日本基督教団 玉川平安教会

■2023年8月13日 説教映像

■説教題 「ぶどう園の持ち主は誰か」

■聖書   マタイによる福音書 21章33〜46節

     

◆この譬話の登場人物が、それぞれ何者を比喩しているかは、誰が読んでも明らかです。農園の主人とは神さまに違いありません。農夫たちとはユダヤ人のこと、主人によって遣わされた僕とは、預言者のことです。譬え話を、こんな風に要約出来ますでしょう。

 「神さまは、ユダヤ人のために、乳と蜜との流れる土地を備えて下さった。この豊かな土地に、豊かな収穫、つまり、信仰と愛の実とを期待したが、それは得られなかった。

 神によって派遣された預言者は、収穫を得るどころか、袋叩きにされてしまった。そこで、神の一人子、即ち、イエス・キリストが遣わされた。けれども、そのキリストも、十字架に付けられて殺されてしまった。そうして、神のものである農園は、悪者に乗っ取られてしまった。」こんな話です。

 三つの福音書で、表現に若干の違いは見られますが、解釈が変わる程のものではありません。また、何故主人が農園を留守にしたのかとか、神さまの見通しは甘いのではないかというような、詮索・批判は的外れです。比喩は、その語り手の意図から、大きく外れて解釈しても、あまり意味はありません。


◆この比喩の背景となっているものについて、少し補足説明することが出来るかも知れません。その一つは、イザヤ書5章の「葡萄畑の歌」です。読みます。

  … 1:わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。

    わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。

   2:よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、

    酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。

   しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。 …

 ここでも、比喩の基本的構造は同じです。神さまがユダヤ人のために豊かな農園を作って下さった。しかし、そこからは、期待された信仰・愛は収穫されず、酸っぱい葡萄、即ち、憎しみ・妬みなどの悪い実がなったというのです。

 福音書の方の比喩は、預言者イザヤ以降の歴史を盛り込んでおり、より詳細になっています。より過激な批判になったとも言えましょう。

 福音書の比喩は、イザヤのそれの、続編だとさえ言えるかも知れません。


◆そこで、イザヤ書の方を、もう少し読んでみたいと思います。8節、

 『災いだ、家に家を連ね、畑に畑を加える者は。お前たちは余地を残さぬまでに

   この地を独り占めにしている』

 『畑に畑を加える』。ヨシュア記や士師記に見えますように、ユダヤでは、土地の寡占が許されませんでした。49年で借金が棒引きになるヨベルの年の制度も、土地の寡占を防ぐことに主眼があります。実現しなかった理想に過ぎないと言う学者もいますが、律法に記されていること自体が重要でしょう。それが、神さまの御心なのです。

 しかし、ウジヤ王の時代になって、貨幣経済が進みました。またウジヤ王は、農業の振興のために大規模農業経営を推進する政策を取りました。結果、大地主が誕生し、貧農は土地を手放すことになりました。歴代志下26章にその様子が記されています。

 同じ、8節、『家に家を連ね』、大規模な農業経営は、余剰の穀物の蓄積を生み倉庫が連なることとなりました。豊かになったように見えます。しかし、9節、

  … 万軍の主はわたしの耳に言われた。この多くの家、大きな美しい家は

   必ず荒れ果てて住む者がなくなる …

 大きな美しい家が、建てられました。しかし、その裏では、自分の土地を失い、家を失う者が現れたのです。要するに、貧富の差が激しくなり、大金持ちが登場した代わりには、その日の食べ物に困る貧民が生まれました。

 このような現象は、イザヤの目には、神との契約を破棄することだと映りました。そのような行為は罰せられない筈がないとイザヤは考えます。10節以下には、収穫が減り、農園が荒れ廃れるという刑罰が記されています。


◆マタイに戻ります。イザヤを下敷きにして読めば、結果、この比喩の主題はより明確になると思います。

 「人間は、神さまの意図というものを忘れて、自分の欲望の欲するままに行動し、神さまのものであるこの地上で、我が物顔にふるまっている。しかし、それは、重大な結果、即ち、深刻な荒廃をもたらすだろう」

 というのが、この比喩の言わんとするところです。

 こんな風に申しますと、自然破壊・環境問題が念頭に浮かびます。

 私たちは、これらの重大で深刻になって来た諸問題に信仰者として取り組む上で、私たちの基本姿勢になる思想を、今日のこの聖書の箇所に見い出すことが可能です。


◆しかしながら、この時代、イザヤの時代にもイエスさまの時代にも、そしてマタイの時代にも、自然破壊・環境問題というような事柄について、何の関心も存在しなかったことも、確実です。

 マタイにとっては、何が、重要な問題、具体的な課題であったのでしょうか。勿論、マタイの教会のことです。イザヤが問題にした社会問題は、マタイにとっては、そんなに大きな現実味を帯びた問題はなり得ません。

 何故なら、イザヤは、ユダヤの国の政治に関わるような地位にいました。だからこそ、責任も感じ、無為無策な時の王や政治家を鋭く批判もするのですが、マタイにとって当時のローマの政治は、声が、まして手が届くようなものではありません。


◆マタイの関心事はあくまでも教会のこと、福音宣教のことです。ルカも、マルコも同様です。この比喩に関しては、三つの福音書で殆ど異同はありませんし、文脈も同じです。

 つまり、預言者イザヤや、イエスさまが批判した、人間の思い上がり、傲慢、その結果としての、預言者へのあからさまな反抗、そして極め付けは、イエス・キリストそのものを教会から葬り去ってしまうという動き、それが教会の中に見られたのです。

 もう少し具体的に申します。福音書記者マルコとルカは、使徒パウロの伝道旅行の同行者です。ルカは使徒言行録の著者でもあります。使徒言行録、パウロ書簡には、初代教会の時代、既に、さまざまな異端が現れ、パウロの教会形成を、宣教を妨害したことが記されています。

 律法主義者、割礼主義者、天使礼拝、天使礼拝と密接な星辰信仰、復活否定論者、イエスがキリストであることを否定する人間イエス主義、逆に、イエスを霊的な存在だとして、その人間性を否定するドケヂズム、ドケヂズムもその一部に過ぎない実に多様なグノーシス主義、新約聖書時代の異端は、上げればきりがない程で、今日の異端は全て出揃っていると言って良い程です。

 しかし、それら全てに共通していることは、最早、神さまが教会の主人では無くなっているという点です。イエスさまが、教会の中心では無くなっているという点です。


◆現代には実に多様な教会論が存在します。複雑多様な世の中ですから、教会論も多様なものになっても仕方がないとは考えます。しかし、もし、教会の主人が神さま・イエスさまではなくなってしまうとしたら、それは、異端的教会論としか呼べません。

 いろんな所で、いろんな点で、教会の主人は、神さまではなくなってしまっています。無数に具体例を上げることが出来ますが、辛くなるだけですので、やめにします。

 問題は、他所の教会のことではありません。私たちの教会のことです。

 私たちの教会で、イエスさまがこの教会のご主人であるということを忘れたような、無視したような、言動がなされてはなりません。神さまが共に居て下さるということを前提にしていないような、言動がなされてはなりません。

 何よりも、神さまが、教会という農園から、どんな収穫を望んでおられるのかということを考えなくてはなりません。信仰の実、愛の実が、神さまの望んでおられる収穫です。


◆神さまによって派遣されて来た預言者を追い返すのではなく、ふさわしい態度で迎え入れることをしなくてはなりません。つまり、預言者を通して神の御心を知るために、その言葉を聞かなくてはなりません。そのためには、結局、聖書を学ぶこと、そして祈ることです。自分の考え・好みではなく、神さまの御心が大切です。

 神さまによって派遣されて来た神の子を受け入れず、かえって殺してしまうとは、イエスさまの十字架と復活の信仰を否定することです。

 現代の教会は、復活信仰を否定することで、かつてのユダヤ人と同様に、神の子を否定し、殺しているのです。


◆教会は、私たちの持ち物ではありません。私たちが自分の好みに合わせて作り替えたり出来るものではありません。

 教会というぶどう園に、どのような実を育てたら、神さまに喜んで頂けるのでしょうか。自分の好きなものを植えて育てるのではありません。神さまが求めておられるものを、植えて、育てるのです。

 収穫がなければなりません。収穫がなければ、そのぶどう園は無用になります。捨てられてしまいます。


◆収穫を得るためには、働かなくてはなりません。私はぶどうを育てたことはありませんから、分かったようなことは言えません。しかし、その困難さは想像に難くありません。

 畑をしていて、一番大変なのは、雑草を抜くことです。これだけでも、まいってしまいます。

 耕し、肥料をやり、水をやり、本当に、一日も手を抜くことなく、育てなければなりません。ぶどうの場合には、剪定など、かなり専門的な知識・技術が要るようです。私たちの場合だって、同じことでしょう。教会農園でも、同じです。勝手なことをして収穫を得ることは出来ません。正しい知識で、正しく働かなくてはなりません。

 私は全く自己流で畑を初め、10年も経ってから、初めて「家庭菜園入門」という本を読みました。10年間でたらめなことをしていたことに気付かされました。思いつきで勝手なことをしていたら、勿論収穫は減ります。何よりも、無駄な時間を費やします。それどころか却って畑を悪くしてしまいます。

 逆に、農家の人から教えられた土作りは、真面目にやっていました。でたらめな種蒔きや肥料やり、水やりをしていても、土作りは間違っていなかったのが、それなりの収穫があった理由でした。ために、その上でも間違いに長い間気付きませんでした。


◆それでは、どうやったら、私たちはイエスさま・キリストを全く受け入れ、ふさわしい信仰と愛の実を捧げ、神の農園の農夫として、全き働きをなすことが出来るのか。否です。

 今日の譬話の究極は、イエスさま御自身が、十字架の死を預言しておられる点にあります。そして、この比喩の大いなる逆説は、十字架の血を浴びた者が、救われるということです。この私が、神の子を十字架に追いやったのだと、罪の告白をすることです。

 神の農夫として正しく働いていると自負するユダヤ的な信仰が否定されているのが、今日の比喩です。同様に、私は教会で一所懸命に働いて、些か、教会に貢献しているという考えが否定されているのが、今日の比喩なのです。

 唯一要求されているのは、私は神の御子を殺した農夫たちのように、預言者を受け入れず、神を受け入れず、自分の我を通して生きていたということを、告白することです。

 礼拝、聖書研究祈祷会は勿論、教会の営みの全てが、神さまからいただいたものであることを、自覚しなくてはなりません。


◆以上で説教を終えてもよろしいでしょう。終えた方が良いかも知れません。

 敢えて蛇足を覚悟で申します。それは、説教が裁きの説教に終わらないためです。

 この聖書の箇所そのものが、実に厳しい裁きの譬え話ですから、裁きで、説教を終えてもよろしいでしょう。終えた方が良いかも知れません。蛇足を覚悟で、敢えて申します。


◆長年教会に通っていても、どこかお客さんのような人がいます。それぞれ、家庭や職場の事情があります。当たり前のようにして礼拝に通うことが困難な人がいます。私が赴任した教会で、必ず礼拝に遅れて来て、必ず礼拝が終わる前に帰ってゆく婦人がいました。この人は、ご主人が警察のお偉いさんで、この県の警察はキリスト教に対して批判的だったようです。ですから、この人は日曜日にも出勤する夫の目を盗んで、夫が出勤するやいなやタクシーで駆けつけ、夫が戻る前に帰宅するのです。この人の、困難な信仰の戦いは、何十年も続きました。このような人で、礼拝が、教会が守られています。

 しかし、このような人だけだったら、教会は成り立ちません。教会を我が家のように思い、いろいろと心配し働く人によって、礼拝も教会も支えられています。教会を我が家のように思う人が、教会に入り浸っているような人がいなければ、教会は成り立ちません。


◆しかし、一方で、教会は私の持ち家ではありません。自分の考え通りにはなりません。牧師こそ、雇われ羊飼いでは、牧師たり得ません。しかし、教会は牧師の持ち家ではありません。必ずしも、自分の考え通りにはなりません。ならない事が多いかも知れません。

 勿論、役員も同じことです。教会を我が家と思うようでなければ、なかなか教会の御用に当たることは出来ません。しかし、教会を自分の持ち物にしてしまってはなりません。

 最後にもう一度同じことを申します。教会は、神さまの農園です。神さまが望む収穫を上げなくてはなりません。それは信仰の実であり、希望であり、愛です。間違っても、悪意や、争いや、妬み、誹謗中傷のような、腐った実を生らせてはなりません。