今、わたしたちはイエス・キリストの誕生を祝い、クリスマス・イブ礼拝を守っているわけですが、このクリスマスは 何か煌びやかな、別世界の出来事ではありません。2000年前という時間の流れに、遠い世界のことだとの思 いを抱かざるを得ない部分はあります。しかし、どこかの漫画家や、クリスマスで一稼ぎしようと頑張っているディ レクターなどが描いた、聞く人に都合の良い、作られた物語ではありません。イエス・キリストの誕生、それは現 実の只中に起こった事柄なのです。 当時、ヨセフやマリアなどのユダヤ人たちはイドマヤ人の王ヘロデに支配されていました。更にその上にいるローマ 帝国が、属州の一つとしてユダヤ地方を支配していました。現代と比べるのは無理があるかもしれませんが、ロ ーマ帝国の倫理感はとてもひどいものです。不倫、不貞は当たり前、というかそのような認識すらなかったようで す。戦場で殺した敵兵や、捕らえて連れて来た捕虜を見世物にする。奴隷制度がある。挙げればきりがありま せんし、口にするのもおぞましいことがたくさんありますので、これ以上例をあげませんし、詳しくも話しません。そ のようなローマ帝国の支配の中、ヨセフたちには重い税金が課されていました。 そもそも、戦争で負けて支配されているユダヤ人です。当然、何不自由ない暮らしとはいかず、むしろ厳しい生 活を強いられるわけです。何の手立てもなく、不衛生な家畜小屋でイエス様を生んで、家畜が口を突っ込ん で食べ物を食べる飼い葉おけに、生まれたばかりのイエス様を寝かせるような二人です。裕福な家庭ではなか ったどころか、苦しい生活を送っていたのかもしれません。 このヨセフとマリアの立場や状況ですが、決して遠い世界ではありません。その当時の現実でした。現代はとても 便利になって、生活様式は大きく変化した現代であっても、不倫・不貞、他国からの支配、貧困、社畜、差 別、とてつもなく辛い現実があります。今、その只中にいる人も少なくありません。 少し話がそれるかもしれませんが、奴隷の状態にある人もいます。最近、といっても数年前からですが、「ビーリ アル」といったアプリが流行っています。突然のタイミングで知らせがきて、2分間以内に写真を撮らなければいけ ない、というものです。律儀にそれを守って、写真を撮れないタイミング、撮ってはならないタイミングでも、どうに かして撮りますから、もう、私にはついていけない世界です。そのような人たちを見ていると、「ビーリアル」に支配 されているのではないかと思うくらいです。金の奴隷、地位・権力の奴隷、果てはSNSなどの奴隷になっている 人も少なくない。消防団の奴隷になっている人もいるそうです。 話を戻しますが、ローマ帝国に支配されるユダヤ人として生きる現実の中で、婚約者と一緒になろうとしているヨ セフ。その現実の中で起こった出来事です。 18節<母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかに なった。>婚約者の、マリアの腹の中にこどもがいる。 19節<夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心し た。>「正しい人」とあります。ユダヤ教の規定で言えば、このような女性は石打ちの刑で殺されてもおかしくな い状況です。ここでの正しさとは、正義やルールを貫く、という意味ではなく、優しさや思いやりのことを指してい ます。表ざたになってしまえば、石打の刑でマリアが殺されてもおかしくはない。しかしそれは、ヨセフの良心に反 する。ヨセフはひそかに縁を切ることで、事を治めようかと考えていました。 20節<このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。>「このように考えていると」と簡単に書いてあ りますが、この短い単語の内に深い深い、ヨセフの苦悩があったかと思わされます。ヨセフは婚約者の腹の中に こどもがいる事実を知ったのち、眠れなかったのではないかと思います。考え、悩みすぎて、床に伏しても、自分 が寝ているのか考えているかどうかもわからない状態だったのではないか。起きていても、これが現実なのか、何 が夢で現実なのか、わからないほどの状態になって、何日も、何日も、苦悩を味わったのではないかと想像して しまいます。そしてついにはマリアとの婚姻関係を切ることで、事を治めようとの考えに至ったのでしょう。そのよう な中で、「主の天使が夢に現れて言った。」のでした。 20節の続き「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのであ る。>形容し難い苦しみの中で、ヨセフは天使を通して主なる神の声を聞いたのです。聖霊によって身ごもっ た、つまり神様の御心がこの出来事の中にあるのだと。自身の与り知らぬところで、許嫁であるマリアの腹にこど もが宿った。これは何か不慮の出来事ではない、神様の意図なさる事柄がここにあるのだと。 眠りから覚めたヨセフの現実は変わりません。状況は変わっていません。むしろこれから後ろ指さされるようなこと さえあるかもしれない。けれども、卑近な言葉で言えば、心のもちようが違います。神が共におられるのだと。ど うしようもないこの現実の只中に、神様が共にいてくださるのだ。私のことを知っていてくださるのだ。わたしのこと を見捨てたのではない、確かに神様の御計画がここにある。救いがここにあるのだと。そのように、ヨセフはこの事 柄を捉えたのです。 イエス・キリストの誕生、クリスマスの話しには他に占星術の学者たちや羊飼いたちが出てきます。この人たち も、同じような体験をしています。占星術の学者たちや羊飼いたちは幼子であるイエス様と出会いますが、出 会ったからといって、状況は変わりません。その立場や状況、暮らしは変わりません。けれども、自分のことを忘 れることなく、見捨てることなく、ともにおられる神に出会った。大丈夫、この現実の只中に、神がともにおられる のだ。このわたしを、わたしたちを知っていてくださっているのだと、受け取った。彼らはその後、喜んで、神を賛美 して生きていったのです。 ヨセフに戻りますが、20節に「恐れず」とありました。ヨセフにとって恐れるような事柄がここにあります。突然の夢 の中での天使の来訪、それ自体がびっくりすることであり、驚き、怪しみ、とてもすんなりと受け入れられるような ことではありません。天使が夢に現れた、その事自体が恐れるような事柄です。それに加えて、マリアを受け入 れなさいと告げられた。マリアと一緒になる、それがどのような事を意味するのか。聖霊によって宿ったマリアの子 を受け入れる。それは、これからイエス様の育ての父として歩むことを受け入れることでもあります。父親になる、 そこに責任が伴うのは当たり前ですが、その幼子は自分の民を罪から救う、そんな大それたことをなす子どもで す。その子を、ヨセフは引き受けたのです。それによる労苦があったことでしょう。現に、この後にはヘロデからの迫 害を逃れるために、親子ともどもエジプトへ逃げたことが記されています。親子ともども難民となってしまう。その ような事に実際になってしまう天使のお告げを、ヨセフは拒否することもできました。ヨセフは天使からのお告げを 無視することだってできたのです。「あんな夢を見たのはどうかしている」「あれはただの夢だ」と、考えることもでき た。ヨセフが夢で天使に告げられたことも、言わなければ誰も知りようがありません。けれども、夢で天使から告 げられた事柄を信じたヨセフは、妻マリアを受け入れます。それは神様の御心を受け入れたということでもありま す。ヨセフはマリアを迎え入れ、聖霊によって身ごもりこれから生まれてくる幼子を受け入れることで、神様の言 葉に応えたのでした。 インマヌエル、神様は我々と共にいてくださるという意味です。この世を生きるわたしたち。そこにある現実をすべ てご存じの神は、わたしたちを見捨てず、御独り子をお与えになった。どのような時も、わたしたちと共におられ、 お守りくださる。その神様が、語り掛けてくださった。受け入れなさい、と。その語り掛けにこたえてこそ、インマヌエ ル、神様はともにおられるということを実感できるのかもしれません。なにか、神さまがともにおられるから安心、だ けで終わらない。都合の良い時だけ出て来てもらって、後は知らない、では自身に都合の良い偶像を拝んでい るにすぎません。その程度のものなら、結局は自身の支えにもならないでしょう。共におられる神様はわたしたち に語り掛けています。それぞれへの語り掛け方の違いはあるかもしれません。無視することもできるかもしれませ ん。しかし、ヨセフのように受け入れてこその、インマヌエルなのではないでしょうか。 ヨセフにはイエス様の育ての親という使命が与えられました。それは大変な責任を伴うことであります。だけれど も、大変なこと、辛いことばかりではありません。人間誰しも、程度はあれど、頼りにされることはうれしいのでは ないでしょうか。しかも、神様から任されたのです。これほどうれしいことはないでしょう。 このクリスマス・イブの時にも、神様はわたしたちに語り掛けてくださっています。普段教会に通わずとも、何度目 かのクリスマス・イブをこの礼拝で過ごした人もいるでしょう。勿論、キリスト教会の礼拝が初めての人もいるでし ょう。そのあなたへの神様の語り掛けを聞いて欲しいのです。わたしには関係ないと思うかもしれません。わたし のことなどわかるはずない、と思うかもしれない。楽しみ、喜びはともかくも、わたしの痛みなどしるよしもない、と 思うかもしれない。けれど、遠い存在ではない、この現実の真っ只中に、神でありながら人になってきてくださった 方が、クリスマスの主イエス・キリストです。人が味わうそれ以上の苦しみ、苦難をその身をもって受けた方。だか らこそ、そのお方に知られているからこその慰め、救いがあるのです。あなたの痛みを、苦しみを、叫びを知って おられる、そのようなお方が共におられ、語り掛けてくださっていることを知るクリスマス・イブとなればと思います。 そのお方が、私を受け入れなさい、受け取りなさい、とおっしゃっているのがこのクリスマスであり、本当に人を救 うクリスマスプレゼントなのです。 お祈りいたします。 天にいらっしゃいます父なる神様。 御名を崇めて賛美いたます。 ここに集い、クリスマス・イブ礼拝を守れたことに感謝いたします。 この礼拝を通して、あなたがわたしたちと共におられることを改めて受け止めます。 どうぞ、そのわたしたちにみ言葉を与えてください。 もう立ち上がることができず、辛い思いをしている者に、「立ち上がりなさい」とのお言葉をください。 前に進んでいくことができない者に、「行きなさい」とのお言葉をください。 罪に囚われ、もがき苦しんでいる者に、罪の赦しをお与えください。 あなたからのみ言葉を受け、それに応えて、この世を歩み続ける事ができますように。 主よ、共にいてください。 この祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前におささげいたします。 アーメン |