◇ 最初に面倒臭いことを申します。面倒なことは、先にした方がよろしいでしょう。 なるべく要点だけ申します。 マルコ福音書では、漁師(ペトロ)の召命の後で、彼の姑の癒しが記され、更にその後に大漁の奇跡が起こ りますが、マタイ福音書では、ペトロの姑の癒しが召命の前で、その後大漁の奇跡になっています。ところが、ル カではペトロの姑の癒しが先ずあり、大漁の奇跡が起こり、そして漁師(ペトロ)の召命の順番となっています。 一番分かり易いのはルカです。姑が奇跡によって癒やされるのを自分の目で見、更に獲れない筈の魚が、船 が沈むかと思われる程、大漁になったのを、ペトロは目撃します。 これだけのことがあって、その上で、『わたしに ついて来なさい。人間をとる漁師にしよう。』と、言われたら、それは、大抵の人は付いて行くでしょう。行かない わけにはまいりません。それがルカの記事です。 ◇ ところが、マルコ福音書は、全然順番が違います。姑の癒しを目の当たりにし、更に大漁の奇跡が起こった のは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。』と、言われた後のことです。それまで、ペトロは、イエ スさまについて、何も見ていません。何も知りません。会ったことさえないでしょう。 個人的な感想に過ぎませんが、私はマルコ福音書に迫力を感じます。むしろ、一番強い説得力を覚えます。 つまり、何も説明がないという事実に、説得力を感じます。 既に該当箇所の説教で申しましたが、人間が神に従うのに、説得もその根拠になる理屈も要りません。まし て、損得勘定は要りません。損得勘定があったら、妙なものです。 必要なのは、神の言葉だけです。 ◇ それならば、マルコ福音書の説明不足とも受け止められかねない記事を、まるで補足訂正するかのように 書いた、マタイ福音書や、ましてルカ福音書は、余計なことを書いたのでしょうか。むしろ、冒涜的なことをしでか したのでしょうか。 そんなことはありません。3つながらに、福音書です。聖書です。 今指摘したようなことは、矛盾と言えば矛盾ですが、聖書時代の人が、これに気付かない筈がありません。今 日の私たちより、何倍も何十倍もの熱心さで、聖書を読み、また、その内容を他の人に伝えていた初代教会 の信者が、その矛盾に気付かない筈がありません。気付いていても、3つながらに、神の言葉として受け止め、 読み、伝えていました。 一つの出来事を見た、3福音書それぞれの視点が、大切だからです。どれも否定出来ないからです。それ が、そもそも、福音書がヨハネも加えて、4つも存在する理由でしょう。 ◇ 4つの福音書には、相違があります。矛盾もあります。「だから、聖書は信頼出来ない」と言う人もあります。 しかし、私は、だからこそ、聖書を信じることが出来ます。 お考えください。初代教会が、この相違や矛盾に気付いて、教会の権威で、修正し、整合性を持たせること は簡単にできた筈です。 初代教会の時代に、マルキオンという人が実際に、それを行いました。トルストイも、聖書の非合理性を除き 去ろうとして、『要約福音書』を記しました。今日でも、そのような試みをしようとする人がいます。 その試みは、全て失敗、無駄でした。神さまがそんなことは許さないのでしょう。 ◇ 福音書の相違は、イエスさまをキリストと信じる信仰者の姿勢の違いとも重なると考えます。福音書は4つ です。その他にパウロ書簡も、ペトロ書簡もヨハネ文書もあります。そもそも、新約聖書だけではなく、旧約聖 書があります。 聖書の諸文書の中で、これが一番好きだと言うのは良くないかも知れませんが、実際には好みがあります。 私もそうです。マルコ福音書とイザヤ書が特別に好きです。 そして、その聖書の諸文書の数よりも、信仰者の人数の方が、遙かに沢山います。 旧約39巻、新約27巻、計66巻、これを組み合わせたら、幾通りになるでしょうか。66の順列組み合わせ になります。計算式があるそうですが、私は諦めました。 もしかしたら、その数くらい、信仰者の数があるのだろうと思います。否、もっと多いでしょうか。つまり、いろんな 信仰者がいます。自分の関心、好みで、いろんな読み方をします。そのどれも、必ずしも異端とは言えません。 但し、聖書の組み合わせの限りならばです。聖書ではない思想や哲学を、まして宗教をこれに混ぜたら、そ れは異端となります。 ◇ もっと簡単に言いましょう。4つの福音書の内、どれが好きだと言っても、異端ではありません。しかし、4つの 福音書の内、これは嫌いだと言ったら、異端でしょう。 ルカの説明なら、納得が行く、ルカの合理性で、信仰を知りたいと考える人は、勿論異端ではありません。マ ルコ福音書の説明、つまり、説明がないことにこそ、惹かれる人も異端ではありません。 ◇ このことは、18節の『二人はすぐに網を捨てて従った。』にも、当て嵌まります。ここにこそ、全く当て嵌まりま す。 二人が、網を捨ててイエスさまに従ったことを、いろいろと詮索することが出来ます。中には、この二人が漁師と いう仕事に限界を感じていたのだと言う人もあります。有名な説教家です。漁師に行き詰まっていたと取る根拠 は、19節の『舟の中で網の手入れをしている』ことにあります。この人は、漁をしないで、網を繕っていたことを、 漁に行き詰まった根拠だと解釈します。ならば、網を繕うのは漁に備えてだから、行き詰まるどころか、張り切っ ていたと受け止めることもまた可能でしょう。 ルカを参考にして、いろいろと解釈することが出来ます。マルコではもっと沢山の可能性があるでしょう。そこ が、マルコの魅力です。つまり、解釈に幅があって、自分で考えなくてはならないからです。想像を巡らすことが、 より拡がるのです。結論めいたことが記されていたら、解釈の余地はありません。 昔の記憶で、小林秀雄だったか、伊藤整だったか、分からなくなり、これまで読んだ二人の全著作を調べな ければ、確かなことは言えませんが、こんな意味の言葉があります。 「誤解を許さない文学は、優れた文学とは言えない。」 全くその通りだと思います。解釈の余地がない文学など、戦争文学くらいでしょう。そんなものは、誰も読みた くありません。 山本周五郎には、戦争協力だと批判される作品があります。しかし、よくよく読めば、これは、決して、単なる 戦争礼賛だったり、戦死の美化ではありません。むしろ、一番深いところでの、反戦だと、私は解釈します。多 分、間違いではないでしょう。 ◇ 長くなりましたので、30〜31節を読みます。 … 30:シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、 人々は早速、彼女のことをイエスに話した。 31:イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、 彼女は一同をもてなした。… 何故、何をして、この奇跡は起きたのか、このような奇跡は起こりうるのか、私には、全く関心がありません。そ この所に、そこの点にだけ関心を持つ人が少なくないでしょぅが。私は、殆ど興味を持ちません。興味を持つ 人、奇跡を願う人が、どんなに繰り返し、この物語を読み返しても、何も解答は得られないし、奇跡を見ること もないでしょう。 ◇ 私が興味を持つのは、ただ一点です。31節です。その中でも、 『熱は去り、彼女は一同をもてなした。』この出来事、この描写です。『シモンのしゅうとめ』は、他の箇所では 全く触れられていませんし、どんな人柄なのか、全く分かりません。奇跡に与る程の信仰者だったかどうかも分 かりません。 ただ、健康が回復したら、死ぬほどの病から癒えたら、何よりも先ず、『一同をもてなした。』、そんな人です。 このような人に、私は教会で幾人にも出遭いました。奇跡に与ったことで、狂喜乱舞するのでもない、人々に触 れ回るのでもない、まして、自慢するのではない、ただ、それまで行っていたことを、当たり前のように、続けるの です。 こういう人が教会にはいます。教会だからこそいます。 奇跡や占いや、信仰的知識や、熱心な信仰的生活を誇り、それを語る人とは大違いです。本物の信仰者 です。たんたんと日々の仕事に勤める人こそ、信仰の人です。 ◇ 32〜33節に描かれる『人々』は、本当には信仰が分からない人々です。この辺りから、マルコ福音書には 『人々』と言う字が目立つようになります。『人々』、『群衆』と表現されることもあります。十字架が近づくと『群 衆』でしょうか。 これは、ギリシャ語でオクロスという字です。大衆とも、衆愚とも訳されます。この頃は殆ど使われなくなりました が、デモクラシー、イコール民主主義、テオクラシー、イコール神聖政治、と並ぶ衆愚政治イコール、オクロクラシ ーの、オクロスです。衆愚です。この頃は、ポヒュリズムと言われるようです。 後々、詳細に述べる機会がありますので、今日はこれ以上申しません。しかし、この『人々』、『群衆』こそ が、イエスさまを十字架に架けた人々です。『十字架につけよ』と狂い叫んだ人々です。 ◇ その『群衆』の多くを、イエスさまは癒やされました。「素晴らしい、私もそれにあやかりたい」と望む人がいて も、その願いが教会で叶えられることは、残念ながらありません。34節以下を読めば、その理由が分かります。 … イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、 また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。 悪霊はイエスを知っていたからである。… イエスさまは、誰をも癒やされました。しかし、同時に、『多くの悪霊を追い出して』とあります。これは、当時の 人の知識では、悪霊こそ病気の原因でしたから、当然かも知れません。しかし、それだけでは終わりません。 『悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。』と記されています。 ◇ ここの所こそ、いろいろと解釈が分かれる所かも知れませんが、一番単純に、そのままに読めば、『悪霊にも のを言うことをお許しにならなかった。』つまり、イエスさまの奇跡について、喧伝し、更に、自分にこそ、その力が あると主張する人は悪霊に憑かれているか、もしかしたら、悪霊の手先なのかも知れません。 ついでに申しますと、マルコ福音書では、聖霊の働きを描く場面・言葉よりも、悪霊を描く場面・言葉の方 が、圧倒的に数多くあります。ここには、マルコ福音書の奇跡、福音、救いについての、基本的な思想・理解 があると思われます。 最も単純に受け止めても、信仰者は、信仰者こそ、徒に奇跡に憧れ、まして、悪霊につけ込まれてはなりま せん。 ◇ それよりも大事なこと、信仰者がなすべきことがあります。イエス・キリストに倣うならばです。勿論、奇跡を起 こす力がある人は、それをしたら良いでしょう。イエスさまに倣って、誰にでも、御託を言わずに、せっせと、勿論 無料で行えばよろしいでしょう。 しかし、それが出来なくとも、イエスさまに倣うことが出来ます。倣うべきです。 35節。 … 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、 そこで祈っておられた。… 祈ることです。祈ることだけです。イエスさまに祈ることが、既にイエスさまへの信仰です。心から祈ることが出来 たら、それが既に奇跡です。 『朝早くまだ暗いうちに』を、うんと強調する人がいます。結構でしょう。そのように考えるならば、午前2時で も、3時でも結構です。祈っていただきましょう。 が、それを人に強いるのは、無意味です。時間ではありません。早い遅いでも、長い短いでもありません。そ のことは、イエスさまが主の山上の説教で教えておられます。明確に教えておられます。『朝早くまだ暗いうちに』 をうんと強調し、自分は熱心だ、自分は偉いと思うだけなら、よろしいかも知れません。イエスさまは、許してくだ さるかも知れません。しかし、それで他人を批判したら、それは、悪霊に憑かれた仕業です。 午前2時、3時に起きて祈ることを、自慢気に話す人がいます。そんな場面がありました。しかし、その時に、 ある人が言いました。「要するに、汝に寝るかが問題でしょうな。」 ◇ 38節。 … イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。 そのためにわたしは出 て来たのである。」… 奇跡ばかり願い求めていると、イエスさまは余所の村に去ってしまうかも知れません。余所の教会に、逃れら れるかも知れません。そのような人を避けて、祈るためにです。 自分の力を、自分の信仰の力を誇り、喧伝する人は、イエスさまを追い出したいのではないのでしょうか。自 分が一番偉くなりたいからです。 ◇ 39節。 … そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。… 群衆を避けただけではなく、彼らにこそ、宣教し、そして『悪霊を追い出された』のです。そのためには、祈る時 間が必要だったのだろうと考えます。 私たちは、何よりも、先ず、イエスさまの言葉を聞かなければなりません。そして、もしそれが必要ならば、悪霊 を追い出して貰いましょう。 |