◆ 最初に、3節後半から4節を見ます。 … ある人々に命じなさい。異なる教えを説いたり、 4:作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと。 このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、 むしろ無意味な詮索を引き起こします。… 元禄の頃から、家系、家系図に対する関心が高まったそうです。世の中が平和で豊かになったからでしょう か。戦争がなくなりました。腕一本で出世する時代ではなくなり、門地出生家柄の方が物言う時代になったか らでしょうか。 また、江戸時代の初めですから、武士は勿論、商人だって、戦乱を潜り抜けた、悪く言えば、成り上がりが多 かったこともありますでしょう。 ◆ 成り上がった人には、系図など持たない人が大多数でしょう。系図がないだけではなく、自慢できるようなご 先祖などありません。そこで、系図が作られます。捏造です。ただし、捏造するにしても、歴史に通じていなくて は作れる筈はありません。そこで、元々は教養ある文化人で、戦乱の中で零落した人が、この家系図捏造 の、担い手となりました。 家系図の格が高くなると値段も張ったそうです。家系そのものを造り上げるために、貧しい公家や、石高は高 くなくとも由緒ある大名家などには、成り上がり大名家から、縁談が殺到したそうです。 源氏の家系で、殆ど唯一生き延びた大名である佐竹家などはモテモテだった、しかし、佐竹はこれを嫌ったの か、この縁談には応じなかったと聞きます。本当かどうかは知りませんが、秋田の人間は、このことを自慢気に語 ります。 ◆ 山本周五郎の『栄花物語』に、ある貧乏御家人が、家来筋だった田沼家を主家であったかのように、自分 の家系図を歪めて、田沼に売り込むという話が記されています。氏神様の名前さえ、田沼明神と変えてしまい ます。 この話が、今の大河ドラマに取り入れられているようです。間もなく、登場しそうです。 そもそも、成り上がり、 賄賂政治と批判されていた田沼政治に脚光を当て、善と悪とを真逆に描いたのは、山本周五郎です。オリジ ナルの歴史観なのか、その元になる本があるのかどうかは分かりません。しかし、手法は、『樅ノ木は残った』の 原田甲斐の場合と全く同じです。doukaasuha ◆ 3〜4節について、記されていること以上に詳しいことは分かりません。『栄花物語』の逸話だけで充分でしょ う。 この時代のローマは、決して平和ではありません。戦争が止むことはありません。しかし、戦乱は周辺部のこと で、あまりローマ市民の目には入りません。少なくとも実感がありません。ローマの経済は略奪経済です。戦争 で得た物資や奴隷がローマに流れ込みますから、ローマの市民権を持つ者にとっては、豊かで平和な時でし た。 意地悪く成金と言いましょうか。こういう人の関心は、文化芸術宗教に向かいます。但し、それで自分の格が 上がるような、文化芸術宗教に限定されます。 そのようなことは、産業革命後のイギリスでも、独立戦争、南北戦争後のアメリカでも起こりました。江戸時 代の初めだって同様かと思います。 ◆ 兎に角、パウロは、3〜4節について、『無意味な詮索』と決め付けています。パウロが『無意味な詮索』と 言うことについて、これ以上詳しく知る必要はないでしょう。 但し、『ある人々に命じなさい。』だけは注目しなくてはなりません。『ある人々』です。一部の人、聖書や教 会や信仰そのものよりも、別のことに関心を寄せる人です。こうした人にとっては、多分信仰さえも、自分の格を 高める教養のようなものでしかないのでしょう。明治、大正から昭和初期には、日本にも、日本の教会内に も、そんな人が確かに存在したようです。こういう人は、日露戦争の時に、第2次世界大戦の時に、教会・信 仰から離れて行きました。 日露戦争の時に、「キリスト教は戦争を否定していない。」と力説した、当時の大文化人、マスコミの指導者 だった人を、トルストイは、日記の中で、『あのチビで醜い日本人が』と、汚い言葉で罵っています。徳富蘇峰の ことに違いありません。 しかし、彼の弟、徳富蘆花は、あくまでもトルストイ的平和主義者で、ヤースナヤ・ポリャーナに詣でているくら いです。 ◆ トルストイは汚い言葉で蔑みましたが、日記の中です。私はロシア文学を学んだことはありませんので、それ 以上詳しくは知りません。知っていても話す資格はありません。 パウロは、『ある人々』と言いました。特定してはいません。 6節でも、このように言います。 … ある人々はこれらのものからそれて、無益な議論の中に迷い込みました。… 矢張り『ある人々』です。個人攻撃が目的ではないからでしょう。 個人を攻撃はしませんが、彼らの間違った信仰、そもそも信仰の動機については容赦ありません。 ◆ 7節です。 … 彼らは、自分の言っていることも主張している事柄についても理解していないのに、 律法の教師でありたいと思っています。… これは実力がないのに説教しているとか、教える程の学問がないのに、教師をしているという批判かも知れま せんが、それよりも、批判は『律法の教師でありたいと思って』いること、『律法の教師でありたい』その動機で す。 つまりは、偉くなりたいのです。偉くなりたいのなら、学んで経験を重ねて、実力を持つしかありません。しかし、 彼らは、それを端折って、兎に角、偉くなりたいのです。 否、これは根拠のない批判かも知れません。当時の反パウロの人には、ユダヤ教的教養の高い人が少なく なかったようです。 矢張り問題は、『律法の教師でありたい』こと、偉くなりたいこと、そのものです。 ◆ 過去何度も申しました。私も後期高齢者になりましたから、同じ話の繰り返しですが、お許し下さい。 私の座右の銘は、オスカー・ワイルドの言葉です。『虚言の衰退』と言う、奇妙な本の中の主人公の言葉で す。この本の中にある『自然は芸術を模倣する』という言葉の方が有名です。芸術至上主義のスローガンみた いな言葉です。 肝心な座右の銘はこうです。 『現代では、学ぶことを止めた人が、教え始めている。』 毒を含んだ言葉ですが、真理だと考えます。 本当は、学ぶ人だけが、教える資格を持ちます。学ぶことを止めた人は、教える資格はありません。学ぶこと を忘れた人は、教えることを止めた方がよろしいでしょう。 ◆ 白河教会時代の初期、未だ駆け出しの牧師だった時に、教会員のお医者さん宅を訪ねたら、こたつの上 に医学書を、それもドイツ語の原書を何冊も拡げていました。この人は、80歳を超えて、現役の医者でした。 私は何の考えもなく、「医学書を読むんですね。」と言いました。これは勿論、「そのお歳でも勉強するのです ね。」と感心し、賞賛したつもりでしが、この人は言いました。 「医者は医者の本を読むべ。牧師は牧師の本を読むべ。」 ギャフンです。それから暫くは、小説などは控え、専ら神学書を読みました。今は、元に戻ってしまったでしょう か。 ◆ 8節を読みます。 … しかし、わたしたちは、律法は正しく用いるならば 良いものであることを知っています。… 確かにその通りでしょう。律法そのものが悪なのではありません。このことは、法律の方が分かり易いでしょう。 法律が悪である筈がありません。しかし、往々にして、悪い者に利用されます。悪い者の武器となってしまってい ます。 良い人には、法律なんて要らないかも知れません。せいぜい、規則があれば事足りるでしょう。道徳・倫理で 充分でしょう。要るのは、悪いことをする人を規制するためです。悪事を抑止するためです。パウロも、律法は 悪事を働く人のためにあると断言しています。 ◆ 9〜10節。長いのですが、確認のためにも読みます。 … すなわち、次のことを知って用いれば良いものです。 律法は、正しい者のために与えられているのではなく、不法な者や不従順な者、 不信心な者や罪を犯す者、神を畏れぬ者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、 人を殺す者、 10:みだらな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、偽りを言う者、 偽証する者のために与えられ、そのほか、健全な教えに反することがあれば、 そのために与えられているのです。… 現代では抵抗を覚える方もあるかも知れませんが、殆どが当たり前のことです。 当たり前のことを、敢えて上げているのは、これとは違う主張をする人がいたからでしょう。もしかしたら、全部の 項目に、それぞれ反対者がいたかも知れません。 ◆ 当時の信仰者にとっては、当たり前のことです。パウロの考えでも当たり前のことです。一つ一つについて、注 釈を加える必要はありません。 この当たり前のことが、3〜4節の『異なる教え〜作り話や切りのない系図』の真逆のものです。『異なる教え 〜作り話や切りのない系図』は、イエスさまやパウロが説く信仰の教えとは、無関係のものです。しかし、こういう ことが大好きな人がいます。聖書の時代でも現代でも同じです。 そして、そのような、信仰的にはあまり意味をなさない無駄な教説、それどころか、信仰に反するような教説が 大好きな人が少なくありません。奇抜だから、面白いのでしょう。 ◆ 毎年、日本基督教団出版局だけで、単行本が三〇冊も出版されます。シリーズの注釈書もありますし、 定期刊行物もあります。この20年程は、全然売れません。1000部出たら大喜びです。デジタル化が進んで いるとか、本離れが著しいとか、いろんな言い訳があります。しかし、本当の理由は、面白くないからです。今日 でも、面白い本は、売れています。出版局でも工夫して、面白い本、新鮮味のある本の出版を心がけます が、全然効果はありません。 出版局の本は売れなくても仕方がないかも知れません。売れなくても良いかも知れません。信仰者に益する 本ならば、語り続けなくてはならない事柄が記されているならば。 ◆ 論文ですと、新しさがなくてはなりません。既に出ている論文や本と、殆ど同じ内容では、発表も、まして出 版も出来ません。ですから、著者は、何かしら新しさを出さなくてはなりません。それが学問の世界では当たり 前でしょうが、聖書の世界、信仰の世界に当て嵌まるでしょうか。まして、説教に当て嵌まるでしょうか。 ◆ また、パウロが列記していること、当たり前のことが、時代と共に変わって良いことなのでしょうか。 変わって良いのは、変わらなくてはならないのは、10節の『みだらな行いをする者、男色をする者』、この項目 だけでしょう。 しかし、『男色をする者』も、必ずしも、同性愛のことではないと考えます。当時のローマ世界では、同性同士 の恋愛が広く認められていたと思います。パウロは、それも嫌いだったかも知れませんが、パウロが否定している のは、あくまでも『男色』であり、性行為のことです。しかもそれは、『みだらな行いをする者』と並行して置かれて います。つまり、プラトニックな愛のことではありません。 江戸時代にも、同性愛はありました。同時に、男性による売春がありました。歌舞伎の世界では、それこそ 当たり前だったようです。若い役者が、お金持ちの女性や、男性にも、性を売っていたようです。パウロが批判し ているのは、そういう行為のことです。 ◆ 私たちも、時代と共に変わって良いことならば、あまり拘らない方が良いと思います。服装も髪型も変わりま す。それを評価する常識さえもが変わります。 私たちが拘るべきは、時代と共に変わらないこと、変わってはならないことでしょう。キリスト教書として売られて いる本の中には、イエスさまの十字架も復活も否定するものがあります。キリスト教に対する悪意に満ちた本さ えあります。どうしてなのか、そのような本の方が売れるようです。 私たちは神さまから何を委ねられているのか、11節に記されています。 … 今述べたことは、祝福に満ちた神の栄光の福音に一致しており、 わたしはその福音をゆだねられています。… 時代がどんなに変わろうとも、私たちは、私たちの教会に委ねられている福音を語り続けるだけです。私たち の教会は、宗教改革から生まれた教会です。宗教改革は、既存の教会に何か新しい教えを付け加えた教会 ではありません。パウロの時代、パウロの教義に帰ろうとした宗教運動です。聖書本来の教えに帰ろうとする教 会です。 |