◆ 5年前にもこの、『良きサマリヤ人の譬え』を説教箇所にしています。 先ず、その時と殆ど同じことを申します。 この譬話を、そのまま素直に読めば、「口先だけなら何でも言える。大事なのは行いだ。」となります。しかし、 この解釈には、二つの理由で躊躇を覚えます。 一つは、それでは行為義認論となりはしないかという点です。ルカによる福音書の著者は、使徒パウロの直弟 子です。その人が、使徒パウロの神学の根本である信仰義認論に抵触するようなことを書くだろうかと、疑問に 思います。 〜 これだけならば、信仰義認論と行為義認論は両立すると説明することは出来ます。実際、必ず しも矛盾しません。 ◆ しかし、もう一つの疑問があります。25節をご覧下さい。 … すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。 「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」 … この律法学者は、『何をしたら』と質問しています。つまり、なすべき行いを尋ねています。知識を問う人に、 「知識ではない。行いが大事だ。」と教えられたのなら分かりますが、初めから、何をなすべきかと、行いについて 尋ねている人に、行いが大事だと教えても、これは話になりません。 以上二つの理由だけでも、この譬話を、単純に、「口先だけなら何でも言える。大事なのは行いだ。」と読む のは間違いだと言わなくてはなりません。少なくとも不十分です。 ここまで、前回の説教とほぼ同じことを申しました。後は順に読みます。 ◆ 25節。 … ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。 「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」… 『律法の専門家が〜試そうとして』 イエスさまを試験したという意味でしょうか。近頃評判のイエスを、どれ程、律法について学問的実力があるの か、テストするという意味でしょうか。そうかも知れません。 そうだとしたら、これは、聞く姿勢ではありません。テストの試験官には、受験生に聞く・学ぶ姿勢などありはし ません。当たり前です。 聞く・学ぶ姿勢のない人に、何を教えることが出来るでしょう。 ここで私たちも先ず、この人のような姿勢で、聖書に向かい合い、教会に向かい合っているのではないかと、 我が身を振り返ってみなくてはなりません。『神を試みてはならない。』信仰の基本です。しかし、神を試みること が大好きなのが人間です。 ◆ それとも、この律法の専門家は、イエスさまを罠に掛けようとしたのでしょうか。福音書の中で、律法学者が イエスさまに質問するのは、罠に掛ける目的である場合が多いようです。この箇所でも、その可能性がありま す。悪意を持った質問です。 そうした場合、福音書のイエスさまは、質問に対して質問で応えられます。これは、律法学者の争論術の常 套手段であり、ギリシャ哲学の論争術でも、見られることです。 ◆ 26節。 … イエスが、「律法には何と書いてあるか。 あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、… 質問に質問で答えられたのは、試験する立場と試験される立場とを入れ替えたと読むことが出来るかと思い ます。 これも私たちが聖書に向かい合う時に、とても大事なことです。 私たち人間は、原則、神によって、試される立場です。試験を受ける立場です。しかし、これは大抵の人にと って嫌なことです。むしろ、試験する側を選びます。試験を受けるのはぞっとします。私もつい先週、運転免許の 試験を受けました。この歳で試験を受けるのかと、ぞっとしました。よっぽど、免許返納しようかと考えた程です。 ◆ 27節。 … 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、 あなたの神である主を愛しなさい、 また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」… 律法学者は、イエスの質問に更に問い返すことはしないで、直ちに応えました。本当なら、更に質問を返し て、相手を窮地に追い込むのが、争論術の基本です。 直ちに応えたのは、即答出来る知識があったからで、応えずにはいられなかったのです。 聞かなくても分かっているのですから、ならば、質問するまでもないでしょう。 矢張り、律法学者には、聞く気、学ぶ気持ちなどありません。 ◆ この人の応えた内容は、申命記6章4〜5節にあります。 … 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。… 所謂シェマー・イスラエルです。ユダヤ人なら、子どもの頃から学び暗記し、この文言を書いた紙を、箱に入れ て、戸口に掲げています。 ユダヤ人にとっては、当たり前すぎる程に当たり前の教えです。 この人が即答したのも、反射的なものでしょう。答えずにいられないことでした。 ◆ 28節。 … イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。 そうすれば命が得られる。」… 律法学者が、本当に答えを求めて、真摯に質問していたのだと仮定します。その可能性も全く否定すること は出来ません。 その問の内容は、『何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。』でした。これは人間誰もがの問 です。律法学者が、イエスを試そうとしていたとしても、罠に掛けようとしていたとしても、そこに、ちょっとは、これま で耳にしたこともない、真新しい教え、魂に響く神秘的な知恵を、期待する気持ちがあったかも知れません。そ の可能性も全く否定することは出来ません。 ◆ しかし、イエスさまに問い返されて、彼は、ごく当たり前のこと、誰もが知っていることを答えるしかありませんで した。そして、イエスさまは、彼の答えを正しいと認め、それではそれを行うようにと勧めました。 この律法学者は二度裏切られた思いでしょう。試験には回答して貰えません。何かしら目新しい教えを聞くこ とも出来ません。 彼は、ここで、本来の律法学者の争論術に立ち帰ったのか、再び質問します。これは、律法学者らしい質問 です。むしろ、テストです。それが29節です。 ◆ … しかし、彼は自分を正当化しようとして、 「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。… 『自分を正当化しようとして』です。このままでは議論に負けるから、新しい質問をしました。イエスさまをやり込 めようと、未だ藻掻いています。 イエスさまは、この問に問い返すことはしないで、真っ正面に答えます。 普段のイエスさまの譬え話は、決して、分かりやすいものではありません。躓かせることを目的とした譬えがある くらいです。しかし、この譬えは単純、分かり易いものです。 ◆ 30節は物語の設定です。特別注釈は必要ないでしょう。むしろ無用でしょう。 31〜32節を、深読みすることが、なされてきました。いろんな解釈があります。祭司とレビ人が、『その人を 見ると、道の向こう側を通って行った。』ことを、汚れた者には触れないという教えに沿ったことだと庇う人がいます し、逆に、ここにこそ、祭司の限界、そして正体が見えていると批判する人もいます。 両方とも当たっているかも知れません。 汚れたことからは、遠ざかるのが正義だという考え方は、確かにユダヤ教的でしょう。私たち日本人の基本道 徳もそうですから、良く分かります。 汚いこと、悪いことからは距離を置くのが正義だと考えています。 それ自体は決して間違った思想ではないと思います。むしろ大事です。 ◆ 33節。 … 旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、… 当時、サマリア人は、ユダヤ人から、汚れた民族だと見做されていました。歴史を700年ばかり遡って、北王 国がアッシリアによって滅ぼされ、そこに居た10部族は、多くの人が、散らされてしまいました。残ったのは貧しい 人たちです。更に、この地には、300年前から、ギリシャ人が入植し、混血が起こりました。文化や宗教も混交 します。 しかも、ローマの圧政に苦しむユダに比較しても、人々の暮らしは更に貧しかったようです。貧しい者がより貧し い者を差別するのは、世の習いです。 ◆ 34節。33節の終わりから読みます。 … その人を見て憐れに思い、 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、 宿屋に連れて行って介抱した。… 『正しい答えだ。それを実行しなさい。』というイエスさまの教えをサマリア人は実行しました。しかし、先ずは、 『その人を見て憐れに思い』です。その気持ちが湧いたことです。『 道の向こう側を通って行った』祭司やレビ人 には、これがありません。彼らは律法に従っただけかも知れません。律法的には間違った行為ではなかったので しょう。しかし、苦しむ『人を見て憐れに思』う心がなかったのです。 ◆ 35節。 … そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、 宿屋の主人に渡して言った。 『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』… 33節までは出来たとしても、34節はなかなか出来ることではありません。 この箇所も深読みすればいろいろと考えさせられます。『帰りがけに払います。』という言葉は、最後まで面倒 見るという意味でしょうか。宿屋の主人がキチンと手当てするように、念押ししているのでしょうか。譬え話ですか ら、正解などありません。 ◆ 36節。 … さて、あなたはこの三人の中で、 だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」… 再びイエスさまの方が、律法学者に質問しました。テストしました。律法学者だからこそ、正しい答えをしなくて はなりません。更に質問を重ねて、問をはぐらかすことは出来ませんでした。それほど、明確な問であり、明確な 答えが見えているからです。 37節。 … 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」 そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」… こうして読みますと、信仰義認論か行為義認論かなどという譬え話ではありません。そんなことを議論しても 意味がありません。問われているのは、隣人への愛です。 ◆ 今日は『母の日』です。このために、ルカ10章を読むことにしました。 隣人とは誰かと、人は問います。私が愛するのにふさわしい隣人とは誰か、どこに行けばその素晴らしい隣人 に出会えるのか。 『孟母三遷』の故事があります。基本的に正しいことでしょう。子どもは環境に支配されますから、隣人を選 ぶことも大事でしょう。現代でもそうです。隣人ガチャと言う言葉があります。100円玉を投ずるとカプセルが出 て来ます。何が入っているか分かりません。当たり外れがあり、選ぶことは出来ません。同様に、隣人を選ぶこと が出来ないのが、隣人ガチャの意味です。家族ガチャとも、親ガチャとも言います。選べません。 ◆ 隣人を選ぶ人は、『 道の向こう側を通って行った』祭司であり、レビ人です。 隣人とは、今、現在、隣にいる人です。選ぶことは出来ません。 一番近い隣人は、一番最初の隣人と言い換えた方が良いでしょうか。それは、母親です。 生まれた時に、事情があって父親がいない人はいますが、母親のいない人は、絶対にありません。ですから、 母親こそが、聖書の言う隣人愛の出発点です。母親に愛され、愛した人が、健康に育つことが出来ます。母 親を選ぶことは出来ません。しかし、選ぶことが出来たらと思うことがあるのも、現実です。 むしろ、親が子どもを選ぶことが出来たらと思うのが、切実でしょうか。 ◆ 遠交近攻という戦術があります。遠くと交わり、近くを攻めるの謂です。人間にはそのような傾向がありま す。しかし、それは聖書の教えとは遠いようです。 聖書では選ぶことは許されません。逆に選ばれたからです。「母も父も、きょうだいも、家族まとめて、神さまに 選ばれ与えられた、最初の隣人だ。」それが聖書の信仰です。 |