日本基督教団 玉川平安教会

■2019年10月13日

■説教題 「一つの釜の飯を」
■聖書  コリント一 11章17〜22節


○ 繰り返しお話ししておりますように、コリント書は、コリント教会員から寄せられた手紙・質問状に、パウロが答えたものです。質問の多くは極めて具体的で、パウロの回答も具体的です。特に日常問題となる信仰生活が取り上げられています。

 具体的な日常生活のことを、日常茶飯事と言います。毎日ご飯を食べることのように、当たり前で頻繁に起こることという意味合いでしょう。

 この日常茶飯、ご飯をいただく場面が、聖書には頻繁に出て来ます。特に福音書には、まるでホームドラマのように、何度も何度も出て来ます。

 このことが、既に、大きな教訓です。

 信仰は日常茶飯事なのです。当たり前のことであり、全然特別のことではありません。毎日毎日の暮らしに必要なことであり、忘れてはならないし、忘れられないものです。

 正月3が日だけ、或いはクリスマスだけに思い出すようなものでは、本来ありません。


○ ところが、信仰を大事にしようとする思いがある人の中には、あまりに特別扱いし、仏教や神道の人がするように、大事に大事に、神棚仏壇に祭り上げてしまう人がいるようです。まるで特別な時に着る晴れ着のように、タンスの奥にしまい込んでしまう人もいるかも知れません。 キリスト教信仰的な意味での大事にするとは、全く逆です。お気に入りの服や道具は、毎日使い、ために他の何よりも早く傷んでボロボロになってしまいます。何よりも聖書・讃美歌、何十年経っても新品同様な物を、大事にしていたとは言えません。繰り返し開き、頁が破れてしまうことを、キリスト教信仰的な意味では、大事にしたと言うべきでしょう。

 一番先に破れた頁にこそ、愛唱聖句があります。愛唱讃美歌があります。


○ 聖書協会が発行する聖書も、日本基督教団出版局が発行する讃美歌も、最近売れ行きが良くありません。経営を脅かすほどです。その理由の一つに挙げられることがあります。傷みません。聖書・讃美歌の装丁が壊れたり、紙が破れたりしません。ですから、キリスト教主義学校の生徒が卒業する時点で、新品同様です。もったいないからと、後輩に譲るそうです。ために、新本が売れません。

 何故、装丁が壊れたり、紙が破れたりしないのか、製本等の技術が進歩したことも一因だそうですが、一番の理由は、開かないからです。開かなければ、読まなければ、それは傷みはしません。キリスト教主義の学校で聖書が読まれない、讃美歌が歌われない、そもそも、聖書の授業で聖書の話をすると生徒が嫌がるから、聖書は取り上げないと、自慢げに語る教師がいるのが現実です。


○ さて、日常茶飯事と言いました。ところが、パソコンで、この言葉を打ったら、なかなか出て来ません。サハンだけだと最後まで出ませんでした。

 最近の若い人の台所は、大変綺麗だそうです。清潔で、片付いています。汚れなんかありません。どうしてなのか、それは料理しないからです。揚げ物や焼き物をしなければ、それは、台所は何時までも綺麗なままでしょう。

 それどころか、包丁まな板を持っていない人がいるそうです。包丁は手入れが要ります。研がなければ切れなくなります。これが出来ないし、面倒だから、はさみで切るのだそうです。当然まな板も要りません。まな板もなかなか手入れが大変です。


○ 教会はどうでしょうか。私たちの教会の聖書・讃美歌は備え付けです。礼拝の時にしか使いませんから、あまり傷まないでしょう。しかし、何時までも綺麗だったら、問題でしょう。使用頻度が低いだけかも知れません。

 頁に涙の痕と思われるシミがあったら嫌でしょうか。

 まさか、居眠りで出来た涎の痕ではないでしょう。


○ 最初から大脱線しています。話を元に戻します。教会での飲食ことです。

 コリントの教会で、これが大問題だったようです。日常茶飯事ですから当然かも知れません。 22節から見ます。

 『あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。

  それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか』

 現在放送中のNHK朝のドラマに、主人公の少女に、お昼の弁当がない場面がありました。弁当を持って行けなくても、おかずが給食で出るので、これが少女には至福の時間だという、何ともかわいそうな話でした。

 こんなことが初代教会にあったようです。


○ 21節。

 『食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、

   空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです』

 この時代、この地方の食事には葡萄酒やビールが付きものでした。現代でもそのようです。普通に水が飲めないことが理由のようです。私は飛行機に乗れないので、海外旅行は出来ませんが、海外の多くの地では、水はそのまま飲んではならないと聞きます。特に慣れていない日本人は、腹痛を起こします。だから、葡萄酒やビールが出ます。欧米の小説を読みますと、子どもが葡萄酒やビール、正しくはエールをいただく場面があります。

 日本のビールのようにアルコール度数は高くないそうですが、飲めば酔います。正に21節に描かれる状況だったのです。

 てんでバラバラに飲食していたことも理由でしょう。食事の開始時間がまちまちなのです。

 日常茶飯事と言うくらいですから、食事の光景は、家庭の光景そのままであり、教会の姿そのままです。

 仕事や学校のことで、決まった時間に家族全員で食事を取ることが困難になっています。ですから、批判的なことは言えませんが、問題は問題です。


○ 教会は、この21〜22節を踏まえて、愛餐会を持っています。多くの教会でそうですが、食事をいただいても、子どもは無料、学生は無料、玉川平安教会もそうです。他の人も、自発的にナルドの壺にお金を入れます。誰も見ていませんし、多い少ないは問題にはなりません。

 結果的に充分に賄われています。教会らしいことです。

 それから、皆がそろったところで、お祈り又は讃美をもって会が始まります。初めっからお酒は出ませんから、『酔っている者』はいませんし、『空腹の者』もありません。


○ 18節を読みます。

 『まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、

  お互いの間に仲間割れがあると聞いています。

  わたしもある程度そういうことがあろうかと思います』

 『仲間割れがある』これがコリント教会の現実でした。多くの人が、初代教会を理想視し、初代教会の姿に帰ろうと言いますが、実際に聖書に描かれる初代教会の姿は、決して、断じて、理想的な姿をしていません。それとも「初代教会の姿に帰ろうと言」うのは、『仲間割れ』しましょうと言うのでしょうか。聖書のことで、嘘は言わない方が良いと私は考えます。

 パウロが警告していることに、まっすぐに向かい合わなくてはなりません。


○ 19節。

 『あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、

   仲間争いも避けられないかもしれません』

 すごいことが記されています。『だれが適格者かはっきりするためには』、このように言われています。これもうやむやにしてはなりません。

 聖書は、誰でも彼でもみんなが救いに与るなどと言っていません。


○ 20節。

 『それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです』

 ここでパウロは一歩元に戻って発言しています。矢張り、『仲間割れ』はいけません。一致が必要です。

 その一致は信仰による一致のことです。一緒に飲み食いして親しみを増すという意味ではありません。むしろ、飲み食いのことで争いが起こるなら、飲み食いなんか止めてしまえということになります。

 ただし、飲み食いのことで争いが起こるのは、もっと深い所での一致がないからで、飲み食いを止めたところで、一致は戻らないでしょう。初めっからないものは戻りようもありません。


○ 今日の説教題を『一つ釜の飯』としました。私は殆どの場合、その日の聖書の言葉から説教題を採りますので、私としては極めて珍しい説教題です。

 昔は『一つ釜の飯』を食ったとう言い方がなされました。同じ釜の飯とも言います。『一つ釜の飯』を食べると強いつながりになるのは、『一つ釜の飯』を食べるのが、家族だからです。

 『一つ釜の飯』を食べることは、家族と等しいという意味です。

 今日ではあまり使われない表現かも知れません。


○ この『一つ釜の飯』を食べることは、ユダヤ人にとっては決定的に大事なことでした。ユダヤ人にとって、『一つ釜の飯』を食べること、一つの食卓に着くことは家族の印です。ユダヤ人は、異邦人と同じ食卓に着くことはありません。それは罪と考えられていました。今日でも、外食の場合でも、ユダヤ人はユダヤ人の経営する特別なレストランでしか食事しません。それは、カシュルートという律法に適合した食材しか食べてはならないからですが、そもそも、異邦人と食卓を同じくしてはならないからです。

 この点については、以前の説教で、『40人の盗賊』の物語やフィリップ・ロスの『ボートノイの不満』を引用してお話ししましたので、今日はここに留めます。

 

○ 17節。

 『次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。

   あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです』

 食卓に乱れがあるなら、一緒の食事が混乱を引き起こしているのならば、いっそ、止めてしまった方が良いかも知れません。

 では何故、パウロは教会での飲食を禁じなかったのでしょうか。

 食卓を同じくする積極的理由が二つ存在しました。

 理由の1、アガペーです。

 使徒言行録6章1〜2節を引用します。

 『そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、

   ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、

   仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。

 2:そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。

  「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない』

 既に申しましたように、聖書は初代教会の姿を、理想的に描いてなどいません。ここには、はっきり『日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである』と記しています。そういう不満があったではありません。これが事実だと認めた書き方です。

 では何故止めないのか、必要だったからです。教会には、当時としては非常に弱い立場、苦しめられる立場である『やもめたちが』存在したからです。彼女らも信仰の、教会の担い手だったからです。

 ですから、教会は、食卓を閉じるのではなく、正しい食事の在り方を追求しました。これがアガペーです。教会は、正に『一つ釜の飯』を食べる仲間として、家族として成長したのです。そのために、執事を選任しています。使徒たちが『神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない』と判断しました。ですから、執事を選任しました。


○ この理屈は、今日の教会にも、全く当てはまるのではないでしょうか。使徒が、牧師が福祉的な事業に取り組むことが、正しいでしょうか、むしろ、執事を選び、異に当たるべきでしょう。つまり、教会そのものが行うよりも、信仰をもってこの事業に取り組む信仰者が、専門家として取り組むべきでしょう。現に、明治以来の教会は、そのような働きをし、実績も上げてきました。人材を生み出して来ました。

 教会そのものが世のために働くべきだとし、礼拝よりも福祉が大事だと主張した人々は、この働きに貢献したでしょうか。甚だ疑問です。むしろ、紛争以来、教会の力が衰え、福祉の面での働きも後退を余儀なくされています。

 ところで、この執事たちが、皆、伝道のために働き、最初の殉教者とさえなったことも忘れてはなりません。執事ステファノこそが、最初の殉教者です。


○ 理由の二つ目は、11章23節以下に記されています。次週読みます。このアガペーが整えられ、礼拝・聖餐式へと、発展していったのです。

 一致のない食卓を、一致ある食卓へと変えていったのです。

 私たちは、礼拝の中で飲み食いはしません。僅かな分量のパンと葡萄酒をいただくだけです。もはや食事ではなく、礼拝です。聖餐式です。

 しかし、一方で依然として食事であり続けています。パンと葡萄酒をいただきますが、それだけではありません。御言葉という心の糧をいただく食卓なのです。信仰の食事なのです。

 この辺りのことを、次週は詳しく丁寧に読みたいと考えます。


○ 今日は、もう一つのことだけ付け加えまして終わります。

 これは、『教団新報』のコラム・『荒野の声』に書いて、珍しく評判が良かったものです。

▼友人から紹介された推理小説を、半分以上読んだところで、以前に読み終えていることに気付いた。それでも、まだ犯人が分からない。記憶力の衰えに愕然とした。▼教会員のお年を召した方々が、聖書も説教も直ぐに忘れてしまうと、記憶力の減退を嘆く。何十年の信仰生活で蓄えたものは、どこに入ってしまったのかと嘆く。▼その方々に質問した。一ヶ月前の昼食に何を食べたか覚えていますか。勿論誰も答えられない。年齢・記憶力に関係ない。誰も、一ヶ月前の昼食メニューを覚えていない。それでは食べことは無駄だったのか、そんなことはない。栄養になり、体を養ったという事実は動かない。▼御言葉の糧という表現の通りで、聖書の言葉は、私たちの魂を養い育ててくれる。暗記しているかどうかではなく、消化して栄養としているかが問題だ。▼ご飯は毎日三度三度いただく。反復される日常的なもの、珍しくないようなものが真に尊い。