日本基督教団 玉川平安教会

■2023年9月17日 説教映像

■説教題 「人間は複雑な考え方をしたがる」

■聖書   コへレトの言葉 7章15〜29節 

     

◆29節を先に読みます。

  … ただし見よ、見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが

   人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。 …

 『人間は複雑な考え方を』する、ではなく、『人間は複雑な考え方をしたがる』と記されています。その通りだと思います。複雑に考え、こねくり回す方が、一段高尚なような気がします。なるべく単純に分かり易く説明することよりも、ややこしい話をして相手を煙に巻き、うならせる方を好みます。

 などと考えたり、言ったりしていることが、既に29節とは違います。

 29節に倣って、なるべく、いじくらないで、そのままに、単純に読みたいと思います。


◆15節。

  … この空しい人生の日々に わたしはすべてを見極めた。

  善人がその善のゆえに滅びることもあり

  悪人がその悪のゆえに長らえることもある。 …

 これは、真に残念なことに、世の現実です。誰もが、これを見聞きし、体験しています。誰でもが知っている現実です。否定したいけれども出来ない、現実です。

 特にこの頃は、酷い不正が世に蔓延っているように感じられてなりません。政治を論ずる時ではありませんから、詳しくは申しませんが、内外の政治家には、ただただ、不信感を覚えるだけです。

 「そんなことはない、なんだかんだと言っても、正直者は報われる。」と言う人は、何とも羨ましい恵まれた人間関係を与えられ、希有な幸福の中に生きて来た人でしょうか。

 そんな人は、一〇〇〇〇人の中に一人いるでしょうか。100万人に一人、もっと少ないかも知れません。


◆16〜17節を読みます。

  … 16:善人すぎるな、賢すぎるな/どうして滅びてよかろう。

  17:悪事をすごすな、愚かすぎるな/どうして時も来ないのに死んでよかろう。 …  これも、単純に読めば、中庸と言うことでしょう。

 『人間は複雑な考え方をしたがる』ですから、複雑なことは考えない、複雑なことは言わないで読めば、中庸です。複雑なこととは、何故中庸の教えが聖書の中に存在するのか、それは聖書の中心的なメッセージと合致するのかと、考えることです。考えないことにしましょう。そうすれば、明らかに中庸の勧めです。

 一言だけ説明しますと、コヘレト書が記された時代は、ギリシャ哲学の影響で、中庸が流行の思想だったようです。聖書はあまり中庸という印象はありません。だから却って、中庸が新鮮な思想だったのでしょうか。


◆ジェームズ・ヒルトンに『失われた地平線』という小説があります。シャングリ・ラというチベットが舞台かなと思わせる地に彷徨い入ったイギリス人が主人公です。彼は、その地を治める宗教、その指導者に出逢います。ストーリーは省略しまして、この宗教の教えは中庸です。ラマ教がモデルになっているようです。

 この中庸の教えは、徹底していまして、過激なほどに徹底していまして、中庸の教えさえも、あまり信じ過ぎてはならないと言う程です。


◆18節を読みます。

  … 一つのことをつかむのはよいが/ほかのことからも手を放してはいけない。

   神を畏れ敬えば/どちらをも成し遂げることができる。 …

 これは、「二兎を追う者一兎をも得ず」の逆です。ここでは、一兎に拘りすぎてはならないと言っています。むしろ、二兎を追うくらいが丁度良いでしょうか。

 この頃は、一つの学問に集中するのではなく、出来れば二つの学問を修めて、その二つの兼ね合いで、研究を進めたり、実践したりすることが提唱されています。

 「二兎を追う者一兎をも得ず」は、大変説得力のある教えで、長い間、全き真理と受け止められて来ましたが、最近はそうでもないようです。

 信仰か科学か、科学か芸術か、そのような対立は乗り越えられるべきものなのかも知れません。政治と福祉はどうでしょうか。 … ややこしい話は止めます。


◆19節。

  … 知恵は賢者を力づけて/町にいる十人の権力者よりも強くする。 …

 ここは、前後の繋がりが良く分かりません。『十人の権力者』とは、デカポリス、つまり、ギリシャが建てた10の町を指すという解釈もあるようです。デカとはギリシャ語て10、ポリスは町です。が、深く考えても仕方がないようです。

 それこそ、単純に、知恵は権力に勝ると取ればよろしいでしょう。

 中庸とは、知恵・知識が下敷きになっています。当然でしょう。知識・経験が不十分だからこそ、極端に走ります。自分の知識体験が絶対で、他にはないと考えるのは、要するに、知識不足、経験不作に過ぎません。

 昔のように、信仰を理由に科学を否定し、科学を学ぶこと自体を悪と見做し、更には、医学的治療を拒むと言うのは、本当の信仰でしょうか。幸い、これは50年前100年前の信仰で、今そんなことを言う人は、殆どありません。しかし、皆無でもありません。


◆20〜21節。

  … 20:善のみ行って罪を犯さないような人間は/この地上にはいない。

  21:人の言うことをいちいち気にするな。

   そうすれば、僕があなたを呪っても/聞き流していられる。 …

 これも中庸でしょう。中庸の根拠と、利点でしょうか。

 いろいろな体験の中には、悪事もありますでしょう。悪事は大げさとしても、失敗や、思わず他人を傷付けてしまったこと、誰にも経験があります。その経験があれば、他の人、若い人に、寛容になれる筈です。寛容になれないのは、その人が完璧で、落ち度がないからではありません。独りよがりなだけでしょう。傲慢なだけでしょう。


◆『僕があなたを呪っても』

 これは聞き逃してはならないようにも思いますが、コヘレトは、聞き逃す方が良いと言っています。『人の言うことをいちいち気にするな』と言っています。

 これが中庸の根拠でしょう。

 中庸とは、何事についても、中間を取る、良い塩梅に運ぶという意味ではありません。誰かの意見を絶対としないという意味です。そして、自分の考えを絶対としないという意味です。

 その意味で、18節に戻りますが、

  … 神を畏れ敬えば/どちらをも成し遂げることができる。 … 誰かを或いは自分を絶対とするのではなく、神に聞くのが、本当の意味での、中庸でしょう。


◆22節。

  … あなた自身も何度となく他人を呪ったことを

  あなたの心はよく知っているはずだ。 …

 その通りでしょう。人が犯した心の罪は、その人の心が一番良く知っています。

 知らないとしたら、この人は、余程、ものを知らない人か、善悪を知らない人か、それとも、自分の心にさえも嘘をつける人でしょう。これも、中庸の根拠です。

 自分の欠点、失敗こそが、罪こそが、他の人に寛容になれる根拠です。


◆この思想は、新約聖書に通じるものがあると思います。

 最もはっきりしてるのは、ヨハネでしょうか。9章41節。

  … イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。

   しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。

  だから、あなたたちの罪は残る。 …

 人は罪を犯す存在です。本当に怖いのは、その罪を認めないこと、罪はないと言い張ることです。その結果、他人の罪や欠点は指摘、弾劾するけれども、自分の非は認めません。


◆脱線かも知れませんが、この話をしたいと思います。いろいろな機会に何度もしています。人間の体には二つの袋があるそうです。一つは胃袋で、いろんな物が入り込みますが、消化吸収されて、余分なものは排泄されます。

 もう一つの袋にも、いろいろと入り込みますが、なかなか消化は出来ません。だんだんたまって、一杯になり、重くなります。人は、年齢を経ますと、この重い袋を引きずって生きて行かなくてはなりません。重い袋とは、心のことです。

 ギリシャ語の重いと、栄光は同じ語源を持ちます。つまり、人生の労苦その結果の重荷は、そのまま、その人の人生の輝きです。心の袋が重くない人、軽い人は、輝きもありません。

 体が重いことは、健康に障りますから、少し対応した方が良いでしょう。しかし、心が重くなり、引きずって歩くことは、決して恥じてはありません。不信仰ではありません。


◆23節。

  … わたしはこういうことをすべて/知恵を尽くして試してみた。

   賢者でありたいと思ったが/それはわたしから遠いことであった。 …

 コヘレトが、コヘレトさえもが、知恵を極め、賢者となることは出来なかったと言います。『それはわたしから遠いことであった』と告白しなくてはなりません。

 では他の誰に出来るでしょうか。

 何も知らない人だけが、何も見えない人だけが、賢者を自称するでしょう。


◆24節。

  … 存在したことは、はるかに遠く/その深い深いところを誰が見いだせようか。 …

 分かったようで分からない言葉です。『存在したこと』と言いますから、昔のこと、自分が生まれる前のことなど、どうして知り得ようかという意味かと思いましたが、注釈書を見ますと、そういう意味ではないと書いてあります。ではどういう意味なのか、書いてありますが、どうも良く分かりません。私には理解出来ません。ヘブル語の元の意味がどうとか、定冠詞がどうとか書いてありますが、私には、さっぱり分かりません。

 また、難しく言えば、15節の『わたしはすべてを見極めた』と矛盾するようにも聞こえます。

 最初に触れました。29節、『人間は複雑な考え方をしたがる』。あまり複雑にならないように、昔のこと、自分が生まれる前のことなど、どうして知り得ようかという意味でよろしいのではないかと考えます。


◆25節。

  … わたしは熱心に知識を求め/知恵と結論を追求し

  悪は愚行、愚行は狂気であることを/悟ろうとした。 …

 しかし、それが真理かどうかはとうとう判明しなかったようです。

 判明したのは、26節です。

  … わたしの見いだしたところでは/死よりも、罠よりも、苦い女がある。

   その心は網、その手は枷。神に善人と認められた人は彼女を免れるが

   一歩誤れば、そのとりことなる。 …

 『彼女』とは何を指すのでしょうか。

 それを説明するのは、27〜28節です。27〜28節だけです。

 他の聖書や、歴史的事例から探そうとする試みもあるようですが、とても難しいでしょう。見つからないからではありません。無数にあるからです。


◆ … 27:見よ、これがわたしの見いだしたところ/――コヘレトの言葉――

   /ひとつひとつ調べて見いだした結論。

  28:わたしの魂はなお尋ね求めて見いださなかった。

  千人に一人という男はいたが/千人に一人として、良い女は見いださなかった。 …

 これは表面的に見れば女性批判であり、女性にうつつをぬかしてはならないと言う戒めです。裏側から見れば、男性にとって、それほど、女性は魅惑的であり、魂をも奪うほどの存在だと言うことになりましょう。


◆そして、今日の箇所の結論部は、29節です。もう一度読みます。

  … ただし見よ、見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが

   人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。 …

 同じ話を繰り返しはしません。あまり複雑に考えるのは、よくないと言っています。

 多分、26〜28節についても同じことが言いたいのでしょう。

 では著者は、女性をどのように見ているのか、両方です。なかなか複雑です。

 人生そのものが複雑です。分析し分類できるような簡単な代物ではありません。信仰も、教会も、教会員も、人それぞれ、実に多様です。

 だからこそ、『複雑な考え方をしたがる』のではなく、『まっすぐに』見なくてはなりません。