日本基督教団 玉川平安教会

■2023年6月18日 説教映像

■説教題 「何をして欲しいのか」

■聖書   マタイによる福音書 20章29〜34節 

       

◆いつものように、1節ずつ順に読みたいと思いますが、その前に、前提としたいことがあります。前提とすべき箇所を上げます。

 先ずは、今日の箇所である20章32節。

  … イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。 …

 『何をしてほしいのか』です。

 次は、20章21節。

  … イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。

   「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、

   もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」 …

 『何が望みか』です。

 その次は、19章16節と20節。

  … さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。

   「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」 …

 『どんな〜ことをすればよいのでしょうか』です。

  … そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。

    まだ何か欠けているでしょうか。」 …

 『何か欠けているでしょうか』

 全て、「何をなすべきか」という意味の言葉です。

 19〜20章は、全て、「何をなすべきか」という主題の元に記されています。


◆先週読んだ20章1〜16節も、例外ではありません。「何をなすべきか」と言う言葉はありませんが、この箇所も紛れなく「何をなすべきか」です。

 マルコ福音書ですと、この主題がより明確です。

 順番に、

 『何をすればよろしいでしょうか』

 『何をして欲しいのか』

 『何をして欲しいのか』

 となっています。

 これ全てマルコ10章です。

 マルコの方が、明確ですが、マタイ福音書も、「何をなすべきか」「何を求めるのか」という主題の元に、出来事が描かれています。


◆29節から順に読みます。

  … 一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。 …

 『大勢の群衆が』着いて来ました。一人ひとりの思いは違うかも知れませんが、誰もが「何をなすべきか」「何が貰えるのか」と考えていたことでしょう。「何をなすべきか」と言うと高尚な問で、「何が貰えるのか」となると低次元のことと聞こえますが、中身は大して変わらないでしょう。

 「何をなすべきか」であれ、「何が貰えるのか」であれ、何かしら自分にはないものを求めて、人はイエスさまの元へのやって来ます。

 これは、現代だって同じことでしょう。


◆この時代、イエスさまに従った人、特に『群衆』と表現されている人々は、貧しく、その日の生活のあてもないような人々だったと考えられています。少なくともそのような人が多かったと考えられています。

 現代では、そのような人は教会にはやって来ないかも知れません。逆に、貧しい人には、そんな余裕はないかも知れません。

 現代では、「如何に生くべきか」、「何をなすべきか」、「何かを学びたい」と考えて、教会を覗いて見る人が圧倒的に多いと思います。そうして、「何もないな」と、去って行くかも知れません。

 しかし、高尚と見える問であれ、『何が貰えるのか』であれ、大した違いはありません。

 19章27節を読みます。

  … すると、ペトロがイエスに言った。

   「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。

   では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」 …

 ペトロの問は、高尚なものでしょうか、それとも低次元な欲でしょうか。同じことです。


◆20章30節。

  … そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて …

 『道端に座っていた』とは、乞食をしていたという意味に違いありません。マルコ福音書では、『二人の盲人が道端に座って乞食をしていた』とはっきり記しています。今日では、乞食という言葉は死語だし、不快語かも知れません。しかし、マタイはそのような配慮で、乞食と明確に記さなかったのではありません。『道端に座っていた』で充分に分かるから、諄くなるのを避けたのでしょう。

 この違いは大したことではありません。肝心なことは、『イエスがお通りと聞いて』の方です。つまり、たまたまです。二人の盲人は、イエスさまを待っていたのではありません。イエスさまを待って『道端に座っていた』のではありません。たまたまです。マルコ福音書は、『二人の盲人が道端に座って乞食をしていた』と諄いとも聞こえる表現を取りましたが、それは、イエスさまを待って『道端に座っていた』のではないことを強調したかったのではないかと考えます。

 昔は、マルコ福音書は、文章表現が雑だと見做されていましたが、そんなことはありません。むしろ、1行1行、一字一句、計算され、表現されているのがマルコ福音書だととと、私は考えます。

 

◆20章30節後半。

  … 「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。 …

 『わたしたち』ですし、31節では『二人はますます』ですから、二人一緒に『叫んだ』ことになります。声を揃えて、二人一緒に『叫んだ』ことになります。

 不思議な表現です。マルコ福音書では一人です。『ティマイの子で、バルティマイという盲人が』となっています。

 何故この辺りで、マタイとマルコとに相違があるのかは、分かりません。元の資料が違うのでしょう。元の資料は口伝でしょうから、そのくらいの違いは起こります。

 しかし、マタイ福音書がマルコ福音書を知っていたという前提に立てば、敢えて、マタイがマルコに合わせなかったのは、二人一緒に『叫んだ』ことを強調したかったのかも知れません。

 ユダヤ教の律法では、一人の証言では効力がなく、二人の証人が必要です。その考え方が、ここに援用されたのではないでしょうか。二人一緒に『叫んだ』、つまり、解釈が分かれるような証言ではありません。


◆二人一緒に『叫んだ』内容は、『主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください』です。『主よ、ダビデの子よ』は、一番短い信仰告白とも言えます。

 キリスト者は、祈る時に、神さまに呼び掛けます。私は「主イエス・キリストの父なる神さま」と言いますが、「恵に富みたもう」と言う人も、「天の父なる神さま」と呼び掛ける人もいます。それぞれ、単なる呼びかけではなく、呼びかけが、既に信仰告白です。

 『主よ、ダビデの子よ』、一番短い信仰告白だからこそ、二人一緒に『叫んだ』ことに意味があるのだろうと考えます。

 呼びかけの言葉、呼び掛ける前提となる信仰告白の言葉を取り除けば、中身の中身は『わたしたちを憐れんでください』です。これが、彼らの願いであり、祈りです。


◆31節。

  … 群衆は叱りつけて黙らせようとしたが …

 不思議なと言いますか、不可解なことです。例えば、マタイ福音書19章15節。

  … そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、

    人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。 …

 弟子たちが叱ったのなら分かります。弟子たちは、秩序を守るために、そうしたのでしょう。

 ここでは『群衆は叱りつけて黙らせようとした』と記されています。マルコでも、『多くの人が叱りつけて黙らせようとした』とあります。

 何故でしょう。


◆あまり細かい説明をしても煩雑ですので、結論を言います。

 『群衆』だからです。既に申しましたように、その日の暮らしにも困るような、難民にも等しい人々だったと思われます。自分が何を求めているのかも良く分からずに、群がっている『群衆』だからです。

 そのような惨めな群衆、オクロスです。オクロクラシー・衆愚政治という言葉の語源のオクロス・群衆です。日本語では烏合の衆という言葉がぴったりでしょう。

 そこに二人の乞食が、声を揃えて『主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください』と叫んだのです。これは、本来は、この群衆が叫ぶべき言葉です。しかし、声を揃えることは出来ません。思いを合わせることは出来ません。それが烏合の衆・オクロスです。

 

◆彼らは、声を揃えて叫んだ、祈った二人の乞食を、『黙らせようとし』ます。

 往々見られる現実です。貧しい者は、より貧しい者を労ることが出来ません。むしろ嫌悪します。自分の惨めな姿を重ねて見るからです。むしろ、違いを見たいのに、自分の姿を見てしまい、嫌悪します。

 本当は、群衆こそ、『主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください』と叫んだら良かったのです。二人の乞食と声を合わせたら良かったのです。


◆31節後半。

  … 二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」

   と叫んだ。 …

 彼らの声は、彼らの祈りは、群衆の妨げによって飲み込まれることはありません。真剣だから、信仰だからです。

 

◆多くの人は、たまたま、教会に出逢います。聖書に出逢います。「主よ」と呼び掛けたくなる信仰が芽生えます。しかし、残念ながら、この声はかき消されることが多いようです。彼の周囲に、『黙らせようと』する人がいます。妨げるものが存在します。

 本当は、『わたしたちを憐れんでください』と叫びたくなるような、悩みや、苦痛や、困難があるのに、そのような人こそ、『憐れんでください』と叫ぶことをしません。『憐れんでください』と叫ぶのを、むしろ恐れます。

 そして『憐れんでください』と叫んでいる人の声を遮ろうとします。

 本当は苦しいからこそです。助けを求めたいからこそです。却って、自分は黙り込み、他の人の叫びの声を押さえ込もうとします。


◆32節。

  … イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。 …

 群衆にかき消されそうな声を聞いて下さるのがイエスさまです。イエスさまは、今、エルサレムの都に上ろうとしています。その途中の出来事です。十字架への道を歩いている途上です。しかし、イエスさまは『立ち止まり、二人を呼んで』下さいます。

 そして問い返されました。『何をしてほしいのか』と。

 この方が、私たちが信じるキリストです。『何をしてほしいのか』と、聞いて下さる方です。


◆33節。

  … 二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。 …

 ここでも、二人は声を揃えて答えました。願い、祈りました。二人の悩みは同じものでした。同じ悩みを持つ者が、同じ願いを持つ者が、だからこそ、声を揃えたのです。

 私たちは、毎週の礼拝で、声を揃えて主の祈りを祈ります。声を揃えて讃美歌を歌います。しかし、その時に、本当に心が合わさっているのかが、問われます。

 『目を開けていただきたいのです』くらいに真剣な、深刻な思いがなければ、人は心を合わせることが出来ないのかも知れません。

 逆に言えば、『目を開けていただきたいのです』に相当するような願い・祈りを持っていることこそが信仰でしょう。但し、これは、『目を開けて』「棘を抜いて」「お金が儲かるように」という次元のことではありません。

 やはり『わたしたちを憐れんでください』です。「わたしたちの世界を憐れんでください」であり、「わたしたちの時代を憐れんでください」です。

 このような祈り、貧しい者のための祈り、戦火に追われる子どもたちへの祈りを、『目を開けていただきたいのです』という真剣さで祈ることが出来ているのかが、問われています。