日本基督教団 玉川平安教会

■2019年12月8日

■説教題 「本当のことを言ったら」
■聖書  列王記上 22章6〜17節


▼遠藤周作の孤狸庵シリーズの中に、新宿の母と呼ばれた女手相見のことやら、占いについて記しているくだりがあります。何故、新宿の母が若い女性の人気を得るのかということが、随分詳しく、分析されています。そして、何しろ、孤狸庵ものです。おもしろおかしく描かれています。私がこれを読んだのは、半世紀近くも昔の話ですし、今、手元の本を調べて正確な引用をすることなど不可能ですので、お許し下さい。

 しかし、結論はこんなことでした。


▼要は、お客さんが何を望んでいるかを探り、これに触れながら、決して諦めることはない、明るい未来が開けますよというふうに答えると、喜んで貰え、結果として、あの手相見は良く当たると言われるのだそうです。まあ、受けるのだそうです。

 また、こんな印象的なことが記されていました。あなたは周囲の人に、本当の自分を理解されずに、ずっと損をして来たというような話をしますと、殆ど100パーセントの女性客は、その通りだ、当たっていると思うのだそうです。


▼統一原理の霊感商法のマニュアルにも、同様のことが記されています。

 私は、これに捉えられていた女性から、彼女が勉強させられた霊感商法のマニュアル本を貰いました。

 一つだけ、未だに忘れられないことを申しますと、玄関に入って、家人が出て来たら、それが、女性の場合、とにかく褒めるのだそうです。

 当人の容姿を褒めるのが一番です。お若い、美しい、知的だ、こういう、普通日本人が口にしないようなことを、どんどん言うのだそうです。

 どんなに、現実からかけ離れたおべんちゃらであっても、褒められた人は決して悪い気持ちは持たないというのです。

 

▼マニュアルですから、想定問答が付いています。

 何も褒める所がなかったら、どうしたら良いでしょうか。

 この問の答えは、

 「その人に褒める所が何もなかったら、飼っている猫を褒めなさい」です。

 

▼この理屈は、統一教会が生活するホームの中でも、援用されます。

 インチキ商売に出掛けて行く時、帰って来た時、兎に角、お互いに褒め合います。これを、彼らは、讃美のシャワーと呼んでいました。

 まあ、私が原理問題に関わったのは、25年以上も前の話で、今は何と呼ぶのかは分かりません。しかし、讃美のシャワーは、続けられていると思います。

 私たちは、草臥れ果てて帰って来ますと、先ず、シャワーを浴びてさっぱりしたいと思います。

 どんなに疲れていても、この言葉のシャワー、讃美のシャワーを浴びますと、疲れが取れて、迷いも悩みも吹き飛ぶのだそうです。

 まあ、教訓的ではあります。統一教会にも、学ぶべきものがある、などとは、絶対に言ってはならないのですが、しかし、私たちの姿勢を振り返るべきではあります。


▼教会から家に帰って、疲れた大変だったという言葉しか出て来なかったならば、その人の家族は、自分も教会に行ってみようなどと思う筈がありません。

 まして、教会から戻ったら、教会の悪口ばかり言っているとなったら、これは、伝道の真逆です。

 もし、家族に伝道したいと思ったならば、なすべきことは、唯一つ、教会がどんなに素晴らしいかを、楽しいかを語るのです。

 せっせと喜んで教会に通う、これに勝る家族伝道はありません。

 しかし、教会が楽しくなかったら、教会生活が苦痛でしかなかったら、これはもう、どうしようもありません。教会が変わるしかありませんでしょう。変えるしかありませんでしょう。

 私たちの教会は、今そのリフォームの最中にあります。1月からは、教育館のリフォーム工事が始まりますが、建物以前に、礼拝・交わり・祈り、教会学校、リフォームの真っ最中です。


▼ちょっと統一教会の霊感商法に拘り過ぎかも知れませんが、もう少しだけ、お話しします。

 インチキな品物を、人の良いおばあさんに騙して売りつけた時など、当たり前ですが、彼らの心にも、不安が、迷いがよぎります。

 中には、何ヶ月ぶりかで、家族に電話する者もいます。これは、原理では禁止されている行為です。

 ところが、多くの親が、電話を貰った途端、お前は何をやっているのだ、一日も早く、そんな所は止めて帰って来いと、怒るのだそうです。父親などは、電話の向こうから、怒鳴り付けます。

 そうして、がっくり落ち込んで原理のホームに帰ると、優しい言葉のシャワー、讃美のシャワーが、待っています。これでは勝負は見えています。


▼ニュースで、しばしば、結婚詐欺師のことが取り上げられます。

 この手の番組を見て、大変不思議に思うのは、これなら騙されるだろうなと思えるような、美男美女は出て来ません。結婚詐欺師に、この人になら騙されてみたいような、素敵な人はいません。

 新興宗教の教祖も同様です。大抵風采が上がらない、知的にも見えない、信仰的にさえ見えません。

何事にも例外がありまして、観音慈恵会・阿含宗の桐山靖雄官長だけは、若い頃には、インテリ風の美男子に見えました。会ったことはありません。

 むしろ全く逆、どうして、よりによって、こんな男に、こんな女にと思わされます。

 容姿だけではありません。会話もそうです。結婚詐欺師は、決して話上手ではありません。

 ただ、優しい言葉のシャワーで取り入るのです。


▼以前の任地の島根県は、当時、統一原理の被害が深刻でした。また、それ以前豊田商事事件の被害も甚大でした。

 被害者の多くは、孤独な老人です。

 内心、騙されていると思いながらも、セールスマンが、足繁くやって来て、優しい口をきく、それが、何より楽しみだったそうです。

 他の人は、誰もかまってくれないからです。


▼プライバシーに抵触しますから、あまり詳しい話は出来ませんが、統一原理から騙されて絵を買わされた人の手助けをして、この絵の代金の大半を取り戻したことがあります。

 ところが、どんなに説明しても、なかなからちがあきません。私の話を信じたくないのです。

 むしろ、インチキセールスマンに同情的で、私がこの人を強く批判しますと、彼を気の毒がるのです。

 50万円や100万円のことだったら、むしろ、騙されていたいのかも知れません。

 1600万円取り戻したこともありました。しかし、感謝はして貰えません。手数料は弁護士に入ります。何もしなくとも、ほぼ文書にサインするだけで、弁護士さんには取り戻した金額の10パーセント入りますが、私は、3ヶ月間、殆ど毎日この人のために働き、謝礼など一切貰いません。そして、感謝もされませんでした。


▼さて、このくらいにしておきましょうか。未だ未だ話はありますが、今日の聖書の意図と、逆のことを話しているかも知れません。

 ここに登場する400人の預言者は、日本の占い師や手相見みたいなもので、王に阿り、兎に角、王の意図に沿った予言をしようとしています。

 例えば、古代中国では亀の甲羅を焼いて、そのヒビ割れ具合で、預言します。亀の甲羅のヒビ割れ具合です。何とでもこじつけて解釈できます。問題は、王の意図を探ることです。王は戦争したいのか、したくないのか、それを判断して、戦うべし、止むべしと預言します。

 日常を占う時にも同様です。残念ながら、真実の預言は歓迎されません。

 人々は、そして王は、嘘でも良いから、明るく楽しく、気分が良くなる預言を求めているのです。

 私なども、あまりくらいニュースが続くと、ほとほと嫌になります。一番てっとり早いのは、もう、ニュースを見ないことです。

 そういう預言者が多いし、そういう風潮が、教会の中にも生まれているのではないでしょうか。あるシンポジウムで、メーンの講師の大木英夫先生が、楽しい話を聞きたいのなら、寄席に行きなさい、とおっしゃったのが、印象的でした。

 つい先ほど申しました教会は楽しくなければならないと矛盾しますが、嘘では、聖書を曲げては、そこに本当の喜びはありません。正しく神の言葉を聞くことこそが、教会の最大の楽しみ、喜びです。ただ楽しければ良いのなら、寄席に行った方が良いでしょう。

 

▼占いが外れても、誰も責任を取りません。責める人もありません。誰も、本当に当たるとは思っていないのです。だから、預言が外れても、誰も責めません。

 競馬の予想と、予言は外れるのが当たり前なのです。


▼今日の箇所には、おおよそこんなことが書いてあると思います。

 単純な話で、分かり易い話です。しかし、単純な話、分かり易い話ほど、それを行うことは難しいのです。

 私たちは、自分の歓迎するニュースを聞きたいのです。

 自分好みの、預言を聞きたいのです。


▼私は、クリスマスに、イザヤの苦難の僕の箇所で説教して、教会員も含めて、大半の人に、嫌われたことがあります。

 そして、クリスマスにはクリスマスらしい話をして欲しいと、注文を付けられました。

 しかし、クリスマスにイザヤの苦難の僕の話をすることは、全然奇矯なことではありません。むしろ、是非とも、必要なことです。

 しかし、多くの人は、ややもすると、教会員まで、クリスマスには、美しい、優しい物語を求めるのです。


▼主の十字架の場面で、クリスマスの説教するのが、私の夢です。

 

▼勿論、不幸や災いを伝えることを喜んではなりません。

 しかし、真実は、伝えなければなりません。


▼厳密には、真実を伝えるというよりも、神の言葉を正しく伝えるということです。

 アドベントの間は、教団の聖書日課を読んでいます。今日の日課は、列王記上が中心ですが、福音書から、ヨハネ5章が上げられています。

 つまり、5章、36〜47節です。その中で、41〜44節を読みます。

 『41:わたしは、人からの誉れは受けない。

   42:しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。

   43:わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。

    もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。

   44:互いに相手からの誉れは受けるのに、

    唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、

   どうして信じることができようか。』


▼『互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしない』

 やはり、讃美のシャワーなどと言っても、それは、嘘です。そして、嘘では、気休めでは、本当には、問題の解決はないし、慰めも平和もありません。


▼福音とは、良い知らせです。しかし、この福音が語られたのは、こういう文脈です。

 マルコ福音書1章14〜15節。

 イエス様の福音宣教の第一声です。

 『ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、

  15:「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。』  

 『神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』です。

 本当の福音、本当の喜びの言葉は、悔い改めと、結び付いています。悔い改め、悔い改めの涙のないところに、真の福音はないし、喜びはありません。