日本基督教団 玉川平安教会

■2023年5月14日 説教映像

■説教題 「七の七〇倍までも赦しなさい

■聖書   マタイによる福音書 18章15〜35節 

       

◆「半沢直樹」というテレビドラマが、話題になったのは、もう10年前になります。30%を超える視聴率だったそうです。「倍返しだ」という決めゼリフが印象に残ります。

 中味を紹介するまでもないでしょう。サラリーマンなら誰しも抱えている鬱屈した思い、我慢の限界を超えた屈辱、これを爽快に晴らしてくれる言葉が、「倍返しだ」です。

 本来言ってはならない言葉、正に本音を、吐き出す小気味よさ、これがドラマが歓迎された理由でありましょう。

 このこと自体は、珍しいことではありません。むしろ、テレビドラマの常道かも知れません。水戸黄門も大岡越前も、みな同じ構造です。

 堪えに堪えたものを、一気に吐き出す、これほど痛快なことは他にありません。現実の世界では出来ないことを、言えない言葉を、テレビドラマの主人公に託すのです。


◆私は、昔、「必殺仕置人」という時代劇が大好きでした。藤田まことという俳優が好きですが、それより何より、矢張り、ラストの復讐場面が、爽快です。復讐ほど、痛快なことはありませんでしょう。復讐、敵討ち、これは日本人が大好きなものです。

 さて、「必殺仕置人」のラストの復讐場面は痛快ですが、そこに至るまでが正視に耐えません。何とも残酷、卑劣、それに苦しめられる女子どもの姿は、テレビのドラマだと思っていても、嫌な気持ちがします。

 そこで、途中は見ないことにしまして、仕置きの場面だけ見ました。大体時間で分かりますから、そろそろ、仕置きの場面だと思うと、テレビのスイッチを入れます。

 そして、兎に角理由は良く分からないが、とんでもない悪い奴に決まっている。切られてしまえ。これを続けておりますと、結局は、残酷な殺しの場面を見るだけです。

 何時の間にか、「必殺仕置人」そのものを見なくなってしまいました。


◆聖書は、復讐について、何を語っているでしょうか。

 予備知識として、一つだけ申しますと、聖書世界では、復讐は、極めて重要なことです。日本人の仇討ち以上です。正に、倍返しです。家族・親族が殺されたならば、敵の身内、親族の者の内から、その倍の人数を殺す、これが、聖書世界では正義でした。

 それは、現代の中東でも、根強く残っていると言われます。

 ハムラビ法典の、「目には目を歯には歯を」は、残酷な刑罰、そして、復讐を表す象徴的な言葉として理解されています。しかし、実際には、「目には目を」とは、それ以上のことをしてはならない。「歯には歯を」とは、それ以上の過剰な復讐をしてはならないというのが、真意だそうです。

 表面聞こえる響きとは、全く逆に、むしろ、正しい裁きを行い、復讐を押さえるのが、ハムラビ法典の目的だったそうです。


◆マタイ福音書5章38節以下。

 『「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。

 39:しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。

   だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。

 40:あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。

 41:だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。

 42:求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」』

 この言葉は、ハムラビ法典を全く否定して、その逆を言っているのではなく、むしろ、その精神を徹底すればこのようになると、言っています。

 聖書は、復讐について、何を語っているでしょうか。


◆マタイ福音書18章に戻ります。21節。

 『そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。

   「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。

  七回までですか。』

 一度だけなら、という歌が昔ありました。一度だけなら、赦してくれる人もあるかも知れません。しかし、二度となりますと、なかなか赦しがたい。それでも仕方がない。特別の関係や理由があれば、二度目も赦してくれるかも知れません。仏の顔も三度までと言います。此処までが限界でしょう。一度ならず二度、三度と罪を犯すと言うことは、もう理由がどうとかという話ではありません。


◆ペトロが『何回赦すべきでしょうか。七回までですか』と質問したのは、ペトロがイエスさまの気持ちを充分に理解していたと言うことです。無際限とも言うべき、イエスさまの愛、赦しを理解していました。ですから、二度、三度ではなくて、『七回までですか』と質問しました。

 しかし、これに対して、イエスさまは答えられました。22節。

 『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい』。

 二度、三度ではなくて、七回まででもなくて『七の七十倍までも』です。この『七の七十倍までも』を、七の七〇乗と解釈する人もいます。七の七〇乗、普通の電卓ではとても計算できません。数字が60桁になります。正に無限ということです。


◆ここで、少しお休みして、敢えて話を脱線致します。

 トルストイに『石』という短編があります。私が知っている限りでも、同じ『石』という短編が3作品あります。しかも、3つとも、罪と赦しという主題の下に書かれています。

 その中の一つだけを紹介します。

 一人の貧しい農民がいました。彼は、ある日、大金持ちの乗った馬車にはねられそうになり、この馬車がはじき飛ばした石ころが、彼の額を裂き、血が流れます。

 しかし、大金持ちは謝るどころか、貧しい農民を罵倒して去って行きます。農民は思わず、彼の額を傷つけた石を拾います。しかし、その時の彼には、大金持ちに刃向かい、彼にその石ころを投げつける気力もありません。もし投げつけていたとしたら、逆にどんな酷い目に遭わされたかも知れません。己の貧しさ、惨めさを嘆くしかありませんでした。


◆この日から、彼は、どんな時にも、その石ころを懐に抱き、この悔しさ、恨みを忘れまいとします。そして、この恨みをこそ、心の励みとして必死に働き、やがて時が流れた時に、彼は、大金持ちになっていました。

 たまたま、零落して、かつての農民のような姿となったかつての大金持ちに遭遇します。彼は、積年の恨みを果たすべく、その懐に抱いた石ころに手をやります。

 かつての大金持ちの額を裂くことも、打ち殺すことも、今の彼には可能でした。

 しかし、懐の中で石を握ると、この石が、暖まっていました。石を握った、彼の復讐心は、すっかり溶けていました。


◆さて話の本筋、聖書そのものに帰りたいと思います。

 イエスさまは、23節から、譬え話をなさいます。この話については、徒な解説を加える必要はないと考えます。学問的な解釈を持って来ても、分かり難くなり、主題から外れるばかりでありましょう。答えだけを言います。

 王から負債を赦されたのに、自分は、仲間に貸したお金を過酷に取り立てたこの人とは、私たちのことです。

 人の罪を赦すことを知らず、自分が犯した罪に比べたら、些細な、他人の罪を暴き立て、罰しないではいられないこの人とは、私たちのことです。


◆王とは、勿論イエスさまのことです。

 王から負債を赦されたのに、自分は、仲間に貸したお金を過酷に取り立てたこの人は、つまりは、王から負債を赦された、その事実に目を留めていないのか、感謝していないのか、もっと簡単に言えば、負債を赦されたという自覚を持っていません。

 別の言い方をすれば、自分の罪を認めていません。罪を認めていないから、赦されたとは考えません。感謝すべきことだとは思わないのです。

 せいぜい運が良かったとしか思っていないのでしょう。もしかしたら、してやったりと考えたかも知れません。感謝せずに、王は甘いなと、小馬鹿にしたかも知れません。


◆これが私たちの姿なのです。

 主の十字架による贖いを、どのように受け取め、感謝しているかが、問われている譬え話なのです。

 ある人は、自分には十分な功績があるから、十字架による贖いに与ることが出来た、神の国に入る資格を得たと思ってるかも知れません。

 ある人は、自分には十分な知識があるから、十字架による贖いに与ることが出来た、神の国に入る資格を得たと思ってるかも知れません。

 そのような人には、自信はあっても、感謝はありません。


◆この譬え話は、人間が、他の悪い人間に対して、どれだけ寛容になれるのか、と問い、イエスさまに倣って寛容にならなければならないと教えているのではありません。

 この譬え話は、人間が、他の悪い人間に対して、何処まで赦すことが適切なのか、厳しく接することが正しいのか、甘いと見られても、ひたすらに愛をもって接するのが正しいと教えているのではありません。

 また、トルストイが説くような、真に自分を持った人間ならば、他人に寛容にれる。寛容になれないのは、己れ自身に足りないものがあるからだと教えているのではありません。


◆ただ、主の十字架による贖いを、教えているのです。誰も、自分の力では獲得することの出来ない、救い、恵み、望みに、如何に与ることが出来たかを、それがどんなに素晴らしい幸福であり、感謝すべきことであるかを教えているのです。

 その感謝がないから、他人に対して過酷になれるのだと教えているのです。


◆21節に戻ります。

 『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。

  七回までですか』

 ペトロは、このように問うことによって、自分が正しくイエスさまを理解していることを分かって貰いたかったのかも知れません。或いは、単純に、この問題で苦しんでいたのでしょうか。赦しがたいとしか思うことの出来ない、人間関係を持っていたのでしょうか。

 もしかしたら、『七回までですか』と問い、3回で充分だよという答えを期待していたのでしょうか。

 

◆ペトロの質問は、根本から間違っています。

 彼が、人の罪を赦す立場に立っていること、人の罪を赦すことが出来る立場に立っていると思っていること、それが既にして間違いです。ペトロは、あくまでも、罪を赦して貰うべき存在です。罪の贖いを請い願うべき存在です。

 私たちが犯し続ける罪もまた、この罪です。あくまでも、罪を赦して貰うべき存在なのに、人を裁き、己を裁き、或いは、人の罪を赦すことが出来るかのように、誤解しています。思い上がっています。私たちが神の前になすべきこと、それは懺悔であり、罪の赦しへの願いであり、そして、赦されたことへの感謝です。


◆今日の聖書個所の前半部に触れていません。しかし、後半部を読めば、前半部は充分理解出来ます。ここでも、赦しが主題です。

 15〜18節では、具体的な道筋が述べられています。この教えの通りにしなくてはなりません。実際に行うのはなかなか難しいと思いますが、イエスさまが具体的に教えて下さっているのですから、この手立てを採らなくてはなりません。


◆18節は、赦しの根拠が上げられています。その根拠とは、優しさとか寛容ではありません。その根拠とは、イエスさまが教会に与えられた権威です。ローマカトリック的には裁判権と理解されます。そうかも知れません。罪を裁き、或いは赦す権威は、世俗的な法廷が持つものではなく、教会が持つべき物かも知れません。

 しかし、ここで強調されているのは、裁き罰する権威ではなく、赦す権威です。裁くことよりも、赦すことにこそ、権威が必要です。権威があるから赦すことが出来ます。法治裁判では法律そのものにしか、赦す権限はありません。裁判官個人にはありません。法治裁判には、赦しはありません。

 赦すことが出来るのはその権限を持つ方のみです。だから、教会の裁判権とは、人を裁き罰する権威である必要はありません。赦す権威が、必要です。


◆19〜20節は、本来の文脈から離れて読まれています。2〜3人が信仰を併せれば、何事も叶うという意味に取られています。それもよろしいでしょうが、本来、赦しという文脈の中で語られたものですから、この文脈で受け止められなければなりません。

 人は容易に他の人の罪を赦すことが出来ません。忘れられずに恨みを抱きます。しかし、そこにイエスさまがおられるのです。これを信じるならば、赦すことが出来ます。赦さなければなりません。赦して下さるイエスさまが、そこにおられるのですから。