順に読んでまいります。20節。 … イエスが家に帰られると … 家とは、カファルナウムにあったイエスさまご自身の家・ガリラヤ伝道の根拠地のことでしょう。ここが、今日の出 来事・論争の舞台です。 出来事も論争も、それが何処で行われたかということは、大変重要なことです。 例えば、教室や会議場でならば、神学的な議論が行われ、時には、強い口調で互いの理屈を論破するか も知れません。そこは活気のある教室、会議場で、良いことでしょう。 同じような、互いに譲らない議論を家庭の中でするようだったら、かなり深刻な事態です。一方で、家族だか らこそ、身内しかいないからこそ、許されること、理屈も、非難合戦もあるかも知れません。 場所が教会だったら、当然、そこでは、教室や会議場、家庭の場で行われるものとは違うでしょうし、違わなく てはなりません。祈りをもって、始められ、祈りを持って終えることが出来ないのならば、そんな議論は、教会では しない方がよろしいでしょう。 同じ20節。 … 群衆がまた集まって来て … 『群衆』、ここでは、またしてもオクロスという字が使われています。既に、繰り返し申しましたように、オクロス は、衆愚の意味合いを持っている場合が多く、単に大勢の人という意味ではありません。こんなにも大勢の 人々がイエスさまを支持していたと、素直に読むことも出来ますが、どうもそれだけではありません。 … 群衆がまた集まってきたので、一同は食事をする暇もないほどであった。 … 『食事をする暇もないほど』、直訳では、『パンを食べることさえできない』です。 パンを食べることは、マルコによる福音書では、特別の意味を持っています。大抵は、復活のイエスさまと共に いただく神の国の食事、つまり、真の礼拝の意味を持ちますが、ここで、そこまで明瞭に意図しているかどうかは 不明です。 しかし、マルコによる福音書には、群衆のために説教が邪魔される、礼拝の尊厳が損なわれるといった描写は 頻繁に出て来ます。 この箇所も、間接的ながらも、イエスさまの宣教活動が邪魔されたと言っているのです。 出来事、論争は、何処で行われたかが問題だと申しました。 こういう場所で行われたのです。群衆が群がったために、説教が邪魔され、礼拝の尊厳が損なわれるような 場所でした。しかも、そこは、イエスさまが帰られるべき場所、イエスさまの家、教会です。 決して、御言葉を求め、救いを求め、まして哲学的な問を携えて人が集まっている場所ではありません。しか し、そこがイエスさまが帰る場所、イエスさまの家、教会でした。これが教会の理想の姿だと言いたいのではあり ません。宣教の始まりの時から、教会は、このような戦いと混乱の場所だったのです。むしろ、だからこそ、教会 なのです。 次に21節。 … 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。 「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。… 『身内の人たち』とは誰のことでしょうか。31節を見ます。 … イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。… 21節と31節とが連続していますので、かえって解釈が難しくなります。 『身内の人たちは』と『イエスの母と兄弟たち』と、同じ人でしょうか。同じなら何故言い換えたのでしょうか。断 定するのは困難です。 群衆、一般の人々は、イエスさまを、癒しの奇蹟を起こす人としか理解していません。そういう期待しか持って いません。 それでは、身内の人たちはどうだったのか。6章3節にイエスさまの兄弟の名前の一覧があります。ルカ・ヨハネ のクリスマス記事を読むならば、弟たちということになります。ヨセフの連れ子、即ち兄たちだとするローマ・カトリッ クの見解は、マリア処女説を守るための解釈ですが。理屈としては無茶苦茶としか言いようがありません。 身内とイエスさまの関係については、他の機会に譲ります。 さて、身内の人たちはどうだったのか、イエスさまの側にいたから、イエスさまを正しく理解していたのか。そうでは ありません。それどころか、『あの男は気が変になっている』、直訳では、『気が狂った、現在も狂っている』、そん な冒涜的なことを言います。イエスさまの側にいても、むしろ側にいたからでしょうか、全然理解などしていませ ん。 一般の人々はイエスさまを正しく理解していません。身内の者は『気が変になっている』と思いました。更に、聖 書・宗教の専門家である律法学者たちは。22節。 … エルサレムから下って来た律法学者たちも、これまた、酷いことを言います。 「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、 また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。』 群衆、身内の者、律法学者、三者三様の仕方で、イエスさまを否定します。 そして、繰り返しますが、この出来事、この論争が、今、イエスさまの宣教の場で起こっているのです。そして、 現代の教会でも、全く同じことが起こっているのです。 だだ、奇跡と癒しを求める人々、地上的な幸福を求める人、自分を発揮する場所だと思っている人、本気 で信仰する者を『気が変になっている』と冷笑的に見ている者、イエスをキリストとは認めない聖書・宗教の専 門家である律法学者たち、それぞれに三者三様の仕方で、イエスさまを否定しています。イエスさまの時代も、 現在も、結局同じです。 そういう人たちで、神の家が溢れています。『食事をする暇もないほど』、直訳では、『パンを食べることさえで きないほど』です。 ここでは、復活のイエスさまと共に神の国の食事=真の礼拝を取ることが出来ません。 人数が溢れている点は大違いでも、復活のイエスさまと共に神の国の食事=真の礼拝をいただくことが出来 ないとしたら、今でも結局同じ、あってはならないことです。 『ベルゼブル』、新約聖書ではサタンの別名です。悪魔の首領とされます。旧約の「バアル・ゼブブに由来する と考えられています。 元来はバアル・ゼブル(高き住居の王)であり、シリアの最高神の称号を、故意にバアル・ゼブブ(蝿の王)と 読み替えて、サタンの別名としたものだそうです。 『サタン』 は、旧約では、超人的存在であっても、神に敵対する存在ではありません。ユダヤ教では、ベリアル (無益)、マステマ(敵意)の方が一般的でした。 クムラン宗団でも、闇の天使の謂で、ベリアルが頻出します。また、後期ユダヤ教の黙示文学で、ベリアルと 似通った意味でサタンが用いられるようになります。ここには、ゾロアスター教に似た二元論的宇宙観そして終 末理解が前提に存在すると言えましょう。 新約聖書のサタンは、サタンの他に、悪魔、試みる者、悪い者など多数用いられていますが、概ね、神に敵 対する勢力からの誘惑者としてサタンを描いています。また、ヨハネ福音書ではクムランのように光と闇、善と悪 の二元論の前提に立っています。 先を読みます。23節。 … そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。 「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。 … この『たとえ』は、24〜26節を見ますと、イエスがサタンの陣営ならサタンを追い出す筈がないいうことで、一 応理屈は成り立ちます。何とか、理解出来ます。 しかし、27節。 … また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、 家財道具を奪い取ることはできない。 まず縛ってから、その家を略奪するものだ。… 27節だけを見れば、分からないでもありませんが、24〜26節と、どう繋がるのでしょう。関連が理解出来ま せん。 ここは、22節に記された律法学者の批判の内、後半の「悪霊の力で悪霊を追い出している」という批判に答 えたものです。つまり、イエスの奇跡は、邪悪な力を利用したものだという批判に対して、もしそうだと仮定しても 邪悪な力を制した者だけが、その力を利用出来るのだとして、彼らの論理を逆手に取って、邪悪な力を制した 方、キリストへの帰依を呼びかけています。 先を読みます。28節。 … はっきり言っておく。 人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。 … 『人の子ら』ここでは単純に人間、普通の人と読んでよろしいでしょう。『人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言 葉も、すべて赦される。』 律法学者の批判の根底には、以下のような考え方が存在致しました。 病人・罪人は、罪とその刑罰の結果として苦しんでいるのだから、彼は癒されるベキではない。そのような論 理が存在したのです。イエスは癒されるベキではない人間を癒している、こういう批判です。これに対して、神の 恵みは全ての者に及ぶ、神が望まれるなら誰でも、罪人であっても赦されると、イエスさまは反駁しておられるの です。 同じ28節の、『冒涜の言葉』、汚す言葉にも汚す者にも、この動詞形を元にした名詞形が用いられてます。 冒涜する・汚すには、悪意ある批判、呪いというような意味合いがあります。つまり、人間に対する批判・敵 意は、時が来れば赦されるかも知れないが、神の愛・恵みを拒む者には、その機会はないということです。 29節。 『しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う』 人間に対する批判・敵意は、赦される時が来れば赦されても、神の愛・恵みを拒む者には、再度の機会は ありません。救いをもたらす神の力を否定する者には、救いの可能性はありません。罪人が赦されても、愛の 業を否定するファリサイ人は赦されません。 30節。 『イエスがこう言われたのは、 「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである』 ここを一番簡単に読めば、なんぼなんでも、これは駄目だよとなりますでしょうか。 以上のことを、もう一度まとめてみます。 押し寄せる群衆も、イエスさまの側にいた身内の者も、そして聖書の専門家である律法学者も、真にイエスさ まのことを理解することが出来ません。それどころか、それぞれの仕方で、イエスさまの宣教活動を邪魔します。 しかし、イエスさまがその宣教活動の対象とされているのは、救いの業の対象とされているのは、やっぱり、この 群衆なのです。 群衆が、イエスさまの宣教活動を理解したからではありません。受け入れたからでもありません。勿論、手助 けになったからでもありません。イエスさまは、イエスさまの宣教活動を理解せず、受け入れず、勿論、手助けに なもならない者を救われたのです。 唯一、最後まで救いから除外される者は、このような神さまの御心を否定する者だけです。聖霊の働きを否 定する者だけです。「あんな奴が救われる筈がない」と言って、人を裁く者であり、「救いなんてない」と言って、 神の救いの業を拒否する者だけです。 最後に、ベルゼブルについて、もう一度申します。 『ベルゼブル』、新約聖書では悪魔の首領です。(蝿の王)と呼ばれます。 ノーベル文学賞作家のゴールディングに、『蝿の王』という小説があります。第3次世界大戦後の近未来世 界で、無人島に漂着した少年たちの物語です。 ヴェルヌの『15少年漂流記』とは全く逆で、希望が失われ、恐怖・猜疑・絶望に捕らわれていく少年たちの 醜い姿を描き出します。 その少年たちが、腐った豚の頭を中心において、恍惚となって踊る場面が、この小説の主題を表しています。 腐った豚の頭には、真っ黒になる程、蠅がたかっています。 『蝿の王』=悪魔、それは、人の心に巣くって、一切を空しいと思わせ、一切を腐らせるものです。ゴールディ ングによる『蝿の王』=悪魔の定義は全く正しいと思います。 私たちは、イエスさまの救いに与る希望・喜びをもって、イエスさまの御言葉を皆で一緒にいただき、聖書を真 ん中に置いて、一緒に讃美する群れです。 この群れから、救いの希望が失われるならば、恐怖・猜疑・絶望に捕らわれていき、一切を空しいと思わせ、 一切を腐らせるもの、真っ黒に蠅がたかった、腐った豚の頭を真ん中にして踊る群れ、『蝿の王』=悪魔の群れ となってしまいます。 恐怖・猜疑・絶望、これは『蝿の王』=悪魔の誘惑がもたらすものです。これを退ける戦いをしなければなり ません。 悪魔と闘うには、『蝿の王』と真逆の力が必要です。喜び・感謝です。それ以外に確かな武器はありません。 御言葉に聞き、祈り、感謝し、喜ぶならば、『蝿の王』=悪魔を退けることが出来るのです。 以前に申しました。悪魔の魔は、実は隙間の間だそうです。心の隙間です。心に隙間が生まれるのは、憎し み、妬み、という悪感情の故です。そこに悪魔が入り込みます。 |