日本基督教団 玉川平安教会

■2025年1月4日 説教映像(準備中)

■説教題 「御心ならば」

■聖   書  マルコによる福音書 1章40〜45節 


 結論部分を、先にお話ししたいと思います。

 35〜45節全体を大掴みにすれば、以下のようなことが記されています。

 つまり、イエスさまは、奇蹟によって病を癒してもらいたくて集まって来る、大勢の群衆のために、お祈りも、宣
教も不自由になるような日常でした。そんな中で、『重い皮膚病』の患者に付きまとわれ、彼を癒して上げたの
ですが、そのために、宣教にはますます邪魔が入ってしまいました。

 これが出来事の要約です。


 今申し上げたことは、重い病に罹った人の癒しとして普通に考えられていることとは、だいぶん印象が違うと思
います。普通にとは、以下のような説明です。

 〜重い皮膚病に罹った人は、必死にイエスさまにすがり、彼に頼れば必ず病を癒していただけると信じました。
結果。彼は果たして奇蹟に与かり、病癒されました。〜

 しかし、今日の箇所を、縮めて言えば、先程申し上げたようなことに要約されます。間違いはありません。

 もう一度申します。イエスさまは、奇蹟によって病を癒してもらいたいがために集まって来る、大勢の群衆のため
に、お祈りも、宣教も邪魔されてしまうような日常でした。そんな中で、重い皮膚病に罹った人に付きまとわれ、
彼を癒して上げましたが、そのために、宣教にはますます困難になってしまいました。


 この箇所について普通に言われている解釈が、あまり当てにならないということの証拠として、次の事を指摘し
たいと思います。つまり、この人は、この短い箇所で、三度まで、違反行為をしています。

 先ず、この時代の法律への違反行為。この当時重い皮膚病に罹った人は、普通の人々の間に立ち入ること
は許されませんでした。感染が恐れられていたからです。

 実は、この病はとても感染力が弱く、簡単に移るものではありませんし、また、今日では特効薬がありますの
で、容易に治療することが出来るそうです。しかし、当時としては、特効薬もなければ、感染の仕組みについて
も分かっていなかったのですから、厳しく、隔離され、行動が規制されたのも、やむを得ないと言うしかありませ
ん。

 この病に罹った人は、例えば田舎道を歩いていて、向こうから、健常者がやって来ると、「ここに病に罹った人
がいます。」と叫ばなければなりませんでした。そして、健常者は、病の人に、石を投げ付けます。何とも不思議
で、かつ残酷な、決まりですが、これは、石が届く距離に近付かないことによって感染を防ぐという、医療の未開
拓な時代の、何とも悲しい知恵だったのでしょう。

 この法律に、この人は、明らかに違反しています。

 この違反については、責めるのは酷という気が致します。むしろ、法律の方が悪いのだと憤りを持つ方が多い
でしょう。私もそのように思います。少なくとも、現代には全く通用しません。


 では、もう一つの違反行為についてはどうでしょうか。

 44節に記されている事柄です。

 … 「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、  モーセが定めたものを
清めのために献げて、人々に証明しなさい。」…

 このイエスさまのお言葉は、旧約聖書の規定に基づくものです。つまり、レビ記14章2節以下に、次のように
記されています。

 … 「らい病人が清い者とされる時のおきては次のとおりである。

  すなわち、その人を祭司のもとに連れて行き、

  3.祭司は宿営の外に出て行って、その人を見、もしらい病の患部がいえているならば、    …


 彼はここで、律法にも違反しています。また、律法に書いてあることを、イエスさまも命じておられるのですから、
イエスさまに対する違反行為でもあります。

 それとも、レビ記の律法は間違いで、けしからぬ言葉であり、それを引用したイエスさまも間違っているのでしょ
うか。そんなことを言ったら、もう聖書は読めません。

 これは、あくまでも当時の知識・考えに基づく規定です。今日の医学的知識や人情に照らしたら、間違いか
も知れませんが、当時は仕方がないし、もしかしたら有効な規定です。


 更に、3つ目の違反行為があります。先の二重の違反行為を2つと数えるならば、4つ目のものになります。

 やはり44節の『誰にも、話さないようにしなさい。』というイエスさまの命令にも、違反しています。このために、
イエスさまの宣教は、大変に邪魔される結果となります。


こうして見てまいりますと、この話が、「重い病に罹った人は、必死にイエスさまにすがり、また、彼に頼れば必ず
病を癒していただけると信じた。結果。彼は果たして奇蹟に与かり、病癒された。」というような単純なものでは
ないということが分かります。

 「手放しで、イエスさまの力を信じた病人は、信仰的にとても偉い、我々も彼を見習わなければならない。」な
とどは言えないことが、ご理解いただけるかと、思います。

 これで3度目になりますが、申します。

 「イエスさまは、奇蹟によって病を癒してもらいたいがために集まって来る、大勢の群衆のために、お祈りも、宣
教も阻まれてしまうような日常でした。そんな中で、病に罹った人に付きまとわれ、彼を癒して上げましたが、そ
のために、宣教にはますます邪魔が入ってしまいました。」

 これが、この箇所の、要約です。


今日は、いつもとは逆に、結論を申し上げてから、その証拠・論拠を挙げています。もう一つの論拠を申しま
す。

 それは、41節の、『深く憐れんで』と、43節の『厳しく戒めて』についてです。

 41節の『深く憐れんで』を、岩波文庫版の聖書は、『激しく憤って』と訳しています。これ以外にも、『怒って』
と訳するものがあります。また、43節は、『怒鳴りつけ』と訳されるのが、普通です。

 原語は、「馬が鼻息を鳴らす」です。そこから、感情を昂ぶらせる、興奮する、怒ると言う意味で用いられま
す。

 それを『深く憐れんで』と翻訳したのは、かなりの意訳です。そう訳さないと意味が通じないと判断したのでしょ
う。しかし、これを誤訳だと批判する人が少なくありません。

 語学が苦手な私には、分かったようなことは言えません。

 しかし、単純に『深く憐れんで』と受け止めて、そこからイエスさまの優しさだけを感じ取るのでは、読みが足り
ません。そのことは確かなようです。

 いずれにしろ、この言葉を、病人の信仰に結び付けて解釈することは出来ません。


もうひとつ論拠を挙げます。40節・41節の『清く』という表現です。

 … 「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。…

 … イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、

 「よろしい。清くなれ」と言われると、…

 つまり、重い皮膚病に罹った人自身も、そしてイエスさまも、彼を『汚れている』と考えています。それを前提と
して、この話は展開します。

 これは、〜 重大な病に罹っていたけれども、心に確かな信仰を抱いていた人が、その信仰を認められて、癒
やされた。 〜そのような話ではありません。


何故、この箇所について、間違った解釈が、まかり通り、勝手に、重い皮膚病に罹った人と彼の信仰について
の、美化が起こるのか。考えてみなくてはなりません。

 そこには、「苦しんで来た者は、神によって癒される権利がある」という理解、そして更に言うならば「イエスさま
には、彼を癒す義務がある」という、間違った、神理解、間違った信仰があるからではないでしょうか。

 しかし、もし、この病に罹った人が、私たちと全く同様に、「苦しんで来た自分には、神によって癒される権利が
ある」、そして、「神には、自分を癒す義務がある」と考えていたならば、この奇蹟は起こらなかったし、彼は癒さ
れなかったでしょう。

 彼は、さんざん違反行為をしますが、しかし、『自分は汚れた者である』という認識を持っていたがために、癒し
に与かることが出来たのではないでしょうか。


これもまた、少し乱暴な解釈になる恐れがありますが、約めて言えば、

 〜 この人は、自分を汚れた者だと考えていました。罪の中にいると考えていました。〜 その思いこそが、イエス
さまに通じ、その結果として、癒やしていただけたのではないでしょうか。罪から贖っていただけたのではないでしょ
うか。

 病気を癒やして欲しいのなら、良いお医者さんを選ぶしかありません。幸い、現代は、聖書の時代に比べた
ら、格段に医学が進んでいます。聖書の時代にはまず治らない病気も治して貰えます。

 今は治癒が難しい病も、数年後、数十年後には、治るかも知れません。

 そもそも、旧約聖書の信仰に生きたユダヤ人こそ、他のどんな民族・人種よりも、最も現代医学の進歩に貢
献しました。

 現代の変なキリスト教が持っているような、迷信を退けたからです。


さて、今日の箇所で最も大事なことは、次のことです。つまり、38節。厳密には、先週、もう去年ですが、読
んだ箇所です。

 … イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。

  そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」…

 ここで、宣教こそが、イエスさまが神さまから与えられた、大事な大事な、任務であることが、そして、奇蹟によ
って人々を癒すこと等は、二義的なこと、副次的なことでしかないと、はっきり、言われています。

 更には、おうおう、この二義的なことのために、副次的なことのために、肝腎の宣教が、阻害されるという現実
に触れられています。


このことを、どう評価するのか。全く、私たちの教会にも、当て嵌まるかと思います。

 そして、これは蛇足かも知れませんが、勿論、この二義的なことのために、副次的なことのために、イエスさまは
時間を割いておられるのです。これも、また現実です。

 そうしますと、私たちの教会も、肝腎なことのために集中して、他のことには、一切目をつむり、耳を銓いでいれ
ば良いということではなくて、結局は、このことのために時間を割かれるということかも知れません。

 むしろ、「このようなことのために時間を割かれる教会の現実の中で、最も、肝腎のことが忘れられてはいけま
せんよ。」という警告として受け止めるべきかも知れません。


もう少しだけ、文脈を広げて読んでみたいと思います。

 前の方、1章21〜28節、と29〜34節も奇蹟物語、それも、神癒の物語です。そして後の方、2章1〜1
2節も、そうです。

 特に、2章では、1章に比べて、特徴的です。つまり、5節で、『その人達の信仰を見て』とありますように、そ
の行為によって信仰を証明した人に、奇蹟による治癒を与えるという、本来のマルコによる福音書のパターンに
即しています。

 しかし、ここでも、「あなたの罪は赦される」というように、神の恵みに与かるのは罪人であり、罪人であるが故
に、神の赦しに与かるという基本を崩していません。

 そして注目すべきは、この更に前後の記事です。ここには、漁師たちの召命、そして、取税人レビの召命が描
かれます。そして、彼らは、何かイエスさまの奇蹟、恩恵にあずかって、その結果、イエスさまに従ったのではあり
ません。これは、偶然とは思えません。

 イエスさまの奇蹟、恩恵にあずかって恩義を感じたからではなく、イエスさまの行いの中に、その本質を見た者
が、宣教の言葉を聞いた者が弟子として召命を受け、従うのです。私たちも、奇蹟に期待して、イエスさまに教
会に群がり、結果、宣教の妨げとなる者になってはいけません。宣教の言葉に聞き、イエスさまに従う者とならな
くてはなりません。


最も大事なことを繰り返します。この病人は、自分を汚れた者だと、罪の中にいる者だと考えていました。その
結果、イエスさまに救っていただくことが出来ました。

 現代では、病や他の苦しみを負っている人に対して、「自分が悪いからだと思ってはならない。」、「病を罪の
結果だと考えてはならない。」と言います。全くその通りです。

 しかしその観点で、今日の物語を読むことは出来ません。間違いです。

 この病人は、重い病を背負っていましたが、しかし特別な人ではありません。彼は、私たち人間そのものの姿
です。特別な病を背負っていなくとも、私たち人間は、罪に染まっており、苦しみを背負って生きています。

 単に病気ならば、お医者さんが直してくれます。しかし、私たちが、背負っているもの、人間が人間であるが故
に、免れることの出来ない苦しみを、救ってくれる力は、イエスさまの十字架にしかありません。

 それを、聖書は、罪と呼ぶのです。何をしたから、何をしなかったからではありません。人間は人間であるが故
に、罪の下に、むしろ、苦しみの下に生きているのです。