日本基督教団 玉川平安教会

■2025年6月8日 説教映像

■説教題 「怒らず争わず」

■聖   書 テモテへの手紙一 2章8〜15節 


◇ あまりにもややこしい箇所です。この箇所だけ飛ばして読みたいと思う程ですが、それは、一個の人間の身
で、聖書言葉を評価するどころか、裁くことにさえなるでしょう。 問題を孕む箇所だからこそ、1節ずつ順に読
みます。


◇ 8節。

… だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、

 清い手を上げてどこででも祈ることです。…

 この箇所は問題ないでしょう。この教えに賛成出来ないという人も、皆無ではないかも知れませんが、多くの
人は賛同できます。ちょっとだけ注釈を付け加えれば、パウロがこのように教えなくてはならないほどに、当時の
教会には、興奮に身を任せて議論し、論争相手を口汚く罵ることが、横行していたと思われます。これは、ギリ
シャの文化であり、ユダヤも無縁ではありません。ギリシャでは論争術と言い、ユダヤでは争論術と呼ばれる、
戦いの論理学が進歩していました。

 ですから、『清い手を上げてどこででも祈る』とは、

人間を相手に議論したり、面罵したりではなく、その思いは、神に向けなさいと言うことでしょう。

 神さまに聞かれたら弾かし異様な言葉は使うべきではありません。


◇ もう一つ付け加えることがあります。ここでは、女には触れられていません。女性は、男ほど、論争に明け暮
れたり、知識をひけらかして、相手を罵倒するようなことはないからでしょうか。そのように決め付けることが、そも
そも差別だと言う人があります。その通りかも知れません。この頃は、8節の男を女に置き換えても、充分通用
するでしょう。

 差別と感じるならば、この箇所は、男を女に置き換えて呼んだらよろしいでしょう。


◇ 9節。

 … 同じように、婦人はつつましい身なりをし、

  慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、

  金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません。…

 これも時代の現実です。ローマは、地中海世界を席巻し、北は現代のイギリスから北欧諸国、東はインドに
まで迫る版図を持っていました。

 その地から、あらゆる宝物が集まります。真珠が特に人気が高かったようです。これを身に着けて誇らしげに振
る舞う女性が増えました。

 現代でも同じでしょう。食べる物に事欠くような貧しい人々の犠牲の上に、煌びやかな宝飾や衣装がありま
す。旧約聖書はこれを、随所で批判的に描いています。まして、パウロや初代教会は、聖なる貧しさに生きて
いました。宝飾などは、悪魔の衣装です。


◇ この箇所も、女性に限定して、贅沢や華美を戒めているのが差別的だと見えるなら、婦人を、婦人も男性
も、と置き換えたら良いでしょう。単に男性と置き換えた方が良いかも知れません。今は、男性も、化粧し、脱
毛し、衣服に拘る時代です。

 当時のローマ世界、まして教会では、化粧や衣服に拘る男性は少なかったと思います。 それが、『婦人はつ
つましい身なりをし』と勧められている理由、唯一の理由でしょう。 現代ならば、礼服やガウン、ストールなど外
面に拘る男性聖職者が批判されるかも知れません。まして、宝石をちりばめ、冠をいただく祭司など、パウロが
見たら、どのように思うでしょうか。


◇ 10節。

 … むしろ、善い業で身を飾るのが、

  神を敬うと公言する婦人にふさわしいことです。…

 これにも異論があるでしょうか。言う人が、実際にあります。

 この箇所こそ、婦人を、男性と置き換えて読むべきでしょう。『善い業で身を飾るのが、

 神を敬うと公言する人にふさわしいことです。』婦人の婦をとるだけで充分です。

 これにも異論があるでしょうか。言う人が、実際にあります。


◇ 11節。

 … 婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。…

 諄いのですが、ここも同様です。婦人を、男性と置き換えて読んで、何の支障もありません。それどころか、
置き換えた方が、ずっと通りが良く、理解出来ます。賛同できます。

 これにも異論があるでしょうか。言う人が、実際にあります。

 紛争華やかな時代には、牧師が説教すると、「ナンセンス」と怒号が上がり、その文言の一つ一つに、「反
対!」と声が上がりました。

 牧師が講壇、つまり神の座の側に立って、会衆は一段低い席で聞いていることが、ナンセンスだと言われまし
た。

 車座になって、誰もが自由に発言する礼拝が行われた教会さえあります。

 今はうんと下火になりましたが、無くなった訳ではありません。そのような考え方は残っています。


◇ 決して間違いではないかも知れません。諸宗教で、キリスト教でも、言葉を発するのは、祭司だけで、信者
は、一言もしゃべらないという宗教、キリスト教の派があります。

 ローマカソリックだって、原則はその通りです。

 信者が、自分の声で歌い、祈り、自分の考え方で聖書を読むのは、プロテスタントの一番の特徴です。

 ですから、あまりに規律を重んじて、シナリオ通りの仕方でしか礼拝を持つことが出来ないのは、反プロテスタン
トとさえ言えますでしょう。

 一方、「ナンセンス」と叫ぶのも、ナンセンスでしかありません。要は程度問題でしょう。どちらか片方に寄り過
ぎると、それは健全な教会とは言えません。


◇ 聖書、特にパウロの教えは、聞き、そして語る、つまり対話です。神さまとの対話です。礼拝は、そのような
性質を持っています。

 決して、牧師と信徒との対話ではありません。牧師も、信徒も、神さまと、聖書と対話します。それが祈りであ
り、礼拝です。

 極端にどちらかに偏ると、対話ではなくなります。何も考えず、何も疑わずに、聖書に聞き、説教に聞くのが良
いことではありません。それは対話ではありません。

 使徒言行録17章11節。

 … ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、

   非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。…

 この姿勢こそが、素直であり、敬虔であり、信仰的な態度です。

 一切疑わずに、隷従することが、素直、敬虔、信仰では必ずしもありません。勿論、「ナンセンス」と叫ぶの
は、何も聞かないことですから、素直、敬虔、信仰とはほど遠いことです。聞いて、考え、その結果、時には、反
発したりするかも知れません。それは、決して罪ではありません。


◇ 12節。

 … 婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。

   むしろ、静かにしているべきです。…

 ここも男と女を入れ替えたら理解出来るでしょうか。ちょっと無理かも知れません。差別的だと指摘されれば、
抗弁出来ません。男と女を入れ替えたとしても、大きな問題が残ります。

 私たちは、この言葉、この教えにどのように向かい合ったら良いのでしょうか。大いに躓きます。

 文字通りに読むべきだと主張するキリスト教会があります。アメリカ南部では主流の教会です。決して小さな
勢力ではありません。また、彼らを異端と退けることは出来ません。

 異端はむしろ、この言葉を無視したり、退けたりする考え方でしょう。「聖書には、間違ったことも書いてある。」
それどころか「聖書は、決して神の言葉、神の御旨ではない。」と言ったら、間違いなく異端です。

 どのように受け止めるのか、困惑します。

 

◇ 一先ずそのままにしまして、13節を読みます。

 … なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。…

 創世記に記された順番からすれば、この通りです。

 それがけしからんと言う人がいます。「あらゆる男は女から生まれたのに、その逆のことが書いてある聖書は間
違っている。」と言う人がいます。しかも、そんなことを言うは日本基督教団の女性信者です。牧師もいます。

 理屈としてはその方が正しいかも知れません。ますます困惑します。


◇ 行き詰まってしまいましたから、ここでちょっと脱線します。

 20年近く前のことです。教区の婦人委員会で話をさせられることになりました。しかも、女性差別に絡んだ話
です。随分、悩み準備して当日、最初にこのように言いました。

「聖書には差別的表現、表現のみならず差別意識があります。これは否定出来ません。」

ご婦人たちは、私がそんなことを言うとは思わないからびっくりしています。続けました。

「聖書は男性差別から始まっています。」もっとびっくりさせました。

「そうでしょう。創世記には、男は、土の塵で作られた。と書いてあります。土の塵、要するにゴミです。一方、女
は、男の骨と肉から造られた。つまり、上等の材料で造られた。と書いてあります。これは、酷い差別です。」

 ここから始まって、二年間、婦人委員会の方々と楽しく聖書を読みました。


◇ 先週の説教でも申しました。一つのことが、右から見れば左になります。左から見れば右になります。客観
的に右だとか左だとか言うことは、簡単ではありません。簡単に言ってはなりません。

 差別も同様です。差別はないと言えば嘘だし、それこそが差別でしょう。差別だと叫べば、差別を克服出来
る訳ではありません。自分の心の中にある差別意識を見、それを認めることが先ず大事なのでは無いでしょう
か。他人の差別意識を指摘しても、まして暴き出しても、解決には繋がりません。


◇ 14節。

 … しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、

   罪を犯してしまいました。…

 この記述にも不満を覚える人はありますでしょう。正当な不満かも知れません。『女はだまされて』は、聖書に
記されている事実でしょうが、男だって充分に欺されています。女は地上の生き物の中で最も知恵があり、狡
猾な蛇に欺されたのだから、仕方がないかも知れませんが、男は、女にいともたやすく欺されています。


◇ 15節。

 … しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、

   子を産むことによって救われます。…

 ここの箇所こそ、猛烈な反発を受ける言葉です。特に『子を産むことによって救われます。』には、「それでは、
子を産まない女は救われないのか。」と違和感を超えた反感を覚えるのが普通でしょう。

 私が一牧師の立場で、パウロを擁護することは出来ませんし、その必要もありません。しかし、パウロの言葉
尻を捉まえるのなら、こういう拘りも良いかも知れません。パウロは、決して『子を産むことによって〜のみ〜救わ
れます。』とは言っていません。「子を産まない女は救われない。」とも言っていません。


◇ 何しろ2000年前の言葉です。現代人には通用しない表現・言葉もあります。しかし、時代によって変わら
ない教えもあります。『信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば〜救われます。』、これは変わらないので
はないでしょうか。『信仰と愛と清さ』を否定してはなりませんし、『貞淑』も否定してはなりません。勿論、女も男
もです。

 これさえも否定したい人がいますが、それはもう、同じ信仰を持っている人とは言えません。

 逆に、この箇所も含めて、全て聖書に記されている通りで、疑ったり解釈したり、まして批判してはならないと
言う人もあります。そういう考え方、信仰があることも知っていますから、それも頭から否定してはならないのかも
知れませんが。ちょっと首を傾げます。

 そういう人は、聖書の律法の通りに、豚肉もウナギも、伊勢エビも食べないのでしょうか。アメリカ南部では、ロ
ブスターやナマズがご馳走だと聞きますが、彼らは退けるのでしょうか。日曜日だけではなく、土曜日の安息日
も守るのでしょうか。根本主義者の銀行は利息を取らないのでしょうか。彼らは、頭や顔にひげそりを当てない
のでしょうか。

 結局、聖書に記されているからではなく、自分の好みで発言しているだけではないでしょうか。

 何より、聖書と対話することを忘れているのではないでしょうか。


◇ 話が元の戻るかも知れません。大事なのは、男か女かではありません。男も女もです。ですから、男・女で
はなく、人と翻訳しても良いかも知れません。しかし、そんな面倒なことをしなくとも、それこそ、素直に聞けば、
パウロが何を言いたいのかは分かります。