日本基督教団 玉川平安教会

■2019年07月28日

■説教題 「本当の強さ、本当の弱さ
■聖書 コリント一 4章6〜21節


○ 今日の箇所は、もし、連続講解説教でなかったならば、背景となっている出来事を余程丁寧に説明しなければならない所です。使徒パウロとコリント教会の関係についても、触れない訳にはまいりません。使徒パウロとコリント教会の関係と言えば、最重要なものは、やはり、T・Uコリント書も含めた何通かの手紙の存在です。つまり、いわゆる4書簡説というややこしい神学議論に言及しないではいられません。

 結局は、コリント書1〜4章の殆どを振り返ることになりますし、5章以下についても、それどころか、Uコリント書についても、更には、使徒言行録の該当箇所についても、お話しなければなりません。そうでなければ、今日のこの箇所を理解することは困難です。

 にも拘わらず、30分の説教の時間内に、全てを網羅することは、不可能です。


○ 逆に言えば、1章から順に読んできた私たちにとっては、今日の箇所は決して難解なものではありません。今までに読んで来た事柄を踏まえれば、自ずと理解出来ると思います。


○ 6〜7節。

 『兄弟たち、あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロとに当てはめて、

   このように述べてきました。それは、あなたがたがわたしたちの例から、

   「書かれているもの以上に出ない」ことを学ぶためであり、だれも、

   一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです。

   7:あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。

   いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。

    もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか』

 ここだけを読んだら、随分とゴチャゴチャしているように見えます。なるべく単純に整理すれば、このようになります。

 コリント教会員の誰もが、その信仰を聖書に負っているのであり、使徒たちによる福音宣教の結果、恵みとしていただいたものです。誰かが創造したものではないし、発見したのでもありません。ですから、誰も自分の信仰を誇ることは出来ないし、他人の信仰を誹謗することも出来ません。こういうことです。

 にも拘わらず、コリント教会の中に、誰が真の指導者かということを巡って争いが起こり、私はパウロにつく、私はアポロにつくと言って分派を構えたことは、既に学んだ通りです。

 6節で、特に私とアポロに当てはめてと断っているのは、コリント教会では、パウロとアポロの間に、意見の対立が存在すると考えられていたからでしょう。


○ 8節。

 『あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、

   勝手に王様になっています。いや実際、王様になっていてくれたらと思います。

   そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから』

 パウロ一流の皮肉の効いた表現です。簡単に言えば、パウロから教えられたこと、パウロから貰ったものであることを忘れて、自分で獲得したもののように、威張っているということです。

 本当にあなた方が、そんなに偉い者であったら良かった、そうすれば、あなた方に【教え与えた】立場の私たちは、もっと、偉い者になれる道理なのだからと言います。勿論、痛烈な皮肉です。

 しかし、パウロを始め使徒の実際はどうかと言えば、9節がそうだとパウロ言います。9節。

 『考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように

  最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、

   見せ物となったからです』

 ここは、若干説明を補う必要があります。当時ローマには、闘技場があり、戦闘士なる者が存在しました。大抵は奴隷なのですが、闘技場で互いに戦い、血を流すのは勿論、時にはどちらかが死ぬまでの、正にデスマッチを行います。強い戦闘士には贔屓筋も出来たそうです。一定の成績を上げて、賞金を付けてくれる贔屓が現れれば、自由の身分を賭けた戦闘が行われます。奴隷である戦闘士から身を起こして、ガリア皇帝となった人物もいます。

 死刑囚、単なる犯罪者ではなく、捕虜のことでしょうが、死刑囚同士を戦わせ、生き残った者に、報償として自由を与えるということもあったようです。パウロはボクシングやマラソン、オリンピックそのものを比喩に用いています。スポーツ好きだったのか、分かり易い例えだから使ったのかは分かりません。

 何より、この『自由を賭けた戦闘』という言葉の響きに惹かれたものと考えられます。

 福音を宣べ伝えるという任務を、パウロは、『自由を賭けた戦闘』と認識していたのです。


○ 10節は、パウロたち伝道者が生命を賭けた戦いをしている時に、コリント教会員は、闘技場の貴賓席に陣取って、高見の見物としゃれこんでいるという皮肉です。

 『わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、

   あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。

   わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。

  あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています』

 1章から繰り返し述べられてきた分派の問題が、ここでも反映されています。パウロとアポロとそしてペトロとを戦わせ、自分たちは見物している、そうのように皮肉っているのです。

 11節以下では、語調も強く、伝道者がいかに惨めな境涯に置かれているか、そして、教会員の理解がないために、孤独であるかということが、述べられています。

 『今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、

 12:苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、

  13:ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、

   すべてのものの滓とされています』

 これは、勿論、愚痴をこぼしているのではなくて、コリント教会員の偽善を弾劾しているのです。


○ 次回、再来週の箇所になりますが、14節以下で、パウロは、要するに観覧席・貴賓席から下りて来て、闘技場の地面に立ちなさいと言っています。闘技場の中、戦いの場こそが、福音宣教の場であり、また、その生命を賭した戦いの結果、初めて真の栄誉が与えられるのだ、戦いに出ずして、真の自由が与えられることはないのだと、パウロは言うのです。

 パウロがスポーツに準えているのですから、スポーツの比喩で考えたいと思います。

 オリンピックの切符を手に入れるための抽選があり、特に人気競技では倍率が200倍以上とか。私のようにあまり興味もなければ、ルールも良く知らない者にとっては、奇異にしか映りませんが、何と言う熱狂振りでしょう。

 サッカーでは、勝敗を巡って、暴動や殺人事件が繰り返されるというのも、何とも理解出来ませんが、それ以上に不思議なのは、サポーターと称する人々の存在です。これらの人々が、監督の采配にまで口を出し、そして、或る程度影響力を持つというところが、私には不可解な所です。

 しかし、まあ、サッカーの話ならば仕方がない、サッカーとはそういうものだと思うしかありません。野球の応援団とは一寸違うようですが、程度問題なのかも知れません。

 何れにしろ、観覧席・貴賓席に居る者が、サッカーをしているのではありません。野球には、応援団があり、サッカーには、サポーターがあり、観覧席でも、テレビ桟敷でも、それなりにスポーツを楽しむことは出来ます。見るだけのスポーツもスポーツには違いありません。

 また、サッカーのサポーターの場合には、観覧席での戦いというものがあるようです。その結果が、殺人にまでなります。

 しかし、宣教には、観覧席も貴賓席も存在しません。応援団もサポーターもありません。あるのは、フィールドでの戦いだけです。


○ フィールドに下りようともせず、観覧席で偉そうに威張っていて、しかも、自分がもっとも良く戦局を理解しているような気持ちになっている、こういう人々が、コリント教会を堕落させました。

 一番の深刻な問題は、これらの観客席に座る特権的な人々の中に、「聖書を批判的に乗り越える」と称して、全く、聖書にそぐわない自分勝手な信仰を育てる者があったことです。自分は聖書よりも進んでいると思ったのです。

 このような人々が、従来の使徒たちの伝道を、正しく評価出来る筈がありません。当然の如く、使徒の伝道の総括を行い、これをも、批判的に乗り越えるとしたのです。


○ このような図式は、現代の教会でも全く同じだと思います。誰が闘技場で生命を賭して戦っているのか、それは、各個教会の牧師や信徒ではないのか、誰が、観客席にふんずりかえって、自分では傷一つ負う心配なしに、あれこれと口を出しているのか、所詮あの程度の選手だと、戦闘士の戦いを無責任に論評しているのか、それは、牧師としても信徒としても教会に仕えることをしないで学者の椅子に腰掛けている者ではないのか。

 しかし、もっとも拍手を浴びるのは、生命を賭けて戦う戦闘士ではなく、貴賓席に座る人なのです。そして、彼らは、おうおう、自分の好みに合わせてルールまで変更してしまうのです。

 Uテモテ4章3〜5節。

 『3:人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、

  自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、

  4:そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。

  5:しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、

  自分の務を全うしなさい』


○ 話が飛躍するかも知れません。テレビでスポーツ以上に盛んなのが、料理番組です。どうしたらおいしい料理を作ることが出来るかという料理番組ならば解りますが、盛んに放映されているのは、役者や芸人が料理を食べる所を見せる番組です。

 スポーツ番組をテレビ桟敷で見るというのは、私も好きです。自分で実際にやるよりも良いかも知れません。汗はかかないし、疲れないし。それでいて十分にスリルを味わうことも出来ます。

 学生時代誘われて何度か巨人戦を見ました。一度は、徹夜して切符を手に入れました。しかし、内野席の奥で、ビールを飲みながら観戦していると、終いには誰がバッターボックスに立っているのかさえ良くは解りません。テレビの方が、勘所はズームで見せてくれるし、リプレイはあるし、画面にチャンス時の打率まで表示してくれますから、野球場に行くよりも良いということにさえなります。

 しかし、料理番組は、どうなんでしょう。作らなくて良いし、後片づけもいらないし、実際に食べるよりも良い … ということはないと思います。実際に食べないことには、本当の満腹感はありませんし、栄養にもなりません。


○ 観客席からしか、教会に拘わらない人は、真に満足感を覚えることは出来ません。御言葉を魂の栄養にすることも出来ません。

 サッカーのサポーターのように、十分にエキサイトし、口を出し、選手よりも、監督よりも偉くなったように錯覚をしていても、実際の満足はありません。サポーターの過激なのをフリーガンと言うそうです。彼らはルール無視、競技場の内外で乱闘事件を繰り返します。しかし、ルールに則って、競技した者だけが、栄冠を受けることが出来るのです。どんなに騒いでも、彼らは勝利に些かも貢献していないのだから、当然です。


○ 19〜20節。

 『しかし、主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう。

  そして、高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう。

 20:神の国は言葉ではなく力にあるのですから』

 ここも何だか分かり難い表現です。分かり難いのはパウロ自身のせいです。パウロは逡巡し、決断がつきません。何を逡巡し、何の決断が付かないのか、それは、コリント教会を訪問し、面と向かって批判することをです。一方に、是非そうしなければならないと言う思いがあり、一方に、それをしてしまったら、いよいよコリント教会はパウロから離れ、信仰そのものから離れてしまうのではないかという躊躇いがあります。


○ その訪問の際に、あなた方は、パウロに何を期待しますか問います。21節。

 『あなたがたが望むのはどちらですか。

  わたしがあなたがたのところへ鞭を持って行くことですか、

   それとも、愛と柔和な心で行くことですか』

 昔々、朝日新聞に本多勝一の、後に『極限の民族』として編集される文章が連載されました。その第1シリーズ『アラスカエスキモー』に、こんなことが記されていました。イヌイットの生活は、犬に支えられています。犬なしには、彼らの生活は全く成り立ちません。それではそざかし、犬は大切にされるかと言うと、全く逆で、粗末に乱暴に扱われています。犬小屋さえなく、雪の中に潜って寒さをしのぎ、人間が食べ残した残飯で原を満たします。これに憤慨した本多勝一は、犬をいたわり、美味しい肉も与えます。犬は、慣れない優しさに、感謝してなついたかと思いますと、全然、犬たちは本多勝一を馬鹿にして、全く服従しません。

 殆ど同じことが、『アラビア遊牧民』にも当てはまります。ここでは、犬ではなく、駱駝です。駱駝も、優しく接する本多勝一を軽んじ、背中に乗せることさえも拒みます。

 結局、犬も駱駝も、鞭で撃ち、餌をあげないと脅すことでしか、言うことを聞かせられないのです。

 パウロは、『鞭を持って行く』か『愛と柔和な心で行く』か、どちらを歓迎するのかと、問うています。

 鞭に従うのか、それとも、愛と柔和に従うのかと、二者択一を迫っているのです。 

 多くの原始的な宗教・信仰は、鞭が物を言う宗教・信仰です。何故か、現代の新興宗教も同様です。しかし、私たちは、キリスト者は、『愛と柔和な心』に従うのです。