日本基督教団 玉川平安教会

■2023年10月8日 説教映像

■説教題 「喜びと真心をもって」

■聖書   使徒言行録 2章43〜47節 

     

◆今日の箇所には、教会の、もしかしたら、教会のみならず人間社会の理想的な姿が描かれています。理想的な姿だと思いますが、人によっては、非現実的だと言うでしょうし、空想的理想主義と呼ぶでしょう。

 『ゲド戦記』のシリーズで、子どもたちにまで名前が知られるようになった、ル・グゥインの作品には、究極の平等社会が描き出されています。その話をしている暇はありませんが、聖書の時代から、完全な平等、全ての財産を皆が共有する理想社会が夢見られて来ました。


◆それは、現代においてこそ、単に理想であってはならない、現実問題になって来ています。様々な、生活に欠かすことが出来ない資源、何より、水、空気、食料、これが寡占されています。結局、それらを独り占めして、贅沢に暮らしている人間にとっても、深刻な未来を招いてしまうことが、次第に明らかになって来ました。

 地球温暖化、何がそれを招いたのかということは、今日では、子どもたちにとってさえ常識です。SDGs(Sustainable Development Goals)と言う言葉を、私は恥ずかしながら、ごく最近まで知りませんでした。孫に教えられました。


◆最初から大脱線かも知れませんが、童話『空気がなくなる日』を紹介したいと思います。

ある村に、ハーレー彗星が近づくと、5分間だけ、地球の空気がなくなるという噂が拡がります。自転車のチュ−ブに空気を溜めておけば、5分間をしのげるそうですが、村の子どもには、それを買うお金がありません。当日、地主の子ども一人が、空気を溜めたチュ−ブを担いで学校にやって来るという話です。

 これは、非現実的な話ではなくなって来ています。水が足りなくなり、一方では、海水面が上がって、陸地そのものが削られていく危機が迫っています。

 日本では、先進国でもごく例外的に水道水をそのままに飲める国ですが、その内には、浄水器を使わないと、非常識だと言われるようになるかも知れません。空気清浄機も当たり前になりつつあります。


◆今年は、異常なまでの猛暑が続きました。これが、常態化するのではないかと警告されています。猛暑を避けるためには、エアコンが欠かせません。年配者は温度に鈍感で、エアコンを付けたがらない、これが熱中症を招く、だから夜でもエアコンを付けなさい、室温は28度以下にしなさいと、テレビが呼び掛けていました。

 つい数年前までは、エアコンの温度は抑えめにしなさいと言っていたように思いますが、変わってしまいました。一方、このエアコンも温暖化の一要素だと指摘する人もあります。


◆環境問題を論ずる時間ではありませんし、私はその方面に明るい分けでもありません。ここまでに止めたいと思います。聖書そのものに帰ります。43節。

  … すべての人に恐れが生じた。

   使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。 …

 誕生したばかりの教会で、『不思議な業としるしが行われて』いました。病の人が癒やされたり、悪行を悔い改めて、真人間に立ち帰る人がありました。


◆そのような『不思議な業としるし』の中でも、他の何より、最も不思議なのが、44〜45節でしょう。

  … 44:信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、

  45:財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。 …

 初代教会で、奇跡的に病が癒やされることは、実際にあったかと思います。今日の医学者ならば、それを合理的に説明出来るかも知れません。聖書に描かれた病の中には、精神的な原因に基づくものが多かったようです。

 これは、互いに労り合い、愛し合う教会の中でなら、自然と癒やされるかも知れません。病院がないこの時代、本当の知識・技術を持った医者がいないこの時代、教会は、サナトリウム・ホスピタルの機能を果たしていたと考えられます。後の、修道院を見れば、それが分かります。もっと単純に、満足な栄養が採れなかった人は、教会で食卓に着くことが出来るだけで癒やされるでしょう。


◆本当に不思議なのは、44〜45節の出来事そのものです。もう一度読みます。

  … 44:信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、

  45:財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。 …

 こんなことが実現していたのです。最も非現実的に見えることが実現していました。これこそが奇跡でしょう。スプーンを曲げたとしても、それが何になるのか。それは奇跡ではありません。44・45節に描かれたことこそが奇跡です。

 この空想的理想主義としか見えないことを、現実にしようとした教会がありました。今日でもあります。中には、かなりの程度、これを実現している教会もあります。

 しかし、大半は、大半と言うのは、少し遠慮しての表現です。大部分と言った方が正確かも知れません。失敗します。失敗どころか、とんでもない事態を引き起こします。

 歴史に残るような、大事件、大惨事を引き起こしています。実例を挙げるまでもないでしょう。

 僅かな成功例が、今日のアーミッシュでありクゥエカーかと思います。その人々も、この世の人々の模範とはなり得ず、変人の集団と見られているのが現実です。


◆46節。

  … そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、

   喜びと真心をもって一緒に食事をし …

 彼らが44・45節に記されたようなことが出来たのは、それを可能にしたのは、46節です。一番簡単に言えば信仰です。

 ル・グゥインだけではありません。いろいろな作家や思想家が、平等を説き、財産の共有を説きますが、現実にはなりません。

 トルストイなどは、自分の家の農奴を解放し、私財を投じて、貧しい人々への施しをしましたが、大きな挫折を味わいます。これらの人々から感謝されることさえありません。

 『さらば我ら何をなすべきか』に詳しく記されています。

 使徒言行録の教会が、これを実現出来たのは、理想主義ではありません。信仰の故です。


◆一旦、話が飛びます。

 聖書には様々な奇跡物語が記されていますが、一つ一つを丁寧に読めば、こんな不思議が起こったぞ、という強調を持っている話は、あまりありません。

 新約聖書では特に、一つ一つの奇跡物語は、奇跡を強調してするのではなくて、もっと大きな意味を持っています。その奇跡物語の中でも、規模が大きいのは、つまり、関わった人の人数が多いのは、5000人のパンの奇跡です。

 

◆5000人もの人が、イエスさまに従い、その話に聞き入っていました。夜になりましたが、食べ物がありません。当時パン屋さんはありません。イエスさまは、持っている食べ物を皆に分け与えました。それは、パン5つと、魚2匹でした。5000人に足りる筈がありません。しかし、分けたら、皆が満腹し、パンの屑だけで、12の籠一杯になったと記されています。

 あり得ない奇跡です。これを合理的に説明しようする諸説があります。皆は、イエスさまの話を聞いて胸が一杯になっていて、お腹も一杯になった。 … しかし、胸とお腹とは別物です。何より、皆が空腹だったという前提で話が始まっています。

 弁当を隠し持っていた人が多かった。後でこっそり食べようと思っていたが、小さい子どもが、パン5つと、魚2匹、持っているもの全てを差し出したのを見て、恥ずかしく思い、回ってきたパンを取るどころか、その籠に自分持っていたパンを入れた。 … 面白い解釈ではありますが、子どもがパンを差し出したと書いてあるのは、4つの福音書の中でヨハネ福音書だけです。また、食べ物がなかったという前提とは違います。


◆答えを申します。これはやはり奇跡物語です。合理的に謎解きをしようとするのは間違いです。もっと単純に読み、考えなくてはなりません。

 約めれば、こういう話です。普通のパンならば、分かち合う人数が増えれば、一人ひとりの取り分は減ります。人数が倍になれば、取り分は半分です。

 しかし、分かち合う人数が増えたら、一人ひとりの取り分が増えました。これが、奇跡物語です。

 世の中には、そうしたことが実際に存在します。友情はその最たるものです。スポーツなどは、部屋の中で一人観戦しているよりも、仲間とわいわいやりながら、観る方が一段と興が乗ります。友情愛情、そのような奇跡を私たちは目の当たりにしているのです。


◆信仰こそが、その極みです。だからこそ、私たちは、じっと部屋に閉じこもって祈っているのではなくて、礼拝に出て来ます。礼拝出席人数が多くなったから、一人ひとりの信仰の取り分が減ることはありません。神さまの言葉を分かち合えば、自分の分が減るなどということはありません。

 マタイ福音書には、本当に祈りたければ、部屋に閉じ籠もって一人で祈りなさいと書いてあります。しかし、これは礼拝には当て嵌まりません。詩篇では、讃美せよと繰り返されます。皆が声を揃えて、精一杯の声を上げて讃美しなさいと言います。

 つまり、44・45節に描かれていることは、単に財産を共有したということではありません。財産よりももっと大事なものを共有していました。信仰を共有していました。

 

◆47節前半。

  … 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。 …

 これは、文脈から切り離しても、とても大切なことだと考えます。

  … 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。 …

 この逆であってはなりません。

 無数と言っても大げさではないキリスト教の異端があります。何が異端なのか、私たちは、何を持って正統だと言い切れるのか、明確な基準はありません。互いに自分たちの教えが正しいと信じています。神学論争を始めたら、終わりはないでしょう。


◆47節前半は、異端と正統を分ける、一つの物差しです。

  … 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。 …

 今日、世間を騒がせる異端教派は、民衆全体から嫌悪を持たれています。それだけの悪いことをしているなら、当然の報いです。悪いことはしていなくとも、警戒されたり、気味悪がられたりするのは、やはり問題があるのでしょう。

 オウム真理教やら、統一原理、物見の塔のために、キリスト教そのものが世間から、冷ややかな眼で観られるようになりました。これでは、使徒言行録にもとります。


◆『民衆全体から好意を寄せられた』から、その教えが正しいとは限りませんし、楽しい魅力溢れる讃美をしていたから正しいとは限りません。異端教会こそ、工夫して、若い人に麗しく見える姿を拵えています。讃美に溢れています。

 統一原理の若者が、インチキ募金から帰ってきます。この猛暑の元では、辛い労働です。体も心も疲れ果てるでしょう。そうして帰ってくると、出迎える者が、帰ってきた者を、讃美の言葉で迎えます。そして、明日またインチキ募金に出掛ける元気を貰います。これを、彼らの言葉で讃美のシャワーと言います。


◆教会が、こんな異端の業に負けていてはなりません。教会にこそ、讃美が必要です。お互いに対する労り、優しさが必要です。支え合うことが必要です。讃美のシャワーです。

 そもそも、47節の讃美、そうして今日の箇所の直前にある業が、お互いに対する労り、優しさに結び付いているのです。42節。

  … 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。 … 異端のインチキに負けているようでは情けないことです。

 教会にこそ、礼拝にこそ、それが存在するのですから。


◆玉川平安教会は、創立87周年を迎えました。創立時の吉岡誠明先生や日野原善輔先生がいたからこそですが、何より、教会の中に、本当の讃美、お互いに対する労り、優しさがあったからのことでしょう。これが失われてはなりません。

 創立87周年、教会が87歳になったと言う人もあります。その通りでしょう。87歳ともなれば、あちこち傷みが出たり、命の危機に瀕するようなこともあったでしょう。しかし、その試練も通り過ぎて来ました。ユダヤ人のように過ぎ越して来ました。


◆しかし、教会の87歳は、後期高齢者ではありません。2000年の歴史と並べて観れば、まだまだ、青年期どころか、少年期、幼年期かも知れません。

 私などは、子どもから、ややもすれば孫から、スマホの使い方を教えて貰うような様ですが、若ければ勝ちではありません。どうしても、時間を掛けなければ、年齢を経なければ分からないこと、得られないこともあります。教会が少年期、青年期を迎えられるように、務めたいし、それまで、責任的に私たちの役割を担いたいものです。