日本基督教団 玉川平安教会

■2024年11月24日 説教映像

■説教題 「人の言葉ではなく」

■聖   書  テサロニケの信徒への手紙一 2章13〜16節 


◆クリスマスが近づいて来ました。今週土曜日には、準備会を開き、リース・クランツ等の飾り付けを行う予定
です。街には、既にイルミネーションが見られます。一度、東京駅のそれや、テレビに取り上げられるイルミネー
ションを見たいと思っていますが、12月は忙しいので果たせずにいます。今年も難しいでしょうか。

 この頃は、世間のクリスマスの方が盛んで、教会もそれに加えて貰っているかのようです。以前に申しました
が、松江北堀教会の時には、ご近所人に「教会でもクリスマスをするのですか」と真顔で聞かれました。

 北堀町の町内会クリスマスでは、子供一人当り1000円相当のプレゼントがありました。教会学校は予算5
00円でした。30年も昔の話ですが、今はどうなっているのでしょうか。町内会は2000円で、教会は1000
円でしょうか。

 むしろ、子供がいなくて、教会学校のクリスマスは出来ない教会が多いかも知れません。

 また、『物見の塔』など、クリスマスを否定するキリスト教系新興宗教は、決して少なくありません。ロシア正教
の1月6日など、別の日をクリスマスとする教会もあります。決して少なくはありません。何億人にもなります。


◆クリスマスとは何か、イエスさまの誕生日、その通りでしょうが、今日の学問研究では、イエスさまの誕生日は
不明です。何月何日どころか、何年かさえも定かではありません。

 12月25日がイエスさまの誕生日だろうがなかろうが、クリスマスとは、救い主がこの世界に来られたことです。
神が人間の姿になられて、わたしたちのもとにやって来られたという意味です。つまり、福音です。

 もともと福音とは、新しい王となられる方が誕生したと言う意味です。その時に、お城の塔で、ラッパが吹き鳴
らされました。ファンフーレです。これが福音です。


◆福音とは、イエスさまが語られた言葉、或いは業でしょうが、その前に、イエスさまの誕生、存在そのものが福
音です。ですから、イエスさまが語られた言葉、或いは業を記した新約聖書は、そのものが福音です。

 至極単純な三段論法です。約めて言えば、クリスマスは福音、福音はクリスマスです。その福音を記したのが
聖書です。

 ですから、新約聖書のどこを切り取っても、福音であり、そしてクリスマスと無縁な言葉はありません。


◆アメリカのメソジスト教会牧師にして、推理小説家でもあるチャールズ・メリル・スミスは『ランドルフ牧師と堕ち
る天使』の中で、主人公の牧師に、「3ヶ月も前から、クリスマスの説教箇所で悩む」と言わせています。これは
本当です。多くの牧師が、アドベント、クリスマスの礼拝で、どこの箇所で説教するのか悩みます。

 しかし、全く無用な悩みとも言えます。

 聖書のどこの箇所も福音であり、クリスマスとは決して無縁ではありません。

 聖書のどこの箇所も、クリスマス説教が出来る筈です。


◆今日の箇所も決して例外ではありません。13節。

 … このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。

   なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、

   それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。

   事実、それは神の言葉であり、

  また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。…

 クリスマスの出来事を知った人は、体験した人は、先ず驚きました。マタイ・ルカ福音書に登場して、イエスさま
の誕生を知った人々は、先ず驚きました。驚愕のあまり、その事実を否定しようとする人さえありました。

 そして、その意味を知り、心の中で深く考え、そうして、驚きは喜びに変わり、更に感謝となりました。

 これも単純すぎる論法かも知れませんが、感謝がない人、喜びのない人、驚きのない人、それは、本当には
クリスマスを知らない人です。


◆大昔の子どもたちは、クリスマスの時、プレゼントを貰って、驚き、喜び、感謝したと思います。当時の子供た
ちは、クリスマスの神学的意味など知らなかったけれども、クリスマスの、驚き、喜び、感謝は体験したと思いま
す。

 今は、その驚き、喜び、感謝は、薄められてしまいました。プレゼントに満足した子と、不満な子と、どちらが多
いでしょうか。プレゼントを貰うことが、当たり前になったら、そこには、驚き、喜び、感謝は、最早ありません。

 何万円もするゲームセットを貰った子供と、一枚のパンを貰った、飢えている子供と、どちらの方が、驚き、喜
び、感謝が大きいだろうかという話です。


◆テサロニケの教会員も、当初は、驚き、喜び、感謝に溢れました。パウロの弁舌が素晴らしく感動的だったこ
とも事実でしょう。しかし、本当の感動は、パウロが伝える福音を

 … 人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。…

 パウロ自身がそのように言うのです。パウロの弁舌の成果ではありません。福音だからです。福音とは、『人の
言葉として』聞くことではありません。『人の言葉として』聞いたら、やがては感動が薄れ、当たり前になり、それど
ころか、不平や不満が忍び入って来ます。残念ながら、必ずそうなります。悪魔はそのようにして働くからです。

 『人の言葉』に感動する人は、実は、非常に危ない局面に立たされています。その瞬間には、感動・感情の
極みの、その一番高い所に立っているのでしょう。周囲の景色が良く見えるでしょう。何でも良く見通せる、分
かったと思うかも知れません。しかし、その人の背中には、断崖絶壁があります。ほんの一歩だけでも後ずさりし
たら、転落します。

 そして信仰の死を迎えます。


◆人間の言葉だけを聞いてはなりません。だから、わたしたちは、聖書を読みます。それが、聖書を、聖書その
ものを読む理由です。

 かつてのローマ・カトリックの信者たちは、聖書を読みませんでした。読めませんでした。何しろ、識字率が低
く、読み書き出来る人は限られていました。聖書を記したラテン語やギリシャ語となると、領主階級でも無理で
す。領主階級の女性たちだけが、読み書きに通じていたそうです。

 『人の言葉』に教えられるのではなく、聖書を直接に読み、自分で考え、神の言葉として聞き、受け止めるの
は、宗教改革の信仰です。

 13節の後半をもう一度読みます。

 … それは神の言葉であり、

  また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。…

 神の言葉だから、『あなたがたの中に』、つまり、教会の中に、そして一人一人の信者の心の中に働きます。

 それでは具合の悪い人がいました。そういう人は、「俺の言葉を聞け」と言います。聖書ではなく、パウロにで
はなく、「俺の言葉を聞け」と言います。それはもはや人間の顔をしたサタンです。昔の祭司や牧師にはそのよう
な人がいました。今はどうでしょうか。


◆14節前半。

 … 兄弟たち、あなたがたは、ユダヤの、

   キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました。…

 テサロニケ書ではあまり出て来ませんが、パウロは、ユダヤ主義者、律法主義者に苦しめられました。パウロか
ら洗礼を受けてキリスト教に入った人が、もともと異邦人だった人が、ユダヤ教に惹かれてしまいます。いろいろと
理由があります。しかし、一番単純には、人間にはそんな心理があります。キリスト教がユダヤ教から生まれたこ
とは否定しがたい事実です。そうしますと、ユダヤ教の方が本場物という気がするのです。

 そこまで行かなくとも、エルサレム教会に心惹かれた人は少なくなかったと思います。なにしろ、イエスさまの兄
弟ヤコブが、その指導者です。


◆14節後半。

 … 彼らがユダヤ人たちから苦しめられたように、

   あなたがたもまた同胞から苦しめられたからです。…

 エルサレム教会に倣うのは、結構なことでしょう。しかし、エルサレム教会の何に倣うのでしょうか。その権威で
はありません。伝統でもありません。

 倣うべきは、エルサレム教会が体験した苦難です。今も続く、苦闘です。

 本当にエルサレム教会が大事ならば、支えなくてはなりません。しかし、その具体的な支えはせずに、ただ、パ
ウロを批判するために、エルサレム教会を持ち出すのは、歪んだ論理です。悪魔の論理です。

 効率のために、コリント教会のことと、ごっちゃにしてお話ししますが、パウロは、伝道面どころか、多くの難民を
抱えて経済的にも苦難するエルサレム教会のために、献金を集めて、支えようと働きました。

 しかしそこに、「パウロは献金を自分のものにしている」という、とんでもない批判が出ました。事実無根です。
そんなことを言う人は、自分が献金したくなかっただけでしょう。献金したくなかったならば、しなければ良いのに、
それを正当化したいがために、パウロを泥棒呼ばわりしたのです。これは、とても信仰者の姿ではあります。

 むしろ、サタンの働きです。


◆聖書のどの箇所も、クリスマスと無縁ではないと申しました。無縁ではありません。それどころか、クリスマス記
事に直結しています。14節後半を、もう一度読みます。

 … 彼らがユダヤ人たちから苦しめられたように、

  あなたがたもまた同胞から苦しめられたからです。…

 クリスマスの物語は、ハッピーな人たちの物語では、決してありません。様々に理由で苦しむ人の身の上に起
こった出来事です。苦悩からの解放が告げられますが、一方、あのクリスマスの場面で、直接何かしら恩恵を
受けた人は一人もありません。マリアとヨセフは、エジプトに逃亡しなくてはなりませんでした。ヘロデ王による虐殺
さえ起こりました。

 クリスマスの出来事は、既に申しましたように、新しい王の誕生物語です。新しい王と共に、新しい国民が生
まれます。その国民は、新しい王の下で立身出世したわけではありません。むしろ、苦難の道を歩き始めること
になります。


◆クリスマス物語は、マリアとヨセフがローマの住民登録をするために旅立つことから始まりました。初代のキリス
ト者は、洗礼を受け、神の国の住民として登録されました。ローマの市民権を獲得する以上の光栄でした。し
かしそれは、苦難の旅でもありました。

 15節。

 … ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく、

   わたしたちをも激しく迫害し、神に喜ばれることをせず、あらゆる人々に敵対し、… この迫害の下で、キリス
ト者は誕生し、教会は育ち、やがてはローマの人々に受け入れられ、国教と認められました。

 苦難を負わない所に、苦難を負わない者に、真の喜びはありません。

 日本ほど、熱心にクリスマスをお祝いする国は、世界でも珍しいのですが、日本人が受け入れるのは、クリス
マスの喜ばしい側面だけです。楽しい面だけです。

 それだけは、本当クリスマスではありません。


◆16節。

 … 異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げています。

   こうして、いつも自分たちの罪をあふれんばかりに増やしているのです。…

 意地の悪い言い方に聞こえるかも知れませんが、日本のクリスマスはクリスマスではありません。むしろ、本当
のクリスマスを妨げています。クリスマスの意味が、福音が説かれることを妨げています。

 アンデルセンの『マッチ売りの少女』、どなたもご存じの話です。しかし、多くの人は、アンデルセンの作品が高
度に聖書・キリスト教神学に裏付けされた作品であることは知りません。『マッチ売りの少女』は、大晦日の夜、
寒さに凍え、一本のマッチの火に暖を求め、幸せなクリスマスの光景、むしろ、天国の様子を垣間見ます。一
本のマッチの火が灯されている間の、その瞬間だけ、神の国を見ます。


◆これこそがクリスマスです。闇の中で、神の国の光を覗き見ることがクリスマスです。 街に溢れるイルミネーシ
ョンの、まぶしいばかりの光が、光の洪水が、真のクリスマスを見えなくしてしまっているのではないでしょぅか。危
惧します。闇を見ようとしなければ、光は全く見えません。闇から目を背けたら、光は消えてしまいます。

 世間のことはよろしいとして、わたしたちの教会はどうでしょうか。肝心なクリスマスの光が見えているのでしょう
か。

 幾つかの教会で、クリスマスに料理のメニューのことで争う、蝋燭の点灯の順番で揉める、そんな現実を体験
しました。

 そんなことをしているようでは、教会は、真の闇を見ていないし、当然、教会に、真の光は見えないのではない
かと、危惧せずにはいられません。