◆今日の箇所で、先ず目に入ったのは、5節の『もはやじっとしていられなくて』でした。何度繰り返し読んでも、 この表現が耳に残ります。 5節。 … そこで、わたしも、もはやじっとしていられなくなって、 誘惑する者があなたがたを惑わし、 わたしたちの労苦が無駄になってしまうのではないかという心配から、 あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを派遣したのです。… 『じっとしていられなくなって』、いかにも使徒パウロらしくない印象です。どんな困難に出遭っても、毅然として 動揺しないのが、パウロだと思います。 使徒言行録27章34〜36節。 … 34:だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。 あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」 35:こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、 それを裂いて食べ始めた。 36:そこで、一同も元気づいて食事をした。… これが普段のパウロです。難波しかかっている船の中でも動揺することはありません。神さまの使命が与えられ ているのだから、必ず、目的地に辿り着くと信じて疑いません。船乗りが絶望する時にも、平然とし、ここでは、 ご飯を食べるように勧めます。人間、絶望すると食べることが出来なくなります。しかし、ご飯を食べなければ、 確実にこの先はなくなります。 『生き延びるために必要だからです。』とパウロが言う通りです。 ◆そして、パウロは、 … 一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、 それを裂いて食べ始めた。… 食事ですが、パウロ自身が一コリント書で説いた聖餐式の作法と同じです。単なる食事ではありません。これ は聖餐式です。 この出来事自体が、わたしたちにとっては、大事な教訓です。嵐に飲み込まれそうになっている教会は、何を なすべきなのか、聖餐式、礼拝を守り、御言葉をいただくしかありません。非常時なら、尚更のこと、普段の礼 拝を守り続けなくてはなりません。 ◆そのようなパウロが、何故、この時は、『じっとしていられなくなって』しまったのでしょうか。何故、普段の様子と は違うのでしょうか。パウロも人の子だからと言えば、それも説明でしょうが、一寸違うと考えます。 『じっとしていられなくなって』しまった理由が、記されています。 … 誘惑する者があなたがたを惑わし、 わたしたちの労苦が無駄になってしまうのではないかという心配から… 『わたしたちの労苦が』です。前回申しましたように、パウロ個人のことではありません。教会です。教会の業が 『無駄になってしまうのではないかと』心配したのです。 その結果は、勿論、教会に集っている者は、救いから漏れてしまいます。パウロの危惧は、心配は、その一点 です。 パウロは、このことのために動揺しています。最早何時もの、堂々とした姿勢はありません。『じっとしていられな くなって』しまって、部屋の中をウロウロ歩き回っています。 ◆そこで、パウロは何度も繰り返し申しますが、『じっとしていられなくなって』しまって、『あなたがたの信仰の様子 を知るために、テモテを派遣したのです。』 自分では行くことが出来ません。それがどんな結果を生むか、自信がありません。却って拗らせてしまわないか と、迷っていました。代わりにテモテを派遣しました。如何にも、自信のない、行為です。全くパウロらしくありませ ん。みっともないと見える程です。 そのテモテは、テサロニケの教会員に何を伝えたのでしょうか。どんな話をしたのでしょうか。パウロ自身よりも、 もっと説得力のある話をしたのでしょうか。テモテには、パウロに勝る神学的能力があったのでしょうか。信仰の力 があったのでしょうか。 それとも、諄々と事情を説明したのでしょうか。その内容は記されていません。 これは私の推測でしかないかも知れません。しかし、ほぼ間違いないと考えます。 テモテは、他のことよりも、パウロの心労について話したのではないでしょうか。パウロがテサロニケの教会員の 離反のために、どんなに苦しめられているかを話したのではないでしょうか。 ◆6節。 … ところで、テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て、 あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました。 また、あなたがたがいつも好意をもってわたしたちを覚えていてくれること、 更に、わたしたちがあなたがたにぜひ会いたいと望んでいるように、 あなたがたもわたしたちにしきりに会いたがっていることを知らせてくれました。… テモテの派遣は劇的な効果を上げました。 単に誤解が解けたのではないと思います。もし、誤解だったのなら、パウロは無駄な心配をして苦しんでいたこ とになります。誤解ではなく、テサロニケの教会員が悔い改めたのです。テモテから、パウロの苦しみを知らされ、 自分たちの言動を振り返り、間違いを自覚し、悔い改めたのです。 テサロニケの教会員の何人かではありません。それが多数だったということでもありません。教会が悔い改めた のです。パウロを信任する票が、パウロを不信任する票を上回ったという次元の話ではありません。 ◆これは、完全に私の推測ですが、当たっていると思うから申します。 テサロニケの教会員の全員が、パウロに背いたのではありませんでした。背いたのは一部の人でしょう。しかし、 他の人は、黙ってしまったのです。もしかすると、彼らなりに、普段は教会にいないパウロよりも、常に教会にい て、現実に教会を担っている反パウロの教会員に遠慮したのではないでしょうか。彼らなりに、教会を守ろうとし たのではないでしょうか。 しかし、テモテから、パウロの様子を聞き、知らされ、本当に教会を思い、教会を愛しているのは誰かと、思い 至ったのではないでしょうか。 聖書に記されていないことを、見て来たかのように強調してはいけないかも知れませんが、私個人としては、こ の推測は外れていないと考えます。 ◆7節。 … それで、兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、 あなたがたの信仰によって励まされました。… この文面通りならば、パウロの心配は杞憂だったことになります。無駄な心配をして、苦しんでいたことになりま す。パウロがそんな人だったとは、とても考えられません。 パウロが心配し、『もはやじっとしていられなくなって』しまった理由が杞憂である筈がありません。矢張り、現実 の危惧が存在したのに違いありません。 しかし、今パウロは、『あなたがたの信仰と愛について』と言います。パウロを批判する人がいました。悪し様に 言う人がありました。しかし、『信仰と愛』が、それを乗り越えたのです。正しい道に立ち帰ったのです。 その結果は、今度はパウロの方が、『あなたがたの信仰によって励まされました』と言います。パウロが置かれて いる困難は変わりません。しかし、テサロニケの教会員が正しい信仰を選び取ったことで、『励まされました』と言 うのです。 ◆来週の箇所にはみ出していますので、元に戻ります。 3節。 … このような苦難に遭っていても、 だれ一人動揺することのないようにするためでした。… これがテモテを派遣した動機です。そして、テサロニケの教会員の現実でした。彼らは動揺していました。パウ ロが投獄されたり病を得たりしたからです。 先々週このことに触れました。パウロの受けた苦難を知って、勿論同情した人もいたでしょうが、「パウロには、 神さまの恵みが与えられていない」と思い、躓いた人もいました。更には、「パウロの言動に問題があるから、そ のような事態に陥ったのだ」と批判する人もいたようです。 テサロニケの教会員が動揺したのです。それを聞いたパウロが、このままでは彼らは信仰から離れてしまうと危 惧し、そして、『じっとしていられない』程に、動揺したのです。 ◆もっと遡ります。2章18節。 … だから、そちらへ行こうと思いました。 殊に、わたしパウロは一度ならず行こうとしたのですが、 サタンによって妨げられました。… 『サタンによって妨げられました』とは、どういうことなのか、記されてはいません。自宅に軟禁状態になってい て、外出が許されなかったのでしょうか。パウロは何度もそのような目に遭いました。 健康が許さなかったのでしょうか。そうかも知れません。パウロは幾つも病を抱えていたようです。しかし、パウロ ならば、病を押してでも出掛けるでしょう。 はっきりしませんが、もっと深刻な妨げがあったのでしょう。それをパウロは、『サタンによって妨げられました』と表 現しているのです。 妨げは、パウロの事情ではなく、テサロニケの教会員の側にあったのではないでしょうか。訪ねたら拗れるような 懸念があったのではないでしょうか。それをパウロは、『サタンによって妨げられました』と表現しているのです。 パウロはテサロニケの教会員を思いやっています。庇っています。 ◆19節。 … わたしたちの主イエスが来られるとき、 その御前でいったいあなたがた以外のだれが、 わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。… 『わたしたちの』とは、直接にはパウロの宣教団のことです。『あなたがた』とは、テサロニケの教会員のことです。 パウロの宣教団による、伝道の業の実りが、『希望、喜び、そして誇るべき冠』です。 ◆20節。 … 実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです。… こういうパウロだから、テサロニケの教会員に問題が起こった時に、3章1節、『もはや我慢できず』だし、5節、 『わたしも、もはやじっとしていられなくなって』となったのです。 自分自身の心配ではありません。自分自身の利害ではありません。テサロニケの教会員が間違った方向に 歩き出し、救いの恵みから外れてしまうことが、心配だったのです。その心配は、あのパウロをして、『じっとしてい られなくなって』しまう程に、狼狽させたのです。 ◆2章17節に戻ります。 … 兄弟たち、わたしたちは、あなたがたからしばらく引き離されていたので、 ――顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですが―― なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました。… パウロはテサロニケの教会員に直接会うことが出来ないことで、心配しました。これは、テサロニケの教会員の 方にこそ、当て嵌まるでしょう。 パウロに直接会うことが出来ないことで、不安であり、不満になり、不信にさえなったのかも知れません。 これも私たちにとって大事な教訓です。パウロやテモテが側にいて、励ましてくれる時には、安心しているけれど も、側にいないと不安になり、不安であり、不満になり、不信にさえなってしまう、これでは、本当の信仰とは言 えません。 ◆十字架に架けられたイエスさまは、復活して天に昇られました。今は、聖霊がわたしたちと共にいてくれます。 その聖霊が信じられなければ、不安にも、不満にも、不信にもなるでしょう。 信じられない人は、自分の身の回りに偶像を置きます。何時でも手で触れることが出来、何時でもそれに向 かって祈ることが出来る偶像を置きます。そして、日々の御利益を求めます。日々の御利益がなければ、不安 にも、不満にも、不信にもなります。世の人は、このような人を信心深い人と呼びますが、それはキリスト教信 仰ではありません。 それは本当の信仰ではありません。御利益信仰です。 本当の信仰を持った人は、不安にも、不満にも、不信にもなりません。傍らに、聖書があります。聖霊の見守 りがあります。 信仰を持っている人は、自分の身を案じるのではなく、教会の行く末を思います。教会に集う人の、『信仰と 愛』を心配します。そして、他の教会員が健全な信仰生活を送っていることを、感謝し、喜び、誇りと思いま す。それが『教会を信ず』ということでしょう。 |