▼順に読みます。13〜14節。 … ちょうどこの日、二人の弟子が、 エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、 この一切の出来事について話し合っていた。… 二人の弟子は、十字架の出来事についても、更に復活についても、詳細な情報を持っていたようです。しか し、彼らは予定通りエマオという村へ向かって出発しました。 十字架と復活の知らせは、彼らの予定を変える程の出来事ではなかったのでしょうか。 道々話題にしたくらいです。そもそも彼らはイエスさまの弟子であったとはっきり記されています。しかし、復活の ニュースに接して、予定を変更し、エルサレムに留まり、その先に起こることを見届けるというような気持ちはあり ません。 その程度のことに過ぎなかったのでしょうか。それとも、他に余程重大な用事を抱えていたのでしょうか。それに しては、彼らは結局用事を果たさずエルサレムに戻っています。 ▼もう一度、14節だけ読みます。『この一切の出来事について話し合っていた』 エルサレムを離れたけれども、『この一切の出来事』からは離れられません。心にひっかかっています。そして、 二人で『話し合ってい』ました。 このこと自体が、象徴的なことです。十字架と復活の出来事に触れ、それから旅に出ました。教会員の場合 は、礼拝で十字架と復活の出来事に触れ、そして家路につきます。 教会の玄関を出たら、もう教会のことは忘れるという人もあるかも知れませんが、多くの人は、十字架と復活 のこと、教会のことを、心で反芻しながら帰るでしょう。二人三人一緒なら、『話し合』うかも知れません。 ▼祈祷会の帰りと思われる人が、電車の中でいろいろと話しているのを聞いたことがあります。しかも、それは私 が知っている教会の話でした。牧師も知っています。何だか盗み聞きしているようで気まずかったのですが、聞こ えてしまったものは仕方がありません。知っている教会の話ですから、内容には触れません。 しかし、考えさせられました。もし、この人たちが教会生活の喜びを語っていたら、伝道になるでしょう。逆だった ら、えらいことです。本人にその気持ちはなくとも、教会の悪宣伝をしていることになります。〜残念ながら、教会 と牧師の悪口でした。 ▼15節。 … 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。… 教会の帰り道に も、イエスさまはおられるかも知れません。聞いておられるかも知れません。教会の中では勿論、他の場所であ っても、イエスさまに知られたら恥ずかしいような話は、しない方がよろしいでしょう。 ▼ところで、イエスさまは、何故、彼らについて行かれたのでしょうか。マルコ福音書ですと、弟子たちに『ガリラヤ で会おう』と遺言されていますから、ガリラヤに向かっておられたのでしょうか。ルカでは、これは当て嵌まりませ ん。イエスさまは、この後、エルサレムで弟子たちの前に姿を現されます。何故、この二人に先ず顕れたのでしょ うか。この二人が、特別大事な弟子だったとも、特別熱心な信仰者だったとも、思われません。 ▼矢張り、イエスさまは、教会から家路につく、全ての人と共におられるのではないでしょうか。言い換えれば、 信仰をもって、この地上の生活を歩む全ての人と一緒におられるという意味ではないでしょうか。この二人は、そ のことを示すために、用いられた存在ではないでしょうか。断定出来る程の資料はありません。先を読みます。 ▼16節。 … しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。… 何故、『二人の目は遮られてい』るのか、不思議です。このことは、後で今日の箇所の主題としてお話ししま す。今は、取り敢えず、比喩的象徴的に読みます。 私たちが礼拝を終え、家路につく、その時、イエスさまが一緒に歩いておられたとしても、私たちは、それと気が 付かないという意味ではないでしょうか。 イエスさまが隣にいても、誰も気付きません。イエスさまが隣におられるのに、十字架を見上げ、「イエスさま」と 祈っているのかも知れません。 ▼17節。 … イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。… これも今は、取り敢え ず、比喩的象徴的に読みます。 イエスさまが語りかけています。私たちが礼拝を終えて、教会から家路につく、その時に語りかけています。その 時に、「何の話をしていたのか」問われています。 言い換えれば、教会から、礼拝から家に、何を持ち帰るのかが、問われています。喜びか、感謝か、それとも 逆か、問われています。 ▼17節。 … 二人は暗い顔をして立ち止まった。… これも今は、取り敢えず、比喩的象徴的に読みます。 『暗い顔をして』、弟子たちはイエスさまの死を悲しんでいます。立ち止まって、イエスさまの話をしないではいら れない程に、悲しんでいます。 教会の帰り道、『暗い顔をして』いる人は、少なくないかも知れません。教会の現状を考えれば、『暗い顔』に ならざるを得ないかも知れません。 牧師が一番暗いかも知れません。 しかし、それは十字架を知っていても、復活を知らない信仰姿勢でしょう。 ▼18節。 … その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、 この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。… これも、取り敢えず、比喩的象徴的に読みます。 『この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか』これは、何とも皮肉と申しますか、考え させられる言葉です。彼らは本気にそう思っています。 しかし、実際には、『この数日そこで起こったことを、ご存じなかった』のは、この二人です。他の弟子たちもそう です。『この数日そこで起こったことを』、その意味を、つまり十字架の意味を理解出来なかったから、彼らは、 復活をも理解出来ないし、それだから、エルサレムから旅立ったのです。それだから、『暗い顔』にならざるを得 ないのです。 このことは、私たちにも全く当て嵌まるのではないでしょうか。 ▼『暗い顔』になるのは、教会が奮わないからではありません。財政が厳しいからではありません。敬愛する兄 弟姉妹の健康が勝れず、一緒に礼拝を守ることが出来ないからでもありません。 十字架の意味を理解出来ないから、復活をも理解出来ないから、それを実感出来ないからです。 『この数日そこで起こったことを、ご存じなかった』のですか、「この数年、日本の国に起こったことを、ご存じなか ったのですか」、「この数年、教会に起こったことを、ご存じなかったのですか」、私たちは、神さまに対して、そんな 思いを持っているのではないでしょうか。自分は知っているが、イエスさまは知らないと思っているのでしょうか。 ▼15節に戻ります。 『話し合い論じ合っていると』、興味深い表現です。象徴的表現です。十字架と復活について、どんなに『話 し合い論じ合っていると』しても、何も変わらないし、何も起こりません。 教会は、この議論で莫大な時間を費やして来ました。しかし、『話し合い論じ合ってい』ても仕方がありませ ん。何も変わりません。福音宣教には繋がりません。 では、何をするのか、それは、後でお話致します。 『彼らと一緒に歩いて行かれた』、これも、興味深い表現です。象徴的表現です。イエスさまは、常に、その 弟子たちと共に歩いておられました。その地上での生涯を通じて、そして、十字架の出来事の後までも。しか し、そのことに弟子たちは気が付きません。 ▼19〜22節。長いので読むのは、省略します。黙読ください。ここにはイエス・キリストへの望みと、そして絶 望とが要約されています。 特に、『あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。』 これが彼らの望みだったことが分かります。その望みは十字架の出来事によって潰えたのです。彼らはそのよう に考え、絶望しています。 ▼22〜23節。 … 22:婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23:遺体を見つけずに戻って来ました。… 婦人たちが捜していたのは、遺体です。それは見つかりません。私たちも、イエスさまの遺体を捜してはなりま せん。 そんな馬鹿なことはしないと、言い切れるでしょうか。 私たちは、聖書の中に、2000年前に生きていたイエスさまを捜しているのではないでしょうか。2000年前に 生きていた、そうに違いありませんが、これを言い換えれば、今は生きていない方を、聖書の中に捜しているの ではないでしょうか。 ▼22節。 …天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。… 『イエスは生きておられる』のです。2000年前にではありません。今です。 そのことを弟子たちは受け止められませんでした。そして、私たちも。 『仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました』、しかし、驚いてはなりません。 ▼24節。 …仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、 あの方は見当たりませんでした。… 当然です。生きて働いておられる方は、墓の中にはおられません。 ▼25節。 『そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、 心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち』 正にそういうことです。『くらい顔をして』とは、そういう意味です。 ▼26〜27節。 … 26:メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。 27:そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、 御自分について書かれていることを説明された。… これは、イエスさま自らによる説教です。 32節によりますと、彼らは、この説教を聞き、 … 道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、 わたしたちの心は燃えていたではないか。… 感動をもって受けとめています。しかし、彼らの眼は開かれません。 ▼彼らの眼が開かれたのは、30節。 … 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを 唱え、 パンを裂いてお渡しになった。… この時です。イエスさまが、『パンを取り、賛美の祈りを 唱え、パンを裂いてお渡しになった。』時です。 これが決定的なことだと強調するために、同じことが、35節でも繰り返されています。 … 二人も、道で起こったことや、 パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。… 『パンを裂いてくださったときに』と強調されています。 ▼この時、イエスさまが食卓でパンを取り、祝福して割き、彼らに渡された時に、二人の目は開けます。つまり、 イエスさまが一緒に歩いて下さることによっても、説教を聞くことによっても、心が燃えるような体験をしたことによっ ても起こらなかった、真の出会い・救いがここに、起こりました。 30節の『パンを割いてお渡しになった。』とは、イエスさまが、ご自身を渡されたことを象徴的に表現していま す。この時に、彼らの目が開けたということが決定的です。 イエスさまが、パンを、ご自身の命を下さいました。私たちは、そのような恩寵を、何処に求めるべきか、〜 言 うまでもありません。聖餐式であり、礼拝そのものです。 ▼16節には、『しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった』とあります。そして、31節に は、『すると二人の目が開け』とあります。二人の目を遮っておられたのも、明けられたのも、神の力、神の御心 です。 何故、こんな回りくどいことをなさらなければならなかったのか。イエスさまに直接出会い、説き明かしを受け、 心が燃えても、駄目だったとすれば、聖書を読むことも、説教を聞くことも、祈ることも、信仰にとって決定的なこ とではなかったのでしょうか。 それでは、これらのことは全く無駄なことなのか。否、必要欠くべからざるものだと、今日の私たちに教えるため にこそ、この手順が取られるのではないでしょうか。 ▼エマオ途上に現れたイエスさまが語り掛けて来られること、聖書が読まれること、お祈り、説教そして聖餐、全 て礼拝のプログラムであるという点に、ご注目いただきたいと思います。これらは、聖餐を中心とする礼拝の進行 順序です。 19〜21節によれば、エマオへと向かった弟子たちは、既にイエスさまを預言者だと認識しています。言い換え れば、そのようなイエスさまとは既に出会っています。しかし、それは、彼らの救いにはなりません。キリスト・イエス との出会いを待たねばならなかったのです。 敢えて言うならば、史的イエスとの出会いが我々を救うのではありません。復活の主としてのイエスとの出会い によって、つまり、イエス・キリストとの出会いによって、我々は、初めて救いを見い出すことが出来るのです。 より約めて言いますと、イエスさまを知ることが出来るのは、学問でも修業でもありません。礼拝が、聖餐式 が、イエスさまと出会う場所です。礼拝の場で、それが見つからないと言って、他の場所に捜すのは、死人の中 に生きている人を捜す行為に過ぎません。 |