13節から、順に読んでまいります。 … イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。 群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。… 『教えられた』とありますが、 … この『教え』という字は、しばしば律法という意味で用いられています。神の律 法を授ける、神の言葉を授ける、そういう特別の意味合いを持って述べられています。情報伝達ではなく、むし ろ指導です。 現在普通に使われている日本語では、両者に、殆ど区別がありません。しかし、日本語でも、本来そうです が、教えるとは、単に情報・知識を伝えることではなく、教えを授けることです。指導です。教えの到達点に、免 許皆伝があるような、教えです。教授です。 教え導く、教化する、そのような意味合いです。これが、伝道であり、宣教です。 マルコ福音書1章14〜15節。 … イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、 15:「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。… 教えるとは、神の国を述べ伝えることと同じであり、神の国についての情報を提供することではなく、神の国へ と誘うことです。これが宣教です。 教えを授ける対象は、つまり、神の国へと誘う対象は、群衆です。先週既に触れましたし、この後、ことあるご とに申し上げることになりますが、群衆という字は、マルコ福音書にあって、独特の意味合いを持っています。 イエスさまを熱烈に迎え入れるのも群衆、そしてイエスさまを『十字架に付けよ』と叫んだのもまた群衆です。そ の時の群衆と、この時の群衆は別の人ではなくて、同じ群衆だというのが、マルコ福音書の考え方です。 その辺りのことはおいおいと申し上げます。ここでは、イエスさまは、これまでの箇所に登場して来たような、無 知で意識の低い群衆を、しかし、神の国へと招いた、このことを指摘しておきたいと思います。 14節。 … そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、 「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。… 『通りかがりに』(途中で)と記しています。1章16節・19節の弟子の召命の場合と同様に、イエスさまは旅 の途中で出会った者を召し出されました。まるで偶然の出会いのように招かれました。しかし、偶然ではありま せん。そこにはイエスさまの明確な意図、マルコ福音書の計算された描写があります。 エルサレムに入場される時に乗ったロバの子がそうです。イエスさまの十字架を担いだクレネ人シモンがそうで す。偶然のように描かれていて、実は、イエスさまの計画にあること、必然のことなのです。 アルパヨの子レビは、イエスさまの説教の聴衆の一人ではありません。偶然のように、選び出されています。少 し諄く申しますと、アルパヨの子レビがイエスさまの説教を聞いて感動して、結果イエスさまに入門したという話で はありません。 わざわざ直前の箇所で、『群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。』と記しているのに、その群 衆の中から入門者が現れたとも、弟子が選ばれたともなっていません。通りがかりにレビを見ただけです。不思 議です。せっかく伏線があるのに、それが生かされていないのですから、文学的でもありません。 これは、召命とは何かということを、無言の内に語っていると考えます。敢えて言えば、アルパヨの子レビの心の 動きのようなものを何も記していないということが、説明です。これは、イエスさまによる選びであってアルパヨの子 レビの決断、決心ではありません。 申し上げるまでもないと思いますが、漁師の召命記事と似通っています。レビの場合も、単に食卓を共にした のではなく、弟子として召命を受けたと解することが出来ましょう。 私たちは、どのような思いでイエスさまに従ったのかと考えますし、その心の動きを知りたいと思います。しかし、 何も記されていません。何も記されていないことが、唯一の説明なのです。これは、レビの決断、決心ではな く、イエスさまの選びだからです。『わたしに従いなさい 』というイエスさまの言葉だけで充分であり、この言葉に逆 らうことの出来る者などいないのです。 逆に言えば、人には決心などありません。洗礼を受けるとは、そういうことです。 『わたしに従いなさい 』というイエスさまの言葉に対して、『すると彼は立ちあがって、イエスに従った』。レビは従い ます。従い行くのは、既に、悔い改めの行為です。 『イエスに従った』ことは召命に応えたことであり、同時に『悔い改めて、生き方を変えた』こと、人生の進むべき 方向の転換を意味します。 細かいこともついでにお話ししておきます。アルファイ(アルパヨ)の子と記されていますが、アルファイについても、 レビについても、詳細は不明です。マタイ福音書では、マタイと呼ばれている(9章9節)ために、12弟子のマタ イと同一視されますが、確かなことは分かりません。 漁師もザアカイもレビも、『わたしに従いなさい 』というイエスさまの言葉によって、それまでの人生を変えまし た。人生の方向転換をしました。それなのに、その理由、心の動きなどは描かれていません。変えたのはイエス さまであり、彼等は自分の思いを越えたところで、変えられたのに過ぎないからです。人間の決心の故ではあり ません。 15節。 … イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。 多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。 実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。… 口語訳の末尾は、次のように翻訳されています。 … こんな人たちが大ぜいいて、イエスに従ってきたのである。… 私は、この翻訳がぴったりだと考えます。群衆とは、日本語の意味合いで『こんな人たち』なのです。 『レビの家で』、直訳は『彼の家で』です。文脈からして、レビの家であると思われます。イエスさまの家と取る のとでは、出来事の解釈が相当違って来るように思います。 つまり、イエスさまの家でということなら、食事は施しとなり、そこに、貧しい者、汚れた者が居ても、全く差し支 えありません。ファリサイ人、律法学者も、全然批判しないでしょう。 『レビの家で』、となると意味合いは違います。イエスさまの方がお客です。ご馳走することよりも、ご馳走にな ることの方が、全くその人を受け入れたことになります。 また、『同席していた。』と簡単に述べているようですが、共に食卓に着くということは、ユダヤ人にとっては簡単な ことではありません。一例として申します。フィリップ・ロスに、『ボートノイの不満』という小説があります。この主人 公は、父親とユダヤ人社会に反発して家を飛び出します。向かった先はレストラン、彼は伊勢エビを注文し、食 べようとしますが、ついに伊勢エビには歯が立たず、諦めてナイフとフォークを置きます。どういうことかと申します と、父親の権威に反抗するために、彼はレストランに飛び込みました。そもそもレストランで見知らぬ異邦人と食 卓を囲むことが、ユダヤ人社会への反発です。そして、伊勢エビはうろこがないことから、律法で禁じられた食べ 物です。 つまり、ボートノイがしたことは、日本の時代劇なら、父親に反抗して吉原に出掛けたというような話です。 現代アメリカでさえそうです。イエスさまの時代には、心を許すことの出来ない者と食卓を囲むことは、あっては ならないことでした。 アラビアンナイトの『アリババと40人の盗賊』も同様です。油売りに化けた盗賊の首領は、何故正体を見破ら れたか。彼は、夕食のご馳走から塩を抜いてくれるように頼みます。盗賊といえども、これから殺そうとする相手 と食卓を共にすることは出来ない、そこで、共にする食事の象徴である塩を抜くように言った、それで疑われたの です。 ところで、厳密には、この箇所では、食卓を特定しない、『席についた』という意味の字が用いられています。 『席に着いた』の直訳は、横たわったです。ローマの習慣では宴席では横臥して酒食をとったそうです。そこか ら、この言葉が食事を取ることを意味するようになりました。また、テーブルと椅子を用いるようになっても、この表 現は残りました。この箇所の食事が、横臥してのものとは考え難いと思います。 しかし、この表現から、単なる食事ではなく、特別な交わりの意味を持つ宴席が設けられたことが、推測され ます。 15の後半は、何とも強い表現が用いられてます。 … 実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。… 既に申しましたように、口語訳聖書だと、 … こんな人たちが大ぜいいて、イエスに従ってきたのである。… 受ける印象はかなり違います。翻訳としての正確さは分かりませんが、日本語の響きで、『こんな人たちが』と 呼ばれるような人たちであったことは間違いありません。 ファリサイ派・律法学者が彼等を退けるのは、厳格で排他的な性格を表しているのかも知れませんが、むし ろ自然な反応だったとも言えます。この食卓にいるのはそのような人々、当時の社会から阻害されていた人々 だったのです。 16節のファリサイ派の批判は、当時としては常識的な反応だったのです。 … ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、 弟子たちに、「ど うして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。… 既に申しましたように、ユダヤ人にとって会食は、人と人との、または、神と人との交わりを表す大切なものでし た。 さて、イエスさまは、ファリサイ派の律法学者たちにどのように応えられたのか。 これが肝心です。17節。 … イエスはこれを聞いて言われた。 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」… 肝心な所ですから、結論を急がないで、丁寧に見ます。 先ず『医者』、新約中全部で7例と、用例は少ないそうです。旧約でも4カ所だけです。 しかし、決して医療と信仰とが矛盾するものとは考えられておらず、むしろ重要視され、医者は尊敬されていた そうです。だからこそ、ユダヤ人には医者が多く、現代医学にも貢献出来ました。信仰と医療とを矛盾するよう に言う人は、決して信仰的な人ではありません。聖書を知らないだけでしょう。ユダヤ教もキリスト教も知らない かも知れません。 『丈夫な人には医者はいらない。』は、ギリシャの格言だそうです。それ以上の説明は無用でしょう。 『病人』についてはどうでしょうか。ここでも、病人と罪人とは、重ねられています。あまりややこしくしないために 申します。病気なのは罪の結果だとか、いやそんな説は因果応報論だとか、そう言う次元の話ではありません。 罪からの解放=赦しと、病気からの解放=治癒とが、比喩的に重ねられた結果です。イエスさまの奇跡は、 表面的には病からの治癒の奇跡であっても、内容的には罪の赦しが主題となっています。このことは、先週 先々週の箇所についても全く当てはまります。 1章41〜42節。 … 41:イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、 「よろしい。清くなれ」と言われると、 42:たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。… 重い皮膚病、ハンセン氏病が汚れているかどうかということとは関係ありません。 2章5節。 … イエスはその人たちの信仰を見て、 中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。… それでは中風の者は、何か罪を犯しその結果病を得たのか、そう言う話ではありません。そのことは、全く問 題になっていません。 そもそも、どんな風にして病気が癒やされるのか、イエスさまはどんな手立てを用いられたのか、福音書、特に マルコは、殆ど全く記しません。その点には、興味がありません。マルコが興味を持つのは、奇跡・癒やしではな く、罪の赦しですから、当然の理です。 話を元に戻します。 『わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』 自分が義人であると思っているような人は、当然ながら、罪の自覚も悔い改めもありません。つまり、自分の 歩く道を、イエスさまの方に向け直すことが出来ません。今日の箇所は、イエスさまとの出会いによって、その人 生を変えられた男の話です。 根拠もなく、「あの医者はヤブだ。」と言う人がいます。この人は、癒やされません。 同様に、「神も仏もあるものか。」と言う人は、救われません。 何より、罪がないと言いはる人は、罪の中におり、救いから遠くなっています。 |