◆初めて教会にいらした方もおられるかと思います。久し振りの人もありますでしょう。そういう方は、クリスマスら しいと言いますか、天使や博士や羊飼いが登場する場面を期待されたかと思います。 毎年出席される人も、同じでしょうか。毎年のクリスマス、必ずのように読まれる聖書個所があります。だから こそ、その博士たちに、羊飼いたちに、一年ぶりに会いたい思いで、ここにおられるかも知れません。それは、大 事な思いでしょう。 今日の箇所は、詩編46編です。クリスマスらしくないと映るでしょうか。クリスマスらしい言葉も、クリスマスっぽ い登場人物もありません。 しかし、がっかりしないでください。この詩編には、実は、クリスマスが詰まっています。クリスマスが凝縮されてい ます。 ◆先ず、その極まり、10節をご覧ください。 … 地の果てまで、戦いを断ち 弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。… 平和の実現、戦争の終わり、これこそがクリスマスの原点です。クリスマスとは、則ち平和のメッセージです。 新しいかつ正統な王の誕生で、世に平和が、正しい秩序がもたらされる、これがクリスマスの告げる福音です。 毎年のようにお話ししますが、ルカ福音書に登場する羊飼いたちは、労苦が多く、にも拘わらず報いが少ない 仕事を強いられていました。一方、彼らは、日頃から、鞭、弓矢、槍などの武器を使い慣れています。集団行 動も出来ます。 彼らは、新しい王が誕生したという知らせを聞いて、駆けつけます。新しい王には新しい軍隊、彼らは直ちに 王の親衛隊に雇われても不思議ではありません。ダビデ王は、羊飼いから身を起こして、王となりました。このダ ビデ王こそ、キリストの一つの原型です。 更に、そこに天使の軍勢が現れました。天使と羊飼いが一緒になって、都を攻め滅ぼし、王位に就くのが、普 通の物語の展開です。しかし、天使の軍勢は、平和の讃美を歌います。羊飼いたちは、御子を拝んだだけで 満足し、元の辛い仕事場へと戻って行きます。 この不思議な物語と、詩編46編10節とは、全く重なります。 新しい王は、新しい強力な軍備を持つことはありません。逆に、『地の果てまで、戦いを断ち 弓を砕き槍を 折り 盾を焼き払われる。』のです。 ◆9節に戻ります。 … 主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。… 武力を用いることはありません。しかし、この新しい王の権威は、絶対的なものがあります。ですから、人々 は、その前に跪きます。丁度、マタイやルカの登場人物が、御子の前に額ずいたように。ある意味で、これらの 人々は、新しい王に屈服したのです。その権威に従ったのです。 強い外国の王がせめて来て、とても敵わない、敵対出来ないと判断すれば、軍隊は武器を捨てて、恭順しま す。 武器を持ち続けたなら、降伏していないと見做され、攻撃されます。命を奪われます。 ◆11節。 … 「力を捨てよ、知れわたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」… マタイやルカに描かれる のは、この場面なのです。 サタンに隷属して戦い、平和を願う人々を苦しめていた悪の軍勢が、武器を捨てて降伏した場面なのです。 サタンの軍、つまり戦争を繰り返す軍隊から離脱して、神の、つまり、平和の軍隊へと帰順した物語です。 逆に言えば、神さまに着く、平和に着くと言うことは、武器を捨てることです。 これも毎年のように繰り返すお話しですが、マタイ福音書の博士たちとは、占星術の専門家です。聖書の言 葉ではマギーです。占星術にしてもましてマギーと言いますと、いかがわしい響きがあります。しかし、元々は、天 文学です。星や月の運行を調べて、暦を読み、種蒔きの時や刈り入れの時を占ったのが始まりです。 これは、いろんな古代文明の全てについて当て嵌まりますし、日本でも大王の時代は、そんなものです。彼ら は、その知識で、王や貴族の地位に就きました。 ◆文字が使われるようになり、天文学も進歩し、暦が記されるようになりますと、各地の占星術者は、最早無 用の存在になります。権威が通じなくなり、権力を失い、地位を追われます。これも、いろんな古代文明の全 てについて当て嵌まりますし、日本も決して例外ではないかも知れません。 この、かつての権力者は、その地位を取り戻すべく、機会を狙っていたことでしょう。そのための、武器や、資金 を蓄えていたかも知れません。 マタイ福音書の博士たちは、その宝物、黄金、没薬、乳香を、幼子の元に捧げました。武器を捨てるのと同 じです。恭順しました。降伏しました。 しかし、彼らも、羊飼いと同様に、喜び、満足して家路に就きました。つまり、彼らの、願いは叶ったのです。 何が叶ったのか、不正に権力を握り、王を僭称するサタンの末裔ではなく、真の王が誕生したからです。最 早、武器を持って戦う必要がなくなったからです。 ◆12節。 … 万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。… もう戦争は終わり、武器を持って戦う時代は去りました。武装していなくとも、町は安全です。 イスラエルの村や町は、丘の上に、山の上に作られました。山の上に町があり、家々がありますから、当時の 女性たちは、山の麓まで、毎日毎日水汲みに通わなくてはなりません。その様子は、ヨハネ福音書2章から、 窺い知ることが出来ます。不便なのに何故、山の上に家を建てるのか、敵の攻撃から守るためです。 村や町が小さな砦でした。しかし、その砦が、アッシリアやバビロン、エジプトのような強力な軍隊から、村人を 守ってくれることはありません。むしろ、敵は、山の上の灯りを目当てに襲ってきます。マタイ福音書の山上の垂 訓からも、それを窺うことが出来ます。 ◆最早砦は、山の上の町は、必要ありません。新しい砦が築かれました。その砦の中に、『万軍の主はわたし たちと共にいます。』、ここにはそのような意味が込められています。 2節に戻ります。同じことが記されています。 … 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。 苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。… これがクリスマスです。 馬小屋の中に眠る幼子は、武器など持ちません。幼子を守る兵隊も要りません。 兵士たちは、武器を捨て、持っている力を、権力をも、この幼子に捧げました。それが、クリスマスの意味で す。 ◆3節。 … わたしたちは決して恐れない 地が姿を変え 山々が揺らいで海の中に移るとも… 2024年は、このような情景がテレビ画面に映ることから始まりました。 人間の力の、何とも、無力なこと、それを元日から思い知らされました。 私たちは、富山二番町教会の勇文人牧師を、玉川平安教会教会創立88周年記念礼拝の説教者として 迎える予定でした。かつて、この教会で神学生として過ごされた方です。前回の能登地震の時には、輪島教 会にあって、大きな苦難を体験された方です。 この先生から、学ぶことは多いだろうと思いました。教会の再建について、学ぶことが出来るだろうと考えまし た。 しかし、直前に癌が見つかり、亡くなるまでに、あまり時間もありませんでした。電話でお話しした一週間後 に、亡くなりました。 遠い地での出来事が、私たちの身近な問題になりました。 能登の諸教会から、未だに、会堂建築または修築の募金依頼はありません。まだ、そこまでに、復興してい ないのでしょう。来年になるか、再来年になるか、その時が来たならば、私たちも、懸命に応援したいと思いま す。 ◆2024年は、2024年も、でしょうか。戦争に明け暮れる年でした。所謂ウクライナ戦争は出口が見えませ んし、中東の紛争は、ますますややこしく、深刻な様相を呈しています。お隣の韓国も、私たちには一寸理解 出来ないような事態になっています。 しかし、我が日本の国の方が、より深刻な事態を迎えているのに、それを意識していないだけかも知れませ ん。真っ正面から見ていないだけかも知れません。 私たちの命を、生活を守る砦はありません。どこにもありません。『避けどころ』はありません。『苦難のとき、必 ずそこにいまして助けてくださる。』人はいません。 ◆正に、『地が姿を変え 山々が揺らいで海の中に移る』そんな時代になっています。 4節。 … 海の水が騒ぎ、沸き返り その高ぶるさまに山々が震えるとも。… そんな時代になっています。否、およそ 人間の歴史が始まって以来、ずっとそんな時代だったのでしょう。 その時に、そんな時代に、私たちの時代より も、もっと切迫した危機が目の前にあった時代に、この詩編は読まれました。 決して、安定した平和が続いた時代ではありません。イスラエルの歴史にそんな平和な時代はなかったかも知 れません。 最近作品が相次いで映画化され、人気が復活したH.G.ウエルズの『解放された世界』に、こんな言葉が ありました。40年ぶりに読み返しました。 〜原始人は猛烈に戦闘好きな動物であった。以後、数え切れない世代にわたって人間は、部族戦争に明 け暮れしてきた。〜 誰も反論出来ないでしょう。人間はそうした動物です。平和から、一番遠い動物です。 ◆5節。 … その高ぶるさまに山々が震えるとも。 大河とその流れは、神の都に喜びを与える いと高き神のいます聖所に。… そんな人間に平和が告げられたのが、平和が神さまの意志だと告げられたのがクリスマスです。神の言葉の 前にひれ伏すことの他に、平和への道はないと示されたのが、クリスマスです。 ◆6節。 … 神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。 夜明けとともに、神は助けをお与えになる。… 『神はその中にいまし』、これが平和の根拠です。それだけが平和の根拠です。武力に、特に、核武装に平 和の根拠を見出そうとする主張もあります。どうでしょうか。 かつて発明されたけれども、使われなかった武器はありません。ウエルズの『解放された世界』にも、そのような くだりがあります。 ロシアがベラルーシに、ミサイルを、もしかしたら核搭載ミサイルを供与するのではないかとニュースになっていま す。 アフガニスタンの前近代的な武装しかなかった人々に、最新の武装を与えたのは、そもそも誰だったのか、忘 れてはなりません。 ウクライナに武器を提供する欧米だって同じことでしょう。 『解放された世界』では、ソビエトを警戒する英仏が、ドイツに再軍備を認めたことが、最終戦争を招いたこと になっています。パリ、ベルリン、オランダに、原爆が投下され、全世界が破壊されました。 この小説は、ナチの台頭を織り込んでいません。それでは、ウエルズの預言は外れたのか、否、当たっている かも知れません。 武器を、核武装を捨てなければ人類に未来はないという、ウエルズの予言は、今日、むしろ信憑性を増して いるかのようです。第2次世界大戦は、最終戦争ではなかったようです。第3次世界大戦こそが、最終戦争に なるのでしょうか。 ◆7節。 … すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。… 『神が御声を出される』前に、核の力によって、世界は『溶け去る』のかも知れません。 だから、私たちは、『神が御声を出される』のを待ち望みます。神の声が、言葉が、人々の心に届くようにと願 い祈ります。それが、キリスト者の勤めであり、クリスマスの意味です。 ◆8節。 … 万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。… 神がこの世界と共におられると言うのが、キリスト者の信仰であり、神がおられるならば、そこは安全な砦だと 言うのが、私たちの信仰です。「神さま、私たちと共にいてください。私たちの教会に共にいてください。」が、私た ちのクリスマスの祈りです。 クリスマスの出来事から2000年が経ち、しかし、戦争の噂は絶えません。戦争に備えることが平和への道だ と信じる人が、今もいます。 だからこそ、私たちはクリスマス礼拝を守り、平和のメッセージを伝えています。 |