◇ 12節から読みます。 … キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。… 長く信仰生活している 人は、この言葉を聞いても特に違和感は持ちません。聖書の中には、類似した表現が少なくありません。私た ちは、このような表現に慣れています。慣れてしまっていて、違和感は持ちません。悪く言えば、何も感じませ ん。 しかし、当たり前に考えれば、つまり、教会を知らない人から見れば、聖書を知らない人から見れば、実に奇 妙な言葉です。納得の行かない言葉です。 『信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。』 それでは困ります。それでは何のために、何を求めて、信仰するのでしょうか。 「信心深く生きようとする人は皆、人々に尊敬され、平和な日々を送ることが出来る。」それが、普通ではな いでしょうか。何故そのようには述べられていないのでしょうか。 ◇ 大きい疑問を残したままに、次の13節を読みます。 … 悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。… これは、良く分かります。これが世の現実です。酷い言葉ですが、良く分かります。 正に今が、ここ何年かが、詐欺師の黄金時代のようです。どんな詐欺があるか、どんな手口か、何故人はこ れに欺されるのか、ここで解説するまでもありません。誰もが、この現実を知っています。 被害を受けるのは、お金を欺し取られた人だけではありません。これに備えるために、例えば、パソコンでも廉 くはないソフトを入れなくてはなりません。慎重に取り扱わなくてはなりません。いろんなセールスなどは、先ず疑 ってかからなくてはなりません。 何よりも大きな被害は、このような時代に、私たちの孫・子が生きているという現実です。人を信用するな、 人は疑ってかかれ、宗教はインチキだと思え、ややもすれば、私たちが、孫・子に、そのように教えなくてはなりま せん。 〜私たちはそのような時代に生きているのです。 昔は、嘘つきは泥棒の始まりと言われました。今は、嘘つきは政治家の始まりだそうです。〜私たちはそのよう な時代に生きているのです。 ◇ 13節を読みますと、12節に宣べられていることも、本当のことなのだと思わざるを得ません。『信心深く生き ようとする人は皆、迫害を受けます。』 もっと軽い言葉に置き換えた方が分かり易いでしょうか。 「正直に生きようとする人は皆、損をします。」 〜私たちはそのような時代に生きているのです。 ◇ それでは、どうしたら良いのでしょうか。何を、誰を信じたら良いのでしょうか。 何も、誰も信じないのがよろしいのでしょうか。 14節前半。 … だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。… 特別なことではありません。今まで学んで来たこと、身につけたことを信じて、働き続けるしかありません。 何故なら、14節後半。 … あなたは、それをだれから学んだかを知っており、… つまり、信頼出来る人から、『学んで確信したこと』だからです。これは父母や祖父母のことでしょう。必ずしも 血縁ではなくとも、絶対に裏切ることのない人から、教会を通じて、『学んで確信したこと』だからです。 ◇ 15節に、もう一つの根拠が上げられています。前半だけ読みます。 … また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。… 誰をも何をも信じられないような世の中だからこそ、人には、心から信じられる者が必要です。それがなかった ら、人を疑い、疑いの目で人に接し、結果は、人にも疑われることでしょう。 13節をもう一度読みます。 … 悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。… 『悪人や詐欺師』だけではありません。自分自身が、そのような悪循環の中にはまり込んでしまいます。人を 信じない、信じられない、そんな人を、誰も信じてはくれません。悪循環です。悪の連鎖です。ここに陥ったら、 容易には抜け出せないでしょう。 ◇ 15節後半に戻ります。 … この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、 あなたに与えることができます。… どうして聖書にはそのような力があるのか、勿論、神の言葉だからです。しかし、それでは説明として不十分で す。どうして聖書にはその力があるのか、それは、聖書が愛を説く書物だからです。神の愛を説き、神の愛に基 づく、人間相互の愛を説く書物だからです。 14節、15節前半も同じ理屈です。信頼出来る人に学ばなくてはなりません。信頼出来る人とは、必ずし も、深い学問的知識を持った人という意味ではありません。愛情を持って、教えてくれる人のことです。 ◇ 少し話は飛躍しますが、マタイ福音書23章を引用します。2〜4節にします。 … 2:「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。 3:だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。 しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。 4:彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、 自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。… このファリサイ批判は、この後にも縷々記されています。一番簡単にまとめれば、ファリサイには、愛がありませ ん。どんなに知識が豊富でも、正論を説いていたとしても、愛がありません。そんな人に従ってはなりません。 もしかしたら、自分の父母や祖父母には、ファリサイのような知識はないかも知れません。しかし、愛がありま す。愛を持って語る人に、諭す人に、聞かなくてはなりません。 ◇ 16節。 … 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、 義に導く訓練をするうえに有益です。… この通りです。無駄に説明を加える必要はないでしょう。 しかし、この言葉さえ、愛のない人によって語られたならば、悪霊の言葉になってしまいます。聖書に記されて いることは全て正しい、だから、と続けて、人を憎むことや、罵ることや、退けることを説く人がいます。 「悪魔も、その目的のためには、聖書を引用する。」 シェイクスピア『ベニスの商人』の1節です。現代においてこそ、『悪人や詐欺師は』、聖書の1節を引用して、 人を悪の道に誘うのです。 その言葉の真贋を見分けるのは、それを語る人に愛があるかどうかだけです。 ◇ 10節に戻ります。 … しかしあなたは、わたしの教え、行動、意図、信仰、寛容、愛、忍耐に倣い … 私とは、この書簡の著者です。伝統的にはパウロと考えられています。異論もあります。著者が誰かは、学者 にとっては大問題で、この研究に一生を費やす人もあります。しかし、私たちにとっては、些末と言ったら失礼で すが、一番大事なことではありません。 一番大事なことは、先生が愛する弟子に語った言葉だという、その一点です。 パウロではないとしても、この人は愛する弟子テモテに、『教え、行動、意図、信仰、寛容、愛、忍耐』を勧め ているのです。 もしかしたら、『教え、行動、意図』までは、もしかしたら、『信仰、寛容』までも、愛なくしても、語ることが出来 るかも知れません。 ◇ しかし、『愛、忍耐』は、愛なくしては語れません。むしろ、語ってはなりません。 愛なくして『愛、忍耐』を語ったら、説いたら、勧めたら、それは恐ろしいことです。 詳しい話をしている時間はありませんが、私は白河教会の時と、松江北堀教会の時に、統一原理問題に関 わりました。併せれば、20人以上の、若い原理信者と話をしました。愛なくして『愛、忍耐』を語る人の、その 宗教の、恐ろしさ、おぞましさを見ました。 一つの例だけお話しします。ある女性は、40歳を過ぎてから、統一協会を追い出されました。ただ、家に帰る ようにと言われただけのようですが、実際には、追い出されました。40歳を過ぎた女性は、特別な財産やキャリ アでもない限り、統一協会にとって、無用な存在になります。インチキ商法にも、合同結婚にも役立ちません。 捨てられます。 彼女は、実家に帰り、憂いの日々を過ごしていました。このように言うのです。 「お父様に申し訳ない。お父様のお役に立てなくなった。」 お父様とは、その名前を口に出すのも汚らわしい、統一協会の教祖のことです。 ◇ 私は、行きがかり上、原理講論を読みました。教祖の説教も読みました。聖書学的には勿論、神学的に も、哲学的にも、文学的にも、全くお粗末なものでしかありません。しかし、それが批判点ではありません。決 定的なことは、愛の宗教ではありません。むしろ、憎しみの宗教です。怨嗟の宗教です。 これに入信したものの、インチキ商法に明け暮れる、苦しい日々の中で、実家に電話する人がいます。電話 は禁じられていますが、救いを求めたのです。 電話に出た父親は、先ず「馬鹿、何をやっているのだ。」と叱り、罵ります。救いを求めての電話だったのに、 愛を求めての電話だったのに、罵り退けるのです。戻って来れないようにしてしまうのです。 原理問題でなくとも、私たちは、親であるが故に、愛があるが故に、このような間違いをするかも知れません。 本当の救いは、本当の愛にしかありません。本当の愛の言葉にしかありません。 ◇ さて、原理の話をこれ以上しても仕方がありません。11節を読みます。 … アンティオキア、イコニオン、リストラで わたしにふりかかったような迫害と苦難をもいといませんでした。 そのような迫害にわたしは耐えました。 そして、主がそのすべてからわたしを救い出してくださったのです。… これが愛の言葉です。 私たちも、自分がどんなに苦労したかという体験談ならば、子どもにも話します。好んで話すかも知れませ ん。そして、余計なことを言ってしまいます。 「それに比べたら、おまえの苦労は大した苦労ではない。耐えなさい。頑張りなさい。」 確かに、愛に基づく、愛を前提とした言葉なのでしょう。しかし、それでは、それだけでは、愛の言葉とは言えま せん。裁きの言葉です。 ◇『主がそのすべてからわたしを救い出してくださったのです。』 これがなくては、慰めの言葉にはなりません。それだけでは、裁きの言葉です。苦しむ者の肩に、更に重荷を 載せる言葉に終わってしまいます。 勿論、『主がそのすべてからわたしを救い出してくださったのです。』と言うのは、『そのような迫害にわたしは耐 えました。』と言える実績があるからでしょう。自信があるからでしょう。しかしそれだけでは、苦しむ者の肩に、更 に重荷を載せる言葉に過ぎません。 肝心なことは、自分が救い出されたという点です。これが言えなくては、自分に救われた感謝がなければ、人 を救うことなど出来ません。 ◇ 統一協会の話は繰り返しませんが、人の肩に重荷を載せる宗教は沢山あります。無数にあります。それが 正義だと思っている人さえいます。普通の教会にもいます。 しかし、私たちが信じる方は、愛する方は、自らを十字架に付けた方です。人を救うために、罪人を救うため に、自らを十字架に付けた方です。イエスさまを信ぜず、『十字架につけよ』と叫んだ者を救うために、我が身を 滅ぼされた方です。 ◇ 次週は、召天者記念礼拝になります。今日の聖書個所こそ、召天者記念礼拝にふさわしかったかも知れ ません。信仰を受け継いだ、信仰による神の家族の礼拝です。召天者記念礼拝は、単に故人を偲ぶための 礼拝ではありません。故人と同じ信仰に生き、救いと希を見出し、神の愛を呼吸して生きていることを、神と故 人に報告する意味を持ちます。 今日は、礼拝後に、日野原明夫兄の『お別れの会』を持ちます。そのために、特に今日の聖書箇所を選ん だ訳ではありません。連続してテモテ書を読んでいます。しかし、この箇所こそ、日野原明夫兄に、日野原家の 皆さんに読んで貰いたい箇所だと思いました。 ◇ 日野原明夫さんは、いろんな点で今日の聖書と重なります。説教準備をしていて、そのように思わされまし た。日野原明夫さんは、日野原家で生まれ、育ちました。その祖父は我が玉川平安教会の牧師でした。その 父は、私が説明するまでもありません。日野原重明兄です。要は、日野原明夫さんは、愛と信仰に守られて 人生を送りました。 12〜13節に描かれているような、辛い思いもなさったと思いますが、14〜16節に描かれている聖書による 救いもまた体験されたと思います。だからこそ、晩年、健康に悩みを抱えながらも、教会を支えてくれました。新 任牧師の私をも支えてくれました。 そして、これは、玉川平安教会の教会員の多くにも、また当て嵌まります。教会は神の家族です。信頼し合 い、助け合います。神の家族には愛があり、愛に生きているからです。 |