26節には『神の国は次のようなものである』、30節には『神の国を何にたとえようか』とあります。今日の譬え 話は、神の国の譬えです。 ここには、先週の箇所に続いて、種の不思議、蒔かれた種の意味が記されています。しかし、肝心なことは、 これが神の国の譬えだと言う点です。 種について、いろんな解釈がありますし、その意味をいろんな角度から探ることが出来ます。読み方によって、 多くの教訓も得られるでしょう。それは、有意義かも知れません。 しかし、種の譬えは、神の国を表す譬えです。つまり、種の譬えを人生論と結び付けて解釈したり、世の中 や、教会に準えて解釈することは、無駄とは言いませんが、正解とも言えません。あくまでも、神の国を表す譬 えです。 あまり、人生論や教会論に踏み込まない方が良いでしょう。まして、天下国家を論ずる必要はありません。 改めて、26〜27節を読みます。 … また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、 27:夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、 どうしてそうなるのか、その人は知らない。… 先週も読みましたように、種は本当に不思議です。あの小さな粒の中に、後々の姿が、全て収められていま す。後々の姿が、全て詰まっています。 これを生物・植物学的に説明することは出来ますでしょう。しかし、何故そのようにしてあるのか、本当には知 り得ません。どんなに専門的な学者だろうと、解りません。遺伝子がどうのと、新しい研究成果を踏まえて説明 しようとも、根本的なことは分かりません。種の存在が、正に神秘であり、人間の理解を超えているという事実 は、何も変わりません。 種の不思議・神秘は、生命そのものの不思議・神秘であり、人間の理解を超えています。 この事実が、何よりも、神の国の譬えです。 神の国について、人間は殆ど何も解りません。誰一人、神の国を見てきた人はありません。時々、「神の国を 見た」と言う人が現れますが、その人は、嘘つきなのか、幻覚を見たのか、どちらかでしょう。 兎に角、聖書は、神の国を、神の国について、殆ど何も記していません。ですから、残念ながら、信仰の目で 見ようとしても見えません。信仰的に確信を得たいと、クリスチャンなら誰でも切実に願っていますが、その願い は地上では叶いません。どうしても知りたいと願うなら、やがて来たるべき時を待つしかありません。 私たちは、天国を見たことがなくとも、天国旅行をした人から話を聞くことが出来なくとも、しかし、神の国を信じ ています。少なくとも、それを仰ぎ見、そして、憧れています。その存在を信じ、また、神の国のために働いていま す。 それは、根拠のない虚しい信仰、虚しい働きでしょうか。もし、神の国がないなら、虚しい信仰であり、虚しい 働きかも知れません。特に、牧師などは、何とも虚しい存在であり、その働きは、全て虚しいだけかも知れませ ん。 だからでしょうか、現代では、教会は教会に留まっていてはならない、何かしら、世のため人のために役立つよ うな働きをしなくてはならないと言う人が少なくありません。 一理あります。その通りかも知れませんが、それが、最早神の国を信じられないがための、発言ならば、それ こそ虚しいと、私は思います。 ならば、いっそのこと牧師を止めた方が良いし、この世に教会は要らないでしょう。 私たちは、種の仕組み・種の中に込められている生命の理屈を知らなくとも、種が、やがて芽を吹き、花を咲 かせ、また新しい種を実らせることを知っています。 これを一番簡単に言い換えれば、私たちは、種一粒を見れば、やがてそこから生まれ出るものを見ることが出 来る、となります。現に見ています。 神の国も同様だと言うのが、今日の譬え話の意味です。私たちは、神の国を見ることは出来ませんが、神の 国の種を見ることは出来ます。 種とは、教会そのものでしょう。教会は種蒔かれる畑であり、種そのものであり、また、種蒔く人です。この話 は、先週、先々週とお話ししました。 教会の礼拝に出席する一人一人の信仰者は、種蒔かれる畑であり、種そのものであり、また、種蒔く人で す。このことも、先週、先々週とお話ししました。 私たちは、その種を見ることは出来ます。この目で見ることが出来ます。 私たちが、今現在、神の国について知っていることは僅かです。殆ど知らないと言った方が正直かも知れませ ん。 しかし、種を見て、やがて来たる収穫を思い描くことが出来ます。だから、種を蒔きます。神の国についても、 同じことです。 今、この目で神の国を見ることは出来ません。しかし、その種を見ることは出来ます。今、この目で、見ている のです。自分の目で見なくとも、知っているのです。それは見ていることと同じでしょう。 だからこそ、見ていないものを、見たと言い張る必要は、全くありません。 28節。 … 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、 そしてその穂には豊かな実ができる。… 譬え話ですから、これを語っている人の意図を超えて、勝手に想像を巡らすと、とんでもない方向に脱線する 恐れがあります。 この28節では、私たちは、種のみならず、『まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実』を見ることが出来る ようにも記しています。 私たちは、種だけではなく、『まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実』を見ることが出来るのかも知れま せん。その、茎とは何か、その穂とは何か、いろいろと考えを巡らすことが出来ます。 神の国そのものを見ることが出来なくとも、その印を、いろいろとみることが出来るようです。しかし、この程度に 留めて置かないと、大脱線する懸念があります。 29節。 … 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。… もしかすると、この29節こそが、譬え話の一番のポイントかも知れません。収穫の時とは何時なのか。今は、 種蒔きの時で、収穫は遙か先、未来のことなのか。 イエスさまの十字架の出来事は、種蒔きの業なのか、それとも、収穫の業なのか。容易に断定出来ません。 ヨハネ福音書12章24節。 … 一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。 だが、死ねば、多くの実を結ぶ。… 勿論、十字架の預言です。これを読みますと、十字架は種蒔きかと思います。イエスさまが、十字架に死し て、墓に葬られたことは、種蒔きと重なります。ゴルゴダの丘、アリマタヤのヨセフが備えた墓は、畑でしょうか。復 活は、死からの命の芽生えです。 種蒔きは、既にして、収穫の始まりでもあります。マルコ福音書1章14〜15節。 … ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、 15:「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。… 『神の国は近づいた』とあるのだから、未だなのかと読んだら、これは間違いです。イエスさまがこの世界に来ら れたことが、その時が、神の国の始まりです。イエスさまが、『神の国は近づいた』と、その言葉を発せられた時、 神の国は始まったのです。 王たるイエスさまがおられるのだから、既に、そこは神の国なのです。 イエスさまがおられるのならば、教会の礼拝は、既に神の国なのです。 その教会に信仰の種が蒔かれ、多くの実を結ぶことになります。イエスさまの十字架は、一粒の麦です。これ が、礼拝に集う人の心に蒔かれ、そこに信仰が宿り、芽が吹き、やがて実を付け、そして、教会から外に出る 人々によって、種は、拡がります。 『神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』という宣教の一番最初の言葉に続いて、弟子たちの召 命の記事が記されています。これは、種蒔きの始まりでしょう。 もう、神の国は始まったのです。4章30節を読みます。 … 更に、イエスは言われた。 「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。… 矢張り譬え話です。 31節。 … それは、からし種のようなものである。 土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、… 『からし種』がどのような植物か説明は無用です。2000年の時が経っています。パレスチナの植物相は、大 きく変わりました。なにしろ、アジア、アフリカ、ヨーロッパと陸続きです。いろんなものが入り込みます。 『からし種』を、今日のどんな植物なのか、特定出来ませんし、特定しても、大して意味はありません。ここに記 されていることだけが大事なことです。32節。 … 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、 葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。… 小さな小さな、目にも止まらないような種粒から、『空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る』そうです。 これが、神の国の譬えです。神の国は、種粒ほどに小さくとも、そこには、天国が秘められています。 この種を割って、中を見ても何も解らないでしょう。構造が解っても、何故種があるのか、肝心なことは分かり ません。しかし、そこには、神の国の、全てがあります。〜 教会も同じでしょうか。同じでなくてはならないでしょ う。 33節。 … イエスは、人々の聞く力に応じて、 このように多くのたとえで御言葉を語られた。… 『聞く力に応じて』とは、具体的にはどのような意味なのか、明確ではありません。理解力? 〜ではないよう に思います。信仰の程度、そうかも知れませんが、そう断定するのは危険です。 霊力のようなものだと思う人は少なくありません。しかし、そのように考えるのは、より危険です。 私個人としては、人間の持っている何らかの力を言い表しているのではないと考えます。マルコ福音書のさま ざまな出来事から推して、人間の持つ何らかの力ではないと考えます。イエスさまの12弟子たちも、どうも、自 分は他の弟子よりも優れていると思いたいようです。他の弟子たちよりも、優位に立ちたいようです。しかし、イ エスさまは、弟子たちのそんな思いを退けられます。 最も典型的な例として、ペトロのことを考えればよろしいかと思います。 「他の弟子たちが躓いたとしても、私は、イエスさまにどこまでも従います。その覚悟があります。」と自慢気に 言ったペトロは、三度、イエスさまを知らないと裏切ります。 『聞く力』とは、人間の何らかの優れた能力のことではなく、いかに御言葉を求めているかでしょう。御言葉に飢 え渇いているかでしょう。 今後、おいおいお話しすることになりますが、マルコ福音書では、自分には理解力があると思い、それを前提 としてイエスさまに教えを問うた者は、退けられ、『私を憐れんでください』と、ただ、慈悲を乞うた者が、救いに与 ります。 イエスさまに近づき、教えを請うた人々は、この二つに、はっきりと分けられています。 『聞く力』とは何か、明確ではありませんが、自分には『聞く力』があると思ったら、それは、かなりな危険信号 です。 34節。 … たとえを用いずに語ることはなかったが、 御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。… ここで、またまた、そもそも譬え話とは何かという主題に戻っています。譬え話とは何か、なかなか、容易には解 りません。だからこその譬え話です。 しかし、『弟子たちにはひそかにすべてを説明された』とあります。これを、世間の人には理解出来ないが、教 会では理解出来る、教会で信仰生活する人だけが、本当の意味で信仰が理解出来、神の国に入ることが 出来ると考える人は多いようです。一理あります。 しかし、どうでしょうか。それは、最も危ない理解かも知れま せん。何か特権を与えられたかのように思う人を、イエスさまは、ことごとく退けておられます。時間の関係で、今 日は無理ですが、おいおい、読むことになります。 『ひそかにすべてを説明された』『ひそかに』です。矢張り、畑の中の種粒のようです。そういう意味でなら、この 種は、教会でこそ、育つことが出来るものなのでしょう。 |