日本基督教団 玉川平安教会

■2023年9月10日 説教映像

■説教題 「指1本貸そうともしない人」

■聖書   マタイによる福音書 23章1〜14節 

     

◆ファリサイ派の人々について、随分と辛辣な批判が述べられています。

 2節から3節の前半まで読みます。

  … 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。

 3:だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。 …

 『モーセの座』についてあまり詳しい話をしておりますと、本筋に入れなくなりますので、ごく大雑把に申します。

 イエスさまは、『ファリサイ派の人々』が『言うことは、すべて行い、また守りなさい』と勧めます。つまり、彼らの権威を認めています。また、その内容も肯定しています。

 

◆しかしながら、3節後半。

  … しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。

 言うだけで、実行しないからである。 …

 辛辣と言いましたのはこの点です。簡単に言えば、口先だけで、実践がないという批判です。

 ファリサイ派を弁護する必要はないでしょうが、ものの本を見ますと、彼らはなかなか福祉の業を実践しています。例えば、『思い皮膚の病』に罹った人、これがハンセン氏病かどうかは議論があるようですが、とにかく恐れられ、嫌われた『思い皮膚の病』に罹った人のために、看護したり、住まいや食事を提供したりという実践をしています。

 『言うだけで、実行しない』という批判には、反論があるでしょう。


◆同じ趣旨の批判が4節に続いています。

  … 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、

 自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。 …

 ここでも実践がないと言う批判を受けています。それと共に、『背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せる』と言われています。

 この言葉が鍵だと考えます。

 ファリサイ派は、『背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せる』、これが一番の問題なのでしょう。


◆『律法学者たちやファリサイ派』とは、聖書と言うよりも律法の専門家です。これを研究し、人々に説き教え、そして自らも実践する人たちです。

 なるべく簡単に説明したいと思います。

 律法、特に申命記が発見されて以来、これを元にして国家を改革しようという運動が起こりました。最初はヨシア王の指導による宗教改革、これがバビロン捕囚期を経て、何百年も後の、『律法学者たちやファリサイ派』に引き継がれて行きます。

 その間に、ユダヤの国は滅ぼされ、また再建され、再び外国軍に占領されという歴史を繰り返します。ユダヤ教の中心である祭儀も全く執行出来ない時がありました。エルサレム神殿そのものが奪われました。


◆つまり、ユダヤ人には、律法しか信仰の拠り所、術がなくなりました。それに重ねて、ユダヤ人の厳密に物事を考える性格があります。

 多様化する日常の様々な諸問題に、律法だけでは対応しきれないことが出て来ます。結果、律法の解釈であり、補完であるタルムードが記され、更にその注解書が現れます。だんだんだんだん、律法の規定は詳細になり、ユダヤ人の日常生活の一挙手一頭足まで規制し、縛り上げるものになっていきます。

 要は、だんだん細かくなり、だんだん厳しくなっていきました。

 それが『背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せる』と言う意味です。


◆『自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない』とは、必ずしも、自分たちは実践していないという意味ではなく、人々は実践できないだろうという意味です。実践できない非現実的なことを、説き、強い、実践できているのは自分たちだけだと威張っているという批判です。

 その批判が5節以下に繋がっていきます。


◆ … そのすることは、すべて人に見せるためである。

  聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。 …

 『聖句の入った小箱』とは、申命記6章に由来します。4〜5節。

  … 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。

  あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、

  あなたの神、主を愛しなさい。 …

 この言葉この教えを実践するために、ユダヤ人は、この聖句を記した紙を小箱に入れて、常に携帯します。更に家の戸口に、この小箱を据え付けます。そこを出入りする度に、大事な言葉を見仰ぐことになるという意味合いです。

 この小箱は、現代のイスラエルにもあり、ホテルの各室にも据え付けられています。

 大事にしたいのは分かりますが、形だけです。形骸化とも言えましょう。


◆この小箱を、大きくし、装飾を付け、自分は、他の人よりも、大事な言葉、『イスラエルよ聞け』と言う言葉を厳密に守っていると見せたいのが、『律法学者たちやファリサイ派』だと批判しています。

 『衣服の房を長くしたりする』のも、同じ見栄、はったりです。

 詳細に話すのは失礼だし憚られますが、ちょっとだけお話しします。

 ある小さな神学校の卒業式に列席したことがありました。その時の立場上、お祝いを申し上げる必要がありました。

 卒業生は僅かに4人、5人だったかも知れません。

 しかし、式執行のために、6人もの牧師が壇上にいて、7人だったかも知れません。互いにぶつかりそうです。彼らは、全員、キンキラキンのガウンを着ています。私が着ているガウンは、ナオミという店で取り扱っている品の内、下から2番目に廉いものですが、彼らのものは上等です。そして、飾りの線が一杯入っています。線は、学位を表します。

 まるで勲章を服一杯に溢れる程に付けている軍人みたいです。私は、そんなことを考えた瞬間、笑いを堪えるのに必死でした。どんな祝辞を申し上げたか、かけらも覚えていません。


◆6〜7節。

  … 宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、

  7:また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。 …

 全然別の話に移ったようで、同じ話です。

 実践を伴っているかどうかよりも、上辺、見てくれに拘っていることが批判の対象です。 『宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み』、こういう人がいます。出しゃばりなのでしょうか。尊大なのでしょうか。しかし、こういう人の方が貫禄があると見做される場合が多いようです。肩書き、名誉職が大好きです。そして、こういう人は、自分では何もしません。自分で動くのは小者です。私なんかは小者です。


◆赤十字社を創設し、最初のノーベル平和賞を受賞したアンリ・デュナンのことが、中学校の教科書に載っていました。何しろ大昔のことですから、正確な記憶ではありません。創立総会の時に、デュナンは壇上にはいなくて、書記として事務職の席にいたという話です。詳細も事実関係も分かりませんが、このような話が教科書に載っていたという、この事実が尊いように思います。


◆全く逆の話があります。敢えて詳細は申しません。ある町に、全国でも注目されるような、建物が出来ました。所謂箱物です。新しい市長の公約でした。この落成式の時に、恒例通りに業者などに感謝状・記念品を贈呈します。

 市長は、式次第にはないハプニングと言いますか、パフォーマンスを行いました。この際に、本当の功績はこの人たちにあると言い、裏方として働いていた市職員やいろんな人を壇上に上げ、市長の方が、これらの人々に感謝したのです。

 これは大変な美談となって、大いにマスコミが取り上げました。市長は、後に、大いに出世し、国会議員にも、都知事候補にもなりました。知事選では落選しましたが。

 実際は、ハプニングではなく、事前に市長が司会者に指示して、このことは予定の行動でした。それが受ける、マスコミに取り上げられると言う計算の下だったのです。

 何故、そんなことを私が知っているかと申しますと、この司会者が、教会員だったからです。彼は嘆き、憤慨していました。この話が真実だと言う証人もいます。私はたまたま、この地のマスコミ関係の人の、何人とも、親しい関係がありました。この人たちは、真実を知っていました。しかし、中央は、真実よりも、インチキパフォーマンスの方が記事になると判断したのです。


◆8節。

  … だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。

  あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。 …

 牧師を先生と呼ぶのは適切か不適切かという話はややこしいので、今日は省きます。肝心なことは、教会員の中に上下関係はないということです。世間での立場や身分を教会に持ち込んではならないという点です。

 多分、初代教会にも、このような現実があったのでしょう。初代教会だからこそ、あったのでしょう。教会員には貴族も、ローマの副皇帝の夫人もいました。そして、奴隷もいました。

 そのような現実の中での言葉です。『あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ』。簡単な軽い言葉ではありません。実に重みを持った言葉なのです。


◆9〜10節は、同趣旨でしょうから、省略します。11節。

  … あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。 …

 現実に、当時の教会には身分的に偉い人がいました。これらの人に向かって、『仕える者になりなさい』と言っているのです。勿論これはイエスさまの言葉ですが、マタイの教会の現実の中で、ここに記されています。


◆何度もお話しする白河教会の体験です。

 教会員の中に、知事の首さえすげ替えられると言われていたお医者さんがいました。

 この人は、「神さまは何時まででも待ってくれるが、患者は待ったなしだ」と言って、あまり礼拝には出ませんでした。私は、「それでは示しが付かない、他の教会員の手本となって下さい。」とお願いしましたら、月1〜2回出席するようになりました。

 この人がやって来ると、必ず、玄関にスリッパを出し、揃えます。

 この人は、15人きょうだいの長男で、尋常小学校を終えると、郵便局の小僧さんとして働きました。そして下宿代を浮かすために、教会に夜番として住み込みました。そこで、信仰を与えられ、教会員の銀行家にその能力を認められ、中学、医学校の学費を出して貰い、医者としても、政治家の後援者としても大物になりました。

 その出発点を忘れずに、80歳になっても、教会の下足当番を務めたのです。

 この人のポケットマネーで、大学に学んだ牧師の子弟は、南南もいます。全く身寄りのない当時の孤児院の子どもで、兄弟で東大に進んだ人もいます。


◆12節。

  … だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。 … これは、何度も体験しましたが、実例を挙げません。上げるまでもないかも知れません。

 その時は横柄に振る舞い、大いに誇らしい思いをしても、威張った結果は、嫌われ、馬鹿にされ、失脚の原因を自ら作っています。そんな人が実際にいます。


◆13節。

  … 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。

   人々の前で天の国を閉ざすからだ。

  自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。 …

 22章で語られていたように、偽善者は、神の国を求めてはいません。もっと大事なものがあります。名声や財産の方が大事なのです。

 このような人は、14節に描かれたような姿をしています。

  … あなたたち偽善者は不幸だ。

   やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。

  だからあなたたちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。 …


◆信仰の熱心から、他の人の信仰姿勢にやかましいのは、間違ったことではないかも知れません。しかし、そのような人は、それが全く自分自身に跳ね返ってくることを忘れてはなりません。天国に行ってみたら、そこには人間はいなくて、信仰者の耳と、牧師の口だけがあったという笑い話があります。これは笑える話ですが、笑えない話もあります。

 天国に入った教会員が、やがてやって来るだろう牧師を待っていますが、何時まで待ってもやって来ないという話です。 … これは笑えません。