◇ 先週の聖書個所、一テモテ2章8節以下には、多くの人に、反感や、時に嫌悪を抱かせる言葉がありまし た。勿論、先週の説教でお話ししましたように、その反感や、まして嫌悪に賛同することは出来ません。しかし、 表面だけ読めば、反感や、嫌悪があるだろう、あっても仕方がないと、思われる言葉でした。 今日の箇所はどうでしょうか。反感や、まして嫌悪を感じる人はありませんでしょう。では、アーメンと受け入れ て貰えるかとなりますと、それは疑問です。反感や、嫌悪がない代わりには、殆ど無視されるのではないでしょう か。さっと読み流されて、何も心に残らないのではないでしょうか。 一方、何しろ聖書の一節ですから、この言葉を日々唱えて、信仰生活の糧にしている人もいるかも知れませ ん。それはそれで、結構なことでしょう。 ◇ 聖書の中で、自分にとって面白い所だけ読むのは、偏った食事と同じで、いろいろな歪みを、体ではなく、 心にもたらすかも知れません。食事でも、特に美味しいとは言えない食品に、ありがたい栄養分や、ビタミンがあ ったりしますから、聖書の言葉も、省いたりしないで、全部残さずいただきたいと考えます。そのために、今日も順 に読みます。 ◇ 1節。 … 「監督の職を求める人がいれば、その人は良い仕事を望んでいる。」… 私はこの箇所から、直接的にヘルマン・ヘッセの『車輪の下』を連想しました。アンドレ・ジイドの『狭き門』も、 頭をよぎります。他にも、同じ時代の幾つかの小説に、似たような設定、場面があったと記憶しています。 つまり、要点だけ申しますが、18〜19世紀の欧米では、貧しい家庭の子どもで、学力がありますと、医者 か、弁護士か、牧師を目指します。特に、牧師ですと、教育費をあまり掛けずに、神学校に学ぶことが出来ま す。無料の場合もあります。 そういうことは、日本の明治時代にもありました。今日だってそうかも知れません。 ◇ 今お話ししたことは、聖書の言葉とは、無関係なことなのでしょうか。そうでもないだろうと思います。初代教 会の時代、ローマ世界は、貧富の差が激しく、自由市民1人に対して、奴隷は12人いたと言われます。20 人だと主張する学者もいます。自由市民だって、必ずしも豊かとは限りません。ほんの一握りの人だけが、贅沢 な暮らしをし、そして、教養を身につける機会が与えられるようになっていきました。 多分、貧しい家庭の子どもは、未だ、教会学校さえなかったでしょうが、教会で、学び、学問の機会を得、そ して上流の人と交わり、人生にチャンスを与えられたと想像します。 日本でも、戦前の教会には、そのようなことがありました。 ◇ そうした中から、『監督の職』を目指す人が現れました。当然です。大いに結構なことでもあります。教会 は、パウロの時代から、いろいろな社会階層の人に、門が開かれていました。それが、教会の魅力の一つで す。 パウロの時代、神学校などは未だありません。しかし、教育の場はあったと思います。 今日でも、私は東京神学大学しか知りませんが、神学校にはいろんな人が入ってきます。親子3代東京大 学名誉教授という人もいましたし、所謂高学歴の人は沢山いました。 一方で、夜間中学、夜間高校を出た人もいましたし、兄の一人が精神病院に入っていて、もう一人の兄は 刑務所で服役しているという人もいました。 ◇ いろいろと無駄話しをしているのかも知れません。このくらいに止めたいと思います。ただ無駄に聞こえるお話 しをしたのは、今の時代も、ましてパウロの時代に、『監督の職』を目指す人はどのような人だったのかと、想像 していただきたかったからです。つまり、肝心なこと、今日の箇所を読む大前提です。 パウロは今、エリート教育のために、講義しているのではありません。『監督の職』を目指す人を戒め、警告 し、「あなたの志は、確かなものか。何を狙いとして監督になりたいのか。」と問うています。むしろ自分の心に問 いなさいと言っています。その心構え、準備が、更には修行が出来ますかと、問いなさいと言っているのです。 ◇ 2節。 … 監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、 礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません。… 大変なことです。7つの項目が挙げられています。私などは、この内幾つが合格点でしょうか。間違いなく合 格なのは、『一人の妻の夫であり』だけかも知れません。奥さんは二人いませんから。 ◇ 3〜4節。 … 3:また、酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず、 4:自分の家庭をよく治め、 常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません。… これも、私には当て嵌まるかどうか怪しいものです。 最近は、『酒におぼれず』は間違いなく合格点です。お酒は飲まなくなりましたので。飲めなくなったが正確で しょうか。 『乱暴でなく』、これは昔から大丈夫です。『争いを好まず』は、確かに好んではいませんが、争うことがないか と言えば嘘になるでしょう。他は、自分では分かりません。 私だけではない、多くの人が似たり寄ったりでしょう。特に4節については、自信を持てる人は少ないでしょう。 ◇ 5節。 … 自分の家庭を治めることを知らない者に、 どうして神の教会の世話ができるでしょうか。… これが一番困難なことかも知れません。 『自分の家庭を治める』、当たり前のようでいて、実に困難なことです。 当たり前と言いました。昔は当たり前だと考えられていました。しかし、昔だって怪しいものです。むしろ、昔の方 が、出来ていなかったのではないでしょうか。亭主関白で、家族を恐怖政治で従えていた人はいたでしょう。そ れを『自分の家庭を治める』と言えるのか。そんな筈はありません。 ◇ それでも、昔の家庭は、表面平和だったかも知れません。一つ家庭は一つ価値観で生きていたかも知れま せん。 家業のある家ならば、子どもが親の仕事を見て育ちますから、親子の間には、理解も共感も尊敬の念も生 まれます。しかし、今日では、それは例外的な家庭であり、大抵の家庭では、親子、夫婦、兄弟別々の時間 を生き、互いに共通する話題を持つことさえ困難になっています。今時、『自分の家庭を治める』、という考え方 自体が否定されています。 ◇『自分の家庭を治めることを知らない者に』には、『神の教会の世話』をすることは出来ない、と断言されてい ます。 ローマ・カトリックでは神父さんは妻帯しないと思われていますが、当初はそんなことはありませんでした。国にも よりますが、キリスト教2000年の歴史の中で、妻帯禁止は比較的新しいことです。半分の1000年は、妻 帯しているのが普通でした。 何れにしましても、テモテ書に従えば、神父さんは妻帯した方が良いし、家庭を治めなくてはならないという解 釈にさえなります。 そうしますと、これは神父のことではなくて、役員のことでしょうか。 ◇ 監督とは牧師なのか、役員なのか、明確ではありません。似た意味のギリシャ語が多様に翻訳されていま す。そもそも、当時は、そのような区別がなかったとも言えます。 何れにしろ、この時代に、神父になりたい人がいたのでしょう。それはどういう人だったのでしょうか。 人の上に立ちたいと願う人は少なくありません。教会でも同様で、指導者になりたい人がいます。人の風下に は立ちたくない人がいます。 パウロは、このような人を戒めています。それどころか、教会員に対して、そのような人を警戒しなさいと言って います。何書何章何節と上げられないくらいに、同じような戒めが、いろいろな言葉・表現で繰り返されていま す。特にコリント書に顕著です。 ◇ ここで、何節に記されていることではなく、記されていないことに注目したいと思います。ここに何も書かれてい ないこと、何故か全く触れられていないことがあります。 信仰、聖霊についてです。信仰、聖霊について、何も言及されていません。 『監督の職を求める人がいれば』、その人は信仰深くなければならないとは書いてありません。『監督の職を 求める人がいれば』、その人は聖霊を体験した人でなければならないとは、一言も書かれていません。 当たり前だからでしょうか?そうかも知れません。しかし、当たり前のことは省略されているのなら、2〜5節は、 全て無用となるでしょう。困難なことではあっても、当たり前のことですから。 テトス書1章にも、監督の条件が挙げられています。そこでも、テモテと似たり寄ったりのことが上げられ、信仰 も、聖霊も、指導力も上げられていません。不思議です。 ◇ 手掛かりは、6節にあるでしょう。 … 監督は、信仰に入って間もない人ではいけません。 それでは高慢になって悪魔と同じ裁きを受けかねないからです。… これは、経験不足の人が指導的立場についてはならないという話ではありません。 『高慢になって悪魔と同じ裁きを受けかねない』、高慢になることを警戒する話です。 玉川平安教会の規則では、洗礼を受けてから2年経っていないと、役員に選ばれることは出来ません。これ が合理的かどうか、疑問です。教団が定める準則にはありません。 確かに、教会や役員に就いての、知識・経験不足から、この世の知識で、例えば会社や役所のセンスで、 発言し、かつ、それを押し通そうとする人はいます。こういう人には、教会のしきたりから、常識から学んでいただ いた方がよろしいでしょう。 しかし、長く教会に居て、役員も務めているなら、このような意識が磨かれているかとなりますと、それは分かり ません。 また、役員が果たしている具体的な仕事を担当してこそ、教会が分かり、役員とは何かが分かるとも言えま す。 肝心なことは、問題の本質は、そのようなことではないと考えます。 ◇ 少し回り道になります。松江北堀教会では、毎年、東京神学大学から、夏期伝道実習生を受け入れて いました。夏期30〜40日程度、説教を含めて、牧師見習いのような働きに就いて貰います。 これが終わった時、役員一人一人が、東京神学大学の所定の用紙に、点数を書き込みます。各項目毎 に、100点満点で点数を付けます。 私が赴任した次の年から、これを止めました。「あたながたは、伝道実習生とは言え、教会の礼拝で説教壇 に立った人の説教に点数を付けられますか。見習いとは言え、牧師の働きをした人に、点数を付けて評価する のですか。私も、皆さんに点数を付けられるのでしょうか。」と反対し、止めました。 ◇ しばしば、長老が若い牧師を育てると言われます。その通りかも知れませんが、嘘が90%の綺麗事です。 と私は思います。意地悪な長老に潰された若い牧師を何人も知っています。本当に育てたいなら、期待するな ら、その若い牧師の説教を、もしかしたら拙い説教を、懸命に聞くことだと思います。批評、まして点数を付ける ことではなく、聞くことが肝心なことです。無責任な批評は、いじけさせ、自信を喪失させ、潰すだけです。 神学校から求められていることですから、私だけは、伝道実習生に点数を付けました。合格点は60点とされ ていますが、私は基本90点として、少し、これを上下させて点数としました。 そして、このように書き送りました。「私がかろうじてでも、牧師をさせていただいているのですから、私の点数を 60点として、少なくとも、私自身の、その頃の年齢、経験からしたら、90点です。95点です。」 実際に、松江北堀教会には、なかなか優秀な神学生が送られて来ました。立派なものです。その全員が、 教会で、教区で、或いは教団で良い働きをしています。小さい教会で苦労している人もいますが、頑張ってい ます。 ◇ 7節は、注釈は省略してもよろしいでしょう。しかし、一番大事なことでしょう。世間では珍しい存在の牧師 だからこそ、変わり者では、務まりません。 『教会以外の人々からも良い評判を得ている人でなければなりません。』簡単なことではありません。私など は相当の努力が要ります。 しかし、当たり前のことです。牧師だから特別だと考えている人は、『中傷され、悪魔の罠に陥りかねない』で しょう。当たり前です。教会こそ、隣人との関係は大事です。 牧師のみならず、長老、役員も同様です。長老、役員にこそ、より大事な戒めでしょう。 |