日本基督教団 玉川平安教会

■2022年2月20日 説教映像

■説教題 「死に至らない罪、死に至る罪

■聖書   ヨハネの手紙一 5章13〜20節

◇14節から読みます。

 『何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる』

 『何事でも』とあります。何事でも、どんなことでも聞いて貰えるのでしょうか。お金が欲しい、大学に合格したい、結婚したい、病気が治るように… どんなことでも聞いて貰えるのでしょうか。どうも、そうはいかないようです。

 『神の御心に適うことをわたしたちが願うなら』です。あくまでもこの前提で、『何事でも〜神は聞き入れてくださる』です。

 これでは、結局条件付きではないでしょうか、『何事でも』と言うのは嘘になってしまうのではないでしょうか、インチキではないでしょうか。

 

◇4コマ漫画の中で、悪魔との取引の場面が描かれます。

 悪魔が言います。願い事を三つ叶えてやろう。

 本当ですか。 

 本当だ。質問に一つ答えたから、願い事は、これで一つ終わり。

 えっそんな馬鹿な。

 そんなことはない。 疑問に一つ答えたから、これで二つだ。

 えっ未だ本当に願いごとなんかしていないのに、慎重にしなくちゃちょっと待って。

 待ってやろう。 三つ叶えた、これでおしまい。


◇4コマ漫画も進化しました。今では、

 悪魔が言います。願い事を三つ叶えてやろう。

 それでは叶えられる願い事を、10個に増やして。

 または、おまえの力を全部よこしなさい。


◇まともな信仰者ならば、そもそも、そんなことをお願いしないだろうとは思いますが。

 『何事でも』とは、どんな類のことでもという意味ではありません。どんなに沢山のことでもという意味でもありません。

 『神の御心に適うことを〜願うなら』と限定されています。

 これは条件と言えば条件でしょう。神の御旨に従って願い求める、神さまが与えようとしているものを求めた時、そういうことになります。それを、条件だと取ればその通りです。限定だと取ればその通りでしょう。

 しかし、表現を変えれば、神さまが、手を延べ差し出していて下さるのです。人間が、受け取るために、手を出しさえすれば、それは手に入るのです。


◇もう一度14節。

 『わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、

  神に願ったことは既にかなえられていることも分かります』

 『願い事は何でも』、『何でも』というよりも、むしろ、一番大切な願い事でしょう。

 100の願いごとの内、99が叶うよりも、一番大切な願い事一つが叶うことが、私たちの真の望みです。

 マタイ福音書6章。

 『31:だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、

  思い悩むな。

 32:それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、

   これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。

 33:何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。

  そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。』

 たくさんの事を願うのは信仰者の祈りではありません。本当に必要なものを祈り求めるのが信仰者の祈りです。


◇祈りも人間の言葉ですから、整った祈り、厳かな祈り、心のこもった祈り、熱烈な祈りと、いろいろあります。しかし、そのようなことが、肝心なことではありません。 … 真剣に祈りなさい、それでも祈りが叶えられないのは、祈りが足りないからです。それでも祈りが叶えられないのは、献金が足りないからです。献金が足りないのは、心が信仰が足りないからです。もっと祈りなさい。もっと献金しなさい。そうすれば必ず叶います … しかし、それは嘘でしかありません。アメリカ南部の教会や韓国では、牧師がそのように言うそうです。もっぱら小説を通して知るだけですが、そんな牧師が少なくありません。そして、そんな牧師の教会こそが、多くの人間を集めています。

 私にはそんな説教は出来ませんが、負け惜しみではなくて、そんな説教はしたくもありません。そんな祈りが、『神の御心に適う』祈りだとは、とても思えません。


◇整った祈り、厳かな祈り、心のこもった祈り、熱烈な祈り、結構ですが、これが絶対に必要な祈りではありません。そもそも心のこもった祈り、熱烈な祈りは、なかなか、整った祈り、厳かな祈りにはなりません。アメリカ南部の教会や韓国では、とにかく熱心な祈りを強調しますが、熱心とは何の熱心でしょうか。自分の欲望を叶えようとする熱心さでしかありません。それでは、『神の御心に適う』祈りだとは思えません。


◇本当に必要なもの、是非とも祈り求めるべきもの、ヨハネにとって、それは11〜12節に記されています。

 『その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、

  この命が御子の内にあるということです。

 12:御子と結ばれている人にはこの命があり、

  神の子と結ばれていない人にはこの命がありません』

 神が下さった『永遠の命』を、何よりも大切なものと思い、これを祈り求めるのがヨハネの信仰です。

 『永遠の命』と言うと、何かオカルト的なものを連想する人が少なくないでしょう。信仰と言い換えても、救いと言い換えても良いかも知れません。それこそが、『永遠の命』なのです。

 

◇『永遠の命』とは何か、何をどうすれば『永遠の命』を手に入れることができるのかと、大上段に構えても、なかなか、説得力のある説明はないでしょうし、オカルト的になってしまうでしょう。

 しかし、この11〜12節が、もっとも有力な説明なのです。

 一番簡単に言えば、イエス・キリストを信じているということです。この信仰の内にこそ、『永遠の命』があります。少なくとも、この信仰のない所には、『永遠の命』はありません。


◇11節の『この証』とは、9節後半にあります。

 『わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。

   神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです』

 十字架と復活の出来事、神がなさった業、これが即ち証しです。

 福音書等に記されているイエスの十字架の出来事、これを信じるか、受け入れるか、それとも信じられず受け入れられないか、これが信仰的な命のあるなしです。

 このことを受け入れないという人と、話し合う余地は全くありません。


◇12節をもう一度読みます。

 『御子と結ばれている人にはこの命があり、

  神の子と結ばれていない人にはこの命がありません』

 この人が、熱心な学びや修行によって、何かを獲得したとかではありません。『結ばれている』かどうか。くっついているかどうかです。

 教会に『結ばれてい』なければ、くっついていなければ、この人に、信仰の力はありません。勿論、くっつきかたはいろいろでしょう。


◇15節の後半を読みます。

 『神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。』

 これはごくごく単純に読めば、『願い事は何でも聞き入れて』貰えるのだから、『願ったことは』その瞬間にも『既にかなえられている』となります。

 しかし、これも当然『神の御心に適うことをわたしたちが願うなら』です。何でもかんでもではありません。

 『神の御心に適うことを〜願う』ことが、既に信仰なのです。だだ、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と、贅沢を求め、それが叶うように祈ることは、信仰でも何でもありません。

 『それはみな、異邦人が切に求めているものだ』。異邦人の祈り、信仰を持たない者の祈りでしかありません。日本人の初詣の祈りと同じでしかありません。


◇16〜17節も、以上のことを前提にして読まなくてはなりません。キルケゴールの言葉と言いますか、本の題名によって、あまりにも有名な言葉です。私の年齢世代の者は、誰でもキルケゴールとドストエフスキーをむさぼるように読んだものです。私は、既に人気凋落傾向にあったトルストイに一所懸命でしたが、それでも、当時秋田の田舎で手に入るものはほぼほぼ読みました。残念ながら、キルケゴールは全然理解も共感も出来ませんでした。ドストエフスキーも、幾つかの即品、幾つかの場面には強い刺激を受けましたが、とても理解したなどとは言えません。恥ずかしくて言えません。


◇ですから、今日の説教題から、キルケゴールの言葉を連想し、そのような話を期待した方には申し訳ありません。全く期待を裏切るでしょうが、キルケゴールの話はしません。聖書そのものの話だけにします。

 16節前半。

 『死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい』

 16節後半。

 『死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません』

 『死に至らない罪』と『死に至る罪』があります。一ヨハネは、二つにはっきりと分けています。


◇両者の違いは何でしょうか。程度と受け取るのが普通でしょう。しかし、そんな当たり前すぎることが聖書で問題になる筈がありません。キルケゴールの言葉に繋がる筈もありません。軽い重いよりも、質でしょう。

 取り返しが付く、取り返しがつかないということは、重要でしょう。分かり易く言えば、罰金で済むか、お金では済まないか、これは重要でしょう。物損事故なら、所詮、お金だけの問題です。人身事故となると、怪我の程度、特に後遺症の問題があります。死亡事故なら、正に取り返しが付きません。

 どんなに重大事故でも事故は事故、仕方がないという言う場合もあります。

 必ずしも、損害・被害の程度ではなく、赦されざる罪、赦される罪ということはあります。

 一方で、第3者にはほんの些細なこととしか聞こえない心ない言葉が、人の魂を傷付け、深手を負わせ、時に命取りとなる場合もあります。虐めやパワハラ、モラハラなどは、これに該当するでしょう。

 このような罪の程度、性質、賠償の可不可などに対応して、『死に至らない罪』と『死に至る罪』があるのでしょうか。有るかも知れませんが、一ヨハネが言いたいのはそんなことではないでしょう。


◇もう一度読みます。16節前半。

 『死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい』

 16節後半。

 『死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません』

 それぞれの末尾が大事です。『その人のために神に願いなさい』『神に願うようにとは言いません』。考え方を逆にすれば理解出来るように思います。『その人のために神に願』うべきなのが、『死に至らない罪』、もはや祈ることも出来ないし、祈るべきではないのが、『死に至る罪』です。


◇『死に至らない罪』と『死に至る罪』があると言いながら、一ヨハネは、明確に両者の違いを説明しませんし、具体的な事例を挙げません。明確にはなっていません。解釈の余地を残します。それでは一ヨハネの言葉は、あまり意味がないのかそんなことはありません。人が犯す罪の中でも、『死に至らない罪』と『死に至る罪』があるという指摘そのものがとても大切なことです。私たちは、それを踏まえて、一つ一つの事柄に一人ひとりに対処しなくてはなりません。

 赦すべきことと、赦してはならないことがあります。


◇18節以降も、突然として新しいことである筈がありません。世の中に対してこそ、教会には、容認出来ること、容認してはならないことがあります。人に対しても同様です。