他の福音書にも殆ど同じような出来事が記されています。大方は、繰り返しになりますが、1節づつ順に読ん でまいります。35節。 … その日の夕方になって … 『その日』とは、4章1節以下の種蒔きの譬えが語られた日ということになります。種蒔きの譬え、つまり神の国 の譬えが語られた後で、この出来事が起こりました。この出来事もまた、神の国の教えと、無関係ではなく、む しろ神の国の教えそのものです。 33〜34節を踏まえれば、この出来事は、今までは隠されていた神の国の神秘が、今こそ、明らかにされる 出来事だと考えるのが自然です。神の国の入り口が開いたのです。 33〜34節を読みます。 … イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。 34:たとえを用いずに語ることはなかったが、 御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。… 『御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。』 このことと、今日の出来事とが重なります。今日の出来事は、神の国の神秘が明らかになる出来事なので す。神の国という目的地が明確に示されたのです。 同じ35節。 … イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた … 『向こう岸』とは、直訳では『向こう側』です。その大部分が、ヨルダン川またガリラヤ湖、谷の向こう岸という意 味で用いられているので、『向こう岸』と訳されています。 マルコ福音書では、特別の意味合いを持って使われる言葉です。大胆に言い切れば、『向こう岸』とは、神 の国です。少なくとも、今、そのことが暗示されています。 向こう岸は、群衆全員が従い行くところではありません。神の国の神秘を知った弟子たちが、イエスさまと共に 行くところです。 『向こう岸に渡ろう』の『渡ろう』は、極めて用例が少なく、この訳が当てられるは、ルカによる福音書の並行記 事の他には、使徒言行録に1カ所あるのみです。 本来は、通り過ぎる、到達する、という意味なのですが、ここでも、特別の意味が暗示されています。矢張 り、神の国が強く意識されています。 ユダヤの『過越の祭』が意識され、重ねられていると読むことも出来ますでしょう。 日本語で、此岸、彼岸と言います。此岸はこの世、彼岸はあの世です。これと一緒にすることは出来ないかも 知れません。しかし、共通性があります。 今、イエスさまは、此岸から彼岸へ渡る舟旅をなさろうとしています。此岸、彼岸、更にはこれを隔てる三途の 川の話をしたら、妙なことになるかも知れません。 しかし、単なる船旅ではなく、神の国へと向かう旅に違いありません。 36節。 … そこで、弟子たちは群衆を後に残し … 繰り返し申しますように、『群衆』は、マルコ福音書では、特別の意味合いを持っています。単に大勢の人々 という意味ではなく、むしろ、衆愚です。衆愚政治の衆愚です。 奇跡的な出来事に魅せられて、イエスさまを大預言者として礼賛します。しかし、十字架の場面では、『十字 架につけよ』と、叫ぶのが、オクロスです。マルコ福音書は、『群衆』=オクロスを、そういった存在として描いてい ます。今日のポピュリズムです。 『後に残し』は、単語です。去らせる、暇をやる、放棄する、軽視する、顧みない、という用例が目立ちます。 以上のことを重ねて読めば、「群衆は棄てて置いて、特別の弟子を船に乗り込ませて、どうしても行くつかね ばならぬ目的地に向かった。」という解釈が生まれます。 船即ち教会と取れば、解釈はまた格別の意味を持って来ます。 群衆のために開かれた教会というような思想は、聖書解釈としては一面的に過ぎます。その逆の面が確かに 存在するのです。教会は全ての人に開かれたところです。しかし、同時に、神の国に向かう狭き門であり、イエ スさまに招かれなければ、イエスさまの声を聞かなくては入ることの出来ない所でもあります。 この船には、沢山の荷物を積み込むことは出来ません。積み込んでも何の役にも立ちません。それどころか、 沢山の人間を乗り込ませることも、出来ません。乗ることが出来るのは、十字架を担う覚悟を持った人間で す。 それだけの覚悟がなくて、舟に乗ってしまい、後悔する人がいます。 教会は出入り自由、田舎のバスみたいに何時でも、何処ででも乗り降り出来ます。ために、舟が何処に向か うのか、何のために、漕ぎ出したのかを忘れてしまう人があります。 それでは、舟に乗っていても、本当には、神の国へと向かってはいません。 教会という舟は、目的地を持たず、乗ること自体を楽しむ、お座敷列車ではありません。 『漕ぎ出し』も単語です。受け取る、迎え入れる、連れ去るという意味が普通で、投獄する、信じると翻訳さ れる場合もあります。 教会を襲う様々な悪魔的力に、今、向かって行きます。嵐を承知で漕ぎ出して行くのです。嵐の向こうにあ る場所を、目的地を目指すのが、教会と言う名前の舟に乗る意味です。 37節。 … 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。… 『激しい突風が』、原文を直訳すると、「大きな風の嵐が」となります。所謂シロッコでしょうか。風とプニューマ が同一視されることから解るように、風は神が起こすものと考えられていました。風は、大きな恵みをもたらします が、時に、大災厄をもたらします。 教会という船も、この世の嵐を免れ得ません。それは、目的地を目指す旅であれば、避けられないことです。 嵐に遭うことのない舟旅は、遊覧船の旅です。同じ波止場から出て、同じ波止場に帰って来る遊覧船に過ぎ ません。 教会を、日曜日という波止場から出て、同じ日曜日という波止場に帰って来る遊覧船と一緒にしてはなりま せん。 38節。 … しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた … 直訳は、「しかし、彼は枕で眠って船尾に居た」です。『眠る』は、普通に睡眠を意味する時に使われる言葉 です。死を意味する眠りは、別の単語です。 この言葉に相当するヒブル語は多数あるそうです。眠ることは良いことであり、眠らないこと眠れないことは、悪 いことと結び付いて語られています。ここでも、安らかに眠ることは、神への信頼であり、信仰のあかしです。 つまり、せっかく船の中、つまり、教会の中にいながら、この世の嵐に脅えてはならないという意味です。 教会だけが静かで安全ならばそれで良いということではありませんが、教会は、世の嵐に左右されていてはな らなりません。 38節後半。 … 弟子たちはイエスを起こして、 「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った … 『溺れる(溺れ死ぬ)』は、普通は、滅ぼす、殺すと訳されます。 『かまわない』は、気に掛ける、関心を持つの否定です。 神は私たちを殺すのか、見殺しにするのか、こういう意味合いです。 飛躍するようですが、ゲッセマネの園の出来事を思い出して下さい。十字架を前にしたイエスさまが、ペトロたち 3人の弟子だけを連れて、血を流すように祈りの時を持たれました。しかし、3人の弟子たちは、疲れから、眠り こけてしまいます。 舟ではイエスさまが眠り、ゲッセマネでは弟子たちが眠りこけます。真逆です。みこれが偶然である筈がありま せん。 イエスさまが同じ船の中におられるのです。その船が沈む筈がありません。もし、沈むとしたら、イエスさまと一 緒に沈み、神の国へと向かうことになります。そこに不安も恐れも要らないでありましょう。 確かに、理屈はそうであっても、不安と恐れに駆られるのが、人間の現実です。 そして、十字架を前にしたイエスさまが祈っておられる時に、そこで一緒祈ることの出来ないのが、人間の現実 です。 最初の場面では、不安と恐れで心が一杯です。次の場面では、疲労で心が一杯です。 何時でも、自分のことで精一杯で、神さまの御旨を思わないのが、人間の現実です。 38節で、イエスさまと弟子たちとは、真逆の存在として描かれているのです。神に信頼して一切を委ね、風も 嵐も全てを受け入れるイエスさまと、『私たちを殺すのか』 誰も何も信じることが出来ない弟子たちとが、全く正 反対のものとして描かれています。 信じられないのは、船の中に救い主が一緒に居て下さることが信じられないのであり、また、この船が、辿り着 くべき向こう岸を持っていることが信じられないのです。 ひいては、『向こう岸に渡ろう』というイエスさまの言葉が信じられないのです。 それでは、船に乗る意味がありません。 39節。 … イエスは起き上がって、風を叱り … 『叱り』は、非難(叱責)する、怒鳴りつける、激しく訓戒すると訳されます。 37節で触れたように、風を支配するのは神です。故に、このイエスさまの行為は、彼が神の権威を持つしるし となります。 湖(海)に命令されたことも同様です。 … すると、風はやみ、すっかり凪になった。… 風は止み、大凪となった、訳文の通り、原文も風の行為として表現しています。つまり、風は、イエスさまの命 令に服したのです。 イエスさまは、この世の力にも命令される神です。ですから、この世の力を恐れる必要はありません。どんなに 怖く見えようとも、その力は絶対的な存在ではありません。 逆に言いますと、今、嵐が吹き荒れているとしても、それはイエスさまの意志と無関係に起こっているのではあ りません。どんなに恐ろしい状況でも、この嵐は何時か止みます。 私たち人間の理解を超えていても、その意味は、神さまがご存知なのです。 40節。 … イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」 … 怖がるは、臆病という字です。心を激しく動揺させるのは、神の業に対する信頼の欠如であることが表現され ています。それが憶病です。 … 信じないのか(信仰がないのか) … 直訳すれば「信仰を持たないのか」となります。持つは、身につくくらい の意味合いで用いられます。「信仰を着ていないのか」と訳すことも出来ましょう。信仰を着ていないから、ここ ろが裸だから、心細くなります。 信仰が身に着かなくてはなりません。借り物の信仰では仕方がありません。信仰は晴れ着ではありません。普 段着でなくてはなりません。 お祈りこそ、普段着でなくてはなりません。特別な時、特別な場所でだけ、着飾ったようなお祈りをしても、そ れはあまり意味を持ちません。普段、そして不断のお祈りが、本当のお祈りでしょう。 特別な時に備えて借りた貸し衣装を纏った、借り物の祈りでは仕方がありません。勿論、お祈りの言葉そのも のが、借り物の言葉では仕方がありません。大事なのは、普段です。普段の着物、普段の言葉でしょう。 41節。 … 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。 風や湖さえも従うではないか」と互いに言った … 『非常に恐れて(恐れおののいて)』、この場合の恐れは、恐怖というよりも畏怖です。故に、ここに描かれて いるのは、弟子たちの不信仰ではなく、むしろ、弟子たちの目が開かれたという意味です。 『風も湖をも支配される方だ』、つまり、神だということを間接的に言わせています。 弟子たちは、漸く、イエスさまの力を知ったのです。 それは、何はともあれ、一緒に、船旅をしたからです。嵐の海を、一緒に乗り越えたからです。不信仰が露呈 するような、惨めな船旅立ったかも知れません。しかし、イエスさまと一緒に、船旅をしたのです。嵐の海を、一 緒に乗り越えたのです。 私たちの教会の、かつての旅は、嵐の海を行くようなものであったかも知れません。辛い、惨めな船旅だったか も知れません。〜 しかし、イエスさまと一緒に、船旅をしたのです。嵐の海を、一緒に乗り越えたのです。それ は、決して無駄ではありません。 今、ここにいて、一緒に礼拝を守っている者は、一緒に嵐の海を乗り越えて来たのです。これからだってそうで す。教会は、嵐の海を乗り越えて、旅をし続けるのです。 |