今日のこの聖書個所を読んで、どんなふうな感想を持たれるでしょうか。嫌悪感を覚える方もあるかも知れ ません。その嫌悪感は良く分かります。当然とさえ思います。 もし、今日初めて礼拝に出て、初めてこの箇所を読んだとしたら、「ここは、私の来る所ではなかった。」と思う 人がいてもおかしくありません。 逆に「我が意を得たり」と言う人もあるでしょう。決して少なくないでしょう。 違和感を強く覚えるけれども、「聖書なのだから、受け止めなければならない。」と考える人もありますでしょ う。こういう人が一番多いかも知れません。 「聖書の1節なのに、『嫌悪感は良く分かります。』」と平気で言う牧師に、躓きを覚える人もいるかも知れま せん。なかなかに難しい箇所です。 席を蹴って立ち、二度と帰って来ない人が出ないように、最初に申します。 全部読み替えたらいかがでしょう。18節。 『妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。』 この妻と夫を入れ替えます。 『夫たちよ、主を信じる者にふさわしく、妻に仕えなさい。』 その後も、全部同じように入れ替えます。 『夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない。』 この妻と夫を入れ替えます。 『妻たちよ、夫を愛しなさい。つらく当たってはならない。』 これなどは、現代に合致しているのではないでしょうか。 夫たちの中に、「その通りだ」と思う人がいるでしょう。 以下も同じことです。20節。 『子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。』 『両親たち、どんなことについても子供に従いなさい。それは主に喜ばれることです。』 これも、後の方が、現代的だと思います。現代には、このような親が少なくありません。 21節は、より現代の課題に添っているでしょう。 『父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです。』 『子どもたち、父親をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです。』 子どものことで『いらだち』『いじける』父親は、少なくありません。 奴隷と主人の関係についても同様です。このことには、後でまた触れます。 さて、ここまでで、却って、欲求不満がつのった人もあるかも知れません。 ある人は、「牧師が聖書を解釈するまでは良いとしても、言葉を入れ替えたり、意味を逆にしたりするのは、 不遜ではないか。」と、考えるかも知れません。 またある人は、「言葉を入れ替えなければならない程に、聖書は理不尽なことを言っている。」と、思うかも知 れません。 これは、とても大事な問題です。聖書とは何か、パウロの手紙が、何故聖書なのかという根本的な問題で す。 「聖書は、聖書として、一字一句そのままに聞き、そのままに行うべきだ」と主張する人がいます。成る程その 通りかも知れません。 人間が勝手に解釈したり、まして、聖書の主張・結論を変えたりしたら、聖書の尊厳が損なわれるかも知れ ません。 一方、「誤解を許さない文学は、優れた文学ではない。」という言葉があります。有名な文芸評論家だったこ とは確かですが、調べても分かりませんでした。 誰が言ったにしろ、正しくその通りだと思います。誰が読んでも同じ感想、同じ理解などという文学作品はあり ません。もし有ったとしたら、つまらない文学でしょう。 聖書だって同様です。聖書こそ、誤解を許さない文章ではありません。 律法は、誤解を許さないのかも知れません。解釈の余地はないのかも知れません。 本当に、そうでしょうか。ユダヤ教には、律法解釈を巡る扮装の歴史があります。 聖書を律法・法律のように読む人がいます。そのような立場があります。先ほど上げました「聖書は、聖書とし て、一字一句そのままに聞き、そのままに行うべきだ。」と主張する人」の見解、立場です。 しかし、そういう人は、旧約の律法を遵守して生きているのでしょうか。豚肉やエビ・カニの類いは一切食べ ず、ウナギも食べず、頭にも髭にもカミソリを当てず、土曜日は安息日として一切の仕事をせずに、現代社会で 生きられるものでしょうか。 厳密には、安息日に仕事をしないだけでは、遵守とは言えません。安息日にも、誰かが働いて成り立っている 電気や水道は使えません。 イスラム原理主義者や、ユダヤ教オーソドックスには、そんな人もいるかも知れません。しかし、マカベア戦争の 時、安息日には武器を置いたとあります。イスラム原理主義者や、ユダヤ教オーソドックスも、そ駒で、徹底して 律法を、或いはコーランを守るのでしょうか。そうではないようです。キリスト教ではどうでしょうか。 聖書を律法的に理解し、一字一句の励行を迫るファリサイ派について、イエスさまは、どう仰ったでしょうか。 無数に例を挙げることが出来ますから、省略しますが、イエスさまは、このようなファリサイ派的、教条主義を 鋭く批判しておられます。 そして、逆に、律法の一字一句も廃ることはないという趣旨のことも、仰っています。 聖書を読むとは、一字一句、神の言葉、と言うよりも、律法として聞き、守るということではありません。 真に聞くならば、それを、そのままには聞けない現実をも踏まえて、いろいろと考えを巡らし、そして、神さまの 御心は、どこにあるのかと探ることです。 聖書に聞きます。そして祈ります。つまり、聞くことと語ることです。対話です。お祈りも、そもそも礼拝そのもの が、神さまとの対話です。 一字一句、神の言葉をと言う人は、表面的に見れば、如何にも信心深いようですが、そこには対話はありま せん。つまり、神さまはいません。 表面とは真逆に、そのような人の心には、神さまはいません。絶対の律法が有れば、神さまは要らなくなりま す。絶対の聖書があれば、神さまは要らなくなるでしょう。 話は、より根本的なことに遡ります。 一字一句主義者にとって、聖書とは何でしょうか。その聖書を見せて貰いたいと思います。本屋さんに行けば 売っているでしょうか。そんなものはありません。存在しません。 有るのは、いろんな翻訳です。翻訳の元になった聖書も、厳密には存在しません。翻訳の元になった聖書 も、いろいろな断片の寄せ集めであり、その写本です。 『聖書は、神の霊感により』と私たちも信仰告白しています。しかし、その『神の霊感により』出来た本は、現 在、一冊も存在しません。全て写本であり、翻訳です。 これ以上話を拡げる必要はありません。全く解釈の余地がない聖書など、どこにも存在しません。そもそも、 パウロの手紙は、旧約聖書等の解釈の上に成り立っています。 一コリント10章15節。 … わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。 わたしの言うことを自分で判断しなさい。… 一コリントがそもそも聖書になっていますが、『わたしの言うこと』つまり、聖書の1節を、『自分で判断しなさい』 とパウロは言います。つまり、解釈しなさいと言っています。解釈することこそが、聞くことであり、受け入れることで す。解釈なしに、アーメンとは言えません。 同じ一コリント10章9〜10節。 … モーセの律法に、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。 神が心にかけておられるのは、牛のことですか。 10:それとも、わたしたちのために言っておられるのでしょうか。 |