、高齢者がせっせと貯めた預金額も半分になります。

 しかし、多くの堅実な日本人は、それでは貯蓄は止めようとは言わないでしょう。残り少ない人生、貯金を使い果たして、贅沢をしようとは考えないでしょう。むしろ、不安が増しますから、これまで以上に倹約し、老後の備えに当てようと思うでしょう。

 私は経済学など音痴に等しいので、学問的なことは何も分かりませんが、今申し上げたことは、かなり蓋然性が高いと考えます。


★20節。

 『富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、

   また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。』

 この通りですが、現代のそれも日本という文脈で、ややこしい話になってしまいます。

 ややこしいことから先に話しますと、何しろ統一原理問題があります。彼らは、全然金銭的な価値のない壺などを、とてつもない金額で売りつけます。印鑑も買わせます。いわゆる霊感商法です。これを買わなければ、特に、先祖の祟りがあると言います。先祖の祟りがあると言うのは、原理の専売特許ではありません。普通のお寺でも言われてきました。

 松江の藩侯の菩提寺、つまり、松江では一番格式のあるお寺で、亡くなった人の名前が札になって、本堂に貼られています。そこには、没年月日と、その後の法事が行われるべき日付が記されています。

 この法要が終わらないと、札は下がったままです。無言の圧力です。世間体を気にして、法事をお願いしないではいられない仕掛けになっています。


★私は、個人的意見かも知れませんが、この先祖の祟りがあると言うことに反発を感じます。孫子が、子孫が、法事をしてくれないと祟るのですか。ろくな先祖ではありません。

 もし、私がご先祖様になって、自分の孫子、子孫を天から見るのだとしたら、地上に暮らす子孫の幸福を願い、見守ります。誰でもそうでしょう。無駄な法事に大金をかけるくらいなら、子どもの学資にしなさい、あなたの老後に備えなさいと、私なら願わずにはいられません。誰でもそうでしょう。

 それを、法事に不満がある、仏壇が粗末だから祟るとしたら、それは、とんでもないご先祖様です。そんなご先祖様ならば、早く、永久に、地上に現れないように、供養し、全てのものを焼き捨てるのが正しいかも知れません。 … これはジョークです。実際にそのように説得し、ご先祖様を文字通りに葬る儀式を行う宗派があります。原理もこれをします。それこそが霊感商法です。


★これで話が終わっては、半端になりますので、蛇足覚悟で付け加えます。世間の人は、キリスト教はご先祖様を大事にしない、葬儀も法事も簡略粗末だと思っている人が多いようです。教会員の中にもそう考える人があります。それは大いなる誤解です。

 大事に思う事柄が、大事に守り続ける物事が違うだけです。

 この際に、脱線でも申しますが、キリスト者だって、亡くなった家族への思いは変わりません。仏壇は普通ありません。しかし、メモリアル・キャビネットがあります。ここに写真を飾り、個人が愛用した聖書や讃美歌を置く人があります。仏壇みたいだと批判する向きもありますが、私は、そんな批判は当たらないと考えます。人は、その思いを表すのに、何かしらの形を求めます。

 偶像崇拝と言えば、その通り偶像です。だから、仏壇もメモリアル・キャビネットも要らないでしょう。まして豪華絢爛なものである必要は全くありません。しかし、要らないのは、亡くなった人への思いではありません。


★大曲教会のあるご婦人は、亡くなった夫の写真を一枚残らず、しまい込んでしまいました。全く見ません。いわゆる命日に当たる日に、家庭集会を持ちましたが、故人の写真はありません。写真を見ると涙がこぼれて仕方がないからだそうです。

 この家には仏壇もメモリアル・キャビネットも、何もありません。しかし、この夫人の心の中には、絶対に忘れようにも忘れられない夫の思い出が生きているのです。

 真逆の例があります。故人が暮らしていた部屋を、何年も何十年もそのまま残し、たくさんの写真を飾っている人があります。これは数件知っています。


★仏前にご飯を供えるのも、仏教では当たり前、キリスト教では禁じられていると考える人があります。私は、何も悪いことではないと思います。何か美味しいものを食べると、亡くなった人のことを思い出します。

 私は上等なウイスキーを口にすると、必ずと言って良いほど、父のことを思い出します。安い焼酎ばかり飲んでいました。もっと上等のものを飲ませたかったと、つい考えてしまいます。

 ですから、毎日、仏壇に供え物をすること自体が悪いことだとは、私は思いません。花を飾るのもそうです。

 悪いのは、それをしないと祟りがあると教えることであり、祟りを鎮めるためには、かくかくの儀式、献金が必要だと教えることです。


★21節。

 『あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。』

 ここが今日の御言葉の中心点だと思います。これは、24節と一緒に読んだ方が分かり易いでしょう。

 『「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、

   一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。

   あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」』

 この言葉が教えるのは、要するに、お金を使うところに、その人の本音が現れると言うことでしょう。その通りです。この人はどういう人なのか、何をしたいのか、何に価値観を置いているのか、更に言えばこの人の正体はどこにあるのか、それは、この人が何にお金を使うかを見れば分かります。

 

★しかし、これを根拠にして、「だから献金しなさい、献金であなたの信仰の程度が分かります」と言う人はただの嘘つきです。インチキ宗教です。

 勿論、逆もまた言えます。「信仰はあるが献金は出来ない、お金がないから」と言う人がいたら、それは仕方がありません。ないものは仕方がありません。しかし、そう言っていて、教会の帰りに高いワインを買うようなら、これはやはりただの嘘つきで、インチキ信仰です。


★以前にした話ですが、最も説得力があると考えますので、繰り返しお話しします。

 エリナー・ファージョンの童話の一編です。

 一人の老人に幼い孫娘がいます。二人には他に身よりはありません。老人は、孫娘の将来を案じます。少しでも多くの財産を残してやりたいと願い、懸命に働いて来ました。ために、他の者には辛く当たります。小作には優しくありません。借金の取り立ては厳しくします。貧しい者、病人にも恵むことはありません。

 そのことに心を痛めた孫娘は、ある時、祖父に希って、目の前の惨めな者に施しをします。孫娘は、贅沢な食べ物も着物も望みません。ただ、祖父が貧しい者を労った時だけ、笑顔を見せます。老人は、この不幸な境涯にある孫娘の笑顔見たさに、次々と施しをするようになります。

 老人が亡くなった時、財産は使い果たされていました。孫娘は、無一物の孤児となりました。しかし、村人は恩を忘れず、皆が力を合わせて、この娘を慈しみ育てました。


★現実世界では、なかなか、この物語のようには運ばないかも知れません。しかし、ここにこそ、キリスト者の信仰があります。『天に宝を積む』とは、このことです。

 免罪符ではありません。天国貯金でもありません。

 アメリカでは、月の土地が売られており、天国も分譲されているそうですが、それは全くインチキです。しかし、『天に宝を積む』ことは可能です。

 目には見えない絵画を鑑賞している男の話をしました。しかし、この人には、見えているのかも知れません。かつて自分の目で見て感動した絵を、心の目で見ているのかも知れません。それこそが、ナチにも奪われない、戦火でも焼かれることがない、名画です。

 信仰こそそうでしょう。お金では買えません。また、お金には換えられません。もっと遙かに値打ちあるものです。それを売りだしている人は、勿論インチキです。

 お金でイエスさまを売ったのは、イスカリオテのユダです。