日本基督教団 玉川平安教会

■2024年12月8日 説教映像

■説教題 「行く道を開いてください」

■聖   書  テサロニケの信徒への手紙一 3章6〜13節 


◆6〜7節は、先週の説教で、既にはみ出す格好でお話ししています。

少し振り返ります。


使徒パウロは、テサロニケ教会との関係が拗れて、苦悩していました。パウロの信仰・神学に否を言う人が、他
の教会員を扇動した結果です。仕舞いには、パウロが様々な苦難を受けているのは、彼が間違っているからだ
と言い、更には、エルサレム教会への献金の使途に不明があるとまで言い出したようです。

パウロは、『もはやじっとしていられなくなって』、テモテを派遣しました。自分が出掛けたら、強い反発を招き、却
って問題が拗れると判断したのでしょう。


◆ところが、テサロニケ教会から戻ったテモテは、意外なほどに嬉しい知らせを携えて来ました。6節を読みます。

… ところで、テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て、

 あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました。

 また、あなたがたがいつも好意をもってわたしたちを覚えていてくれること、

 更に、わたしたちがあなたがたにぜひ会いたいと望んでいるように、

 あなたがたもわたしたちにしきりに会いたがっていることを知らせてくれました。… 簡単に約めて言いますと、テ
サロニケ教会は、悔い改めて、パウロの元に立ち帰ったのです。正しい信仰の道筋に戻ったのでした。


◆ここは私の推測が混じりますが、外れてはいないと思います。テサロニケ教会が、悔い改めて、とも言えます
が、多くの教会員は、パウロに対する信頼を持ち続けていました。しかし、声の大きい一部の人に、扇動されて
いたのです。

教会に集うような人は、性格も穏やかで、平和を、優しい人間関係を望む人が多いと思います。おそらくは、
現代の教会がそうであるように、パウロの時代の教会員も、平和を望んでいたと考えます。

それは、とても良いことでもありますが、一寸間違うと、声の大きい一部の人に、それも、正しく信仰の道を歩い
ておらず、パウロが否定した律法主義や、割礼主義に心寄せる人に扇動されてしまいます。現代の教会には、
律法主義や、割礼主義の人はいないと思いますが、現代こそ、何とか主義かんとか主義、が教会に入り込み
ます。性格も穏やかで、平和を、優しい人間関係を望む人が、これらの異端を受け入れるのではないけれど
も、異端を説く人を受け入れてしまいます。


◆私は、『教団新報』主筆として、『教団出版局長』として15年間、教団の仕事に関わり、多くの教区や教
会を訪ねました。いろんな人に会いました。

その中で、似たような問題に悩む牧師や教会員から話を聞きました。それこそ、秘守義務に抵触するような話
ですので、詳しくは言えませんが、教会員が牧師を排斥する、牧師が教会員を戒規にかけるのが、流行のよう
になっています。

パウロのように『じっとしていられなくなって』、牧師室をウロウロ歩き回っている牧師が少なくないのではないかと
思ってしまいます。

クリスマスのような忙しい時期になりますと、そういうことが増えます。本当は、クリスマスこそ、心を平和に保って、
教会のみならず、世界の平和のために祈るのが教会の務めでしょう。


◆一寸乱暴な推論を言っているように聞こえるかも知れませんが、パウロは、コリント書で、テサロニケと同じよう
な、酷似したような問題を扱っています。ですから、この推測は、外れてはいないと思います。


7節。

… それで、兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、

 あなたがたの信仰によって励まされました。…

6節に記されているテモテの報告に触れて、パウロは大いに喜びました。

ここでも、『わたしたちは』と言っています。パウロ一人の喜びではありません。教会の喜びなのです。教会とは、
テサロニケを離れたパウロが今現在働いている教会と言う意味ではありません。もっと大きい、教会全体のこと
です。キリスト教全体のことです。当時はそんな言葉はありませんが、目に見えざる教会、全体教会のことで
す。

このクリスマスの時こそは、教会は平和であって、喜びに満ちていなくてはなりません。そうでなくて、どうして、平
和の福音を世の人々に向かって語ることが出来るでしょう。


◆今までお話ししたのは振り返りであり、同時に前置きでした。

肝心の8節以下を読みます。

… あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、

 今、わたしたちは生きていると言えるからです。…

不自然な日本語です。日本語として成立していないとさえ言えますでしょう。しかし、言わんとすることは良く分
かります。

テサロニケの教会員が『主にしっかりと結ばれているなら』、パウロたちも、生き生きとして生きています。


5節。

… 誘惑する者があなたがたを惑わし、

わたしたちの労苦が無駄になってしまうのではないかという心配 …

こんな心配はもう要らなくなったのです。


◆蛇足を覚悟で申します。

そうでなければ、教会員が『主にしっかりと結ばれてい』、ないなら、その教会は、生きているとは言えません。

パウロのような伝道者・牧会者が、『労苦が無駄になってしまうのではないかという心配』を抱えていなければな
らないようなら、その教会は、生きているとは言えません。

少なくとも、生き生きとしてはいません。生き生きとしていない教会は伝道など出来る筈がありません。何故な
ら、伝道とは、神と共に生きる平和を、喜びを、世の人に伝えることだからです。

当たり前のことだけに、私の言葉で説明するのではなく、聖書を引用します。


詩編149編1〜5節。

… 01.ハレルヤ。新しい歌を主に向かって歌え。

主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌をうたえ。

02.イスラエルはその造り主によって喜び祝い

シオンの子らはその王によって喜び躍れ。

03.踊りをささげて御名を賛美し 太鼓や竪琴を奏でてほめ歌をうたえ。

04.主は御自分の民を喜び 貧しい人を救いの輝きで装われる。

05.主の慈しみに生きる人は栄光に輝き、喜び勇み

伏していても喜びの声をあげる。…


◆もう1箇所引用します。詩編133編1〜3節。

… 01.見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。

02.かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り 衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り 03.ヘルモンにおく露のように
 シオンの山々に滴り落ちる。

シオンで、主は布告された 祝福と、とこしえの命を。…

教会の中には、喜びと感謝があります。同じ信仰の兄弟の交わりがあります。

厳しい言い方をすれば、この喜びと感謝がない所は、本当に教会と言えるでしょうか。兄弟の交わりがない所
は、本当に教会なのでしょうか。


◆9節。

… わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。

 この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか。…

パウロたちは、テサロニケの教会員が立ち帰ったことで喜び、感謝しています。教会には、これに勝る喜びはあり
ません。

逆の角度で見れば、こういうことを喜ぶことが出来るのが、教会であり、一人一人の信仰者です。もっと具体的
に言えば、教会に新しい人がやって来た、洗礼を受けた、これに勝る喜びはありません。これを、心から喜ぶ人
が教会を作り上げるのです。

逆であってはなりません。

悲しいかな、そんな現実があります。そんな話を聞きます。

私の知り合いの牧師は、田舎の小さい教会で働いていました。経済的にも厳しいので、夫人がピアノを教え、
牧師は小さい塾のようなことをしていました。

逆に言えば、それ以外には、伝道の手段などありません。

そこに大勢の子どもが集まってくるようになりました。10人ばかりだった礼拝に30人集まるようになりました。

しかし、教会員の何人かは、一人二人の教会員です、それを喜びません。

「牧師は若い人、新しい人にしか関心がない」とつぶやき、「牧師夫婦は、自分の生活だけが大事だ」と批判し
ました。

彼が辞任した後、この教会には牧師がなかなか与えられず、今は閑古鳥が鳴いています。閑古鳥が鳴いてい
る、つまり、そこには讃美の歌も、喜びも感謝もなくなりました。


◆テサロニケの教会も、もう少しで、そんな風になってしまうところでした。悔い改めが、その事態を避けました。


10節。

… 顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、

 夜も昼も切に祈っています。…

ここにも、パウロの喜びと、祈りが語られています。

しかし、ちょっと、気になります。

気にしてはいけないのかも知れませんが、気になります。

つまり、『あなたがたの信仰に必要なものを補いたい』

つまり、テサロニケの教会員の信仰は未だ完全なものではありません。足りない物があります。当然でしょう。誰
も満ちたりた信仰など持っていません。彼らが、満ちたりた信仰を持っていたならば、無責任な反パウロ主義者
に惑わされることもなかったでしょう。

決して完全な信仰ではありません。かつても、そして今もです。


◆パウロは、このために祈り続けています。彼らがパウロから離れていた時も、立ち帰った今も、祈り続けていま
す。

『あなたがたの信仰に必要なものを補いたい』と、何かを教えようとしているのでも、指導しようとしているのでもあ
りません。祈り続けています。

話をひっくり返してしまうようですが、祈り続けているから、直接会って話したいと願っています。教えたいことがあり
ます。


11節。

… どうか、わたしたちの父である神御自身とわたしたちの主イエスとが、

 わたしたちにそちらへ行く道を開いてくださいますように。…


18節では、

… そちらへ行こうと思いました。

 殊に、わたしパウロは一度ならず行こうとしたのですが、

サタンによって妨げられました。…

このように記しています。

今は、『そちらへ行く道を開いてくださいますように』と祈っています。


◆つまり、パウロの意志だけでは決まりません。サタンの妨げに逆らっても上手くいきません。自分の意志・覚悟
を固めたら実現することでもありません。

このことは、今日の文脈から離れても、とても大事なことでしょう。

何事もそうですが、特に教会のことは、強引に突破して、ことが叶うことはありません。それでは、根回しし、何度
も話し合い、意見の一致を見出すまで頑張るのか、それも時には必要でしょうが、そんなことではなく、祈り続
けなくてはなりません。

祈り続けられないようなら、諦めた方が良いでしょう。何事もそうですが、特に教会のことは、祈って待つしかあり
ません。 パウロはそうしたのです。


◆19節。

… わたしたちの主イエスが来られるとき、

その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、

そして誇るべき冠でしょうか。…

信仰を与えられて、教会に集う一人一人、それが、それだけが、パウロたちの、つまりは教会の『誇るべき冠』で
す。それ以外のものではありません。


教会はその冠をいただくために、働いています。だから、伝道であり、聖書の学びであり、祈りです。

教会が盛んになって、人が多く集まれば、真の信仰に目覚める人も確率的に増えるでしょう。しかし、教会の
目的は商売繁盛ではありません。