日本基督教団 玉川平安教会

■2025年2月1日 説教映像

■説教題 「真ん中に立ちなさい」

■聖   書  マルコによる福音書 3章1〜12節 


今日の箇所は、以前に読みました。しかし、記憶も記録も不確かです。ですから、似たような説教、殆ど同じ
ような説教になるかと思います。


この箇所を読むたびいつでも、思い出す出来事があります。白河教会時代ですから、もう40年以上も前のこ
とになります。

 小学校5年生の男の子が、ものみの塔の信者である両親の輸血拒否によって、みすみす助かる命を失って
しまったという出来事がありました。

 当人が「死にたくないよ、もっと生きていたいよ。」と泣くのに、両親が信仰を理由にそれを拒んだ、何ともおぞ
ましい出来事でした。当時は似たようなことが続きました。


輸血拒否の聖書的根拠などある筈がありません。全く単純に考えて、聖書の時代に輸血など、そもそも存在
しません。

 むしろ、創世記2章の女の創造の箇所で、「主なる神は人を深く眠らせ、眠ったときに、そのあばら骨の一つ
を取って、その所を肉でふさがれた。」という記述がありますが、「これは手術である、手術であるならば当然、
輸血も行われた。」と主張する人さえいます。

 これは、乱暴な論理展開ですが、しかしながら、輸血否定よりはまだしも聖書的根拠があると言えます。

 

申し上げたいのは、今日の聖書箇所を根拠にして考えたら、輸血について、どんな読み方、どんな結論が出
て来るかという点です。4節をご覧ください。

 … 「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。

  命を救うことか、殺すことか。」…

 これは、奇妙な論法です。本来なら、「安息日に善を行うのと、安息日だから何もしないのと、命を救うのと、
安息日を守って、何もしないで、見過ごしにするのとどちらがよいか。」になる筈です。

 それが『「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すこと
か。」』という、大分誇張、飛躍した表現になっています。

 イエスさまの考えでは、「安息日に善を行う機会がありながら、それを行わないのは、悪を行うのに等しい。安
息日に命を救う場面に遭遇しながら、手をこまねいて見ているのは、殺すのに等しい。」からだと思います。


イエスさまの言葉に聞くならば、輸血をすれば助かる命を、手をこまねいて見ていたならば、それだけで、「悪を
行うこと、殺すこと」になるのではないでしょうか。ましてや、輸血拒否によって子供の治療を拒んだならば、紛れ
もない殺人行為でしょう。

 ちょっと乱暴な話をします。私の私見に過ぎないと批判されるかも知れません。しかし、私は確信しています。

 ものみの塔の輸血拒否の真の理由は、彼らのもう一つのこだわりである進化論の否定と同じで、実は人種
差別だと思います。

 今日では、黒人の信者も大勢いるようですから、そのことは隠れてしまっていますし、日本人信徒の意識の中
には、初めから人種差別は無いのでしょう。しかし、少なくとも当初輸血拒否の信条が生まれた理由は、輸血
によって、黒人の血が混じることを嫌ったこと、人種差別にあると思います。


進化論否定にこだわるのも、その根本理由は、聖書の創造神話に抵触するからではないし、お猿さんと共通
の御先祖さまを持つのが厭だからでもありません。黒人と共通のご先祖さまを持つのが厭だからです。自分たち
白人と、黒人とが同じ先祖から出て来たとは、認めたくありません。〜 それが進化論否定の真の理由です。そ
れを言い張るために、創世記を持ち出しているのに過ぎません。人種差別に、信仰という衣装を着せているだ
けです。〜 この理屈自体も非常に無理があります。

 創世記に従って、全ての人間の源がアダムとイブとに遡るとすれば、進化論がなくとも、正に白人と黒人とが共
通の先祖を持つことになります。そこは無視されてしまいます。

 聖書に聞くという姿勢が、本当にはありません。自分たちの思想が先にあります。ですから、どんな聖書解釈
だって生まれて来ます。自由自在でしょう。

 それはともかく、本来の理由は忘れられて、輸血拒否の信条だけは残った、とすれば、小学5年生の子供は
一体何のために死ななくてはならなかったのか。惨いとしか言いようがありません。


ものみの塔の輸血拒否も、今日の箇所の片手の不自由な人に対する仕打ちも、その根は、全く同じもので
す。

 ファリサイ派は、律法を知っている、順守していると言いながら、律法の本質を見ないで字面にこだわります。
字面にこだわるのは、そもそも、聖書に聞くという姿勢ではなくて、都合の良い答えをあらかじめ持っていて、聖
書は単に自分の考えを主張するための道具に過ぎないからです。

 こういった姿勢で聖書を読む、律法を調べるのは、まるで、暴力団の手先になる悪徳弁護士のようなもので
す。人が、実際に無実か有罪か、そんなことはどうでも良く、ただ、無罪判決を勝ち取れば、弁護士の手柄に
なり、顧客も着き、お金になる、そんな弁護士には、いて貰いたくありません。そのことは、検事だろうが判事だろ
うが同じです。

 法律に仕える人が、正義感を持っていなかったら、恐ろしいことです。そんな人は要りませんし、むしろ、いては
なりません。諸宗教の聖職者も同様です。正義よりも、利得の方が大事な宗教者は、要りませんし、むしろ、
いてはなりません。


5節を読みます。

 … そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、

  その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。…

 『イエスは怒って人々を見回し』という表現が、とても刺激的です。

 福音書はイエスさまの喜怒哀楽を正直に描写しますから、宮清めの場面を始め、イエスさまの怒りについて言
及する箇所もあります。しかし、やはり例外的という印象はあります。『イエスは怒って人々を見回し』とは、よほ
ど特別のことがあったのです。このイエスさまの怒りの原因はどこにあるのかと考えることが、今日の箇所を理解
することにつながるかと思います。


 2節の『人々』は、ファリサイ人や律法学者を特定していません。しかし、『イエスを訴えようと思って』いた人々
であり、イエスさまに悪意を持つ人々でした。

 6節の『ファリサイ派の人々は出て行き』からして、少なくともファリサイ人に扇動されていたことは間違いありま
せん。

 その悪意は、2章に於けるイエスさまの業・言葉に対するものと考えられます。この2章の記事を一つ一つ丁
寧に当たれば、自ずと今日の箇所における、イエスさまの怒りの原因がどこにあるのかということも見えて来るか
と思います。

 しかし、読んだばかりですか、簡単に、2章の出来事によって、人々特にファリサイ派とイエスさまの間に対立が
生まれていたと整理しておきます。


 その結果、人々はイエスさまに罠を仕掛けました。2節。

 … 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、  注目していた。…

 これは、非常に悪意に満ちた罠です。つまり、もし癒しが行われたら、「彼は安息日を守らなかった」という非
難が待っています。そして、もし癒しが行われなかったら、「彼には評判のような力はない」という嘲笑が待ってい
ます。

 福音書の中に頻繁に現れる論争の物語は、殆ど全部このような構造を持っています。

 しかし、イエスさまが怒ったのは、罠に掛けられたことそのものに対してではないでしょう。『手の萎えた人』を、そ
の人の病気を、罠の道具として用いたこと、この人を、道具としてしか考えていないことが、イエスさまを怒らせた
と、私は考えます。要するに、苦しむ人をダシにしたのです。〜 それは大きな罪ではないでしょうか。

 諸宗教の中には、様々な理由で苦悩の中にある人を、利用する、ダシにするような教えがあります。教会に
はそんなことはあってはなりません。断固、退けなければなりません。


もう一つ問題になる大きな罪は、そもそも聖書や律法に向かい合う動機が、悪意にあるということです。悪意を
持って、人を裁く道具として、聖書や律法を用いていることです。聖書を、銃や剣と同じにものにしてしまっていま
す。なんとも、冒涜的です。

 6節に出て来るファリサイ派とヘロデ党とは、当時の政局に於いて、敵対関係にありました。しかし、イエスを殺
そうという悪意で、憎悪で、一致を見ました。所謂野合です。本来一致出来ない筈の者同士が、第三の共
通の敵を持つことによって結び付きました。悪意が・憎しみが、接着剤の役割を果たしています。

 これは、仲良くなったと、喜べることではありません。悪の連帯です。


今日の箇所も、直截には安息日のことが論争の種になっています。

 安息日の、更には律法の本質はどこにあるのかを考えなければなりません。

 神さまが貧しい弱い人間のために下さったものが、安息日であり、律法です。律法の本質は、愛にあります。

 例えば、マルコの12章で、ひとりの律法学者がイエスさまに質問します。

『あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。』その答えは、『精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなた
の神である主を愛しなさい。』であり、『隣人を自分のように愛しなさい。』です。

 この言葉の出典は、ヨシュア記にあります。ユダヤ教の時代から、神さまの本質は愛にあります。この箇所だけ
でも、律法の本質が愛にあるという聖書的根拠として十分です。

 つまり、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』と、『隣人を自分のよ
うに愛しなさい。』とは、実は、同じことなのです。

 神への信仰を理由として、人を裁き切り捨て、憎むのは、有り得ないことであり、大きな矛盾です。その逆も
また言えます。人への愛を理由として神をおろそかにすることは、全くの矛盾です。


 さて、話を元に戻します。イエスさまが4節で、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行う
ことか。命を救うことか、殺すことか。」という誇張した表現を用いられたのは、イエスさまの考えでは、「安息日に
善を行う機会がありながら、それを行わないのは、悪を行うのに等しい。安息日に命を救う場面に遭遇しなが
ら、手をこまねいて見ているのは、殺すのに等しい」からだと申し上げました。

 この辺のことを、積極的倫理と消極的倫理という言葉で表現する人がいます。とても分かりやすいので参考
にしますと、日本人の儒教的倫理では、「自分が厭なことは人にするな」が基本であり、例えば良い子は、「お
となしい」つまり、音を立てない音無しであり、大人らしいで、要は子供らしくない子が、良い子になる。何か子
どもらしい行いをするから、良い子ではなくて、何もしないのが良い子だということになります。

 縁談などで言われる良い人は、「酒も飲まない、たばこも吸わない、マージャンもしない」で、これも何もしない
ことが良いことみたいに言われます。

 これに対して聖書の倫理では、「自分のして欲しいことを、人にしてあげなさい。」と積極的になる、簡単に言
えばこんなことです。

 この説明は、孔子の仁義と、墨子の博愛との対比にも当て嵌まるかも知れません。多分、この方が先にあっ
て、牧師の誰かが、説教で、援用したのではないかと思います。この考え方には賛成です。しかし、イエスさまの
教えの方が、より積極的倫理だと考えます。


 日本人論が当たっているかどうかは分かりませんが、聖書の倫理が、「自分のして欲しいことを、人にしてあげ
なさい。」であることは間違いないと思います。

 ところで、「自分のして欲しいこと」とは何か、いろいろありますでしょうが、自分一人では出来ないこと、お金で
は買えないこととか、考えてみますと、最後に残るもの、最も大事なことは、「人に関心を持って貰うこと、愛して
貰うこと」ではないでしょうか。


 子供が大人(音無)しくないのは、実はここに理由があります。子供は周囲の大人の関心を惹き付け、世話
を焼いて貰わなければ生きては行けません。愛して貰えなければ生きては行けません。

 ニコニコ愛らしい表情を見せ、惹き付けたり、逆に泣いたり喚いたりして、苛立たせたり、要するに注意を惹か
ないと生きて行けません。周囲の者に無関心になられたら、生きて行けないのです。

 これも、先程の『あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。』の答え、『精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽
くして、あなたの神である主を愛しなさい。』、そして、答えの第二、『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せ
よ。』にぴったりと符合します。


 互いに愛し合い、積極的に愛の福音を宣べ伝えることによってこそ、律法を全うしたいと思います。

 また、共通の敵に対する憎しみによる一致ではなく、共通の福音に生かされる者同士の、愛による一致を見
出したいと思います。