7節から読みます。 … イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。 ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。… イエスさまはガリラヤ地方で、宣教されていましたが、一旦、ガリラヤ湖まで退かれました。その理由は記されて いません。3章6節と続けて読めば、ファリサイ派の殺意から逃れて来られたとも読めます。6節には、このように 述べられています。 … ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、 どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。… そこで『立ち去られた』のですが、2章での出来事、イエスさまの奇跡を目の当たりにした『群衆は』、それでも イエスさまを追いかけます。 荷担した訳ではありませんが。結果的には、追跡者に痕跡を残しました。 8節。 … エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、 ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、 イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。… ガリラヤから遠い地方からも、群衆が押し寄せて来ました。それほど、イエスさまの評判は高かったと言うべきで しょうか、それとも、この時代の人々は、何か新しい力、人を、求めていたのでしょうか。時代の変わり目には、こ のようなことが起こります。 説教の初めから大脱線しないように要点だけ申します。日本では、平安朝の終わり頃から、末法思想が盛ん になります。勿論、仏教の思想に基づくものですが、それよりも、時代の変わり目の社会不安が最大の要因で した。 京の都の周辺から、念仏踊りが始まり、幾千が幾万になり、都大路を覆うほどの人が、ただ念仏を唱えて踊 り狂い、収拾が着かない騒ぎになってしまいました。検非違使まで加わったそうです。たちまちに、全国に拡がり ました。 こういうことは、日本史を通じて何度か繰り返されました。 ヨーロッパのキリスト教国でも同じです。神聖ローマ帝国では、より過激な行動を見せました。己の体を、上 半身裸に?いて、自ら鞭で打つ苦行者が現れ、たちまちの内に、都プラハを覆い尽くしました。貴婦人から農家 の婦人、若い娘まで、これに参じました。 これらの場合、政情不安、飢饉、そしてペストの流行が背景にあるようです。 イエスさまの時代のイスラエルも、何時、こういうことが起こっても不思議がないような状態でした。現に起こって いたとも言えましょう。ローマに対して武装蜂起する、全く無謀な試みは繰り返され、一時に2,000人の若者 が殺戮された例もあるそうです。 もし、イエスさまの号令が下ったならば、群衆は、暴徒となり、彼らを苦しめているローマなどの権力者を襲った ことでしょう。 8節の『イエスのしておられることを残らず聞いて』とは、具体的には、何を指すのか良く分かりません。イエスさ まは、群衆を扇動されるようなことは仰らなかったかと思います。むしろ、民衆が、それを求めていたのでしょう。 イエスさまに群がった群衆を、念仏教徒や鞭打ち教徒に準えるのは、確かに乱暴でしょう。私の個人的な見 解に過ぎません。 しかし、その逆に、この人たちを信仰に飢え渇く、聖徒のように見るのは、全くの間違いだということは、断定的 に言えます。仮に、熱狂的な信仰者だったとしても、これを聖徒と見ることは出来ません。 9節をご覧下さい。 … そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。 群衆に押しつぶされないためである。… 随分と凄まじい光景です。押し寄せる群衆のために、イエスさまが圧し潰されそうになったと記されています。そ れが毎度のことなので、言わば、脱出用に小さな舟を用意させていたようです。2章を読んでも同じ印象を受 けます。 何だか、テレビ局から出て来たアイドルと、それを出待ちする熱狂的なファンのようです。今だったら、それこそ、 やたら体に触りたがるファンを逃れ、また彼らに圧し潰されないように、ガードマンが盾となり、待たせていた車に 乗り込むところです。イエスさまの場合には、車が舟に変わるだけで後は、そっくり同じです。 イエスさまに群がる人々は、一体どういう人たちなのでしょうか。群がる、触りたがる、触って貰いたがる、今日の 推し活の少女たちと同じにしか見えません。 〜 しかし、そのような見方は浅薄で、事実から離れていることでしょう。タレントに群がるミーハーに準えること は、全く不適切です。もっと、シリアスです。もっと、過激的です。この群衆は、何かきっかけさえあれば、たちまち 暴徒化する群衆だと考えます。 8節10節そして前提となる3章1〜6節の記事を読めば、或る程度、彼らを知ることが出来ます。 彼らは、直接には、肉体の病からの癒しを求めて、ここに群がっています。鞭打ち教徒に例えたり、タレントを 追っ掛けるミーハーに準えましたが、むしろ、様々な健康食品や怪しげな民間療法に群がる人々に似ているで しょうか。 そういった類いの本や薬、紛い食品の多いこと多いこと。キノコから粉ミルク、しまいには人間の尿だの、これが 健康に良いとして上げられる食品がどんどん増え、その内、あらゆる食べ物は健康に良いとなりそうです。一方 に、これが癌につながるとして上げられる食品の多いこと多いこと、その内、全ての食品が癌の元だと言われそう です。 要は、群衆とは不安に脅える人々です。このような人が暴徒となり、場面が変われば、イエスさまを、『十字 架につけよ』と、狂い叫ぶのです。 肉体の癒しへの切実な求めは、その期待が膨らむにつれて、魂の癒しへの期待になり、やがては、精神的な 救いにまで到達するようです。統一協会も、世界救世教も、お光りさんも、そしてオウム真理教も、みんな同じ ような経緯を辿りました。オウム真理教がヨガの修行団体から始まったことを、決して忘れてはなりません。 少なくとも、20〜30年前くらいの時点では、自然食品なの、有機農法なのなんとかイオン水なのと言われる ものの大半は、これらの新興宗教の製品でした。今は、大手も進出していますから、或る程度信用出来るかと は思いますが。保証はありません。 イエスさまに群がる群衆が、ミーハーであれ、健康と言う偶像を崇拝する信者であれ、それでは、イエスさま は、彼らをどのように見ておられたのでしょうか、〜 これが、私たちの関心とすべきことです。 9節が鍵になります。イエスさまは、彼らから舟で逃げ出されました。これが、何よりの答えです。重大な答えで す。 イエスさまは、群がる人々の欲求に、そのままに応えようとはなさいません。必ずしも、彼らを癒して上げようと はなさいません。 勿論、他の箇所には、多くの癒しの場面が描かれていますから、イエスさまが、癒しを原則的に否定したとい うことではありません。 しかし、今日のこの箇所を読むだけでも、イエスさまの活動目的が、癒しではないことは全く明らかです。同じ 様に、肉体の癒しを求めて群がる人々から、イエスさまが避けられる出来事は、しばしば起こります。 14〜15節をご覧下さい。 … 14:そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、 また、派遣して宣 教させ、 15:悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。… この表現を、福音宣教が第1、そして第2に、社会的実践があると読んだら間違いでしょうか。福音宣教と社 会的実践は、決して対立的なものではないと考えます。この箇所などは、その有力な論拠になるかと思いま す。 しかし、一方、社会的実践は、福音宣教と比べて従属的なものである、派生的・第2義的なものであると考 えます。その論拠として、この箇所は十分ではないでしょうか。 教会に関心を持たない人に対して、社会的実践をもってアピールすることが出来るのではないかと、言われま す。しかし、今日の箇所を読む限り、それが何であれ、社会的実践を、信者を獲得する手段と考えることは出 来ないようです。効果があるかないかではなく、そういうことを、信徒獲得の手段にしたら、その瞬間に、いかが わしい新興宗教と変わらなくなります。 信仰が第1で、癒やしや、他の人々が求めて止まないものは第2義的だと言ったら、反発する人もありますで しょう。私も、決して、癒やしや、社会奉仕は些末なことだと言いたいのではありません。 むしろ、逆を、お考えください。病気の癒やしや、いろんな御利益が第1で、「それが叶えられるのなら、信心 も致しましょう。寄進も致しましょう。」と言うような、御利益信心とは、聖書は逆だと言っているのに過ぎません。 信じれば、何事も叶えられると説く教えは、実は、信心よりも、利益を第1に考えています。信者も、御利益 を謳う神社も、信心よりも、利益を第1に考えています。 さて、ここで、比喩的解釈法と呼ばれる手法を用いて、今日の箇所を読み直してみたいと考えます。比喩的 解釈法は、今日の新約聖書学に於いては、原則的に退けられるものです。 戦前までは盛んに行われたこの解釈法で説教をする人は、今日廃れました。しかし、比喩的解釈法の問題 は、著者自身が意図してもいないような、こじつけによって聖書を解釈する、つまり、答えをあらかじめ用意し て、聖書を読むことに問題が存在するのであり、聖書の著者自身が、何かを比喩的に表現している場合もあ ります。この場合には、比喩的解釈法は、俄然有効であると思います。 逆にどんな新しい学問的な解釈法であれ、それを試みる学者の心の中に、あらかじめ答えが用意されてある ならば、我田引水的な比喩的解釈法と同じだろうと考えます。 言い訳しているよりも、とにかく比喩的解釈法を試みます。 群衆とは、この世そのものを比喩します。舟は、他の多くの場所でそうであるように、ここでも教会です。同様 に、舟に乗り組む者、即ち12弟子は教会員です。これでキャスティング・配役の割付は終わりです。そして、ス トーリイはこのようになります。 物語の最初には、12人が「人間を取る漁師として召命を受けた」と言う前提があります。彼らは、イエスさま に従って、この世と言う海岸に出て行って漁を始めました。随分な成果が上がりました。そうしたならば、飢えた 人々が群がって来ました。弟子たちは、この群衆のために踏み潰されそうになりました。 そこで、教会と言う舟を用意して、人々が来れない沖まで漕ぎ出しました。しかし、群衆を全く見捨てるので はなく、絶えず声つまり福音が届き、魚つまり救いを投げ与えられる範囲に留どまり、そこから、飢えた人々に語 りかけました。 つまり、教会は、全くこの世の中に存在するならば圧し潰されてしまいます。全くこの世から離れた所に立てら れるならば、その立てられた目的を果たすことが出来ません。声の届く程度の所に離れて、大きな声で福音宣 教を行うのがよろしいのではないでしょう。おおよそこのような解釈になります。 11〜12節をご覧下さい。 汚れた霊とは何者でしょうか。何かを比喩しているのでしょうか。そして、汚れた霊が何故、イエスさまをキリスト と告白するのか。また、イエスさまは、何故、彼らが「あなたは神の子だ」と言うのを禁じられたのか。 汚れた霊とは、人々の病の原因が、擬人的に表現されていると言えます。この世の悪そのものと言っても良い でしょうし、諸悪の根源などいう言い方もあります。 この霊は、イエスさまとその福音を敵(かたき)とする者です。イエスさまとその福音によって滅ぶべき存在だから です。だからこそ、彼らは、誰よりも、信仰者よりも、イエスさまとその福音に対して敏感です。 これ以上汚れた霊を特定することは出来ません。ここでも、文脈が大事かと思います。先程と同様です。1章 2章と繰り返し語られる弟子の召命、そして、3章13節以下の12弟子の選びと派遣です。このことと、汚れた 霊に対して『あなたは神の子だ』と言うのを禁じられたこととが、重なっていることに注目すべきであると考えます。 今日の箇所全体を通して今私たちの教会に語られていることを、以下のように要約することが出来ます。 私たちの教会は、イエスさまの福音を宣べ伝えるために、立てられたものです。福音を宣べ伝えること、人々を 罪から救い出すことが第1であり、これが教会の努めです。しかし、その業の結果として、人々の魂を救い、結 果として人々を癒すことが出来ます。 この努めを果たすためには、教会はこの世に埋没していてはなりません。しかし、決してこの世から遊離してい てもなりません。この世に飲み込まれないだけの距離を保ち、同時に、声が届く距離を保たねばなりません。 汚れた霊は、己の滅びを免れるために、教会に入り込み、干渉し、それどころか、ひれ伏して『あなたは神の 子だ』とさえ言います。そういう現実があります。 しかし、彼らが福音を宣べ伝えることは決して許されてはなりません。福音は、汚れた者、信仰を持たない者 によって宣べ伝えられてはならないのです。 蛇足になるかも知れませんが、付け加えます。 普段、土曜日の内に、何十人かの方に、説教原稿をメールで送っています。大体金曜日には、説教のプリ ントを作り、希望されている方の、週報ボックスに入れて置きます。 しかし、それは、あくまでも説教原稿の草稿でしかありません。 その後、書き換えられることもあります。大幅に書き換えた時には、プリントもし直し、週報ボックスに入れ直し ます。 何故そんなことをするかと言いますと、土曜日を空けておくためです。なるべくなら金曜日も予備日とします。 日曜日の前に、何が起こるか分からないからです。 若い時には、土曜日は徹夜しても何とかなりましたが、今はそんな無理は出来ません。しかし、どんなことが起 ころうとも、日曜日の礼拝だけは休むことは出来ません。 そこで、金曜日には原稿を書き終え、土曜日は掃除に当てます。緊急の時は、掃除していなくとも、礼拝は 守れます。 今週もそうでした。永谷精孝兄の訃報が伝えられ、12日に葬儀という段取りになりましたので、木曜日の内 に原稿を書き終え、週報ボックスに入れ、葬儀の準備に掛かりました。その合間合間に、原稿を読み返して、 一つ大事なことを漏らしていたことに気付きました。 それを、蛇足になるかも知れませんが、付け加えます。 一点です。群衆を悪し様に言い過ぎたかも知れません。聖書に書いてある通りにお話ししたのですが、結 果、批判的な見方に終始したかも知れません。 そこで付け加えます。この群衆の中から、12弟子が選ばれました。群衆とは全然別な、エリートが選ばれた のではありません。12弟子の中から、裏切り者さえ出ました。この群衆の中から、選ばれたからです。 そして、この12弟子が、十字架の後、教会を担ったのです。 |