日本基督教団 玉川平安教会

■2023年1月15日 説教映像

■説教題 「からし種一粒が

■聖書   マタイによる福音書 13章31〜35節 


† 31節後半と32節を読みます。

 『からし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、

 32:どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、

   空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」』

 『からし種』は、今日イスラエルに存在するからし種と同一なのか、そうではないのか、はっきりとは分からないそうです。イスラエルは、ヨーロッパとも、アジアとも、アフリカとも地続きです。何しろ、2000年の時が流れています。いろいろな植物の種も、人の行き来、物流で大きく変化します。イエスさまの時代のイスラエルにどんな草花があったのか、厳密には分かりません。日本のからし種との類似性がどこまであるのかも、勿論分かりません。


† ですから、『からし種』とは、どんな植物なのかと考えても意味はありません。ここに記されていることを、そのまま受け止めるしかありません。

 『どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり』

 何の不思議もありません。そのような植物は数多く存在します。むしろ、どんな植物でも、種の大きさは大したことはありません。マンゴーのような大きな種の方が、むしろ珍しいのではないでしょうか。

 『空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる』

 珍しいかも知りませんが、充分あり得ることです。教会の中庭に昨年一昨年と植えた菊芋には驚かされました。何の予備知識もなく、食べ方を知らないので、取り敢えず土に埋め、ほぼ忘れていたら、春に芽を出し、どんどん成長し、遂には背丈が3メートルを超えました。


† 大きさよりも、成長の速度の方が、譬え話に取り上げられた理由かも知れません。普通の樹木は、何十年何百年かけて成長します。先週も触れましたように、レバノン杉は樹齢3000年になるものがあるそうです。

 これに比べて、菊芋は、半年で3〜4メートルにもなります。『からし種』も、とても成長が早いようです。しかし、怪しむには足りません。身近なもので、アスパラガスは、これを15年も育てていましたから良く知っていますが、時に一日で、20〜30センチ伸びます。一日収穫が遅れると、アスパラガスの大木になります。先っちょの方しか食べられません。


† さて以上説明ぽい話をしましたが、全て無駄話だったかも知れません。

 この譬え話が言うのは、今現在の姿からは、将来の姿は想像も出来ないということです。ちっぽけな種には、未来の姿が詰まっているということです。

 私たちは、この事実を、聖書時代の人よりも、よくよく知っています。種よりも遙かに小さい遺伝子が、全ての情報を持っています。『からし種』と比べても遙かに小さいものが、『空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木』よりも大きくなることを私たちは知っています。


† 31節の前半に戻ります。

 『イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。

  「天の国はからし種に似ている』

 この譬えは、天国の譬えです。そこにだけ意味があります。

 天国は、からし種のように小さいと言われています。違和感を覚えます。そんな馬鹿なと反論したくなりますが、譬え話の中とは言え、イエスさまは、天国はからし種のように小さいと、はっきり言っておられます。これはどういうことでしょうか。


† その後の方が、むしろ問題かも知れません。違和感が強くなります。

 『空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる』

 『鳥が巣を作るほどの木』、大した大きさではありません。背丈が2メートルもあれば、鳥が来ます。『巣を作る』には、5メートルくらいはあった方が良いでしょうか。大した大きさではありません。これも天国の譬えです。

 

† 天国の大きさはどのくらいのものでしょうか。

 ダンテを引用しようとは思いません。 … 『男はつらいよ』を、連想想させられました。『男はつらいよ … 純情編』です。マドンナの若尾文子が、寅さんに言います。

 「人はどうして死ぬのでしょうね」

 『不如帰』の名場面のもじりです。『不如帰』ですと、

 『浪子が言った、

  「あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ!」』

 寅さんは答えます。

 「誰も死ななかったら、日本が満員になってしまって、端っこの人は、海に落っこちてしまうよ」。

 台本などありませんので、正確な引用ではありませんが、こんな意味です。

 

† 全く寅さんの言う通りです。誰も死ななかったら、満員になります。日本列島からこぼれ落ちてしまいます。

 順番に死を迎えても、お墓が一杯です。どんどん増えたら、日本中お墓だらけになってしまいます。これは現実になっています。

 

† 天国の譬えに戻ります。

 天国の面積はどのくらいあるのでしょうか。『物見の塔』の人は、天国の面積にも限りがあると考えているのでしょうか。黙示録を根拠にはしていますが、天国に入れる人の人数を14万4千人に限定しています。これで満員のようです。キリスト教2000年の歴史の中で、どれだけの信者がいたのでしょうか。『物見の塔』の信者は、累計何人なのでしょうか。それでも、14万4千人だとすれば、随分と狭き門です。


† 天国は、『どんな種よりも小さい』。

 イエスさまの時代の現実でしょう。未だにそうかも知れません。

 しかし、一方で

 『成長するとどの野菜よりも大きくなり、

   空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる』と言われています。

 『鳥が来て枝に巣を作るほどの木』も大した大きさではありません。しかし、どんどん成長しているのです。天国の面積は、そんなものがあるとして、天国の面積は、そこに入る人の人数分あります。そこに入る人の人数が多くなれば、天国はその分拡がります。

 天国の面積が決まっていて、入る人の人数も限定されているのではありません。


† これは、単に天国の面積、ましてお墓の面積のことを言っているのではありません。

 誤解を恐れずに言うならば、天国に入るのには、入学試験ではありません。定員があって、受験者の上位何名が合格し、入学出来るのではありません。

 言って見れば資格試験です。上位何名が合格ではなく、一定の点を取った者が合格です。

具体的に表現しようとすれば、却って誤解が生まれます。一定の点を取った者が合格と言う言い方は、間違いかも知れません。

 ただ、主の御心、主の赦しだけが、天国に入れられる条件なのですから。


† 天国、神の国、元のギリシャ語や翻訳に違いがありますが、意味合いは同じです。神の国とは、地理的なこと、面積を指すのではなく、神の支配という意味です。神の支配する領域です。

 コリント前書6章19節。

 『あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、

  あなたがたはもはや自分自身のものではないのです』

 同様の表現は多数あります。

 イエスさまは、神は一人ひとり心の中に住まわれると言われました。

 大胆に言えば、キリストを信じる者の人数が、神の国の広さです。


† 私たちは、私たちが住むことになる天国の面積を考えてしまいますが、肝心なのは逆です。神さまがお住まいになるのにふさわしい、広さや、清潔さや、もしかしたら居心地の良さが、神殿には充分にあるのかどうかです。この点は、旧約聖書でしきりに問題にされます。

 それならば、教会には、神さまが住まわれるのにふさわしい、広さや、清潔さや、もしかしたら居心地の良さが、充分にあるのかどうかです。

 勿論、それは豪華さや、広大さのことではありません。


† 33節を読みます。

 『天の国はパン種に似ている』

 『パン種』、パンを焼く際にパン生地を膨らませる種のことです。今日ならイースト菌となりますが、聖書時代には、焼かずに取って置いた元のパンとなります。全部は焼かずに、一部を残しておいて、新しいパン生地に練り込みます。

 話の構図は、からし種と同じで、ほんの小さいものが、全体を大きく膨らませると言う話です。成長の規模は、パン種の方が、からし種よりも、むしろ小規模になりますが、一部のものが、全体に影響すると言う意味合いで、譬えに使われています。

 ここまで読むと、パン種も、からし種も、教会を構成する人間のことを指すと分かります。信仰によって信仰が育てられます。最初は僅かな人数であっても、これが大きく成長します。

 逆に言えば、僅かな汚れが、全体を汚染する場合もあります。マタイ16章5〜6節。

 『5:弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。

  6:イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」  と言われた』

 

† 昔の酒蔵は、女人禁制でした。女性だからと言うのは、根拠の無い差別に過ぎないでしょうが、酒蔵にやたらに人を入れないというのには、正しい理由があります。元々酒蔵にいる酵母菌ではない別の菌が入り込まないように防衛するためです。

 教会だって同じことです。教会は人の出入りは禁止出来ませんが、異なった信仰は入らさせてはなりません。

 この話は、複雑ですし、他の機会にこのことだけを主題にして取り上げた方が間違いないし効率的だと考えますので、今日は、これだけに止めます。

 教会に異なる教えが入り込んだら大変です。それが膨らむからです。成長してしまうからです。


† 34節。

 『イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、

  たとえを用いないでは何も語られなかった。』

 とても分かりづらい所です。マルコ福音書の同じ記事が参考になると思います。マルコ福音書の記事を参考にしなければ理解出来ないと言った方が正確かも知れません。マルコでは、ここに一行続きます。

 『御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。』

 『自分の弟子たちには、ひそかにすべてのことを説明された』のは何故か、弟子たちにだけ、全てが明からされていて、つまり、秘密が授けられていて、他の者には閉ざされている。何故か、それはこの弟子たちの群れ、つまり教会が、神の国の実現したものだからです。教会に於いて、既に神の国が実現しているからです。

 教会は既に神の国の姿を持っているのではありません。しかし、神の国の種であり、全てのものが既にここに詰まっているのです。


† マルコを引用してその注釈をしていてはマタイを読んだことにはならないと言う気もしますが、聖書にはマルコもマタイも収められており、同じような記事が繰り返されているというか重複しているのですから、両方一緒に読みなさいと言うことかとも考えます。

 神の国が見えないという現実と、しかし、神の国は確実に近づいている、否、既に来ているという現実とが、平行して述べられています。

 ここで初めて、神の国の譬え全体の主題が見えます。つまり、『増える、増えない』『見える、見えない』といったこともまた、比喩でしかありません。神の国は、見えないようだが見えており、存在しないようだが存在している、この逆説こそが主題なのです。


† こういう事柄を、約束の確かさによる現実と、上手いことを言った人がいます。約束・希望は、未だ実現していません。しかし、神の約束は、そして信仰による希望は、その確かさの故に、既にして現実なのです。それは、からし種の一粒と同様です。目には見えない小さな種の中に全てが詰まっています。後の豊かな実りが確実なものとして約束されています。そして、約束・希望に生きる者にしか、これは実現しません。

 教会についても同様のことが言えます。教会は教会でしかありません。所詮は罪に染まった人間の集まりかも知れません。しかし、神の贖いの約束の確かさ故に、教会には既にして、神の国が実現しています。教会は既に神の国の姿を持っているのではありません。しかし、神の国の種であり、全てのものが既にここに詰まっているのです。