先週お話ししましたように、この箇所、この譬え話には、幾通りもの解釈があります。そもそも、今日の箇所が、 先週の箇所、4章3〜9節の解釈になっています。 先ずは、それらの解釈の内、有力な説を紹介します。 もっとも伝統的な解釈は、新共同訳聖書の小見出し風に言うなら、『蒔かれた畑』となります。種はどれも同 じ種であっても、それが蒔かれた場所によっては、芽が出たり出なかったり、芽が出ても育たなかったりします。つ まり、良い悪いは、畑の問題です。 これが一番素直な読み方かも知れません。確かに、畑にはいろいろあります。4節のように、そもそも畑地では なく、道端、畦道に蒔かれたならば、芽は出ないでしょう。 … 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。… 芽を出したとしても、なかなか育ちはしません。5節も全くその通りです。 … ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 6:しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。… このようなことが実際にあります。7節も同じです。 … ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、 実を結ばなかった。… これも、実際に見る光景です。 さて問題は、この畑が何を比喩しているかです。教会と取ることが出来ます。チャンントした教会に正しい仕方 で蒔かれた種は生長し、花咲き、実を付けるけれども、教会でなければそれは適わないと解釈することも可能 でしょう。 これを、更に、「教会紛いのサークル活動や市民運動では駄目だ」、と受け止めることも理屈上可能でしょ う。確かに、日本基督教団の教会数よりも多いと言われるゴスペルの合唱グループは、教会、信仰には結び 付かないようです。 町内会でも、お寺でさえもクリスマス会を持ちますが、そこから信仰者は生まれません。 このような解釈には一理ありますし、教会とは何か、更に教会にとって、是非とも必要な物は何かという議論 も出来ますでしょう。 しかし、そうしたら、幼稚園や、学校や、社会福祉の施設はどうなるでしょうか。 また、何事にも例外はあります。教会の牧師室の前には、毎年、蒔きもしない草花が生えます。今は、小さ いビオラが花を咲かせています。これも事実です。 次の代表的な解釈は、畑ではなく、「種を蒔く人」に、焦点を当てる読み方です。 これが、更に二つの解釈に分かれます。 一つは、「種を蒔く人」は、大雑把な巻き蒔き方をしないで、蒔く場所を選んで、まき時を間違えず、丁寧に 蒔かなくてはならないという話になります。大分、聖書そのものの記述からは離れているようにも思いますが、一 つの、有力な説です。 伝道するには、その土地、そこに住む人のことを知らなくてはならない、研究しなくてはならないというのは、日 本伝道に当たる宣教師の間では、大真面目な議論でした。 今日でも、伝道対象の研究を大事だと考える人は少なくありません。その意見には大いに賛成です。 これから人口がふえる場所を見定めて、伝道資金も人材も集中投入するという伝道論もあります。成功す るかも知れません。しかし、何だかリサーチ、商売の話みたいです。 研究した結果、ここは出店・伝道ふさわしくないと判断する場合もあるのでしょうか。もし、そんなリサーチがな されていたら、現在存在する教会数は、半分だったでしょう。 同じ前提に立って、逆の結論もあります。つまり、人間の目、人間の物差しでは、畑の良い悪いも分からない のだから、兎に角に蒔け、沢山撒き散らすことが大事だということです。これも一理あります。 40年ほど前のある教会で、南支区の教会ですが、クリスマス伝道集会のために、正にチラシを配布しまし た。一万枚配って、一人だけやって来たそうです。担当した青年会は、がっくり落ち込みました。そうしたら、宣教 師が、「一万枚配って、一人ならば、来年は10万枚配りましょう。」と言ったそうです。この話は、当の宣教師 から聞きました。 これも一理あります。しかし、これもまた、商売繁盛の話と変わりません。 この譬え話を、種にしろ、畑にしろ、教会そのものに準えるならば、有意義かも知れません。この教会は、種蒔 かれている教会なのか、種を受け入れる準備が出来ているのか、種蒔く人はいるのか、いろいろと考えを巡ら すことが出来ますでしょう。それは、有意義なことでしょう。 いろいろと考えることが出来るならば、何も、結論を一つに絞る必要もないでしょう。 更に発展させて、教会に蒔かれた種をどう育てるかという発想も大事でしょう。蒔かれた種がどのようになってし まうのか、「教会は、単に畦道になってはならない。」、「頑なに伝統に縛られていて、新しい種を弾いてしまうこ とはないのか。」そんな発想も、必要でしょう。実際に、伝統に拘って、新しい物、新しい人を受け入れない教 会もあります。 この前提、解釈に立つならば、5節の解釈はとても大事なことになります。またまた、違った解釈になります。 … ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、 そこは土が浅いのですぐ芽を出した。… 土の少ない土地、つまり、本当には信仰が出来上がっていない畑の方が、芽が出やすいかも知れません。い ろんなしがらみはありません。みんな新しい人ばかりで、拘りも遠慮も要りません。いろんなアイデアが採用され ます。 こういう畑では、次々と芽は出ますが、それ以上には、なかなか育ちません。 今はあまり見られない光景ですが、昔は、縁側でスイカやメロンを食べ、種をプップット吹き飛ばしたものです。 これが土の上に落ちると、たちまち芽が出ます。しかし、育つことは、絶対にありません。 むしろ、生ゴミとして捨てられたカボチャが、翌年芽を出すことがあります。玉川平安教会の中庭でも、そうして 出来たカボチャを収穫したことがありました。 これ以上お話ししても切りがありません。今日の箇所の譬え話は、無数に解釈が拡がります。 それで良いと私は考えます。解釈が分かれようとも、考えること、思いを巡らすこと、そのものが、貴重だと思う からです。解釈が一つである必要はありません。 そして、最初に申しましたように、今日の箇所13〜20節、そのものが、3〜9節の譬え話の解釈です。解釈 そのものが、聖書に記されています。 しかし、だからと言って、3〜9節の譬え話の解釈は、決定版で、13〜20節以外に他の解釈はないと言う のはどうでしょうか。そんなことを言う必要はありません。 さて、今日の箇所13〜20節は、これ以上、解釈を加える必要はありませんでしょう。解釈ではなくて、若干 補足的に解説するならば、15節、 … そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、 彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。… 初代教会はそのような時代だったと思います。ユダヤ教やローマの迫害がありました。深刻でした。一人の人 の心に信仰の種が蒔かれても、それが迫害・弾圧に遭う時代でした。 キリスト教の歴史を通じて、そんな時代も少なくはありません。 案外に軽視されていますが、ナチスドイツは、ユダヤ教・ユダヤ人だけではなく、キリスト教とをも迫害しました。 プロテスタント教会は、ナチの迫害の対象でした。 先週申しましたように、ヒトラーがユダヤ人迫害を扇動したことも事実ですが、それだけではありません。むし ろ、ユダヤ人への偏見・憎悪、迫害が先ずあり、むしろ、ヒトラーやゲッペルスが、これを利用したとみることも出 来ます。 福音書に記されている通りです。ファリサイ派やヘロデ党が群衆を扇動して、イエスさまを十字架に架けたと言 うよりは、群衆・オクロスが、これを為政者に要求したのです。ナチのユダヤ人迫害も、同じことです。 そして、熱烈なナチス信奉者は、キリスト教をも迫害したのです。但し、プロテスタント教会をです。むしろ、プ ロテスタント教会への迫害が先でした。しかし、何時の間にか、プロテスタント教会員は、迫害者の側に回って いました。カトリック教会は、反共産主義の立場から、ナチスには協調的でした。それは、戦後も同じです。です から、ナチの残党は、中南米に逃亡し、匿われました。 16〜17節。 … 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。 御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、 17:自分には根がないので、しばらくは続いても、 後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。… この点については、先週既に触れたと思います。 戦後のキリスト教ブームの時、教会に溢れた人々は、一体どこに行ってしまったのか。ビリーグラハム等の伝道 集会で、一緒に何千人も洗礼を受けた人は、一体どこに行ってしまったのか。 明治・大正期のクリスチャンも同じことです。日露戦争が起こると共に、教会を離れた文人・思想家が少なく ありません。太平洋戦争の時も同じです。日本基督教団も迫害を受けましたが、迫害を受けた結果、教会か ら人が去ったのでは、決してありません。去ったのは、その少し前です。 迫害を恐れたからでもありません。むしろ、これらの人は迫害する側に回ったのです。 これらの現象は、全く聖書に記されている通りです。譬え話という物は、時代を超えて真理性を持っています。 一つの時代、一つの状況にしか通用しないようでは、それは、譬え話ではありません。少なくとも、聖書の譬え 話は、そんな浅薄な物ではありません。 先週も申しました。それだからこその、譬え話ではないでしょうか。聖書に向かい合い、聞き、考え、そして祈 る、その繰り返しが信仰生活です。ファリサイ派の人のように、もう全部分かってしまって、教え、諭し、それなら 未だしも、強制し、虐げるのが信仰ではありません。しかし、群衆・オクロスこそがそれを求めます。権威を求め ます。 これも先週申しましたが、繰り返します。先週よりも、少し詳しく申します。聖書学者には馬鹿にされるだろう、 全く個人的な解釈を申します。 聖書時代の畑は、静かだったと思います。機械の音が響く現代とは違います。ですから、昔の農民は、畑 で、いろいろと思いを巡らし、神の業なる自然のただ中で、神の声を聞くことが出来たかも知れません。羊を飼 う人も同じです。動物や鳥の鳴き声は、思索の妨げにはなりません。そのような畑に種が蒔かれました。種こそ が農民ではないでしょうか。 イエスさまの時代、従来型の農耕牧畜は、終焉を迎えていました。ローマに圧迫され、エルサレムに人口が集 中し、都に入りきれない人々が、難民化しました。 これらの人々こそが、ここに登場する群衆・オクロスだと考えます。彼らは、蒔かれた種の如く、方々に散らされ ました。この時代、故国に暮らすユダヤ人は、10%に過ぎず、90%は、地中海世界に散っていました。これ が、キリスト教が瞬く間に地中海世界に拡がった大きな要因、最大の理由となります。種蒔かれる時、それ は、種散らされる時です。 今も、新しく種が蒔かれています。かつて、畑に種が蒔かれたように、今も、新しく種が蒔かれています。種と は、一人一人の人間です。種とは、一人一人の人間の命です。 この種が、必ずしも、良い地に堕ちるわけで はありません。悲しいかな、芽を出すには厳しい環境の場合もあります。日光、水、栄養、これが整わなけれ ば、どんな良い種も、芽を吹き花咲き、種を着けることは出来ません。 もし人の手で、これをちょっとだけ別の土地に移して上げることが出来るのなら、移した方がよろしいのではない でしょうか。神さまが蒔かれた種だから、どこまでも、その蒔かれた地で留まりなさいとは言えないと思います。 教会が畑、良い土地だとすれば、そこには、信仰と愛の芽が出で、花が咲き、実が付く筈です。もしそうなって いないとしたら、その畑・教会には、何かが欠けています。それは、日光でしょうか。水でしょうか。もしかしたら、 愛かも知れません。教会に蒔かれた種が、愛が足りないために、枯れてしまうとしたら、これは大変なことです。 私たちは、この畑に、水が足りないのではないかと、気配りしなくてはなりません。教会と言う畑に、やっと生い 出でて来た芽が、周囲に生えて来た荊に、行く手を塞がれてしまうなら、大変なことです。教会と言う畑に、荊 を生やしてしまってはなりません。私たちは、ちょっと辛い思いを覚悟しても、芽を塞いでしまう雑草は抜かなくて はなりません。おうおう、雑草の方が強いのです。 まして、私たち自身が荊になってしまってはなりません。荊がどんな花を付けるのか、私は知りません。花が付く かよりも、他の芽を邪魔しないか、気配りが必要でしょう。 また、私たち一人一人が畑です。この畑にはどんな芽が出で、どんな花が咲き、どんな実が生るのか、畑が 合わさって教会ならば、いろんな花が咲いてもよろしいでしょう。 必ずしも一色でなくても、花は花、実は実です。 |