この出来事を読みますと、臨場感溢れる場面描写に感動します。素直に、素晴らしいと思います。中風の病 に苦しむ、寝たきりの人を、家族でしょうか友人でしょうか、4人の男が、寝床ごと、屋根の上に引き上げ、イエ スさまの前に吊り下ろしました。 その様子をご覧になったイエスさまは、病人を癒やして下さいました。その情景が目に浮かぶようです。〜 しか し、これがこの出来事の主題なのでしょうか。疑問です。 1節から順に見ます。 … イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り… イエスさまの宣教の初期には、カファルナウムが根拠地だったようです。ここに自宅乃至は、本部があったようで す。どのくらいの広さだったかは、記されていないので分かりません。普通の民家だったのか、それとも、広い建 物だったのか、全然分かりません。 マルコ福音書は、そういう細かい所には、殆ど触れません。マルコだけではなく、福音書は、そういうことを、私 たちが知りたいことをも、記すことはありません。 そうしますと、記されていることは、逆に記されていないことは、何気なく記されたのではなく、何かしら意味があ って、意味を込めて記しているのではないでしょうか。 2〜3節。 … 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。 イエスが御言葉を語っておられると、 3:四人の男が中風の人を運んで来た。… 『大勢の人』とは何人くらいなのか、全く分かりません。何しろ建物の広さが分かりません。重要なのは『戸口 の辺りまですきまもないほどになった。』ことです。 もう一つは、『四人の男が中風の人を運んで来た。』ことです。この点については、詳しく記されています。 4節の前半だけ読みます。 … しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかった … ここを見逃してはなりません。『群衆に阻まれて』です。『阻まれ』たのは、『四人の男』であって、イエスさま自 身ではないと読んだら、読み誤りです。 前回前々回と読みましたように、イエスさまは、群衆に阻まれて、その宣教の業に支障を来す程でした。この 『群衆に阻まれて』という表現は、そのことを思い出させます。 そういう表現です。マルコ福音書は、情景描写などは大雑把に見えますが、このような細かい所で、実に、計 算された描写をとり、言葉を用います。 4節の後半。 … イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、 病人の寝ている床をつり降ろした。… 何とも不思議と言いますか、不可解と言いますか、普通は有り得ない光景です。どうやって、病人を屋根の 上に上げたかは記されていません。大雑把です。しかし、このことについては、詳しく、見て来たような説明する 人がいます。つまり、当時の民家は、どれも同じような作りで、天井の高さも同じでした。ために、天井を伝っ て、歩くことが出来たと言われます。普通の道路に対して、上の道、屋根の道という言葉さえあったそうです。 ですから、どこか近隣の大きい家、天井の道に上がることが出来る家があれは、屋根の道伝いに、イエスさま の家の屋根まで行くことは、可能だったでしょうか。 しかし、それからがまた大変です。『屋根をはがして穴をあけ』と書いてあります。粗末な家なのでしょう。天井も 厚くはないのかも知れません。しかし簡単に剥がせるほど薄いならば、歩くことも困難でしょう。如何に薄い天井 屋根であっても、これを剥がして穴を開け、床を吊り下ろすというのは、矢張り有り得ない光景です。 天井がどんな素材で出来ているかも分かりません。壁と同じく、泥を捏ねたものだったら、穴を開けやすいかも 知れませんが、その素材が、ボロボロと落ちたことでしょう。イエスさまの頭の上にも。 そもそも、『大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。』としても、「すみません。病 人を通してください。」と言って、運ぶことが出来なかったのでしょうか。出来なかったのでしょう。だから、屋根に運 び上げるという非常手段がとられたと思います。 つまり、『大勢の人』とは、矢張り、先週先々週の箇所に登場したのと同じ、オクロス、衆愚、無知な大衆で す。 こういう風に描かれている人々が、静かにイエスさまの説教を聞いていたとは考えられません。ただ、珍しいもの 見たさに、ワイワイ、ガヤガヤ、押し合いへし合いしていただけなのでしょう。 6節。 … ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。… 何を考えていたのでしょうか。 私は想像します。彼らは、「何て馬鹿な奴らだ。どうしようもない屑どもだ。こんな奴らを相手にしているイエス も大した男ではない。」 この想像は、あまり外れてはいないと思います。 次週の箇所は、当時、嫌われ差別されていた人々と、イエスさまが、共に食事をしたために、ファリサイに批判 される話です。今日の箇所と同じなのです。情景も似通っていますが、何より、登場する群衆が同じなのです。 ファリサイは、罪人と考えられている人々と食事を共にしたイエスさまを、軽蔑しました。その彼らが、ここに描か れた群衆や、4人の者や、この光景そのものを馬鹿にしたのは、むしろ、当然です。 4人の男も、似たり寄ったりかも知れません。中風です。その男を、屋根に運び上げ、吊り下ろしても良いの でしょうか。病気に触るのではないでしょうか。 イエスさまは説教中です。彼らの行為は、礼拝妨害ではないでしょうか。 ファリサイ派の人が、言ったのは次の言葉です。7節。 … 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。 神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」… これは、イエスさまが、5節で『子よ、あなたの罪は赦される』と仰ったことへの批判です。しかし、それだけでは ないと言うより、本音は、群衆とこれを相手にするイエスさまを馬鹿にした言葉だと考えます。ファリサイ派のその ような言葉を、それだけではなく、彼らの本音をイエスさまは見抜きます。8節です。 … イエスは、彼らが心の中で考えていることを、 御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。… この言葉は、7節への批判と言うよりも、群衆とイエスさまを馬鹿にしたことへの反論と聞いた方が、ぴったりとし ます。 5節に戻ります。話の内容も戻ります。 … イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、 「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。… 先週も、今週も、来週も、罪が赦される話です。信仰深い人がその信仰によって、正しく報われる話ではあ りません。あくまでも、罪が赦される話です。 何が、この人の罪なのか、何故この人は罪に染まったのか、全く記されていません。先週もお話ししましたよう に、この男は、一人の罪人であり、彼の病は、私たち人間の姿です。特別の人ではありません。彼の姿は、病 に苦しみ、罪に苦しむ、一人の人間です。 9節に戻ります。話の内容も戻ります。 … 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、 『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。… 勿論、『あなたの罪は赦される』と言う方が難しいに決まっています。これは、ファリサイ派に対して、イエスさま が単に民間療法士のような存在ではないことを教えています。そして、群衆に対してもです。イエスさまは、病気 を治すという不思議な業を持つ人ではありません。それだけの存在ではありません。 それなのに、ファリサイ派も、また群衆も、イエスさまの起こす奇跡にしか興味がありません。それは、イエスさま を卑しめることだと、私は考えますが、今日でも、多くの人々は、そこにしか関心がありません。 10節。 … 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」… そこでイエスさまは、本当に大事なことは 何か、そしてご自分が何者かを、明確に示されたのです。 『人の子が地上で罪を赦す権威を持っている』、罪を許すことが出来るのが、罪を許すことが出来るから、人 の子なのです。メシア・キリストなのです。 しかし、多くの人は、未だに、奇跡にだけ関心を持ちます。それは、「キリストなんかどうでも良い。奇跡を見せ ろ。」と叫ぶことです。イエスさまの十字架の場面と同じです。 マルコ福音書15章29節以下。 … 29:そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。 「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、 30:十字架から降りて自分を救ってみろ。」 31:同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、 代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。 32:メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。 それを見たら、信じてやろう。」 一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。… この群衆と、今、ここにいる群衆とは同じ群衆なのです。奇跡を見せたら信じてやろうと叫んでいるのです。こ んなことを叫んでいる人を、信仰深いと思ったら大間違いです。 11〜12節。 … 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」 12:その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。 人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、 神を賛美した。… この讃美は、どちらの讃美でしょうか。イエスさまの罪の赦しを見たから言っているのでしょうか。それとも、奇跡 に触れて言っているのでしょうか。 5節に戻ります。話の内容も戻ります。 … イエスはその人たちの信仰を見て、 中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。… 厳密にしなくてはなりません。 信仰を見て貰ったのは、床を担いで屋根に運び上げ、天井を掘って、吊り下げた4人のことです。罪が赦され たのは、中風に罹っていた男です。 既に申しましたように、4人の行為は、普通ならば決して、褒められたものではありません。しかし、イエスさま は、この行為の内に『その人たちの信仰を見』ました。何が、この人たちの信仰なのでしょう。この4人と、その場 にいた群衆と、更に、ファリサイ派と何が違うのでしょうか。 この4人が、一生懸命に祈っていたとは記されていません。日頃良い行いを心がけていたとも、どこにも書いて ありません。公平に評価して、4人は、ここに居合わせた群衆と何も変わりません。〜 違いはただ一点です。 彼らは、友人か家族かは知りませんが、中風に罹った男を救いたかったのです。何としても、救って貰いたかっ たのです。 ただ、その一点で、イエスさまは、『その人たちの信仰を見』たのです。 この出来事は、信仰とは何かを語っていると思います。約めて約めて、語っていると思います。信仰とは愛で す。単純に愛です。理屈やヘチマではありません。 それならば、この説教も、もっと端的に、「4人の熱心な信仰が病の男を救った。信仰は、病をも癒やす。」で 良かったのかも知れません。しかし、矢張り、違います。 私たちは、マルコ福音書そのものを読まなくてはなりません。マルコ福音書が描くのは、病の癒やしではありま せん。これが主眼ではありません。罪の赦しなのです。 そして、マルコ福音書を読んだ私たちは、私たちの身の回りにいる、愛する者の、罪の赦しを祈り、具体的に 行動しなくてはなりません。 私たちの身の回りにいる、愛する者が、何かしら罪を犯しているとか、そんな話ではありません。人は誰もが、 罪人であり、病にあります。その人のために、或いは、自分自身のために、屋根に運び上げても、天井を掘り吊 り下げてでも、その人の救いを願うのです。 つまり、病の者を、否、罪の中にいて苦しむ者を、イエスさまの許に、運ぶのです。 否、私たちが、教会に運んで貰いましょう。運んだ人こそが、信仰の人と評価されたのですから。人を教会に 連れて行く人こそが、救われる人なのです。 |