◇ この詩編は23年の1月にも読んでいます。その時には、後半に絞って読んでいますので、今回は、前半に 重きを置きます。また、今日は敬老祝福の主日ですので、そのことを意識して読みたいと考えます。 ◇ 2節から読みます。 … いかに楽しいことでしょう 主に感謝をささげることは … これを朝毎の感謝のお祈りと受け取れば、その祈りが『楽しい』のは、素晴らしいことです。新しい朝を迎える ことが楽しい、何と素晴らしいことでしょう。かつてそんな日々があったように思います。ありました。 若い時は、朝目覚めた瞬間に、何をしようかと考え、飛び起きます。前の晩に、明日は何をしようかと考えわく わくし、興奮しすぎて少し眠りが足りない時でも、ぱっと飛び起きます。年齢を重ねると、どうもそのようにはまいり ません。就寝前に考えことなどしますと、それが楽しみなことであっても、夜中に眼が覚め、眠れなくなります。 心配ごとだったら、もう駄目です。眠れずに悶々としているよりは、牧師室に行って、翌日に必ずしなくてはなら ない事務仕事をした方が、効率的です。 ◇ ごく単純に、眼が覚めて、のびの一つもして、一言お祈りしようと思ったら、それは良い朝であり、良い一日の 始まりです。心配事を抱えて良く眠れず、それでも浅い眠りから、目覚め、深刻なお祈りの言葉が口から出て 来る、そんな時は最低の一日の始まりです。 その日もまた眠れない夜を迎えるための、足を引きずるような、 のろのろとした歩みが始まります。 ◇ 1節に戻ります。… 賛歌。歌。安息日に。… とあります。 普段は、このト書きのような所は読みません。しかし、これに従いますと、2節は、礼拝の時の歌になります。 つまり、『安息日に』、神殿かどこか礼拝出来る場所に行って、歌を捧げることの出来る喜びを歌っていること になります。私たちだったら、これは則ち、礼拝と重なります。 日曜日の朝目覚めて、「今日は礼拝の日だ」と思い、その瞬間に楽しくなるような人が、何人かでもいたら、 その礼拝は、他の人にとっても楽しいものになるでしょう。 ◇ 2節後半から3節を読みます。 … いと高き神よ、御名をほめ歌い 朝ごとに、あなたの慈しみを 夜ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは … この讃美、この祈りは、必ずしも、自分の心持ちを歌うものではありません。 神への讃美であり、感謝です。 更に『あなたのまことを述べ伝える』とあります。これも私たちの教会に重ねるならば、福音・宣教となりますで しょう。 歌うのは、神への感謝、神のなさる業への讃美であって、自分の感情ではありません。 その点、流行歌とは全く違います。 ◇ 朝目覚めて、真っ先に、感謝や讃美の言葉が浮かぶならば、こんな幸せな人はいません。ウキウキした気 持ちで一日を始められる人は、とても幸せな人です。羨ましい限りです。しかし、それが則ち讃美ではありませ ん。讃美とは神を讃美することです。祈りの始まりは、神を讃美することです。 そうした前提がなければ、讃美は讃美にならないし、祈りは、単なる祈願や、欲深な要求に過ぎません。 辛い思いで眼が覚め、先ず一言、ため息をつかなくてはお祈り出来ない時もあります。 その時に、どんなに、自分の心を神さまの前に立つ者としてふさわしく整えようとしても、大抵駄目でしょう。 ◇ むしろ、祈らなければなりません。決まった感謝の祈りをしなくてはなりません。 食欲を失った病人は、無理にでも食べなくてはなりません。食べなければ、ますます食欲は落ち、体力が衰 え、やがては食べたくとも食べられなくなります。 お祈りだって同じです。 言葉が出て来ない程に、辛い時があります。その時に、無理矢理でも祈らなければ、やがて祈らなくなり、祈 る必要を感じなくなり、祈りの気持ちも失せてしまいます。 自分の言葉で、自分の気持ちで、祈ることが出来るのは、プロテスタントの特権です。 しかし、カトリック的な、決まり切った祈り、ラテン語やギリシャ語での、意味もよく分からないような祈りも、必 要なのかも知れません。自分の心を超えて祈るからです。 私たちプロテスタントは、自分の心を自分の言葉で表現することを、大切なことだと考えています。それに間違 いはありません。しかし、その真逆もあるかも知れません。 自分の気持ちを超えて、祈るから、どこからか外から救いの言葉が、心の中に入って来ます。自分の気持ち を、自分の祈りだけを、心の中でだけ、唱えていたら、自滅の方向に、心が歩いて行ってしまうかも知れません。 ◇ ここで、先ず一つ結論めいたことを言います。 主の祈りがあります。使徒信条があります。これは、その時々の気分に従って、文言を換えることは出来ませ ん。換えられないものだから、尊いし、そこから、出口にも向かうことが出来ます。迷路に、もし目印があったら、 それは既に迷路ではありません。 主の祈りも、使徒信条も、2000年少しも変わらないものです。変わってしまったら、主の祈りも、使徒信条 も、出口が分からない迷路となってしまうでしょう。 ◇ 4節。 … 十弦の琴に合わせ、竪琴に合わせ 琴の調べに合わせて。… そのような楽器があったようです。詩編には、現在ではその正体が分からないような、楽器や、調べに言及さ れています。 『十弦の琴〜竪琴〜琴』、三つの楽器に触れられています。その違いは分かりません。そういうことを解説して いる本もありますが、私には分かりません。兎に角、肝心なことは、楽器があって、それにて、人々が歌っていた という、その一点です。 楽器がありました。人々は、それに合わせて、一緒に歌いました。つまり、みんなが勝って気ままに歌っていたの ではありません。声を揃えるために、勝手に歌わないためにこそ、楽器がありました。この順番は逆にはなりませ ん。 当時の様子を完全に復元することは出来ないかも知れませんが、兎に角に、皆が声を合わせて一緒の歌を 歌っていました。 私たちの教会、私たちの礼拝も、かくあるべきでしょう。 ◇ 5〜6節を読みます。 … 主よ、あなたは御業を喜び祝わせてくださいます。 わたしは御手の業を喜び歌います。 主よ、御業はいかに大きく 御計らいはいかに深いことでしょう。… 歌詞の内容は、神の業についてです。神がどんなに私たちを恵み、導いてくださったかです。 詩編は実に多様で、いろんな歌がうたわれていますから、全てが感謝ではありません。嘆きもあります。神さま に訴えかけるものもあります。反抗的、不信仰だと聞こえるものさえあります。少なくありません。 しかし、それらも含めて、私たちが、神に向かって讃美出来ることの喜びが歌われています。私たちの教会の 礼拝、讃美こそ、そのようなものです。 ◇ 7節。 … 愚かな者はそれを知ることなく 無知な者はそれを悟ろうとしません。… 6節と続けて読めば、神のみ業の深さ、意味が、『愚かな者』には分からないという意味です。8節と重ねて 読めば、『愚かな者』は表面しか見ず、一過的に過ぎない事象によって、神に不満を持ち、神を裁き、神は私 には何も良いことをしてくださらないと不満を言うとあります。 その通りでしょう。一つ一つの出来事や言葉についても、なかなか理解出来ないとしたら、その全体像など分 かりません。分からないから、つぶやきを言います。 ◇ 徒然草の良く知られている段を引用します。引用した方が早いと考えます。 〜仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、 ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩より詣でけり。 極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。 さて、かたへの人にあひて、「年比思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて 尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、 ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。 少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。〜 これは国語の教科書に出て来ます。解説は無用でしょう。そもそも徒然草本文に解説はありません。 自分の眼で確かに見たように思っていても、目に飛び込んでくる麗しいもの、珍しいものに心奪われて、一番 肝心なことを見逃していては、何も見ていないのと同じです。 聖書、信仰の世界にこそそんなことがあるのではないでしょうか。 肝心なことに目を向け、肝心なことを祈るべきです。『言葉数が多ければ聞き入れられると思っている』と皮肉 を仰ったのは誰でしたでしょうか。 ◇ 最初に申しましたように、前回は後半を中心に読みました。一部は省いて、13節以下を読みます。 … 神に従う人はなつめやしのように茂り レバノンの杉のようにそびえます。… 深く読む必要はありません。神に従う人は、その人生も栄えるという単純な歌です。 これに否を言いたい人はいます。私もその一人かも知れません。世の中そんなに単純ではないと思います。 〜しかし、そんなことは、この詩人も承知です。 前提に12節があります。 … わたしを陥れようとする者をこの目で見 悪人がわたしに逆らって立つのを この耳で聞いているときにも。… 詩人も、12節の方が、世の現実であることは知っています。それを否定しません。 しかし、その家に与えられた恵みを、『なつめやしのように茂り レバノンの杉のようにそびえ』と歌います。 この歌は、決して、特別に恵まれ、幸運な人生を送った人の歌ではありません。むしろ10〜12節の現実を 見て来ました。苦しめられました。だからこそ、13節のように歌います。 ◇ 更に14節。 … 主の家に植えられ わたしたちの神の庭に茂ります。… どんなに大木となっているかではありません。豊かな実をたわわに付けているかではありません。『神の庭に茂』 っていることが、決定的に大事なことだと歌っています。 私たちも同様です。そこで捧げられる礼拝・讃美がどれだけ整っているかが問題なのではありません。神の家 に集まり、讃美の声を合わせている、これが何よりも尊いことです。 ◇ 15節。 … 白髪になってもなお実を結び 命に溢れ、いきいきとし… 素晴らしい景色です。昔の人は、これを文字通りに受け止め、そして、喜んだことでしょう。随分と年取ってか ら、新しい若い奥さんを貰い、子どもを設ける人がいました。そういう景色が歌われています。そこまで言わなくと も、子ども孫、曾孫に囲まれたら、何とも恵まれた人だと、素直に思います。 この箇所についても、教会と重ねて読むことが出来ましょう。 残念ながら、この景色は、我が教会の景色ではありません。親子で礼拝に出席する人は、今は殆どありませ ん。孫も含めて三代は、全然ありません。牧師家族だけです。 それならば、私たちの教会は、そこを目指すべきでしょう。何も血縁である必要はありません。 庭に繁るものとは、人です。一緒に礼拝を守る人のことです。 ◇ 16節。 … 述べ伝えるでしょう わたしの岩と頼む主は正しい方 御もとには不正がない、と。… 現実のイスラエル史に、そのような正しい王が、座ることはありませんでした。 これは、新約時代になって始めて実現したことです。 十字架の苦難の椅子に座られた方を待たなくてはなりませんでした。ユダヤ教の信仰者は、そのような方を、 今も待ち続けています。しかし、私たちは、そこから出発しています。私たちこそ、詩編92編を、心から、歌うこ とが出来ます。4ヶ月近く旅を続け、王の誕生を祝うクリスマスには、声を合わせ、心を併せて、讃美したいもの です。 |