◇ マルコ福音書の冒頭は、この言葉です。 … 神の子イエス・キリストの福音の初め。… 『神の子イエス・キリスト』、語順を逆にしてギリシャ語の語順で言い換えれば、『イエス・キリスト』は『神の子』 です。これが既に、最初のメッセージになります。 『イエス・キリスト』は『神の子』である。これが、マルコの福音そのものです。 更に、『イエス・キリスト』は、ギリシャ語の語順の通りですが、直訳ならば、キリストのイエスとなります。つまり、 キリストであるイエスの意味であり、イエスはキリストであるというメッセージ、則ち福音です。 ◇ ギリシャ語の語順がどうのこうのと言う必要もありません。当たり前の解釈です。しかし、重要であり、この言 葉からマルコ福音書が始まると言う事実を、軽視してはなりません。これは、マルコ福音書を読んで行く時の、 大前提です。マルコ福音書は、ここに執筆理由があります。イエスはキリストであり、イエス・キリストは神の子で ある、これを説き証すために記されたのが、マルコ福音書です。 マルコ福音書にも、いろんな膨らみがあります。一つの出来事として、教えとして、重要な記述もあります。そ れも読み逃したらもったいないことではありますが、一番の強調は、イエスはキリストだということ、そのキリストが 十字架に架けられて殺され、その死によってこそ、人々に救いをもたらしたというのが、マルコの中心的メッセー ジです。 ◇ この際にお話しした方がよろしいでしょう。 マルコ福音書は、16章からなります。その内、10章以降は、直接に十字架の出来事を描いています。それ は、イエスさまの生涯の最後の一週間に過ぎません。8章でも、直接十字架に言及されています。その前にだ って、十字架と切り離しては解釈出来ない記事があります。 この1章で初めて登場した時には、イエスさまの年齢は30歳代です。記されていないので正確には分かりま せんが、30代前半と思われます。 イエスさまの誕生、幼少期は、全く記されていません。マルコには、クリスマス記事はありません。 つまり、マルコ福音書は、イエスさまの生涯を描く、伝記ではありません。あくまでも、十字架の物語なので す。体格も、毛髪や目の色も、肌の色も、全く記されていません。 多くの学者は、16章はマルコ本来のものではないと考えます。そうしますと、復活の物語でもなくなりますが、 しかし、8章から既に、十字架の預言は復活の預言と結び付いていますから、もし、学者が言う通り、16章以 降が失われたとしても、矢張り、マルコ福音書は、十字架と復活の物語だと思います。それに違いありません。 ◇ 2節。 … 預言者イザヤの書にこう書いてある。… イエスがどのような人なのか、その誕生や生い立ちや人柄や、いろんなことを記すよりも前に、先ず、『預言者 イザヤの書にこう書いてある。』と記しています。 一口にキリスト、ユダヤの言葉ではメシアと言っても、その時代、ユダヤ人の一人一人で、理解が違います。 メシアに期待することも違います。 マルコ福音書がイエスはキリストであると説く、そのキリスト・メシアとは、イザヤが描いているメシアなのです。 これからマルコ福音書を読み続ける時に、目の前にマルコ福音書を開いていたら、その横にはイザヤ書を置か なくてはなりません。少なくともそのようなつもりで、マルコを読むことになります。 今、聖書研究祈祷会では、イザヤ書を読んでいます。是非ご出席いただきたいのですが、それが適わない人 には、聖書研究祈祷会で毎回出しているプリントをお分けすることは出来ます。お申し出下さい。 ◇ 2節。 … 見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。… これは、厳密にはマラキ書3章1節にあります。マルコは、イザヤとマラキを重ねて、一つの預言の声として聞い ています。パウロにもそういうことが見られます。 これは、聖書の知識が乏しいから起こることではなくて、むしろ逆、よくよく通じているから、このような仕方で引 用されることがあります。少なくとも私たちは、バラバラではなく、一つの預言として聞くべきでしょう。 ◇ 先に使わされる使者とは、4節から登場するバプテスマのヨハネのことです。ヨハネについては、後々ヨハネが 直接登場する場面を読むことにしますので、今日は省きます。4〜15節全体を、その機会に譲ります。 マルコが、イザヤやマラキを引用し、神からの使者に触れているのは、民衆の間に、そのような信仰があったか らです。むしろ期待と言うべきでしょう。 聖書の預言、そして人々の願いが、今、現実になろうとしていると、マルコは言いたいのです。 聖書の預言は正しく、民衆の期待はそこからズレている場合もあります。旧約聖書ではそのような事態が描 かれていますし、それは、私たちにも当て嵌まるでしょう。 私たち一人一人に、期待があります。望ましい未来があり、究極、永遠に住みたい神の国があります。その 期待、願いが、聖書から外れている場合もあります。 マルコは、この民衆の期待をむげに退けてはいないと思います。 むしろ、ここでは、あなた方が求めて止まないメシアが、今、現れたのだと告げていると思います。 ◇ 2節の続き。 … あなたの道を準備させよう。… バプテスマのヨハネは、メシアではなくて、『道を準備』する者、『道を準備』する者に過ぎないと言っています。 確かに、初代教会には、バプテスマのヨハネを高く評価するあまり、キリストと同格に視、信仰する者がいたよ うです。そのような考え方を退けているのかも知れません。 しかし、『道を準備』する者に過ぎないと、卑しめるのは、逆に過小評価ではないかと考えます。『道を準備』 する者は、大事な存在です。尊い存在です。 ◇ かなりの脱線になるかも知れませんが、敢えて言います。 長いキリスト教の歴史を通じて、とても評価出来ない時代もありました。評価出来ないどころか、出来ること ならば、歴史から抹殺したい教皇や教会も存在します。彼らが、私たちの信仰の先達だとは、認めたくない人 がいます。それは、紛れもない事実です。 しかし、それをも含めた教会の歴史であり、その歴史の延長上に私たちがいることも否定出来ません。 人間の命が、遺伝子が、先祖から伝えられたように、信仰もまた伝えられたものです。例え、望ましくない親 でも親に違いないように、血の繋がりを否定することは、自分の存在を否定することになります。 肯定は出来なくとも、事実として認めるしかありません。そこからしか、出発しません。 ◇ 真逆の例もあります。 これこそ、大脱線ですが、日本人の倫理の大本は古代中国の、諸子百家にあります。その中で、私は墨子 にとても惹かれます。その反戦思想にとても惹かれます。 日本人独自の倫理の大本は、鎌倉仏教よりも前の、古い仏教思想にあります。私はその中で、空也(こう や〜高校の日本史ではくうやと習いました。)上人にとても惹かれます。敵味方一切の区別なく、ただ捨て置か れた死人を埋葬し、御経を唱え成仏を願う、自分たちは何も財産を持たず、人に施す、素晴らしいと思いま す。 勿論、キリスト教の歴史、ローマカトリックに限っても、アッシジのフランシスとか、聖人と呼ぶのに抵抗を感じな いような、素晴らしい人たちが輩出されています。近代、現代にも、そのような人がいます。 ◇ 何とも不思議なことに、とんでもなく悪い聖職者の多かった時代に、殆ど同時代に、アッシジのフランシスの ような人が現れます。似ても似つかない存在とも映りますが、アッシジのフランシスは、あの腐敗しきったローマの 信仰の中から生まれ出たのです。 残念なことに、創始者から3代も経つと、もう腐敗しています。創始者の思想とはまるで違うことを始めていま す。 それは、現代でも起こっているのではないでしょうか。 私たちの教会だって例外ではないかも知れません。私たちの教会には、それこそ、他の教会の人に誇りたいよ うな人材を与えられました。現に誇っています。私たちの教会には、しかし同時に、日本中の教会で評判となる ような事件も起こりました。 拭えない汚点として、今も、ネット上に残っています。向こう10年で消えるでしょうか。難しいかも知れません。 それが私たちの教会の89年の歴史です。その、決して望まなかった歴史を、しかし、否定する術はありませ ん。この歴史の上に未来を築いて行くしかありません。 ◇ 聖書に戻ります。3節の最初を読みます。 … 荒れ野で叫ぶ者の声がする。… これは、イザヤの預言をバプテスマのヨハネに重ねています。ヨハネは砂漠の隠遁的生活から出て来て、民衆 に悔い改めを説いたようです。『荒れ野で』です。福音の声は、『荒れ野で叫ぶ者の声』から始められました。 整えられた大舞台で、ではありません。音響も効いた、冷暖房も整備されたホールで、ではありません。前も って宣伝が行き届いていたのではありません。何も知らない人たちに、何も関心がない人たちに、叫び掛けられ た声が、最初の福音です。その福音は、内容を聞けば、決して良い知らせではありません。人々が喜んで迎え る良い知らせではありません。逆です。『悔い改めよ』です。 ◇ 3節の残りを読みます。 … 『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』… 中国の思想家やローマカトリックで聖人扱いされる人のことに触れました。彼らは、道を整える人たちだったの ではないでしょうか。 但し、あまり真っ直ぐな道ではなかったでしょう。曲がりくねっていたかも知れません。勾配がきつかったかも知れ ません。彼らは、その道を歩き、歩くことで整え、後に続く人の道を踏み固めた人たちではなかったかと、私は考 えます。 ◇ 当該のイザヤ書を引用します。40章3〜4節です。 … 3:呼びかける声がある。 主のために、荒れ野に道を備えわたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。 4:谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、 狭い道は広い谷となれ。… 広い道ではありません。平らな道ではありません。『荒れ地』を行く道です。だからこそ、『険しい道は平らに、 狭い道は広い谷となれ。』と語られています。 中国の思想家やローマカトリックの聖人も、私たちの信仰の先達も、『荒れ地』を通る道を歩いて来ました。 誰もが通れる道では、決してありません。 ◇ イザヤ書40章の末尾の部分を引用します。11節。 … 主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め 小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。… 広い道ではありません。平らな道ではありません。『荒れ地』を行く道です。誰もが通れる道では、決してあり ません。その道を、メシア・キリストが歩まれる時に、『険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。』と語られて います。 私たちも、この道を歩かなくてはなりません。しかし、その道を歩む時、キリストが一緒です。キリストは、ゴルゴ ダへの道を十字架を背負って歩かれた方です。この十字架こそ、羊であり、羊の群れであり、則ち、私たち一 人ひとりです。私たちの教会なのです。 ◇ マルコ福音書は、十字架の出来事を描きます。ゴルゴダへの道を、十字架を背負って歩かれるキリスト・イ エスを描きます。その道すがら、様々な出来事が起こります。マルコはそのことをも描いています。しかし、目的 地は十字架です。 私たちが歩むのも、真っ直ぐな道ではなく、曲がりくねった道かも知れませんが、十字架への道を歩いていま す。様々な出来事が起こります。躓きを覚える出来事が次々と起こります。しかし、その道は、振り返って来し 方を見れば、真っ直ぐな道です。 行き先も、道が曲がりくねっているために、見通しが効かず、目的地が見えないこともあります。しかし、どんな に曲がりくねっていても、それは、一本道なのです。 この先、来年は90周年を迎えます。100周年だって、角を曲がった、ついその先にあるかも知れません。た だ、道を踏み外すことがないように歩き続けるだけです。 イエスさまと、信仰の先達が歩いた道を歩き続けるだけです。 |