◆4章1節の前半。 … さて、兄弟たち、主イエスに結ばれた者としてわたしたちは更に願い、 また勧めます。… 『主イエスに結ばれた者』という表現も、1回の説教のテーマとなすべき、重要な事柄だと思いますが、その後 の言葉が、より強く心に響きます。 … あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、 わたしたちから学びました。… 『神に喜ばれるためにどのように歩むべきか』、これこそが、信仰者の人生のテーマです。『神に喜ばれるため に』生きる、これが、キリスト者の人生です。 ◆ところが、何をすれば『神に喜ばれる』のか、なかなか分かりません。信仰者の間で、意見が分かれます。キ リスト教徒ではない多くの、他宗教信仰者は、沢山の寄進をすれば『神に喜ばれる』と思うようです。 聖書的に考えれば、それには賛成出来ません。神さまがお金を必要とするでしょうか。そもそも世界をお造り になり、世界を支配される方が、何かが足りないかのように、人間に求めるなどとは、滑稽でしかありません。 しかし、いろんな宗教、いろんな信心を見れば、そんな滑稽なことが当たり前のように説かれています。何かが 足りないかのように、何かを人間に求める神を信じている人が現実にいるようです。私には何とも理解出来ない 信仰です。 ◆ややもすれば、そのような信仰が教会にも入り込みます。この話を詳しく掘り下げても、大した意味はありませ んから、もう止めにします。 改めて、何をすれば『神に喜ばれる』のか、その問いに、3節が答えています。 … 実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。… 『あなたがたが聖なる者となること』、使徒パウロは、これを『神に喜ばれる』ことだと言います。 ◆それでは、『あなたがたが』、つまり教会が『聖なる者となること』とは、どういうことでしょうか。教会は確かに、 その歴史を通じて、『聖なる者となる』べく努めて来たと思います。黙想や祈りの時を持ち、質素な生活をしな がら、礼拝堂を飾り磨き上げ、尖塔を高くし、教会の建物さえ、光輝くものにしようと、働いて来ました。 正に神々しいと呼ぶべき、壮麗な礼拝堂が、キリスト教世界には沢山あります。神々しい絵や、偶像があ り、金や銀の聖具で飾り立てられています。 その中では、この世のものとは思えないような、音楽が奏でられ、聖歌が歌われます。 豪華な衣装・祭服を纏った司祭が恭しく、整えられた所作で、ミサを執り行います。 ◆パウロは、そのようなことを望んだのでしょうか。全く違います。初代教会の様子を撮った写真はありません。 描いた名画もありません。伝えられている名画は、もっと後の時代の作品であり、初代教会の姿を映してはい ません。 パウロの時代のそれは、些末な建物であり、貧しい聖餐の食卓であり、そもそも使徒言行録にありますよう に、弟子たちは、祭礼服など着てはいません。バプテスマのヨハネほどではなくとも、質素なこと、貧しいことでは 同様だったと思われます。 マタイ福音書23章5節には、ファリサイ派の服装に対する揶揄があります。 … そのすることは、すべて人に見せるためである。 聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。… 同じマタイ福音書6章5節。 … 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。 偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。 はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。… 建物であれ、服装であれ、祈りの言葉でさえも、それを飾り立てることが、『聖なる者となる』ことではありませ ん。 ◆3節の続きに戻って、4節まで読みます。 … すなわち、みだらな行いを避け、 4:おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず… 『すなわち、みだらな行いを避け』とあります。『神に喜ばれる』こと、『聖なる者となること』と、『みだらな行いを 避け』とが重ねられています。 更に、その説明のようにして、注釈のようにして、『汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように』と説 かれています。多分、この通りなのでしょう。 つまり、異教的な信仰・風習、更に夫婦観に染まっていたテサロニケ教会の教会員には、所謂お妾さんがあ ったり、悪所通いがあったりしたと思われます。そういうことと、矛盾しない信仰・風習だったのでしょう。 ◆5節からは、そのことが覗えると言うよりも、証拠付けられます。 … 神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。… 『情欲におぼれ』ること、そのことで『妻との生活』を損ねるようなことは、信仰とは両立しません。この時代にパ ウロが、かく言い切っていることに注目すべきだし、動かしがたいキリスト教倫理として受け入れなくてはなりませ ん。 2000年の歴史を通じて、キリスト教の内外にいろんな異端が生まれました。その多くは、この点で、この点 でも、異端です。性倫理を厳密にしない教会、夫婦関係を大事にしない教会、家庭を重んじない教会、全て 異端です。それは断定出来ます。 しかし、修道院のように、男女別々に暮らし、聖職者の結婚を禁止するとは、パウロは言っていません。まし て、性のことを忌み嫌う思想は、聖書とは無関係な別の思想です。 更に言うならば、結婚を否定するような教会は、異端と言うだけではなく、邪教です。せっかくの礼拝の時間 に、そんな禍々しい話は要りませんから省略しますが、今、申し上げたことは、歴史が証明する事実です。 ◆6節。 … このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません。… 『このようなことで』とは、どんなことを指すのでしょうか。文章の流れから直接的に受け止めれば、『情欲にお ぼれ』ることでしょうか。確かに、『情欲におぼれ』ることで、『兄弟を踏みつけたり、欺いたり』が起こる可能性は 高いかも知れません。しかし、そのことには限定出来ないと考えます。 むしろ、『兄弟を踏みつけたり、欺いたり』する罪の原因の一つが『情欲におぼれ』ることにあります。他にもい ろいろ『兄弟を踏みつけたり、欺いたり』する罪が存在します。 ◆大分先に飛びますが、11節を読みます。 … そして、わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、 自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。… この箇所は、29日の礼拝で読む箇所ですが、今日の所と密接です。 テサロニケの教会員の中には、『自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めな』い人がいたようです。だ からこそ、パウロは、『自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい』と、言わずもがなのことを、敢えて 言います。言わなくてはならなかったのでしょう。そんな人がいたのです。 ◆働きもしないで、何をしていたのでしょう。 ここは、私の想像で申します。断定的には言えなくとも、外れてはいないと考えます。 『自分の仕事に励み、自分の手で働く』ことなく、過ごす人がいました。 当時の教会は、これは、パウロも含めてなのですが、終末、世界の終わりの時が近いと考えていました。時間 的にも切迫していると考えていました。ために、もう働いても仕方がない、勉強しても仕方がないと、仕事・学び を放り出す人がいました。 怠け者が信心を言い訳に仕事をサボるのはよくあることです。こういう人は、何時の時代にも、どこにも必ずい ます。 また、終末、世界の終わりの思想に捕らわれてしまって、他のことが考えられなくなる人もいます。 こういう人は、伝道という美名に隠れて、無意味にうろつき回っています。それが楽しい人もいます。 いろんな人、いろんな場合があります。それをまとめれば、『落ち着いた生活を』していない人です。結果は、 『兄弟を踏みつけたり、欺いたり』してしまいます。更には、妻を家庭を、損ねてしまいます。 ◆現代にも、そんな人が存在します。そんな教会があります。『落ち着いた生活を』していない人には、魅力的 に映る、『落ち着いた生活を』していない教会があります。『落ち着いた礼拝を』していない教会と言うべきでしょ うか。 私は何度も似たような体験をしました。若い人が教会にやって来て、「この教会は生ぬるい」と批判します。そ うかも知れません。ヨハネ黙示録の言葉もありますから、生ぬるいのは良くないかも知れませんが、私はこのよう に答えました。「生ぬるいくらいの方が、長く入っていられますよ。熱すぎると直ぐ出なくてはなりませんよ」。 教団の教会は、確かに生ぬるいかも知れません。しかし、長い信仰生活を送る人が多いのも、事実です。 煮えたぎるような教会は、そうはいかないようです。 古い話ですが、統一原理問題について、その道の権威だった浅見貞雄教授に、牧師の一人が聞きました。 統一原理の信者は、「何十年前も今も2万人くらいいて、そこから増えも減りもしないと聞きましたが、それはど うしてですか。」 浅見先生は答えました。「そういう人が何時でも、一億人の内2万人くらいは、いるということです。」 そういうことです。そういうことでしかありません。 ◆11節の後半〜12節。 … 自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。… そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、 だれにも迷惑をかけないで済むでしょう。… 当たり前のことです。信仰を持ったから、仕事をしなくとも良い、働かなくとも良いなどということはありません。 ◆7節に戻ります。 … 神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、 聖なる生活をさせるためです。… 何が『汚れた生き方』、何が『聖なる生活』か、はっきりとは記されていません。記していないのだし、特定する 必要はないでしょう。いろいろです。しかし、大括りに、『汚れた生き方』、『聖なる生活』の違いがあります。はっ きりとあります。 もう一度マタイ福音書を引用します。さっきと同じような、ファリサイ派批判です。 … 5:「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。 偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。 はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。 6:だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、 隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。 そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。 7:また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。 異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。… マタイ6章のイエスさまの教え、山上の垂訓とも呼ばれて来た、この大切な教えに従うならば、信仰は派手派 手しいものではありません。目立つ信仰、目立った信徒である必要は全くありません。何しろ、隠れて祈り、隠 れて施しをするのですから。 ◆戻って8節を読みます。 … ですから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、 御自分の聖霊をあなたがたの内に与えてくださる神を拒むことになるのです。… どうしてなのでしょう。私にとっては、教会に通うようになって以来、ずっと付きまとう疑問です。『祈るときは、異 邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。』 こんなにも明言されているのに、200年の歴史を通じて、長々しい祈りや、麗々しい言葉を連ねた祈りや、要 するに見栄えのする祈りが持て囃され、それが信仰であるように、それが偉大な司祭や牧師であるように、受け 止められて来ました。教会の建物も、礼拝の様式も、讃美歌も同様です。 『神に喜ばれるためにどのように歩むべきか』、これが全てです。自分が喜ぶためではありません。人を喜ばせ るため、まして人の歓心を買うためではありません。人を喜ばせるためなら、人の歓心を買うために過ぎないな ら、それは情欲に溺れるのと変わりません。 『神に喜ばれるために』、聖なる生活を心がけます。その時には、『汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活 する』ことに準えられるような、日常を送り、『落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように 努め』るのは、至極当たり前のことです。 |