日本基督教団 玉川平安教会

■2025年11月9日 説教映像


■説教題 「咎め、戒め、励まし」 

■聖   書 テモテへの手紙二 4章1〜8節 

◇ 3節前半から先に読みます。

 … だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。…

 特に説明を加えなくとも、充分、理解して貰えるし、また、納得して貰える言葉かと思います。『健全な教
え』、これがもう駄目です。多くの人は、これを嫌います。小言のようにしか聞こえないからです。

 こういう言い方になります。「若い人に意見しても仕方がない。まともな意見ほど聞いて貰えないから。」だいた
い、こうなってしまいます。まともな意見、『健全な教え』、それは、学生や若い人にとっては、魅力がないと同義
語です。

 アルチュール・ランボーの詩に、こんな1節があります。

 「干からびた真理よりも、煌びやかな錯誤を!」

 オスカー・ワイルドにも、同趣旨の言葉があります。


◇ 特に説明を加えなくとも、と申しました。しかし、説教としては、聖書の注釈としては、付け加えなくてはなりま
せん。

 若い者に意見しても聞いて貰えないという言葉は、箴言等で繰り返し語られています。

 当然、その逆、若者に対して、息子に対して、『年寄りの考えに聞き、学びなさい』という意味の言葉が、諄
いほど、繰り返されています。


◇ 3節後半を読みます。

 … そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、

  好き勝手に教師たちを寄せ集め、…

 時代が遡る程、占い、占星術などが盛んに行われました。科学知識に乏しい時代ですし、統計や世論調
査などありません。本もありません。そもそも、王も含めて、教養が足りなかったと思います。だから、迷信的な
占い、占星術など頼るのでしょうけれども、実は、それだけではありません。占い、占星術には、実に合理的な
役割・機能があります。


◇ 例えば、王が隣国との関係で迷ったとします。戦争に訴えるのか、和解策を採るのか、いっそ降伏するの
か、容易に結論が出ない時に、貴族や将軍たちを集めて、評定の場を設けます。それは、結局、誰かの意見
を採用し、誰かの意見を退けることになります。

 戦争を前にしているのに、国論が分かれてしまいます。力が削がれます。王の迷いとは、誰の意見を用いるか
です。誰の策が正しいかではありません。

 その時に、例えば、亀の甲羅を火にくべ、占います。ひびの入り具合を見、「このように、天の御心は、開戦に
あります。」と結論が出れば、誰のメンツも傷つきません。

 それが、占いの意味です。必要性です。


◇ ですから、有能な占い師の技術とは、王の意図を汲み取ることにあります。斟酌です。忖度もほぼ同じ意
味合いで使われる言葉でしょう。

 遠藤周作の『狐狸庵』シリーズの中にも、同様のことが書かれています。占いがブームになったことがありまし
た。『新宿の母』でしたでしょうか、それに触れて記されています。特に女性だそうです。「あなたはとても良いもの
を持っている。しかし、あなたの側にいる人はそれに気付いていない。」こう言えば、殆ど全ての女性が、「その通
りだ。この占い師は、本当のことを語っている。」と頷くそうです。

 これに、「このままでよいから、もう少し辛抱すれば、必ず分かってくれる人が現れる。」これを付け加えれば、
この占いは、疑いのない真実になるのだそうです。


◇ 殆ど同趣旨のことが、統一原理のインチキ商法マニュアルにもあります。

 第一条には、「兎に角、褒めなさい。何かしらを見つけ出して、褒めなさい。そうすれば、話に乗ってくる。」

 質問も載っています。「褒める所がなかったらどうしますか。」

 答えは、「玄関にあるもの何でも良いから褒めなさい。ネコがいたらネコを褒めなさい。」 これが、占い、占星
術等の基本であり、正体です。

 確かに、有意義かも知れません。誰か、迷っている人の、悩んでいる人の助けにさえなるかも知れません。
〜 しかし、嘘に過ぎません。

 それでは、飲み屋と同じでしょう。どんな愚痴でも聞いてくれる飲み屋のおばさんと一緒です。これも、確か
に、有意義かも知れません。誰か、迷っている人の、悩んでいる人の助けにさえなるかも知れません。〜 しか
し、嘘に過ぎません。愛はありません。

 親父の時代錯誤的な小言には、それでも愛があります。その方が、嘘よりも、余程増しではないでしょうか。


◇ 3節後半をもう一度、そして続けて4節を読みます。

 … そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、

  好き勝手に教師たちを寄せ集め、

  4:真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。…

 耳障りの良いことを聞きたいと思うならば、このようになってしまいます。その一瞬は気分が良くなるかも知れま
せん。嘘にも効能が確かにあります。

 しかし、その人が抱えている問題の本質は、何も変わりません。むしろ、次第に拗れて深刻になっていくでしょ
う。

 麻薬のようなものです。一時を凌ぐには、実に効果的です。全ての悩みを忘れます。傷みが全く消えます。し
かし、問題の解決を、明日に延ばすだけです。


◇『真理から耳を背け、作り話の方にそれて行く』方が楽ですし、傷み、悩みが消え、愉快かも知れません。
〜 しかし、確実に神の国から遠ざかります。

 私たちは、苦しさを紛らすために、礼拝を守っているのではありません。楽しい時を過ごし、一瞬でも、浮世の
憂さつらさを誤魔化すために、祈っているのでも、讃美しているのでもありません。

 聖書の言葉を聞き、我が身に受け止めるために、礼拝を守っています。


◇ 昔、「父、御子信者」という言葉がありました。

 礼拝の終わり頃、讃美歌541番の「父、御子、御霊の」という下りになる頃に、礼拝にやって来る人のことを
指しました。

 説教が終わるタイミングで訪れる人もいます。

 要するに、説教を聞くのが嫌なのです。退屈なのです。つまらないのです。

 そうかも知れません。それが現実だとすれば、学生や若い人にさっばりつうじない説教をしている牧師は、猛省
しなくてはならないでしょう。

 しかし、言い訳ではありません。私たちは、楽しい時を過ごし、一瞬でも、浮世の憂さつらさを誤魔化すため
に、祈っているのでも、讃美しているのでもありません。

 礼拝は、楽しい讃美歌だけにしましょうとはまいりません。気持ちがすっきりするお祈りだけで良いともなりませ
ん。


◇ 橋三郎師の本の中に、無教会の葬儀式次第が載っていました。聖書朗読があり、讃美歌があり、祈り
があります。私たちの礼拝順序と大きな違いはありません。殆ど同じと言っても良いくらいです。普段の礼拝も
大変似通っているようです。

 違いは、説教です。葬儀説教、説教とは言いませんが、弔辞だろうが講演だろうが同じことでしょう。聖書に
基づいた説き証し、お勧めがあります。延々と続きます。1時間2時間は当たり前のようです。印刷された文字
で読むのが大変なくらいですから、実際その場にいたら、なかなかでしょう。疲れるでしょう。

 私は無教会の集会に出たことは一度もありません。ですから、分かったようなことは言えませんし、集会によっ
ても違いはあるでしょうが。兎に角、彼らは御言葉に聞くことに熱心です。そこに救いが掛かっていると考えていま
す。


◇ 『グッド・オーメンズ』と言う、馬鹿馬鹿しくも面白い本があります。テレビドラマにもなっていますので、正月、
時間が出来たら観たいと願っています。

 この小説は、この世の終わりを描くドタバタ喜劇ですが、終末の光景の描写にこんな一節がありました。「牧
師の説教は、5分を切るようになる。」〜 これが終末の光景です。

 10数年前、キリスト教出版社の勉強会に出たことがあります。講師が、この人はクリスチャンでもありません
が、こんなことを言います。「人の話を集中して聞けるのは15分と言われています。説教は、15分以内にしな
いと、礼拝出席者が減るでしょう。現にアメリカの教会では説教は10分程度です。」

 その通りかも知れません。人のスピーチはそうでしょう。10分は限界でしょう。3分が良い目安かも知れませ
ん。

 神さまの話はどうでしょうか。短いほど良いのでしょうか。


◇ 5節を読みます。

 … しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、

   福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。…

 『どんな場合にも』です。『身を慎み、苦しみを耐え忍び』です。これしかありません。『仕事に励み、自分の
務めを果たしなさい。』です。これしかありません。


◇ 6〜8節は、時間の都合上、端折って申します。

 ここが一番嫌われます。若い人が聞きたくない言葉の、第一番目です。苦労話であり、自慢話とも聞こえま
す。そんな花氏は、聞きたくもありません。

 しかし、これは真実なのです。本当の話なのです。だから、パウロはテモテに話しているし、話さなくてはなりま
せん。喜ばれるかどうかではありません。

 私たちも同じことです。苦労話や、自慢話は避けるべきでしょうが、どうしても語り継がなくてはならないことは
あります。そういう場合があります。

 それは、真実、本当の話でなくてはなりません。誇張は要りません。嘘はとんでもない、そんな嘘を語ったら、
もう二度と話を聞いては貰えません。


◇ 1節に戻ります。

 … 神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られる

   キリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。…

 『生きている者と死んだ者を裁く』とあります。『死んだ者』も、裁きの対象です。

 大きく誤解されている所です。閻魔大王のイメージでしょうか。人が死んだ時に、天国と地獄に振り分けられ
ると考えている人が多いようです。しかし、聖書は違います。『生きている者』『死んだ者』ともに裁きの対象で
す。裁きとは、イコール刑罰ではありません。むしろ、正しい裁判による正しい判決です。無辜の者が冤罪を晴
らすのも裁きです。

 この世で評価されなかった者が、神さまに受け入れて貰えるのも裁きです。悪事に染まってしまった者が赦さ
れるのも裁きです。愛されなかった者が愛されるのも裁きです。

 つまり、裁きと言う言葉で語られていることは、最後の評価は神さまによると言うことです。この世の人の評価
など当てにならないし、気に病んでも仕方がないということです。


◇ だからこそ、2節のように言われます。

 … 御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。

   とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。…

 『折が良くても悪くても』との教えを、所構わずと受け取る人がいます。電車の中だろうと、レストランだろうと、
〜 そうかも知れませんが、それだと、はた迷惑にもなります。逆効果の恐れもあります。変な人だと思われてお
しまいでしょう。

 『折が良くても悪くても』とは、他人の評価に捕らわれずにと言う意味です。成績が上がったとか下がったとかで
はないと言う意味です。私たちは御言葉のセールスマンではありません。売上げを競っているのではありません。
利益を追求しているのではありません。

 

◇ 8節の途中から読みます。

 … 正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。…

 パウロは、自慢話に、苦労話に、酔っているのではありません。

 この辺りのことでも、誤解が蔓延しています。誤解が常識であるかのようになっています。パウロの言葉通りに
読まなくてはなりません。8節の残りの部分を読みます。

   …しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、

  だれにでも授けてくださいます。…

 『だれにでも』とはっきり書いてあります。「私たちはノアの箱船に乗れる。悔い改めない者は乗れない。」とか、
神の国には定員があるかのように言う人は、この点だけを根拠にしても、大きく間違っています。全然、聖書的
ではありません。ここには、『だれにでも』とはっきり書いてあります。

 『だれにでも』とは、『主が来られるのをひたすら待ち望む人』『だれにでも』でしょう。確かに限定されているか
も知れません。しかし、『ひたすら待ち望む人』とは、他の人間が滅び行く様を見たい人のことではありません。
我を救い出してくださることをであり、愛する者全てをであり、『だれにでも』神の国があるようにと願う人のことで
す。

 愛するから、救いを願うから、『とがめ、戒め、励まし』ます。それ以外の動機で言ったら、裁いたら、それは悪
意であり、人を殺す言葉に過ぎません。