日本基督教団 玉川平安教会

■2019年09月29日

■説教題 「キリストと一つに」
■聖書 コリント一 11章1〜16節 


○ 今日の箇所については、これをどう読むのか、どう受け止めるのかという前提が、先ず、問題になります。それは、前提の前に、もう一つの大前提が存在するからです。大前提とは、このまま素直には読むのは困難だということです。

 3節、

 『ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、

   女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです』

 6節、

 『女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。

   女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、

   頭に物をかぶるべきです』

 これを、文字通りに、素直に読めて言われても、ちょっと困ります。それとも、我が意を得たりと思いますか。

 男女の問題だけではありません。髪型そのものについても、問題があります。

 14〜15節、

 『男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなることを、

   自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。

   長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです』

 これも、文字通りに素直に読めて言われても、ちょっと困ります。

 

○ ではどのような物差しを当てて読むべきでしょうか。或は、どんなフィルターを掛けて読むべきでしょうか言った方が正確かも知れません。

 「時代が違う。2000年前の状況を、今日に当てはめて読むことに、そもそも、無理がある」そのような考え方は、しばしばなされて来ました。しかし、そのような考え方は、聖書そのものを、時代遅れだとするのと、どこが違うのでしょうか。

 それとも、「聖書のここの部分は時代遅れで、ここの部分は、今日でも立派に通用する」そういう読み方をするのでしょうか。これでは、聖書を読む人間側に物差しがあって、聖書=神さまの言葉の方が裁かれてしまっています。人間を裁くのが聖書です。人間の物差しで測られ、人間に裁かれるようでは、聖書=神の言葉とは言えません。


○「これは、パウロの個人的な見解に過ぎない」或いは、そこまで言い切らなくても、「コリント教会の特殊事情に基づくもので、普遍性はない」そう読みますか。

 この場合には、もっと深刻な問題が出てまいります。「コリント教会の特殊事情に基づくもので、普遍性はない」のなら、私たちが、コリント書を読む理由そのものが希薄になってしまいます。昔、こんな教会があったという話に過ぎません。せいぜい、参考文献でしかありません。これでは、コリント書が聖書に数えられるべき理由がありません。


○ さて、解釈ですが、 … 解釈の前に、理解出来ますか。

 4節、

 『男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、

   自分の頭を侮辱することになります』

 5節、

 『女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、

   その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです』

 そして、7節。

 『男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。

   しかし、女は男の栄光を映す者です』

 殆ど、意味が通じません。 この箇所については、当時はそのように考えられていた。当時の常識であったと言うしかないと思います。


○『祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶる』のは、今日でも、保守的なユダヤ教徒の間では、通用し続けている慣習です。日常生活ではそういうことはありませんが、礼拝の時、シナゴーグに入る時には、男は帽子をかぶります。シナゴーグの入り口には、ボール紙で作ったような、形ばかりの帽子が置いてあります。普段帽子を被らない人は、このボール紙の帽子をチョコンと頭に載っけてから、会堂に入るのです。もし、帽子が会堂の中で落ちたら大変だというので、安全ピンが付いています。まあ、私たちの目には滑稽だし偽善的にさえ映ります。

 かなりややこしいのですが、使徒パウロの時代には、『祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶる』のは、果たして一般的だったのでしょうか。それとも逆でしょうか。さっぱり分かりません。

 ところで、同じエルサレム市内の回教寺院では、全く逆で、帽子を取り、履き物を脱がなければ、モスクに入ることは出来ません。

 こうなると、ややこしいと言うよりも、馬鹿馬鹿しくなってきます。


○ このような説明をどんなに重ねても、少しも解釈になっていないし、理解の助けにもなりません。

 全く視点を変えて、読んでみたいと思います。つまり、パウロは何故こんな問題を取り上げたのかということです。

 この問いには、明瞭な答えが得られます。コリントの人々の質問状に、これが取り上げられていたからです。では、何故、コリント教会員は、何故こんな問題を取り上げたのか。これも、はっきりしています。これが、コリント教会では、具体的な問題になっていたからです。もっと具体的に、どのようなことが問題だったのか。これも、かなり、正確に推測することが出来ます。

 Tペテロ3章3〜4節。

 『あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、

  あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。

  4:むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、

   内面的な人柄であるべきです。

 このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです』

 この箇所がまた、女性差別だと批判を受けるところですが、話をこれ以上複雑にしない非ために、そのことには触れません。ここから分かるのは、当時の女性教会員の間に、『編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なもの』に、心を奪われ、礼拝そのものが疎かになるような傾向があったということでしょう。

 まして、当時は一握りの自由市民のために、大勢の奴隷が仕えた時代です。そして、教会には、自由市民もいたけれども、奴隷階級の者も少なくなかったと考えられます。教会員の中でも上流階級に属する女性信徒の『編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なもの』ために、同じ教会員の奴隷階級に属する者が奉仕を強いられ、ひいては、礼拝を守れないというようなことがあったのではないでしょうか。

                                 

○また、エペソ5章22節以下。

 『妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。

 23:キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。

 24:また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです』

 この箇所も、ややこしいい議論の対象になっていますが、単純に読んだ方が良いでしょう。信仰・教会に熱心なのは良いのですが、家庭生活が疎かになるご婦人があり、そのことで、内外から批判を受けるという大問題になっていたのです。現実問題だったのでしょう。

 ここが、基本的に女性差別に基づく発言ではないという証拠には、次の25節に、このようにあります。

 『夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、

  妻を愛しなさい』

 これまでのコリント書の学びで繰り返し申し上げて来ましたように、使徒パウロは、きわめて具体的な問題に具体的に答えています。

 きわめて具体的な問題が存在していました。決して、観念的なことを論じているのではありません。だから、これを読む側も、観念的であってはなりません。


○ 結論めいたことを言う前に、8〜10節に、触れておきましょう。

 『というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、

  9:男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。

 10:だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです』

 ここだけを読めば、女性差別と言われても仕方がありません。しかし、見方を変えれば、パウロがこのように発言する程に、当時の教会で、女性が威張っていたと言うことではないでしょうか。牛耳っていたということではないでしょうか。女性が被差別的な位置に留まっていたと言うのは、一面的な見方に過ぎないと考えます。

 今、教会では、圧倒的に女性が多く、にも拘わらず、役員や牧師は圧倒的に男性が多いということが指摘されます。事実ですし、問題があることも確かです。しかし、同時に、これを女性差別の結果であり、教会に於いては、女性が男性に対して隷属的な位置関係にあると言うのは、あまりに、一面的な見方に過ぎません。皮相な見方に過ぎません。全く逆かも知れません。

 少なくとも、そのような浅薄な解釈では問題の解決にはなりません。

 11節を読むと、印象は随分違います。 

 『いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません』

 ここが男女の立場についてのパウロの結論です。明確な結論です。


○  結論部に入りたいと思います。

 16節を御覧下さい。

 『この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、

   わたしたちにも神の教会にもありません』

 教会には教会の、慣習も、常識も存在するのです。

 勿論、慣習も、常識は、絶対のものではありません。時代と共に変化してしまうものです。その時代では普遍の真理と思われていたことが、後には崩れます。価値基準そのものが変わります。ビートルズの髪型一つをあげれば、説明は十分でしょう。


○ しかし、常識は常識と申しますか、時代の基準と言うものが厳として存在することも確かなのです。常識に反発することも必要かも知れません。そうして新しい時代が形成されていきますでしょう。しかし、常識を知らないことは、問題外です。相手が教会です。2000年の歴史・伝統を持った教会に反発するには、非常識、無知であっては、話にも何もなりません。非常識、無知であっては、反発する資格もありません。

 徒に反抗心が強いことで何かが生まれることはありません。破壊からは何も生まれません。

 革袋を破ることは、新しい思想でも何でもありません。発酵した新しい葡萄酒が、結果的に、革袋を破るのです。この辺を間違えている人がいます。革袋を破っても、新しい酒は出来ません。

 10章31節。

 『あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、

   すべて神の栄光を現すためにしなさい』

 『何をするにしても、すべて神の栄光を現すために』この時に、初めて変わります。建設的な目的をもって、働くことによってしか変わりません。造り上げる業によって初めて変わるのです。破壊によっては、何も変わりません。


○最後に、この結論めいたことが、決して、牧師の個人的な読み方ではなくて、使徒パウロの主張に忠実だと言うことを確認するために、文脈に当たります。

 文脈の前の方については、先週、その前の説教箇所ですので多くを語る必要はないかと思います。ここでは、自己中心的にならないで、神のために働きなさいと言われています。教会の交わりを大切にしなさいと言われています。

 文脈の後の方も同様です。11章の残りの部分には、聖餐式の起源と言われる記事があります。ここでも、身勝手な飲み食いが諫められています。12章に入ると、教会での役割分担、教会での秩序が論じられています。

 

○ 確かに、時代と共に変化してしまうものが少なくありません。そういう事柄に、あまりに拘泥することは、一種の偶像崇拝でありましょう。しかし、変化していくように見える事物の背景にある人間の心根には、不朽のものが存在します。教会を思う心、十字架の主が形成された交わりを重んずる心、同じ教会員に対する思いやりの心、こういったものは、頼りないように見えながら、実は変わらないもの、変わらなく尊いものなのです。

 変化するものと、変わらないものとを、見誤ってはなりません。