日本基督教団 玉川平安教会

■2019年09月01日

■説教題 「弱い人々を罪に誘う」
■聖書 コリント一 8章1〜13節


○ 1節。

 『偶像に供えられた肉について言えば』とあります。新共同訳聖書の小見出しは『偶像に供えられた肉』となっています。『偶像に供えられた肉について言えば』の方が小見出しとして適切で分かり易いでしょう。今日の箇所は、『偶像に供えられた肉』を食べても良いか、食べてはならないとしたら、偶像に供えられた肉とそうではない肉とをどのように見分けるのか、見分けられないとしたら、一切肉を食べない方が良いのかという問と、それに対するパウロの見解です。例によって、コリント教会からパウロに当てられた質問状への回答として記されています。


○ 1節。

 続いて『「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです』と述べられています。上の問から一端離れているようにも見えるますが、実は重なっています。

 少し説明しなくてはなりません。コリント教会を初め、使徒パウロの時代の教会は、異教社会、ギリシャ・ローマの神話世界に立てられています。偶像を拝み、これに供え物をする祭儀が溢れています。供え物の中で特に問題となっているのが、肉です。牛や羊が殺されて、その肉が、偶像に捧げられます。

 しかし、偶像は肉を食らいません。この肉を神殿の祭司が、肉屋に払い下げます。売ります。肉屋の肉に特別な印が付けられている訳ではありませんから、肉屋で買い物をすると、神殿に捧げられた肉を買い、食べることになってしまうかも知れません。その可能性は高いでしょう。

 毎週の礼拝司会者の祈りにもありますように、知らず知らずの内に、汚れた肉を食べるという罪を犯してしまうかも知れません。

 私たちの感覚からすればどうでも良いことのように感じますが、この時代のキリスト者にとっては、大真面目な問題だったようです。

 『偶像に供えられた肉』を食べても良いか、食べてはならないとしたら、偶像に供えられた肉とそうではない肉とをどのように見分けるのか、見分けられないとしたら、一切肉を食べない方が良いのか、これは、真摯な問題だったのです。


○ この問いにパウロは答えます。ここでは、知識という言葉で説明されている内容が、常識的なそれとは全く逆にされています。

 8章1節に記されていることが、普通は知識と呼ばれる事柄です。一度異教の偶像に捧げられた犠牲の肉が、肉屋に下げ渡されて売られている、そのことを知っている、また、キリスト者はその肉を食べてはならないということを知っている、それが、1節の知識の内容です。

 しかし、パウロは、この知識を否定します。

 パウロが言う知識とは、逆に、『世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外に、いかなる神もいないことを、わたしたちは知っています』ということであり、ひいては、存在もしない偶像に捧げたからといって、食べ物である肉が汚れることも、それを食べた者が汚れることもないという意味です。


○ 普通は、信仰に関して細々したことまで知っていることを、知識が深いと言います。また、細々したことまで厳格に守っていることが、信心深いことだと評価されます。

 この点についても、パウロは、全く逆の見方をしています。些細なことに拘るのは、そうしなければ信仰が保てない弱さからだと見るのです。

 パウロは、細々したことまで厳格に守っている人について、彼らは、弱いがために、このような拘り方をしないと、自分の信仰を保つことができないのだと評しています。

 但し、パウロは、これらの拘りをもってしか信仰できない人を、全く退けているのでありません。

 これらのタブーのようなこと、迷信的なことから自由になれない教会員もまた教会員です。この弱い人々を躓かせないために、どのように配慮するかということが、12節以下に記されています。


○ 11節後半から読みます。

 『その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。このようにあなたがたが、

  兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、

  キリストに対して罪を犯すことなのです。

  それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、

  兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません』

 パウロは、結局何を言いたいのでしょうか。論理を弄んでいるようにさえ見えます。ややこしい表現がなされているのは、パウロがややこしい立場に置かれていることを反映した結果だと推察します。

 既に見て来たように、コリント教会には、深刻な分裂がありました。幾つかの争点を巡って、四分五裂の状態でした。その中で、パウロは、或る立場に賛成で、或る立場には反対だと、自分の見解を述べているのでありません。

 己の知識・経験・信仰を武器にして、他の教会員を攻撃している事実そのものを否定しています。知識・経験・信仰を理由に、互いに裁き合っている現実を批判しているのです。


○ かなりややこしいので、諄くなるかも知れませんが、整理します。

 汚れた者には触れない、口にしないという厳格な信仰に生きている人がいました。これらの人々は、ローマの風習に迎合的な人、あまり厳密にものを考えない人々を、強く批判していました。

 このような人々をパウロは、そんなふうにしてかろうじて信仰を保っている信仰が『弱い人』なのだから、彼らの間違いを指摘して、躓かせてはならないと言うのです。勿論、逆説です。自分は誰よりも信仰深いと思い込んでいる人への痛烈な皮肉であり、批判です。

 自分は、彼らのように厳格な信仰生活が出来ないと、落ち込む人への慰めです。


○ 1節後半に戻ります。

 『知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる』

 逆もまた真なりとすれば、建設的な考え方、建設的な意見が愛であって、否定的・破壊的なものは、それが特別の知識に基づくものだとしても、意味がないということでしょう。まして、憎しみや嫉妬が動機ならば、知識を隠し、何も言わない方がましだと、パウロは言います。

 私たちは、毎週の礼拝や聖研で説教・奨励という形で、聖書の勉強をしています。神の御心を問う・聞くということが説教の意味ですが、平たく言えば勉強です。勉強に違いありません。

 また、読書会、入門講座、全て勉強です。しかし、これらの勉強は、単に知識・教養を深めるために行っているのではありません。教会を造る業なのです。教会を形成するという目的に適わない聖書の学問は、『人を高ぶらせる知識』に過ぎません。


○3節。

 『神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのだ』これは、パウロ書簡中に、同様の表現が繰り返し現れます。聖書研究祈祷会で読んでいるガラテヤ書にも登場しました。 キリスト者にとっては、自分が知っていることよりも、神に知られていることの方が、遙かに重要なのです。何かを知っているという知識ではなく、神によって知られているということを知っていること、実感すること、これが信仰です。

 神によって知られているという信仰を抱いている者は、知識をひけらかしたり、自分が自分がと言い立てることに、重きを置く筈がありません。神に祈って聞かれると信じていたら、他人を裁くこと、罰することに執着する筈がありません。

 どうしても他人を裁き、罰しないではいられないというのは、神さまの裁きを信じていないからではないのかと、反省してみなくてはなりません。


○ 4節。

 『そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、

   世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、

   わたしたちは知っています』

 既に述べた通り、偶像の神は、実際には存在しません。ありがたがる必要がないのは勿論、怯える必要もありません。ですから、私たち日本人に当てはめて考えれば、仏壇や神棚を憎悪する必要もありません。仏壇や神棚よりも、財産・社会的地位・学歴というような偶像こそが深刻なものです。

 むしろ、無価値なものを拝むことが偶像崇拝だということだけは忘れてはならないでしょう。

 昔の人は、ギリシャ人もローマ人も、そして日本人も偶像を拝み、偶像に捉えられていました。しかし、現代人は偶像から自由になったのか、そうではないでしょう。石や木で作った偶像は拝まなくとも、紙で作ったお札を拝んでいます。その他にも数え上げれば、いろいろなものを拝み、これに仕え、恋い焦がれているのが、現代人です。

 5節。

 『現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、

   たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても』

 今も昔も偶像の神が溢れています。実際には存在しない神々が、まるで跋扈しているかのようです。それが今も昔も人間の現実です。


○ 8節に飛びます。

 『わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではない。食べないからといって、

  何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではない』

 パウロが真に問題にしているのは、このことです。5〜7章を通じて、パウロは、このことを強調して来ました。知識であれ、経験であれ、何であれ、『わたしたちを神のもとに導く』かどうか、これが唯一肝要なことなのです。

 『わたしたち』だから、これは個人の道徳倫理・信仰の徳のことではなくて、教会のことです。言い換えれば、教会形成に結び付くがどうか、この一点なのです。もう一つ、言い換えれば、知識であれ、経験であれ、何であれ、独りよがりであってはなりません。独りよがりでは、教会の形成に役立たないどころか、むしろ妨げになってしまうでしょう。

 5節後半から6節。

 『たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、

  6:わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、

   わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、

   万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです』

 偶像に仕えないと言うことは、真の神に仕えると言うことに他なりません。真の神を知らないから、偶像をありがたがるのです。


○ 7〜8節は、6節までの繰り返しです。肉を警戒する人も、退ける人も、同じように偶像崇拝の信仰にとらわれているのに過ぎません。


○ 9節。

 『ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、

  気をつけなさい』

 今日の箇所で、パウロは、偶像に怯えるようにして、肉を退ける人々を信仰の弱い人と評価しています。しかし、その逆の立場の人に対しても、あたながたは、実はだらしないだけではないのかと、振り返って見ることを迫っているのだと考えます。まして居直って、彼らは迷信的だとか、固すぎるなどと言って批判するのは、まるで見当違いです。


○ 10節。

 『知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、

   その人は弱いのに、その良心が強められて、

  偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか』

 これは極めて具体的で、現代でも全く当てはまることだと考えます。

 『偶像の神殿で食事の席に着いてい』たとしても、そもそも偶像などは何の意味もないのですから、それで信仰が汚されるようなことはありません。しかし、『弱い人』、世間の評価では信仰深く強い人のことですが、この『弱い人』を躓かせるとしたら、そんなことを敢えてする必要はないということです。


○ 11節。

 『そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。

   その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです』

 この辺りは、パウロ一流の皮肉の効いた所です。些末な事柄に拘泥し、それが信仰だと思っている者の傲慢を打ちます。それと同時に、そのような人々を愚かだと批判するのはいいけれども、自分は唯自堕落なだけの人をも打っているのでしょう。

 ここで言われる『弱い人』がどっちの人のことなのか、何だか解り憎くなっています。これはわざとかも知れません。要するに、どちらであっても、それに拘泥して、他人を裁くことは、その人の信仰を否定することであり、ひいては『その兄弟のためにもキリストが死んでくださった』ことを否定しているのです。

 あのような『弱い人』をも救うために十字架に架けられた方だからこそ、こんな私をも救って下さるのです。『弱い人』を否定することは、結局は自分を否定することになってしまいますよと、パウロは警告しています。


○ 12節。

 『このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、

   彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです』

 どちらが弱い人なのか、不分明ですが、どちらにしろ、自分の正義や信仰を言い張って他の人を退けるのには、余程慎重でなくてはなりません。


○ 13節。

 『それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、

   兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません』

 何だか拍子抜けするような結論です。しかし、これがパウロです。

 もしパウロが、ただ肉を食べてもかまわないと言ったら、それを盾にして他人を攻撃する人がいるでしょう。もし食べないと言ったら、それ見たことかと他人を攻撃する人がいるでしょう。

 パウロは、そのどちらかの立場に付くことはありません。