日本基督教団 玉川平安教会

■2020年10月25日

■説教題 「聖なる公同の教会
■聖書  コリントの信徒への手紙1 2章10〜16節


○ 今日の説教題は、『聖なる公同の教会』です。使徒信条の中の『我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の生命を信ず』のくだりです。

 『我は聖霊を信ず』は独立した文になっていますが、他はまとめて、『〜を信ず』となっています。元々のラテン語はどうだのという難しい話はしません。私にも良く分かりません。そんなことではなく、『我は聖霊を信ず』『罪の赦し身体のよみがへり、永遠の生命を信ず』は、確かに信仰の事柄です。『〜を信ず』と表現するのにふさわしい事柄だし、これを信ずることこそが信仰の内容だということも合点が行きます。

 しかし、『聖なる公同の教会、聖徒の交はり』はどうでしょうか。他とは異質な気が致します。結論から先に言えば、使徒信条が言っているのは、『公同の教会』が『聖なる』存在だと信じることですし、教会員の『交はり』が『聖』なるものだということです。

 もっと別の言い方をすれば、人間の交わりに過ぎないと見えるものが、しかし、『聖徒の交はり』であり、ただの建物や組織でしかないと思われるものが、しかし、『聖なる公同の教会』だということです。これが使徒信条に言い表された信仰です。

 今日は、その辺りのことを読み、考えたいと思います。


○『〜を信ず』。誰もが何かを信じて生きています。神さまの存在など信じないという人も、そういう人こそ、他の何かを信じて生きています。何一つ信じるものがない、何ものも頼りにしないという人はありません。そのようにうそぶいている人はいるでしょうが、そんな人ほど、他の何かを信じて生きています。

 信じているのが、家族や友人、他の人間だったら、それはそれで結構、健全で幸せな毎日かも知れません。

 信じられるものはお金だけと言う人が少なくありません。地位や立場もお金と結び付いていることが多いだろうと思います。お金だけが信じられるというのは、ちょっと寂しい気がします。


○ レジで現金の支払いをしていると、露骨に嫌がられる場合があります。後ろに並んだ他の客に嫌みを言われたこともあります。しかし、カード支払いで、暗証番号を押したり、サインしたりしていると、現金払いよりも時間がかかるのではないでしょうか。

 この頃、何とかペイが蔓延ってきました。これだと時間がかかりませんから、だんだん当たり前になって行くのでしょう。カードも使わない私としては、とても嫌ですが、世の流れには逆らいきれません。

 カードが嫌いだと言う人は私だけではありません。結構少なくありません。何だか頼りにならない、信用出来ないのが理由です。目に見えないから、どれだけ使ったか、どれだけ残っているか実感がないというのも大きな理由です。カードローン地獄という言葉もあります。


○ ところで、お金にも、そんなに絶対の信頼を寄せて良いものでしょうか。現金だって、実際には、目に見えないものです。お金の本質は仮想マネーと何も変わりません。お金そのものに値打ちはありません。ただ、それを他の現物と自由に交換できるというだけです。実は、デジタルマネーと何も変わりません。お金は、実は仮想マネーに過ぎません。

 過去には、この日本の国でだって、お金が一夜にして紙くずになってしまったことがあります。これからだって、分かったものではありません。


○ 多くの新興宗教が、先ず行うことは、大伽藍を建てることと、盛大な祭儀を執り行うことです。これは未だ世に知られていない存在を大いにアピールする、宣伝です。そして、これが宣伝になるのは、世の多くの人が、壮大できらびやかな建物を見ると、信頼できるような気持ちになるからです。

 盛大な祭儀を見ると、そこに神秘を感じ、神さまがおられるような気持ちになるからです。


○ 旧約聖書では、最初神さまは幕屋、粗末なテントの内におられる、つまり、イスラエルの民と共におられるという信仰でしたが、後には、神殿が建てられ、神さまにふさわしいと思われる黄金で飾り立て、麗々しい祭儀が執り行われるようになりました。

 旧約聖書のエズラ書等の神殿再建に関する書を読みますと、自分たちの住む家よりも神さまの家が粗末で良いのかと、鋭く問われ、神殿再建の必要性が説かれます。その通りでしょう。

 私たちも、神さまの家、教会を自分たちの住まいよりも粗末なものにしてはなりません。信仰を持つ者にとっては当然のことです。

 イスラエルの国が建国され、12部族が一つにまとまるためには、是非必要な建物であり、祭儀だったのだろうと考えます。

 しかし、立派な神殿を建てて、そこに神さまを招き入れ、自分たちの生活とは切り離して閉じ込めてしまう結果にもなったかも知れません。

 また、何時の間にか、建物そのものが信仰の対象となり、偶像と化し、祭儀もその荘厳さが自己目的となってしまいました。


○ マルコ福音書13章1〜2節。

 『イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。

   「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」

  2:イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。

  一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」』

 詳細な説明は不要でしょう。建物は絶対の存在ではありません。たとえ石造りの頑丈な建物であっても、永久に残ることはありません。雨と風によって、何時かは必ず、崩れ果ててしまいます。


○『聖なる公同の教会』を『信ず』とは、目には見えないものを、手では触ることの出来ないものを信じることです。目に見える建物や組織を信じることではありません。

 それでは、目には見えないものを、手では触ることの出来ないものを、どうして信じることが出来るのでしょうか。目には見えないものを、手では触ることの出来ないものを、信じなければならないのでしょうか。

 その根拠は、矢張り、目に見える仕方、手では触ることの出来る仕方では与えられません。根拠は私たちの内にはありません。こんな様子ではとても『聖なる公同の教会』とは見えないから、もっと立派なものにするということではありません。

 その根拠は、ただ神にあります。

 

○ 一コリント2章10節。

 『わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました』

 『聖なる公同の教会』が、たとえ粗末な建物であったとしてもそれが教会なのは、そこに神の御旨が働いているからであり、霊が満ちているからです。

 『聖なる公同の教会』を『信ず』とは、そこに神の御旨が働いていると信じることです。霊が満ちていると信じることです。


○ 12節。

 『わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、

   神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです』

 『聖なる公同の教会』を『信ず』ることが可能になるのは、そこに霊が働くからです。

 『世の霊』に頼る人は、建物が立派だと信仰の対象に見えるでしょう。大仰な儀式が執り行われれば、神々しいと見るでしょう。

 しかし、『聖なる公同の教会』か単なる建物かは、見た目では決まりません。そこに霊が働いているかどうかです。


○ 14節。

 『自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、

   それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです』

 日本にもとても立派な寺社仏閣が存在します。神々しいと、目に映るものもあります。私は飛行機に乗れないので、実際には見たことがありませんが、西欧には、思わず跪きたくなるような、美しい教会があります。信仰をそのような形で表現しているとすれば、それはそれで、他人がとかく言うことではありません。 

 しかし、だから『聖なる公同の教会』なのではありません。


○ ここで大脱線して、ある小さな教会についてお話ししたいのですが、かなり回り諄い話になりますので、遠慮します。この説教原稿とは別に、この教会について記した別の文章を受付に置きますので、興味のある方は、後でお読み下さい。

 このことだけ、お話しします。小さな小さな、建物から言ったらみすぼらしいと見える教会を、『聖なる公同の教会』だと心から感じられる体験を何度かしました。そこには信仰があります。信仰があれば、みすぼらしいとしか見えない教会が、『聖なる公同の教会』になります。

 勿論その逆もありますでしょう。信仰がなければ、どんなに壮大な大伽藍も、単なる伽藍堂です。


○ さて本日の説教で取り上げるべきことが、未だ半分残っています。

 使徒信条の『聖徒の交はり』のくだりです。『聖徒の交はり』も『信ず』の対象です。これは、『聖なる公同の教会』を『信ず』よりも、更に難しいのではないでしょうか。

 教会は、教会の礼拝は、具体的な一人一人の出席者によって成り立っています。どうしたって人間の集まりです。人間の集まりでしかありません。それが何故、『聖徒の交はり』を『信ず』なのでしょうか。信じられるでしょうか。


○ 私は牧師としても一人の信仰者としても、大変に恵まれて来たかも知れません。先週も、30年前に離任した白河教会の教会員と旧交を暖める機会がありました。30年間ずっと往来があります。葬儀のことがありましたから、僅かな時間でしたが、幸せな時でした。三人の子どもたちが幼い時を過ごした白河の町を、教会を懐かしく思い起こすことが出来ます。そのことは本当に幸せです。

 松江からは、先週お米と野菜が届きました。

 勿論何を貰ったからではなく、教会で、人間的にも、良い交わりを与えらてきました。


○ しかし、逆もあります。これは牧師ですから、ぐっと我慢して飲み込み、何も言いませんが、時々思い出しては眠れなくなるような、嫌な嫌な思い出も、それぞれの地に、それぞれの教会にあります。それぞれの教会員に対してあります。

 いろんな教会があります。いろいろな人が教会に集います。

 良いことの方が多ければ、良い人の方が多ければ、立派な『聖なる公同の教会』であって、良いことの方が少なければ、教会ではないという話ではありません。

 神さまがおられ、その周囲に人がいるかどうかです。聖霊が働いているかどうかだけです。聖霊が働いていると信じるかどうかだけです。


○ 聖霊が働いているという表現ほど、分かり難いものはありません。とても言葉で説明できるものではないでしょう。13節。

 『そして、わたしたちがこれについて語るのも、

  人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。

   つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです』 

 私も牧師として、この聖霊を説明するのにとても苦労して来ました。大事なことなのに説明する言葉がありません。

 誤解を怖れず、次の譬えで、説明したいと思います。

 磁石があります。磁石で釘を吸い付けます。そうしますと、この釘自体が磁石のように働いて、他の釘をくっつけることが出来ます。強力な磁石ですと、次々と何段にも枝上に釘を吸い付けることが出来ます。しかし、下の磁石を離しますと、釘は磁石ではなくなって、その下の枝の釘はみんなバラバラと落ちてしまいます。うんと強力な磁石ですと、釘の磁力もしばらくは持つ場合があるようです。


○ ただの人間が聖霊によって吸い付けられて、『聖徒の交はり』になることが可能なのだと考えます。ただの人間の集まりが『聖なる公同の教会』になるのだと思います。

 逆に言えば、聖霊から離れるならば、ただの人間の集まりに堕し、バラバラに散っていくのでしょう。

 『聖なる公同の教会』とは、二重の意味があります。一つは見えざる教会ということです。

 建物組織を超えて、世界中の教会が、歴史上の諸教会が、究極は一つの教会だという信仰です。

 今一つの意味は、玉川平安教会が単独で存在するのではありません。日本基督教団の中の一教会です。他の教会と一緒に、日本基督教団信仰告白をし、これによって一つの教会として結びつけられています。


○ 最後に14節。

 『自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、

   それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです』 『霊によって』考え、計画し、働くのでなければ、教会を作り上げることは出来ません。