日本基督教団 玉川平安教会

■2023年4月16日 説教映像

■説教題 「からし種一粒の信仰があれば

■聖書   マタイによる福音書 17章14〜21節 

       

◆9節に、『一同が山を下りるとき』とあり、14節にも『一同が群衆のところへ行くと』と記されています。これは場面設定であり、登場人物の紹介です。普通ならば、そのようになります。しかし、9節の『一同』と14節の『一同』とでは、顔触れが違うのではないでしょうか。

 9節の『一同』は、山から下りて来た弟子たちです。1節を見ますと、

  … ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた … とあります。そうしますと、『山を下りるとき』も、この3人でしょう。

 14節の『一同』も、この3人なのでしょうか。明確ではありませんが、3人に限らず、12弟子のことと思われます。或いはその他の弟子も含まれているかも知れません。


◆ここでは弟子たちを『一同』と表現していますが、他の所では『一行』と言ったり、『弟子たち』更に『12弟子』としたりしています。これに厳密な使い分けがあるのかないのか、学者の間では議論になります。学問的には大事なことなのでしょうが、私たちが聖書を読む時に、そのような厳密さは必要ないと考えます。むしろ、あまり拘っていると、肝心なことが見えなくなる懸念があります。

 

◆しかし、16節と19節の『弟子たち』は、厳密に区別しなくてはならないように思います。これは時間的に見ても、同じ顔触れではありません。

 拘るべきは、16節の『お弟子たち』です。

 時間的に見て、ここには、12弟子の内、イエスさまと一緒に山に登っていたペトロ、ヤコブ、ヨハネは含まれません。他の9人のことです。


◆話がややこしくならないように、以上のことだけを前提として、順に読んでまいります。

 14節。

  … 一同が群衆のところへ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、言った… 福音書ではしばしば見られる光景で、特別のことはありません。『ひざまずいて』ですから、ちゃんと礼をもってイエスさまの前に出て、お願い事をしたことになりますが、これも特別のことではないでしょう。

 15節。

  … 「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。

   度々火の中や水の中に倒れるのです …

 癲癇は症状であって病名とは言えません。ですから、この息子の症状の原因は分かりません。しかし、ここに述べられていることだけでも、容易ならぬ病です。今日ではとても有効な薬があり、発作を抑えることが出来ますが、当時の医学では、全く処置なしだったことでしょう。

 このような病は、殆どの場合、『悪霊』の仕業と思われていました。


◆16節。

  … お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」 … 当然です。未発達な医学の時代だったとはいえ、専門家の医者に出来ないことが、無学な弟子たちに出来る筈がありません。

 この時点ではルカ福音書を記した医者ルカは、未だ弟子になっていません。例え、ルカがいたとしても、どうにもならなかったでしょうが。


◆哀れな息子の父親は、癒やしを期待して、弟子たちの所にやって来ました。福音書では当たり前の光景です。弟子たちも、自分たちで何とかしようと考えたようです。しかし、出来ませんでした。当たり前です。

 最初に、学者が拘るような些末なことは、私たちは考える必要がないという意味のことを申しましたが、ここは拘ってしまいます。

 この弟子たちとは、12弟子から、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを除いた9人です。つまらない拘りと見えるかも知れませんが、私は拘ってしまいます。9人であって、12人ではありません。しかも、欠けている3人は、主の山上の変容を体験した3人です。つまり、神の国を垣間見た3人です。残りの9人は、これを体験していません。

 そこに何らかの意味があるのではないでしょうか。


◆先を読みます。17節。

  … イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。

  いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。 …

 『よこしまな時代』という表現の意味も、学問的に拘ることはしません。多分無駄です。単純に、この時代は、神の国ではありません。16章で暗示された神の国との違いを強調しています。『よこしまな時代』、この時代はローマがその軍事力、飾らないで言えば暴力で支配していた時代です。それだけでも、充分『よこしまな時代』です。

 そして、聖書の高い倫理に照らせば、不道徳で、不信仰な時代です。

 

◆ … いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、

   あなたがたに我慢しなければならないのか …

 これは、二通りの意味に解釈出来ます。後半に力点を置けば、イエスさまも見放したくなるほど酷いという意味になります。前半だけなら、十字架の時が迫っているのに、という意味になります。

 両方かも知れません。


◆更に拘るべきは、この点です。これは、弟子たちに向けられた言葉です。必ずしも、病の子の父親に向けられた言葉ではありません。

 そうしますと、イエスさまが嘆いておられるのは、この時代の邪悪、不信仰よりも、弟子たちの不信仰に対してです。


◆17節の後半。

  … その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」 …

 それこそ、つまらない拘りに聞こえるかも知れません。

 『わたしのところに連れて来なさい』です。つまり、今この瞬間にはイエスさまの目の前にはいません。そして、そもそも、弟子たちがこの子を見た時には、その場には、イエスさまはおられず、山に登っておられたのです。大げさな言い方かも知れません。この子と父親は、イエスさまが不在の場所を訪ねたのです。

 そこにはイエスさまも、12弟子もいません。9人だけです。12は、普通教会の象徴として用いられます。つまり、ここは教会ではありません。


◆17節の後半と18節を読みます。

  … その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」

  そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた…

 もっと細かい所に拘ります。こんなことを指摘するのは私だけかも知れません。多分そうでしょう。学者には叱られる解釈かも知れません。しかし、私は拘ってしまいます。

 さっき言いましたように、この場面・出来事は、教会を反映していると考えます。

 『イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き』

 つまり、悪霊は、叱られるまではこの子の中にいました。そして、この子は弟子たちの中にいました。約めて言えば、悪霊は弟子たちが囲んでいる中にいました。そして、平気でした。悪魔が平然としていられる場所は教会ではありません。

 

◆福音書の大部分がそうであるように、12弟子たちは、教会そのものを意味しています。そうであるならば、教会の中に悪霊がいたことになります。

 そんなことはあり得ないと叫びたいところですが、現実でしょう。キリスト教の歴史を観ても、実際に教会の中に悪霊がいました。悪霊と呼ばれても仕方がないような、祭司や牧師がいました。法王さえいました。 … 現在はいないと思う方が、おかしいでしょう。

 しかし、教会の中に悪魔がいてはなりません。


◆『その子をここに、わたしのところに連れて来なさい』とイエスさまが言われ、『お叱りになると、悪霊は出て行き』ました。叱った対象は、悪霊自身です。しかし、教会そのものも叱られているのかも知れません。

 この場合の教会とは、9人の弟子たちのこと、神の国を観ていない、体験していない弟子たちのことです。厳密には教会ではありません。


◆19節。前半だけ読みます。

  … 弟子たちはひそかにイエスのところに来て …

 何故『ひそかに』なのでしょうか。誰に隠れてなのでしょうか。

 19節後半。

  … 「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った … これが、

『ひそかに』の理由です。人々の目から隠れたのです。

 力のない自分たちの姿を、実態を、人には見せたくないのです。逆に言えば、人々には力強い姿を見せたいのでしょう。かっこよく、信心深く見られたいのでしょう。


◆福音書中に、繰り返し、ファリサイ派や律法学者が、人目を避けてイエスさまに会いに来る、教えを請う場面があります。その姿を人々に見られたならば、沽券に関わります。こっそりとやって来ます。その様子と、この場面の弟子たちと似通っています。

 弟子たちは、何か勘違いしています。人々に、何か偉い者のように見られたいのでしょうか。信仰深い、教養深いと見られたいのでしょうか。

 それ以上の詮索は無用でしょうか。げすの勘ぐりと言われるでしょうか。弟子たちは、イエスさまには内緒で、病気の人や、困難な人の治療や相談に乗り、報酬を得ていたのでしょうか。そんなことはないとは思います。

 しかし、聖書には、特に使徒言行録に、信仰を商売の道具に使った人の話が出て来ます。歴史上の教会にも、現代の教会にも、そんな事例は無数にあります。

 9人の弟子たちがそんなことをしていたとは考えられませんが、似たようなことではあります。そうでなければ、人目を避けてイエスさまに会いに来る理由がありません。金儲けにしていたのではないでしょうが、自分をかっこよく見せたいと思っていたのでしょう。少なくとも、格好悪いところは見られたくなかったのです。


◆『なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか』という問いへの答えは実に簡潔です。

 『信仰が薄いからだ』

 これは、むしろ優しい答えです。ペトロは『サタンよ、引き下がれ』と叱られました。これに比べれば、『信仰が薄いからだ』は、むしろ優しい答えです。

 本当ならば、「信仰がないからだ」と言われても仕方がないでしょう。


◆20節の残りを読みます。

  … はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、

  この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。

  あなたがたにできないことは何もない。 …

 この時の弟子たちは、『からし種一粒ほどの信仰』もないと言われても仕方がありません。それが弟子たちの現実です。

 この言葉は私たちにも向けられているのでしょう。それがわたしたちの現実です。

 しかし、『あなたがたにできないことは何もない』とも言われています。この言葉も、私たちにも向けられているのでしょう。


◆「出来ない」と言ってはなりません。出来ます。ここが教会ならば、イエスさまがいて下さるならば、「出来ない」と言ってはなりません。出来ます。

 私たちは、何か新しいことに取り組む時に、算盤を弾きます。成算なしに始めることは無責任です。しかし、算盤で事が成就するのではありません。教会の業はそうです。例えば、礼拝堂を立てる業は、算盤では出来ません。先ず算盤を弾いたならば、無理だという結論しか出て来ません。 … しかし、現実、教会は建ちます。

 私自身の経験、松江北堀教会のことは既に何度かお話ししていますから、今日は省きますが、私は、教団のお役目から、いろいろな教会の建築のことを見聞きして来ました。

 不思議だなと思います。人数も足りない、資金も足りない教会が、何故か、困難としか思われない事業をやり遂げるのです。逆に、敷地を半分売って会堂建築に当てるとか、郊外に引っ越すとかという貧しい選択をした教会は、その後、大抵駄目になります。 … ちょっと言い過ぎかも知れません。勿論、同じように見えても、ビジョンをもって、土地を売ることも、郊外に進出することは、ありますでしょう。


◆『からし種一粒ほどの信仰があれば』と言う言葉こそが、両面の意味を持っています。『からし種一粒ほどの信仰が』ないから何も出来ないと取るか、『からし種一粒ほどの信仰があれば』必ず出来ると信じて行動に移すか。その決断が問われています。

 私たちにも、『からし種一粒ほどの信仰があれば』、必ず、事は成就します。