日本基督教団 玉川平安教会

■2025年12月21日 説教映像(準備中)


■説教題 「誰もが共に喜ぶ時」 

■聖   書 イザヤ書 11章1〜10節 

極めて例外的で、普段はないことですが、このイザヤ11章を、今日は、招詞、交読文、説教聖書個所とし
て、既に三度読んでいます。6節から9節まで、黙読で結構ですから、もう一度、ご覧ください。

 この場面を、全く現実性のない、空想的理想主義だと批判する人がいます。そのように言う人は、少なくあり
ません。

 手塚治虫の『ジャングル大帝』を連想する人もあると思います。「肉食動物が藁や草を食む、有り得ない、
天敵もいるし、全く利害が対立する同士がいる。」その通りでしょう。

 『ジャングル大帝』でも、結局は、イナゴは食べても良いと、例外が設けられました。


イザヤは全く実現性のない空想的理想主義を説いているのか、全くその通りかも知れません。それでは、同じ
イザヤ書の2章4節はどうでしょうか。

 … 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし

   槍を打ち直して鎌とする。

  国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。…

 国連のビルに、この言葉が礎として刻まれているそうです。この言葉こそ、非現実的、空想的な理想でしょ
う。しかし、どんなに現実からかけ離れていても、この言葉が礎です。礎でなくてはなりません。

 紀元前800年前後、イザヤの時代は、現代とは比較出来ない程の、もっともっと、弱肉強食の時代です。
イザヤ書9章1節。

 … 闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。…

 人々に全く希望がなく、闇の中で生きる日々でした。だからこそ、イザヤは光を説いたのです。イザヤの説く光
が、闇の中で、一点光り輝いたのです。


実現性のない空想的理想主義だとイザヤを笑う人は、自分の周囲に未だ光があると思っているのでしょう。真
の闇ではないと考えているのでしょう。しかし、彼は、時代の黄昏の中にいるのに過ぎません。人生の灯りが闇に
変わる寸前に生きているのに過ぎません。

 むしろ、その人の方が、現実を逃避して、冷厳な事実を見ていないのに過ぎません。

 この世界がそうですし、一人ひとりの人間がそうです。誰もが、沈み行こうとする夕暮れの時を、独り心細く生
きているのに過ぎません。詩編23編3〜4節。

 … 02.主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い

 03.魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。

 04.死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。

  あなたがわたしと共にいてくださる。

  あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。…

 人は、そして時代は何時でも、崖っぷちを歩いています。目の前に断崖が、落とし穴が待ち受けています。断
崖も陥穽もなかったとしても、きっと壁が立ち塞がっています。

 この詩人は、ただ神さまの灯してくださる小さな灯火だけを頼りに、道を進むことが出来ます。小さな灯火と
は、希望のことです。そして、理想のことです。

 もし、これを失ったならば、全ては、闇の中に沈んでしまいます。

 理想を、希望を否定する人は、これを嗤う人は、実は、この人自身が、全く根拠に乏しい、非現実的な、空
想的楽観主義の中に生きているのに過ぎないのではないでしょうか。


イザヤは、亡国の危機に当たって、「国が滅んでも良い。王朝が倒れても良い。焼け跡の切り株のようになって
も、なお、そこから芽生えて来る希望に生きる。」と預言した人です。誰よりも、現実を直視しています。根拠の
ない楽観を説く人ではありません。だから、彼は、理想を、希望を説くのです。 11章1節。

 … エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち

  2:その上に主の霊がとどまる。…

 『エッサイの株』、ユダヤ人が理想視し、メシア・キリストの原型とも言うべきダビデ王の父親が『エッサイ』です。
ですから、『エッサイの株』とは、ダビデの子孫を意味します。名家名門を言っているように聞こえますでしょう。し
かし、その『株』は、戦火で切り倒され、焼かれ、そして無用の物として残った切り株のことです。


 イザヤは、このようにも預言しています。9章14節。

 … それゆえ、わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えられる。

   見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。…

 マタイ福音書にも引用されている、キリスト降誕の預言です。

 この『おとめ』とは、少女という意味の言葉です。小さな村娘を意味します。それが、救い主の母となる、これ
がイザヤの預言です。

 つまり、王や女王、王女、貴族、高級軍人、特権的祭司、大金持ち、こういう人から、次の王が生まれ育つ
のではありません。

 キリストの母となるのは、真の王となる者を生むのは、名前も地位もない貧しい少女だと、イザヤは預言しまし
た。クリスマス物語は、この預言を忠実に踏襲しています。

 イエスは、貧しい一大工に過ぎない、ヨセフとマリアの子として生まれ育ちました。住む所もなく、誕生と共にエ
ジプトに逃れ、難民となりました。

 イザヤ書も福音書も、そのような姿でキリストを描いています。


何故か、今は、豪華な衣装を纏い、金銀宝飾に飾られた姿、存在に変えられてしまいました。それは、イザヤ
書や福音書が描いた姿ではありません。かけ離れています。

 11章3節を読みます。

 … 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず

  耳にするところによって弁護することはない。…

 不可解なことが記されています。この記述から、聖徳太子を連想なさる方が、少なくないと思います。太子
は、紀元600年前後、ですから、イザヤよりは1400年も後になりますが、理想的な政治を行った人と伝えら
れています。特に、豊聡耳皇子(とよとみみのおうじ)と言う別名を持つように、良く民衆の声を聞き政治に反
映させたと言われます。一度に10人の話を聞き、理解できたというエピソードが知られています。

 太子は、推古天皇の摂政となる前は、廐戸(うまやど)の皇子と呼ばれていました。母がうまやの前を通りか
かかった時に産気付いたのがこの名前の由来だと言われます。不思議に主イエスの誕生と重なるのですが、偶
然でしょう。

 決定的な違いは、3節です。非常に似ているようで、全く正反対です。

 … 目に見えるところによって裁きを行わず 耳にするところによって弁護することは  ない。…

 キリストと聖徳太子では、実は、真逆なのです。この違いに目を向ければ、イザヤの強調がどこにあるのかと
いうことも分かります。

 『目に見えるところによって』とは、つまりは、自分の眼で自分の判断で、裁くことはしない、自分の価値観で、
判断することはないという意味になります。

 『耳にするところによって』とは、自分の耳で聞いたこと、つまりは、人の評判で裁くことはしないという意味になり
ます。


6〜7節を改めて読みます。

 … 狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。

  子牛は若獅子と共に育ち 小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ 

   その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく 干し草を食らう。…

 この秋は、熊騒動でした。私は秋田の生まれ育ちですから、大きな関心を持って、ニュースを見守っていまし
た。恐ろしくもありましたが、馬鹿馬鹿しくもありました。

 熊は駆除すべきだという意見があり、熊の住むテリトリーを犯した人間の方が悪いのだという意見がありまし
た。残念ながら、不毛の論争に終わりました。

 熊や動物と人間とは、共存しなくてはならないという人がいました。これが、基本でしょう。しかし、自然のまま
にと言うのは空論でしょう。毎年何人かが熊に食べられるのは、天然自然のことで、仕方がないと言ったら、極
論です。

 一方、熊が皆殺しにされる世の中は怖い世の中です。熊は邪魔で脅威だから駆除される、それが正しいこと
ならば、その次に駆除されるのは、何でしょうか。否、誰でしょうか。

 数年前には、老人を駆除しろと言う人が話題になりました。この人は、批判もされましたが、今でもマスコミの
世界で生き延びています。駆除されてはいません。

 役に立たない邪魔だという理由で駆除されたら、一体、この世界には誰が残るのでしょうか。ロボットしか残ら
ないかも知れません。今や、単にSFの空想世界ではありません。


イザヤは、どちらかに分類すれば、共生論になりますか、共に生きる方の共生です。強いるのも強制です。強
引に脅すのも強請です。造り変えるのも矯正です。

 6〜7節で、イザヤは『共に』と繰り返します。その意味の共生です。

 『共に』、これが決定的に重要です。収穫感謝日の礼拝で、申命記を読みました。ちょっとだけお復習いしま
す。

 その時に申しました。イスラエルは、2000年ぶりに国を再建しました。奇跡とも言える出来事です。そして荒
れ地を灌漑し、周辺諸国・民族とは比ぶべくもない収穫・富を手にしました。あの地域で、彼らだけが果たした
努力の結果です。しかし、彼らが他の何よりも大事にする旧約聖書・申命記は、かく記しているのです。

 申命記26章11節だけ読みます。

 … あなたの神、主があなたとあなたの家族に与えられたすべての賜物を、

  レビ人およびあなたの中に住んでいる寄留者と共に喜び祝いなさい。…

 ユダヤ人が、パレスチナの人と、収穫を『共に喜び祝』う時が、約束の時であり、平和・公平の時なのです。そ
して、何より、イザヤが用いる厳密な意味での正義の時です。


露骨な言い方ですが、イザヤは、熊や他の動物にも、さして関心はないと思います。否、動物好きだったかも
知れませんが、それが、この預言の核心ではありません。動物は、各民族、部族を象徴していると思います。

 この時代、否、何時の時代も、どの国もそうだったでしょう、彼らには大きな脅威がありました。この時代では、
アッシリアです。当時の軍事大国です。その力の前に、脅え、震え、これに備えるために、合従連衡策が模索
されました。それがために、却ってユダヤ国内は紛争が絶えず、四分五裂して争う有様でした。

 残念ながら、イザヤの言葉の上に立つ、今日の国連と同じです。

 そういう背景で、イザヤは、絶対的な平和を説いているのです。誰が何を言うかではありません。誰の意見に
従うかではありません。正義はどこにあるのか、神の御心は、どこにあるのかと説くのです。

 それが非現実的な理想主義だと退けられるようなら、最早、人間に未来はないでしょう。

 現実が現実だから、その時代の政治家に理想などないから、イザヤの預言が必要だったのだし、残念なが
ら、今日にも、イザヤの預言が必要なのです。


教会は日曜日つまり主の日に、礼拝を守っています。ここでは、『共に喜び祝』うことに、大きな力点が置かれ
ています。

 収穫感謝日には、教会中庭で採れた里芋で、秋田風芋っこ鍋をしましたが、毎週の礼拝で、神の言葉、
神の愛を、共に分かち合い、共に頂いています。

 日本人だけではない、世界中の人がお祭りが大好きです。カーニバルが人気です。これは、レントの前のお
祭りです。イエスさまが十字架に架けられたことを想う時がレントです。イエスさまが十字架を自分の身でも背負
うために、レントと呼ぶ40日間、肉を食べず、楽しみを退けて過ごします。

 その前の腹ごしらえと言いますか、レントの前に肉をたっぷりと食べ、どんちゃん騒ぎをするのがカーニバルです。
何だか、変なお祭りですが、貧しい国の人々にとっては、1年に1回のお楽しみです。

 ですから、イエスさまの十字架を思わない人には、全く無縁のお祭りです。十字架を知らないのに、カーニバル
を祝うのは、言葉を飾らないで言うなら、愚者の祭りです。


クリスマスも同様です。キリスト者以外はケーキを食べるなとは申しません。しかし、クリスマスの意味を知って貰
いたいとは思います。その上で、楽しんで貰いたいものです。

 それは、王の誕生日です。救い主の誕生日です。この王は、既に申しましたように、贅沢の中に生まれ、育
ち、貧しい者の心など全く知らない王族とは違います。真逆です。

 イエスさまは、イバラの冠を被せられ、鞭や、唾で愚弄され、罵られ、十字架に架けられて血を流し、十字架
の上で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と』叫ばれた
方です。

 つまり、この世の、最も苦しみ痛む者の心を体験された方です。だから、私たちも、この十字架を背負った時
に、例えば、余命を宣告されたような時に、イエスさまに、その苦痛を訴えて慰めて貰うことが出来ます。イエスさ
まが、私の苦しみをご存じだからです。

 十字架の上で、イエスさまを罵る人たちに、『「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らない
のです。」』と言われた方です。ですから、私たちも、自分の感情では赦すことの出来ない敵をも、赦すのです。

 イザヤは空想的理想主義者だったのでしょうか。違います。時代を、そこで苦しむ人の姿を、戦場に駆り立て
られる若者を見ていました。人間が闇に閉じ込められる様子を見ていました。そして、闇に輝く光を預言したの
です。