日本基督教団 玉川平安教会

■2019年12月1日

■説教題 「神は王となられた」
■聖書  イザヤ書 52章1〜10節


○ 東日本大震災の後、夏祭り、或いは花火大会の多くが、中止または延期になりました。犠牲者を悼んでの自粛という観点からのことでした。勿論、その気持ちは自然ですし、理解出来ます。お祭りどころではない、浮かれていられる時ではない、その通りです。

 しかし、結局は、秋祭りの頃になりますと、自粛ムードも醒めて、元気を取り戻すためという、新しい観点から、むしろ、積極的に行うという考え方の方が強くなりました。これも、理解出来ます。しかし、意地の悪い見方をしますと、当初は、被害者を思い計って自粛したけれども、もう、それよりも、経済的なことの方が優先するようになったということに過ぎないかも知れません。


○ ところで、お祭りとは何か、花火とは何か、長い歴史のあるものですから、一概には言えませんが、大雑把に言えば、多くの祭りが、大災害や疫病が起こり、多くの被害者が出た時に、その慰霊のために始まったものです。

 遺された者への励まし、慰撫という側面もあったと思います。

 そうしますと、大災害かあったから、祭りが中止になるというのは、奇妙な話ではあります。


○ 東日本大震災の後、クリスマス・ツリーやデコレーションにも自粛が見られました。ツリーやデコレーションですと、節電という意味合もありますから、勿論、頷けることです。

 今年はどうなるのでしょうか。台風があり大洪水があり、幾多の犠牲者が出ました。それでも、デパートその他、ど派手なイルミネーションが飾られ、そのことがニュースでも大きく取り上げられるのでしょうか。


○ さて、肝心な、私たちの教会のことです。多くの人々が、お祭りの意味を、何時の間にか見失い、本来の意味とは全然別の所で、人寄せ・地域振興、経済効果、何よりお楽しみ、そういうところに意義を見出しているように、私たちも、クリスマスの意味を履き違えてはいないのか、ここで、振り返ってみる必要があると考えます。


○ クリスマスとは何か、世界の民の王となるべき方の誕生日です。だから、お祝いになります。高らかにファンファーレが鳴り響き、この良き知らせ=福音が世界中に告げ知らされます。

 しかし、もう一つの側面、より大事な側面があります。クリスマスとは、神が人間の姿になられた日です。神が人間の姿になられたとはどういうことなのか、繰り返しお話ししております。

 その意味は、神が、人間としてこの地上に命を得た、つまり、人間と同様に、病を得、死ぬ者となったということにあります。人間が人間であるが故の、根源的な痛み、病、死、孤独、絶望を体験されたということです。

 マルコ福音書の十字架の場面には、正に、このことが描かれています。

 ゲッセマネの園で、大祭司の庭で、十字架への道で、十字架の上で、イエスさまは、病、死、孤独、絶望、人間が人間であるが故の、根源的な痛みを体験されたのです。それこそが、神が人間になられたという意味であり、受肉です。


○ マルコ福音書には、クリスマス物語がありません。しかし、十字架の場面こそが、マルコ福音書のクリスマス物語なのです。そして、このことは、マルコ福音書の独壇場のことではありません。その源こそが、イザヤ書です。特に、苦難の僕の歌と呼ばれる箇所です。

 今日の箇所は、いかにも、クリスマスを迎えるのにふさわしい聖書箇所なのです。


○ 福音とは、良い知らせです。ここでは、王が即位したということが、良い知らせの内容です。一番単純には、王が即位したということ、または王子が誕生したということを、国民に告げ知らせることが、即ち福音でした。

 しかし、新しい王が即位したというニュースは、必ずしも、良い知らせとは限りません。

 マタイ福音書2章2〜3節。

 『「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。

  わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

  3:これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった』。

 新しい王の誕生が、現在の王と、国民とに、大きな不安を与えました。

 当然です。新しい王の誕生は、つまりは、新しい権力の誕生であり、新しい軍隊の誕生であり、つまりは、新しい戦争の始まりかも知れません。


○ 福音、良い知らせが、本当の福音になるためには、福音が、平和の知らせであり、恵みの知らせであり、そして救いの知らせである必要があります。

 『彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/

   あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる』

 本当の福音が告げられました。この福音を聞いて不安になる者はありません。何故なら、真の王、正しい王、平和と恵みと救いの王が、即位されたのです。

 神が自ら王となられたのです。


○ 王の資格がない者が王となっている時代、それは、混乱の時代であり、不安の時代です。

 先程引用した、マタイ福音書、ヘロデ王は、ユダヤ人の真の王ではありません。何しろ、彼はユダヤ人でさえありません。だから、何所どこの誰とも知れないような博士たちがもたらした、新しい王が誕生するというニュースに動揺し、不安を感じました。そして、王の不安は、エルサレムの民に、伝染しました。


○ イザヤ書52章8節の特に後半。

 『彼らは目の当たりに見る/主がシオンに帰られるのを』

 主がバビロンから、人々を導いて、エルサレムに帰還されるのを、人々は目の当たりにするという意味でしょう。ここでは、新しい王の誕生は、新しい戦争の始まりではありません。平和と恵みと救いの王が、即位されたのです。

 

○ 9節が、肝心な箇所です。

 『歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、

   エルサレムを贖われた』

 『エルサレムを贖われた』、お金を出して、エルサレムを買い取った、ご自分のものにされたと、述べられています。買い戻されたのです。

 この場合エルサレムとは、町や土地のことではありません。エルサレムの民のことです。

 3節をご覧下さい。

 『主はこう言われる。「ただ同然で売られたあなたたちは/銀によらずに買い戻される」と』

 簡単に言いますと、エルサレムの民は、その罪の故に、バビロンに売り渡されました。刑罰のために、奴隷としてバビロンに売り渡されたのです。刑罰のためであって、お金のためではないからこそ、ただ同然で、売り飛ばされました。

 そして、今、元の主人に、買い戻されたのです。


○ 主人であり、王であり、神であられる方は、エルサレムの民を買い戻し、これを率いて、エルサレムに帰還されます。

 あちこちに飛びますが、1節をご覧下さい。今度は前半部を読みます。

 『奮い立て、奮い立て/力をまとえ、シオンよ。輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ。

   無割礼の汚れた者が/あなたの中に攻め込むことは再び起こらない』

 『無割礼の汚れた者』というような表現は、現代ではあまり好まれないかも知れません。しかし、これは、重要な事柄です。

 割礼とは、体に傷を付けることによって、印となすものです。

 家畜の焼き印と同じです。割礼とは、神のものである、神の所有であるという印です。


○ Uコリント書1章22節。

 『神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に

   “霊”を与えてくださいました』

 エフェソ書1章13〜14節。

 『あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす

   福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。

  14:この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、

   わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです』

 ここでも、『わたしたちは贖われて神のものとなり』です。


○ 私たちクリスチャンも同様です。

 私たちは割礼を受けていませんが、聖霊によって、心に割礼を焼き付けられています。それが証印なのです。洗礼を受けたということは、神の焼き印が心に押されたということなのです。クリスチャンであるということは、神の所有物であるということです。

 だからこそ、神さまに率いられて、神さまの国に帰ることが出来るのです。それが、私たちの、平和、恵み、救いです。

 心に印を持っている者は、神の元に返らなくてはなりません。そうでなくては、本当には、安心も幸福もありません。


○ 2節をご覧下さい。

 『立ち上がって塵を払え、捕らわれのエルサレム。首の縄目を解け、

  捕らわれの娘シオンよ』

 地べたに平伏していた屈辱から、立ち上がることが許されました。首の縄目を解き、自由になることが出来たのです。

 何故なら、既に読みましたように、3節、神によって買い戻されたからです。

 何故、信仰から離れたのか、いろんな理由を挙げることが出来るでしょうが、要は、異なる価値観を持った、異教の王に捉えられたのです。

 心に一番深い所に、印を持っている者は、神の元に返らなくてはなりません。異教の王のもとでは、本当には、安心も幸福ありません。


○ 解放・自由と言いますと、私たちは、全く何事からも、自由になるということを考えます。誰からも、自由になるということを考えます。つまり、解放されたからには、自分が自分の主人公であり、何をするも、しないも自分の勝手です。

 しかし、イザヤ書52章に語られている解放・自由は、そういうこととは大分違うようです。

 ここに語られているのは、バビロンの王と、バビロンの神から自由になって、自分たちの本当の神を礼拝し、彼を王として立てて、それに仕えるという話です。

 神の許に帰ることこそが、真の自由です。神のものとなって、しっかりと神さまに付いていることが解放・自由なのです。


○ これは何度も申しましたが、ただ奴隷から解放されたというだけでは、人は自由になることは出来ません。ただ奴隷から解放されたというだけなら、この人は、風来坊になってしまうのです。

 多くの人は会社に縛られて生きているのですが、ここから、解き放されたというだけでは、自由人でも何でもない、失業者になってしまいます。

 本当に解放され、本当に自由になるということは、自分の居場所を持っているということです。生き甲斐を持ち、このことのためならば命をも惜しまない、この人のためならば、何も惜しまないということが、自由ということなのです。


○ 少し飛びます。最後に、6節をご覧下さい。

 『それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、

   わたしが神であることを、「見よ、ここにいる」と言う者であることを知るようになる』

 『見よ、ここにいる』。

 出エジプト記3章の神の名前と、本質的に同じです。勿論、この名前には、バビロンでの捕囚の50年間も、神はイスラエルの民の中におられたのだ、エジプトでも、アッシリアの侵略にシオンの丘が侵される時も。そういう強調が込められています。

 

○ マタイ福音書でも、ルカ福音書でも、クリスマスの出来事に遭遇した人は、皆一様に心に不安を抱きます。その人々に向かって、天の使いは言います。『恐れるな』。そして、真の王が誕生したことを告げるのです。

 マタイ福音書でも、ルカ福音書でも、クリスマスの出来事を知った人々は、新しい王の許に出掛けて行きます。そして、この未だ全く無力な赤ちゃんである王に、心からの礼拝を献げます。不安は、平安に、恐れは喜びに変えられます。救い主に出会ったからです。