日本基督教団 玉川平安教会

■2023年3月26日 説教映像

■説教題 「ペトロの信仰告白

■聖書   マタイによる福音書 16章13〜20節 

       

★予めお断りしておきます。今日の聖書個所は、16章13〜20節と予告してありますが、21節以降の殆ども一緒に読みます。21節以降は、次週にまたあらためて、視点を変えて読みたいと思います。


★13節。

  … イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、

   「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。 …

 『人々は、人の子のことを何と言っているか』ではなくて、『何者だと言っているか』と尋ねておられます。

 人々の評判を気にしているのではありません。既に解答が用意されていて、弟子たちに正解を促しているのです。つまり、試験、口頭試問のようなものです。

 14節。

   … 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、

   『エリヤだ』と言う人もいます。

   ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。』 …

 弟子たちは、試験に答える時のように、慎重に答えを上げているかのようです。漏れがないように答える、諸説を網羅するというのは、試験の解答としては正しいかも知れません。しかし、イエスさまの求めておられたのは、そのような模範解答ではありません。

 15節。

  … イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。 …

 他の人がどのように見るかではなく、『あなたがたは』どう思うかと問われました。一般論ではなく、弟子たちの主体的な決断に基づいた答えを求められたのです。

 最早、これは正解を答える問答ではありません。弟子たちの決断が促されています。信仰の告白が求められています。


★16節。

  … シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 …

 弟子たちを代表してペトロが答えました。これは単なる解答ではありません。イエスさまに対する信仰の告白です。 

 『あなたはメシア、生ける神の子です』「イエスはキリストである」最も簡潔な信仰告白です。簡潔、短いということは、粗末だということではありません。長い信仰告白は、それだけ厳密詳細ならば、それも大切かも知れません。

 しかし、ややもすると、いろいろと状況に添って、条件を挙げて、その前提の元で初めて、信仰告白するということになりかねません。条件付き信仰告白です。

 簡潔、短いということは、条件などは存在しないし、状況も関係ない、私はキリストを信じるということです。簡潔、短い信仰告白は、力強いのです。お祈りも同様です。


★私たちにも、弟子たちの場合と同様に、『「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」』というイエスさまの問いが突きつけられています。

 そして、現代にもいろんな立場、いろんな思想から、いろんな答えを言う人がいます。「イエスは人類の教師である」「イエスは革命家である」「イエスは体制と闘った殉教者である」その中には、「イエスは敗北した預言者である」と言う者さえあります。

 しかし、イエスさまが私たちに求めておられる答えは一つです。

 「ああ言う者もあります。こう言う者もあります。」では、答えになりません。正しい答えとは、ペトロの答えだけです。 … 『あなたこそキリストです』。


★『あなたこそキリストです』、この信仰告白に立つ者がキリスト者であり、この信仰告白の上に、教会が立つのです。17〜18節。

  … シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。

 17:すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。

   あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。

 18:わたしも言っておく。あなたはペトロ。

  わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。 …

 この部分はマルコ福音書にはありません。

 マタイによる福音書16章17節以下は、「この信仰告白の上に、教会が立つ」ということを分かり易く解説したものであると考えます。

 イエスさまは『あなた方はどう思うか』と聞いておられます。ペトロという人物、ペトロの人格の上に教会が建てられるということではありません。『あなた方』、つまり、ペトロが代表する教会のことです。教会の信仰告白のことです。


★20節では、何だか、理解困難なことが言われます。

  … それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、

   と弟子たちに命じられた。 …

 信仰告白を導き出したイエスさまが、何故か、そのことを誰にも話さないように、と弟子たちに命じられたのです。 … 不思議なことです。奇妙なことです。


★そして、21節。

  … このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、

   律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、

  三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。 …

 これこそが、イエスをキリストと告白する者の群れ、即ち教会に与えられた秘儀です。

 漢字ですと秘密の儀式です。サクラメントであり、カトリック教会の礼拝即ちミサです。

 ミステリー小説とミサとは、語源が同じです。秘密のことです。

 十字架とは、当時の世界では敗北と汚辱との印、勿論死の印です。弟子たちがメシア・キリスト、救い主として頼む方が、十字架の上に死すこと自体が、全くの蹉きですが、それが、そのことだけが、苦しみ悩む人々を救うことにつながると、イエスさまは預言するのです。

 正にミステリーです。誰にも読めないストーリイ展開であり、結末は秘密なのです。


★この蹟きに充ちた言葉は、イエスさまを単なる教師、或は預言者として考える者には、受け止めきれない言葉です。何故なら、それは、人間の知識・理解を超えた言葉だからです。これこそが、秘儀です。簡単に理解出来るならば、秘儀ではありません。

 唯、イエスさまをキリストと告白する者だけが、これを受け止めることが出来ます。何故なら、彼らはもはや単にイエスさまの思想に共感し同調しているだけではないからです。彼の人格を・存在そのものを信じているから、信仰の対象にしているからです。

 まあ、簡単に言えば、もう理屈ではない。イエスさまそのものを信じているからです。


★私たちは福音書を読んで、しばしば同様の表現に出会います。イエスさまは、その奇跡的な業を、或いは神秘的な教えを、誰にでも明らかにされようとはなさいません。大事な事柄になると、弟子たちだけにそれを示されます。時には、弟子たちの中でも限られた者だけに、秘密を授けられます。

 それはイエスさまが、教えを出し惜しみしておられるというようなことではありません。福音書記者を初めとする弟子たちが、自分たちだけに特権が与えられていると威張っているというような話ではありません。

 そうではなくて、イエスさまの十字架と復活は、信仰をもってイエスさまに向かい合う者だけしか理解することが出来ない、受け止めることが出来ない神秘なのです。

 信仰告白を持たない者には通じない神の言葉なのです。


★逆に言いますと、イエスさまの十字架と復活の神秘を、誰にでも理解出来る事柄に置き換えてはなりません。そんな言葉があったとしても、力を持ちません。

 「復活とは、文字通りに受け止めてはならない、人が抑圧を逃れて自分を取り戻すことだ」とか、「生き生きとした人生を取り戻すことだ」とかと言う人がありますが、それは間違いです。イエスさまの十字架と復活の神秘を、誰にでも理解出来る言葉に置き換えてはならないのです。信仰をもって受け止めるべき、神秘的事柄なのです。


★勿論、聖餐式がそうです。今まで申し上げたことは、全く聖餐式に当てはまります。

 聖餐式という儀式、神の国の秘密に結び付いた儀式を、分かり易い人間の言葉で説明することはできないし、してはなりません。それが可能なようなら、聖餐式を持つ必要がありません。

 もっと開かれた、誰もがそれに与ることのできるような楽しい会に作り替えてはならないし、そんなことは出来ません。それが可能なようなら、これは、大いなる逆説です、聖餐式を持つ必要がありません。

 教会の福音を、そこで用いられる贖罪や和解や信仰・希望・愛というキリスト教専門用語を、別の平易な日本語に置き換えることが出来るようなら、そもそも、十字架の出来事を、復活の出来事を、誰でも理解し受け入れる事柄に置き換えることが可能なら、もし、それをしたならば、福音は必要ありません。


★ペトロと他の弟子たちはイエスさまを信じていても、それでも、未だ、その預言を真っ正面から受け止めることは出来ません。22〜23節がその箇所です。

  … すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。

 「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」

 23:イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。

  あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。 …

 『神のことを思わず、人間のことを思っている。』


★イエスさまの身の上を案じたペトロに対して、『サタン、引き下がれ』とは、随分きつい表現です。何故イエスさまはこのようにおっしゃったのでしょうか。

 ヨブ記を読めば分かりますが、サタンとはそもそもが、人の罪を数え上げ、裁く者との意味です。ですから、ここでも、神であるイエスに裁かれるのではなく、イエスさまの言動を裁く側に回ったペトロが、サタンよと言われるは、当然です。

 イエスさまの身の上を案じていると言えばその通りですが、ペトロは自分の物差しでイエスさまを計り、その行動を判断しています。つまりは、裁いているのです。

 私たちは、神を裁く者になってはなりません。神によって、裁かれる者であることを自覚していなくてはなりません。それが、信仰の出発点です。

 まして、「復活は常識人には理解出来ないのが当たり前で、復活信仰に固着する限りは、教会は独りよがり・独善を免れ得ない」などと言うのは、人間が聖書を裁くことであり、『サタン、引き下がれ』と言われるべきことです。


★24節以下は、そのことを言っているのだと思います。

  … それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、

   自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

 25:自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、

  わたしのために命を失う者は、それを得る。 …

 自分の十字架を背負うとは、正に人生の課題を背負うことで、いろんな意味に解釈されるでしょうし、一人ひとりが、自分の十字架とは何かと問うことは、意味があるように思います。しかし、第一義的には、己の力を第一とし、ついには、神をも裁く者となった、この世界に対して、むしろ、裁かれる側、つまり、十字架の側に着く、このことが、言われていると考えます。

 この点は、次週の説教でもう少し詳しくお話ししたいと考えます。そもそも、14節の

 …『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。

   ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。…

   これこそが、イエスさまを裁いています。

 一人一人が、その十字架を背負って、裁く者ではなく、裁かれる者となり、ゴルゴダへの丘を黙々として上って行く、イエスさまは、そのことを言っています。そして、この十字架を背負って歩く者の群れが、即ち教会です。


★25〜26節。

  … 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、

  わたしのために命を失う者は、それを得る。

 26:人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、

   何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 …

 教会はこの逆説の上に立っています。もし、復活信仰を初め、イエスさまの教えを、現代の科学的合理的思惟に矛盾しないように作り替えたならば、もうそこには教会は存在しません。存在する必要がありません。教会は生命を失います。

 福音を伝えるには福音の言葉が必要です。そして、その言葉こそが力を持ちます。伝わらないと考えてこの言葉を捨てたら、何も残りません。

 子どもたちはアニメを通じて沢山のギリシャ語を知っています。福音=エヴァンゲリオンを誰でも知っています。他にも沢山の本来は聖書の言葉を、難しいなんて言いません。