日本基督教団 玉川平安教会

■2024年3月31日 説教映像

■説教題 「恐れながらも喜び」 

■聖書   マタイによる福音書 28章1〜10節  


† 聖書には、私たち人間の知恵・知識、それに基づいた理解を全く超えた出来事が、数多く記されています。その中でも極め付けが、イエスさまの復活の出来事でしょう。

 現代の科学知識でも説明出来ないことです。2000年前の人々ならば、理解し受け止めることが出来たでしょうか。どうもそんなことはないようです。当時の人々にも躓きであり、全く理解を超えた出来事でした。

 イエスさまの復活は本当に歴史的事実なのか、信じるに足る根拠があるのか、聖書にそのように記されていることだけが根拠であり、科学的物質的証拠などは存在しません。

 ならば、聖書に何が記されているか、聖書は何を伝えているか、それを読まなくてはなりません。それだけしか、読むべきものはありません。


† 1節。

  … 安息日が終わって、週の初めの日の明け方に …

 安息日、私たちの感覚で言えば、金曜日の日没から、土曜日の日没までになります。

 イエスさまが十字架の上で息を引き取られたのが午後3時です。その後、アリマタヤのヨセフが願い出て、遺体を引き取ることが出来たのは、その後です。日没が夕方6時とすれば、あまり時間がありません。遺体の引き取りにどれだけの事務手続きが要るのかは分かりませんが、日没までに埋葬したとすれば、随分と手早く出来た方だと思います。

 27章59〜60節。

  … 59:ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、

  60:岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、

   墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。…

 この記述には信憑性があります。このくらいのことをするのがやっとだったでしょう。時間がありません。日没になって安息日になったら、律法で、いろんなことが禁止されます。何しろ仕事をしてはなりません。葬儀やその準備もなりません。


† 61節。

  … マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、

  墓の方を向いて座っていた。…

 これも信憑性があります。何も出来ないから、ただ『そこに残り、墓の方を向いて座っていた』のでしょう。とてもリアルな描写です。これは金曜日の夜のことです。日没後ならば、厳密には律法に抵触する行為です。それでも、墓を離れがたかったのでしょう。

 しかし、夜通し座っていることは不可能でした。アリマタヤのヨセフの墓が、どのような立地だったのかは記されていませんが、町中である筈がありません。西洋の教会墓地や日本のお寺の墓地ならば、落ち着いた静かな場所で、寂しいけれども、安全な場所ですが、当時のエルサレムの墓地はそのようではなかったと思われます。

 土曜日の日没後なら、律法には触れないでしょうが、とても二人の女性が夜にいられるような所ではありません。


† ですから、28章1節。

  … 週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、

  墓を見に行った。…

 のです。それまでは我慢していたのです。

 聖書に記されていないことを詮索するのは、無意味かも知れませんが、私はそっちの方に関心が行ってしまいます。『マグダラのマリアともう一人のマリア』以外の者たちは、どうしていたのでしょう。

 律法に拘るならば、何も出来ないのですが、それが理由ではありません。他の者は、特に11弟子たちは、26章56節。

  … このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。…

 『見捨てて逃げてしまった』のです。誰もいません。

 27章5節には、

  … そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。…

 と記されています。12弟子は、誰もいません。


† 28章2節。

  … すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、

   石をわきへ転がし、その上に座ったのである。…

 如何にもマタイ福音書らしい描写です。

 こんなことはとても信じられないと思うのですが、それは不信仰なのでしょうか。信じられないようなことを信じることこそが信仰なのでしょうか。そうかも知れません。

 しかし逆にこれを信じることが、どんな意味を持つのでしょうか。マタイ福音書には、人々が徴を求めても、肝心のイエスさまには関心を持たないことが指摘されています。

 16章4節。

  … よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、

   ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。…

 今ここで、誰にも分かる徴が与えられたのでしょうか。


† そもそも、マタイ福音書は、この表現で何を伝えようとしているのでしょうか。

 マタイ福音書の中にこそ、手掛かりがあります。

 それは17章の所謂山上の変容の出来事です。その礼拝の際に申しました。山上の変容は、ペトロと弟子たちの信仰告白の後に起こりました。信仰告白をした者に、神の国が示されたのです。ペトロと弟子たちが神の国を垣間見た出来事です。

 この山で、17章2節。

  … イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、

   服は光のように白くなった。…

 この描写は、28章3節に通じます。

  … その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。…

 これは、天使の姿形を描いているのではありません。イエスさまが葬られた墓は、神の国の入り口だと言っているのです。墓は、来たるべき世、来たるべき世界への入り口です。

 アブラハムがその妻サラを葬った墓所は、約束の地が、イスラエルのものになった最初でした。乳と蜜との流れる麗しの地の始まりでした。逆に言えば、アブラハムは神さまにカナンを約束されたのに、実際に手にしたのは、妻サラを葬った墓所だけでした。しかし、それが、始まりだったのです。イスラエルそして神の国の始まりだったのです。


† 4節。

  … 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。…

 これは当然です。ユダヤ人の信仰では、神を見た者は死を免れないと言われていました。神を見た者が死ぬなら、神の使いである天使を見た時には、『恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった』、当然のことです。

 信仰を持たないローマの兵士にとっては、ただ、『恐ろしさのあまり震え上が』る出来事なのです。彼らは神の国の入り口を見ず、滅びの穴を見たのに過ぎません。

 

† 5節。

  … 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。…

 『恐れることはない』と言われている暗いですから、婦人たちは恐れていました。しかし、『恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった』とは違います。彼女たちは信仰を持っています。

 何しろ、これまで目にしたことも聞いたこともない出来事に遭遇し、誰も会ったことのない天的な存在に出会ったのですから、恐ろしいには違いありませんが、恐ろしいだけではありません。むしろ、畏怖であり、何かを期待させる存在です。


? このことは、私たちにとっても重要なことではないでしょうか。人は恐ろしい目に遭います。何かしら、そのような体験を強いられます。病、事故、自然災害、何よりも家族や親友の不幸、それを避ける術はありません。必ず、何かしらの恐ろしい目に遭います。

 その時に、驚くなと言っても無理です。狼狽えるなと言っても無理です。

 しかし、信仰によって耐え抜くことが出来ます。弱り果てて、倒れるかも知れませんが、絶望して、『恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようにな』ることはありません。『死人のようになっ』てはなりません。信仰が問われる時です。


† 5節の後半から6節の前半。

  … 「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、

   6:あの方は、ここにはおられない。…

 クリスマスと十字架の場面で、『恐れるな』と言う言葉が頻繁に出て来ます。あり得ないことが起こった、恐ろしい場面で、『恐れるな』と言われます。恐ろしいからです。

 この恐ろしさを乗り越える力、根拠は、私たちにはありません。『恐れるな』と言うのは、天使であり、イエスさまです。

 つまり恐ろしさを乗り越える力、根拠は、ただ神さまにあります。

 乗り越える力は信仰にあると言うのも正確ではありません。力は、根拠は、ただ神さまの言葉にあります。


† これはとても現実的な話です。私は牧師として、牧師だから、多くの人の耐えがたい困難を見て来ました。我慢強い人も、へたってしまう人もいます。信仰の強い人も、弱い人もいるでしょう。いました。

 困難に遭遇して、「自分の信仰は弱かった」と嘆く人もいます。それから信仰を鍛えますか。間に合いません。ですから、若い時に健康な時に信仰を鍛えるという発想もあるでしょう。それは、正しい思いでしょう。

 しかし、『恐れるな』と言って下さる方にこそ、すがるべきです。


† 6節の後半を読みます。

  … かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。

  さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。…

 既になされていた復活の預言を思い出させる言葉です。決して初めてではありません。想い出すのです。想い出すことがなくして、復活を体験することは困難です。

 そして、『遺体の置いてあった場所を見なさい』、つまり何もありません。なくなってしまったものに、失った事に、すがり着いていてはなりません。何もないことを、しっかりと見て、確認しなくてはなりません。


† 7節。

  … それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。

  『あの方は死者の中から復活された。…

 絶望に打ちひしがれていた者が、途端に、喜ばしいメッセージを伝える者に変えられました。これが救いです。逆に見れば、神さまに用いられることで、絶望を抜け出します。


† 8節。

  … 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、

   弟子たちに知らせるために走って行った。…

 『恐れながらも大いに喜び』です。これが信仰の事柄です。これが恐怖を克服するということです。カンラカンラと笑い、不幸も、地獄も受け入れることではありません。

 『急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために』。何時までも墓に拘っていません。その先のことがあります。この喜びを他の弟子たちに伝えなくてはなりません。


† 9節。

  … すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、

   婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。…

 天使の言葉、復活のことを知り、それを他の弟子たちに伝えるために走っていた時に、復活の主に出逢いました。

 多くの信仰者もこのような体験をするのだと思います。墓に留まって嘆いていては、復活の主との出会いはありません。

 『「おはよう」と言われた』、日常の挨拶の言葉です。つまり、日常が、平安が帰って来ました。


† 10節。

  … イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちに

   ガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。…

 天使たちに依って与えられた使命が、イエスさまに依って繰り返されます。喜ばしい言葉、福音を他の人に伝えること、その使命に生きることこそが信仰であり、救いです。

 復活を信じる人と信じられない人が、どんなに論争しても不毛です。自分の心の中で問うても不毛です。しかし、私たちは復活の主に出会い、その復活信仰に生かされ、真の喜びを人々に伝えた人々の姿を見ることは、実際に出来ます。