◇9節。 … 兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません。… 一見、何でもないことのようです。『兄弟愛』当たり前のことだから、特に『書く必要はありません』という意味な のでしょう。 しかし、気になります。… 兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません。… つまり、他の事柄につい ては、『書く必要』があったけれども、となります。他の事柄については、書かなければならない理由があったとい う意味にもなります。 実際、パウロの書簡は、特にコリント書に該当しますが、教会員の具体的な質問に答えたものです。ごく実 際的な問題を扱っています。決して抽象的な神学を論じたものではありません。教会の中で起こった具体的な 事柄を、常に取り扱っています。 ◇それなのに、とても大事なことに思われる『兄弟愛』については、当たり前のことだから、特に『書く必要はあり ません』となるでしょうか。書く必要がない程、テサロニケの教会員の中では、当たり前のこととなっていたのでしょ うか。 私には、とても信じられません。 『兄弟愛』こそが、教会にとって大事なもの、決して教会に欠かしてはならないものなのに、それが実現してい ないのが、現実だと考えてきました。5つの教会で、そういうことを、体験して来ました。どこの教会に赴任して も、必ず、教会員の間に、『兄弟愛』もありますが、それと共に、兄弟間の争いがありました。 牧師として働く時に、どの教会でも、兄弟間つまり教会員の争いが、深刻な問題でした。 ◇このことをキチンと考えながら、今日の箇所を丁寧に読んでまいりたいと思います。 9節の後半。 … あなたがた自身、互いに愛し合うように、神から教えられているからです。… 『神から教えられている』、つまり、パウロが教えなくとも、知っていると言う意味になります。直接にはパウロが 教えたのかも知れません。テサロニケには、パウロ以前にも伝道者が入り、神の愛、それに基づく兄弟愛を知っ たのでしょうか。それとも、神さま自身が示してくださったと考えられるような出来事があったのでしょうか。 多分そのようなことではなくて、誰に教わらなくとも、当たり前のこととして知っており、信仰者ならば、それを実 践しているという意味でしょう。また、それ以上に『神から教えられている』、つまり、軽んじてはならないこと、勝 手な解釈の予知などないという意味ではないでしょうか。 しかし、この当たり前のことが、ある意味信仰以前のことが、実現されていないのが教会の現実だと、私は考 えますし、悲しいかな、そういう体験して来ました。 ◇結論を急がず、先を読みます。 10節。 … 現にあなたがたは、マケドニア州全土に住むすべての兄弟に、 それを実行しています。… テサロニケは、豊かな町であり、教会員も経済的に豊かだったようです。そして、『マケドニア州全土』の教会に 対して支援献金をしていたと書いてあります。 これこそが、『兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません。』と言う意味なのでしょうか。その通りか も知れません。その通りなのでしょう。 ◇10節後半。 … しかし、兄弟たち、なおいっそう励むように勧めます。… 具体的にはどういうことでしょうか。ちゃんと献金し、他教会まで援助しているテサロニケの教会員に、もっと献 金額を増やせと言っているのでしょうか。マケドニヤだけではなく、もっと範囲を拡げなさいということでしょうか。 どうもすっきりと納得が行きません。 こんな素晴らしい教会が、そもそもパウロと対立するでしょうか。振り返りになりますが、テサロニケ教会には、パ ウロを批判する人があり、その中には、パウロがエルサレム教会への献金を勝手に使っていると疑う人さえあった ようです。 そのような実態と、10節の表現には、矛盾が聞こえるように感じられてなりません。 ◇これにも結論は出さないで先を読みます。11節。 … そして、わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、 自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。… これは、全然別の話ではないでしょうか。9〜10節とは、全く連続性がないように聞こえます。先ず、一旦1 0節までを忘れて、11節だけを読みます。 『わたしたちが命じておいたように』とあります。ここでは、9節の『神から教えられている』とは違う表現になって います。パウロたちが、テサロニケ教会への戒めとして教えたこと、むしろ命じたことです。それを強調しています。 ◇その教え、むしろ命令とは『落ち着いた生活をし』です。 これが、あらためて戒めたり命令したりすることでしょうか。これを戒めたり命令したりするのは、しなければなら ないのは、『落ち着いた生活をし』ていないからでしょう。それ以外には考えられません。テサロニケ教会の教会 員には、『落ち着いた生活をし』ていない人が多かったのでしょう。 そういう人は何をしていたのでしょう。或いは何をしていなかったのでしょうか。 『自分の仕事に励み、自分の手で働く』ことが、これに該当します。 彼らは、『自分の仕事に励み、自分の手で働く』ことをしないで、他のことをしていたのです。 ◇そのような人が、当時のローマ世界には存在していたようです。それ以前のギリシャにもいました。経済的には 余裕がある暇人が、町の広場やサロンで、政治談義をしたり、信仰談義をしたりしていたという記録がありま す。使徒言行録にも、そんな場面があります。 彼らは、『自分の仕事に励み、自分の手で働く』ことをしないで、それでいながら、献金はして、マケドニアの 諸教会を援助していたのでしょうか。 どうもぴったりと来ません。二つの顔を持つ人もいますが、やはり、大きい矛盾です。 ◇以下は、私の勝手な想像、解釈でしかないかも知れません。しかし、実際に体験したことではあります。 クリスマスには、クリスマス献金を募ります。前任地の玉川教会でも、その前の松江北堀教会でも、献金の 案内を文書で出します。今年の目標額幾ら、その使途は何々に使いますと記します。特に、外部への献金先 を載せます。 そうしますと、「もっと、ここにもあちらにも献金した方が良い」という意見が出ます。それは、結構なのですが、 中には、クリスマス献金は、全額を、社会福祉活動のために献金すべきだという意見が出ます。これも結構な のですが、実際には、クリスマス献金がなくては教会財政が成り立ちません。特に、12月の牧師のボーナスが 賄えません。 多くの教会でクリスマス献金は、普段の財政の赤字補填に使われます。 ◇仕方がないので、前任地の玉川教会でも、その前の松江北堀教会でも、以下のようにしました。外部献金 先は限られますが、その他の募金依頼を、掲示板に張り出します。 「皆さんそれぞれに、直接献金してください」という意味です。 後に、これらの献金先から、報告や領収証が届きます。そこには、外部に献金するべきだと主張した人の名 前は載っていません。名前が載っているのは、むしろ、逆の立場・意見の人です。面白い現象でした。 玉川平安教会では、特別献金の募金依頼はしません。普段の献金だって、教会員の自由意志で、ノルマ のようなことはありません。会堂建築とか、大規模な営繕工事の時には必要になりますが、普段は致しません。 ◇申しましたように、私の勝手な想像、解釈でしかないかも知れません。しかし、当たらずといえども遠からず、 ではないでしょうか。 パウロが言っているのは、痛烈な皮肉かも知れません。テサロニケ教会員の中には、パウロを疑う人がいまし た。そのような人が、献金は、パウロの伝道活動のためよりも、貧しいマケドニアの人々に用いるべきだと主張し たのではないでしょうか。そのように言う人は、実は、どこにも献金しない人です。 それに対して、「とても良いことだ、続けなさい。もっと拡げたらどうですか。但し、他の教会員を当てにするので はなく、『落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働』いて、献金しなさい」、パウロはそう言って いるのではないでしょうか。 ◇12節。 … そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、 だれにも迷惑をかけないで済むでしょう。… 何故こんなことをパウロは言うのか、言わなくてはならないのか。そのような現実、むしろ真逆の現実があったか らでしょう。 『だれにも迷惑をかけないで済む』、つまり、しきりに信仰信仰と口にするけれども、家族や他人に迷惑をかけ る人がいたのでしょう。 『外部の人々に対して品位をもって歩み』、信仰の道を歩いていると言いながら、結果は、品位を損ない、世 の人に、呆れられたり、蔑視されたりする人がいたのでしょう。 そういうことは、信仰が何か、他の人にはない能力だと考えるから生まれてきます。信仰を特権にしています。 世間の人から見れば、それは何の価値もないし、その人は唯の変人です。教会は、変人の集まりではありませ ん。 ◇昔のことですが、私より10歳くらい若い青年と、二人だけの夕礼拝を守っていました。その状況が、半年近く も続きました。何とも辛い礼拝でした。二人だけです。何より辛いのは、讃美歌を歌うことでした。青年は洗礼 を受けたばかり、あまり讃美歌を知りません。 牧師では例外的に音痴な私が、殆ど独唱しなくてはなりません。… …その話になりますと、終わりがなくなりま すから、端折ります。 ある時、「たまにはご飯でも食べていきませんか」と青年を誘いました。夕礼拝が終わるのは8時半ころになり ます。 この人は、「未だ仕事が残っていて、職場に戻らなくてはなりません。」と言います。その時、初めて知りました。 彼は、毎日曜日の夕礼拝にやって来て、往復の時間も入れると2時間以上、職場を抜ける格好になります。 夕礼拝が終わると福祉施設の職場に戻り、夜中まで仕事の続きをするのが常だったのです。毎週そうだったの です。 ◇少しずつ、事情を聞きました。彼の職場はキリスト教の児童福祉施設です。しかし、クリスチャンの職員はあ まりいません。彼以外には、園長とあと二人だけです。彼が洗礼を受けたら、「管理職を目指しているのだろう。 園長になりたいのだろう。」と言う声が聞こえて来ました。実際、そういう例が多いそうです。洗礼を受けると管理 職になります。 そこで、彼は朝の礼拝の時間は職場にいて仕事をしています。日曜日だから休める職場ではありません。彼 は、夜、他の職員が帰ってから、夕礼拝に出て、更に戻って仕事をしていたのです。 クリスチャンの特権にあまんじたくない、普通の人と同様に、それ以上に働きたいと、彼は考えていたのです。 私は、他にも、児童施設で役員などしていましたので、同じような話があることは知っています。この人は、後 に神学校に入り、牧師になりました。今も、現役で働いています。 ◇9節の兄弟愛に戻ります。 最初に申しましたように、赴任した先の教会には、必ず、教会員同士の揉め事がありました。若い時には、こ れが一番辛いことでした。対立する二人の、一方から悪口を聞いても、どちらかに組みすることは出来ません。 適当に避けていると、ややもすればその両方から嫌われてしまいます。 ある人、Aさんにします。Aさんは、「自分が年がいって病気が出たら、きっとBさんの病院で世話になるだろう。 それは悔しいから、阻止して欲しい。入院を勧められても、牧師さんが断って、他の病院に入れて欲しい。」と 約束させられました。ずっと先のことだろうと考えていたのですが、数年後に、現実になりました。 遺言のようにして聞いたことですので、困り果てたのですが、何のことはない、Aさんはさっさと、Bさんの病院に 入院、その病室で、Bさんの茶の間で、毎日一緒にお茶を飲んでいます。そして、二人で、Cさんの悪口を言 ったりしています。 それ以来、私は教会員同士の対立は、きょうだい喧嘩だと思うことにしました。実際、その通りのことが多いよ うです。きょうだいの一方に味方して、一歩の悪口など言おうものなら、結局は、このきょうだいともに、嫌われる ことになります。 ◇パウロが抱えていた問題は、そんな生易しいものではなかったでしょう。それでも、パウロは、この二人ともにき ょうだいと見て、きょうだいとして扱っています。 2024年の教会の集会は、今日の礼拝が最後です。次は、もう新しい年です。そこでも、きっと、諸問題が 起こり、時に教会員同士の意見対立を生むでしょう。 しかし、私はパウロに倣って、一人一人には、「自分の仕事をしてください。自分の信仰を守って未ださい」と 言うだけです。どちらか一方に着くことは、決してありません。 もし大いに対立しても、もし喧嘩になっても、私はどちらか一方に味方しません。中庸を取ることもしません。 争いながらも、自分たちで解決策を見出して貰うしかありません。 |