日本基督教団 玉川平安教会

■2023年2月19日 説教映像

■説教題 「群衆を見て深く憐れみ

■聖書   マタイによる福音書 14章13〜21節 

       

★ 新共同訳聖書の小見出し『五千人に食べ物を与える』の下に、似たような出来事を記した他の箇所が上げられています。平行記事と言います。これを見ますと、4つの福音書共にこの出来事を記していることが分かります。また、マタイ福音書ですと、15章32節以下に、『四千人に食べ物を与える』と言う小見出しと、似たような記事があります。ここにも、マルコ福音書が平行記事として与えられています。

 ですから、この出来事を読む機会は大変多くなります。他の記事に比べて、6倍読む頻度が高くなります。礼拝説教でも、聖書研究祈祷会でも、更に『子どもの礼拝』でも、繰り返し読んで来ました。


★ そこで、どんなに繰り返し読んでいても、説教者としては必ずお話ししなければならないこと、お話しすべきことを、まず、お話ししたいと思います。半分くらいに約めてお話しします。

 19〜20節。

 『19:群衆には草の上に座るようにお命じになった。

  そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、

  パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。

  20:すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、

   十二の籠いっぱいになった。』

 5つのパンと2匹の魚で、何故『すべての人が食べて満腹した』のか、理屈にあいません。昔から、幾つかの解釈・説明がなされています。

 一番普通な解釈は、「人々はイエスさまの言葉で胸が一杯で、ついでにお腹も一杯だった」と言うものです。

 分からないでもありません。なるほどとも思います。しかし、胸が一杯で食べられないことはあるかも知れませんが、胸とお腹は、一応別ものです。


★  次に多い説明は、「人々は、実は弁当を持っていた。しかし、充分な量ではないし、自分だけで食べようと思って隠していた。もしくは、かえって混乱を招くと判断した。それが、小さな子供が自分のパンと魚を差し出したのを見て、恥じ、籠が回って来た時に、そこから取るどころか、自分の持っているものを入れた。ために、パンは増えた。」

  確かに、面白い解釈です。多分に教訓的でもあります。大人は、なまじ判断力があるために、かえって何も出来ない。その通りです。世の中には、算盤を弾いたら出来なくなってしまうことがあります。計算とか見通しではなくて、兎に角に今持っているものを捧げる。これが大事なことです。教会の業は大抵そんなものです。

 しかし、この解釈には致命的な欠陥があります。子供が自分のパンと魚を差し出したとは、ヨハネ福音書の6章に記されていることで、マタイ、マルコ、ルカには全然触れられていません。今のような解釈は、少なくともマタイ福音書には当て嵌まりません。

 

★  他にもいろいろと解釈がありますが、何故パンが増えたのか、このことに拘っている限り、正しい解釈は出来ないでしょう。問題は、20節です。

 『全ての人が食べて満腹した』、ここが肝心です。

 ほんの僅かなもの、とても皆で分かち合うには足りないと見えたものを、分け合ったら、皆が満足しました。世の中にはそう言うものが存在します。お金や食べ物などは、分け合うものの人数が増えれば、一人一人の取り分が減りますが、しかし、皆で分かち合うと、かえって、一人一人の取り分が増えるものが、現実に存在します。

 友情などはそうです。音楽もそうです。そして、それらは、目には見えないもの、数字に置き換えたり、図ったり出来ないものです。

 私たちは経験上も、そのようなものが存在することを知っています。


★  何より、神の言葉、皆で分かち合うと一人一人の取り分が減るどころか、皆で分かち合うと、かえって、一人一人の取り分が増えます。

 しかし、一方で、このことも指摘しておかなくてはなりません。皆で分かち合うと一人一人の取り分が減るどころか、かえって、一人一人の取り分が増えるものが、皆良い物だとは限りません。憎しみ・敵意もまた、分かち合うことで増幅します。

 

★ 最初に言いました、説教者としては必ずお話ししなければならないこと、お話しすべきことを、これで一応終えたことにしまして、13節に戻ります。

 『イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。』

 『これを聞くと』とは、バプテスマのヨハネが首を刎ねられた事件のことです。先週読みました。そうしますと、イエスさまは、我が身の安全を優先して、宣教活動を休止されたみたいに聞こえます。その通りかも知れませんが、それが一番の理由ではありません。

 ここでは、ヨハネ福音書が参考になります。ヨハネ福音書6章15節。

 『イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、

  ひとりでまた山に退かれた。』

 マタイ福音書14章5節。

 『ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆を恐れた。

  人々がヨハネを預言者と思っていたからである。』

 この二つを重ねて読みますと、ヘロデの政治に不満を持つ人々が、バプテスマのヨハネの代わりに、イエスさまを担いで反乱を起こそうとしていたと言う解釈が、容易になり立ちます。イエスさまは、そのような武力放棄を容認されません。それが、『ひとり人里離れた所に退かれた』、一番大きな理由だと取ることが出来ますでしょう。


★ ちょっと脱線したことをお話しします。

 『舟に乗ってそこを去り』、いろんな機会に、舟とは教会を比喩すると申し上げています。ここに当て嵌めますと、教会はイエスさまを担いで反乱を起こそうとしていた人々を避けて、人々から離れたと解釈出来ます。比喩的解釈の無理で、そんな解釈は間違いでしょうが、しかし、一面の真理があるとも思います。教会は、群衆に、この世に飲み込まれてはなりません。歴史上もそうでした。キリスト教の初期に、信仰を背景にしたローマへの抵抗運動が起こりました。反乱戦争さえ起こりました。しかし、当時の教会はこれに与する道は選びませんでした。

 ルターの宗教改革の時にも、この影響もあり、農民による反乱が起こりました。しかし、ルターはこれを支持しませんでした。

 これらのことを、教会は、ルターは、群衆を見放したみたいに言う人があります。しかし、教会は、群衆に、この世に、飲み込まれてはならないと考えます。少なくとも、戦争は、武力に訴えることは、イエスさまのお考えではありません。

 このことは、50年前の教団紛争についても当て嵌まります。


★ 13節の後半。

 『しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。』

 これも、乱暴に比喩的解釈を取りますと、群衆は教会を追いかけました。

 今日は、教会が群衆を追いかけているかも知れません。それではなりません。これも大脱線かも知れませんが、敢えて申します。

 松江時代に、考えさせられたことがありました。松江周辺には、数多く神社やお寺があります。出雲大社だけではありません。その一つ、華厳寺は、枕木山の頂上近くにあります。そこまでの階段の数たるや。その石段は、人工僅か数百人の村人の手で運び上げられたものです。

 このことは、何も枕木山の華厳寺に例を取るまでもありません。そのような寺社は、松江周辺だけでも、たくさんあります。寺社は、群衆に阿るようなことはしません。それでも、群衆がそこに押し寄せます。


★ 14節。

 『イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。』

 ここも比喩的解釈に拘りますと、『イエスは舟から上がり』、イエスさまは教会を離れられました。こういうことを根拠にして、宣教の業は教会を離れて行われると主張する人がいます。そういう時、場合もあるかも知れませんが、絶対視することではありません。

 教会を離れなければ御心を行うことが出来ないと解釈するのは、全く間違っています。

 

★ 注目しなければならないのは、『大勢の群衆を見て深く憐れみ』です。

 この群衆とは、今日の難民に近い人々ではなかったのかという説があります。頷けます。そもそも、イエスさまの後を追いかけていること、一般市民にはそんな暇はありません。にも拘わらず、食事の用意はしていないこと、どこに向かうか分からない、目的地を持っていないこと、さすらう間の備えがないこと、正に難民です。その日の宿もありません。

 そのような姿を『見て深く憐れみ』、これは重要です。そして慰められます。イエスさまは、そのような人々を見て下さり、同情して下さるのです。

 それならば、当然ですが、教会も、このような人々の姿に無関心であってはなりません。断じてなりません。深い教え、高度な神学に関心はあるけれども、無力な、むしろ惨めな様子をしている群衆には無関心では、それは教会のあるべき姿ではありません。

 そんなことはないでしょうと言う人もあるかも知れませんが、かつて、教会はそういう罪を犯して来たのではないでしょうか。後世に残るような大聖堂を建てていながら、その周辺にいる食べる物にも事欠く群衆を見捨てたという過去があるのではないでしょうか。

 勿論教会だけではありません。お寺こそそうです。寺院の建立のために、周辺の村人が駆り出され、田畑が廃れ、餓死者まで出た記録があります。そういう寺社こそ名刹と呼ばれ、信者や観光客を集めますから、何とも皮肉です。


★ 次に、『その中の病人をいやされた。』

 不思議な記述だと思います。『大勢の群衆を見て深く憐れみ』、彼らを救う手立てをなさったとは書いてありません。『その中の病人をいやされた。』です。

 マタイ福音書9章36節ですと、

 『また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、

   深く憐れまれた。』

 続いて

 『37:そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。

  38:だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」』

 似たような場面設定です。9章では、羊を養い導く働き手が必要だという話になります。 しかし、ここでは群衆を導かれたではなく、『その中の病人をいやされた。』です。

 長くならないように答えを言います。

 群衆の中には、病に苦しめられている者がいます。これに対応することも必要です。決して軽んじてはなりません。一方で、群衆の大部分に是非必要なものは、他にあります。


★ 16節。

 『イエスは言われた。

  「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」』

 弟子たちに、弟子たちの手で『食べる物を与えなさい』と言われました。

 これが単に食べ物のことではないということは、最初に読んだ通りです。むしろ、御言葉です。愛であり、平和、安心です。つまり、教会の働きのことを言っています。

 教会は、その長い歴史を通じて、民衆の医療のために尽くして来ました。これは、紛れもない歴史的事実です。今日では、世俗の医療が整いましたから、もはや教会の働きの最重要な部分ではないかも知れません。

 一方、ホスピスのように、教会にしか出来ないと言ったら語弊があるかも知れませんが、教会こそがなすべき医療もあるかと思います。このことは、教育や福祉にも当て嵌まります。この世の設備が整った今、教会が劣悪なものを提供する必要はありません。しかし、教会にしか出来ない、教会こそがなすべき教育や福祉があります。


★『あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。』

 『あなたがた』とは、弟子たちのことです。弟子たちが、『飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている』群衆に、『食べる物を与えなさい』と言われています。

 比喩に拘って説明します。弟子たちこそが教会に準えられています。決して群衆ではありません。つまり、弟子たち=教会とは、『食べる物を与え』る側です。貰う側ではありません。この『食べる物』とは、必ずしも食料のことではありません。御言葉のことです。 つまり、教会とは、そこに集う人々=教会員とは、食べ物、御言葉を貰う人のことではありません。逆に与える人のことです。


★ 信仰者にとって、礼拝を通じて御言葉をいただくことはとても大事なことです。御言葉で養われるのがキリスト者です。しかし、それだけではありません。むしろ、御言葉を宣べ伝えるのがキリスト者です。群衆に、御言葉を宣べ伝えるのがキリスト者です。

 勿論、御言葉で養われた者こそが、御言葉を宣べ伝えることが出来ますでしょう。御言葉に活かされていない者が、宣べ伝えることが出来る筈がありません。御言葉に活かされていない者が、宣べ伝えたならば、それは、危い業です。

 しかし、宣べ伝えることこそが、養われることでもあります。