日本基督教団 玉川平安教会

■2024年1月28日 説教映像

■説教題 「最後の晩餐で

■聖書   マタイによる福音書 26章26〜30節 


◆聖餐式の起源となる最後の晩餐が描かれています。私たちの信仰にとって、礼拝にとって、教会そのものにとって、決定的に重要な箇所です。

 そこで、1節1節、1字1句に拘って読んでまいりたいと思います。少し聖書研究じみるかも知れませんが、是非必要なことだと考えます。

 そうは申しましても、この箇所の注釈だけで1冊の本になるくらいですから、絞って絞ってお話しします。また、来週の聖書個所は26〜35節と致しました。26〜30節は重複します。来週お話しすべきことは、今日は省略します。


◆26節の最初の部分。

  … 一同が食事をしているとき …

 26章17節からして、この食事は過越の食事です。ユダヤ教は、日毎の晩餐を大切に考えます。毎日の晩餐は、各家庭での家庭礼拝でもあります。その中でも、最も大事な晩餐が過越の食事です。先週お話ししましたように、モーセの指導のもとに、エジプトでの奴隷状態から脱出したことを記念する食事です。むしろ礼拝です。そして、これも先週お話ししましたが、戸口に血を塗るというマーキングで、災いがユダヤ人の土口を通り過ぎたというのが、過越の意味です。

 私たちも、イエスさまの十字架の血で、心の扉にマーキングされることによって、罪から免れ、災いが通り過ぎるのです。


◆『一同が食事をしているとき』にと表現されています。『一同が』、一行が又は一同がと訳されているのは、同じ単語であって、(彼らが)と言う代名詞に過ぎません。しかし、マルコ福音書では、十字架の予告以降の記事に頻出します。マタイ福音書もマルコ福音書を、踏襲しています。

 簡単に申します。「一行が又は一同が」は、専門用語化して、教会という意味合いで使われています。弟子たち、則ち(教会)のこととして描写されています。

 一同或いは一行、これが教会です。教会とは、共に食事する群れのことであり、共に旅を続ける群れのことです。


◆『食事をしている時』、勿論、過越の食事です。普通は、食事の前に行われる祈り=祝福が、食事が始まってから行われています。過越の食事には、第3の祈り=祝福の祈りがあります。そこが特別に強調されていまする。

 27節の杯、『祝福の杯』、『賛美の杯』とは、食事に先立って行われた儀式のようなものです。ユダヤ教にそのような習慣が有ったそうです。食事に際して、葡萄酒の杯を上げ、祝福の祈りを唱えます。これが、初代教会の愛餐会での始まりの祈り、そして、聖餐式の祈りへと発展します。


◆26節の続きを読みます。

 … イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き …

 過越の食事の作法に則って行われた祝福です。

 『賛美の祈りを唱えて』も、直訳では『祝福して』、ここも過越の祈りに適っています。過越の食事だからこそ、その後の言葉に繋がります。

  … それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。

  「取って食べなさい。これはわたしの体である。」…

 『私の体』とは、過越の食事の際に供される小羊の肉を意味しています。

 Tコリント10章14節以下また11章17節以下の、パウロが聖餐式の起源を述べている箇所と比較して見るならば良く分かります。『私の体』とは、過越の食事の際に供される小羊の肉であり、また、教会そのもののことになります。

 ここには、聖餐共同体=礼拝共同体としての教会の形成が描かれています。且つ、その出来事と教会による裏切りが重ねられています。ユダ個人、ペテロ個人の裏切り躓きではありません。教会の裏切り躓きです。このことは、次週の説教で詳しくお話しします。


◆少し話がややこしくなっているかも知れません。繰り返し、約めて申します。ユダヤ人が戸口に血を塗って災いを通り過ぎたことを記念するのが、過越の食事です。血塗られたこと、マーキングされたことが、則ちユダヤ人の出発点です。

 同様に、主の十字架の血によって、マーキングされて、教会は教会になります。教会がキリストの体となり、罪から、災いから解放されます。罪も災いも、通り過ぎます。


◆27節。

  … また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。

  「皆、この杯から飲みなさい。 …

 杯も過越の食事の踏襲です。特に、十字架の血を意識しています。

 『感謝の祈りを唱えて』、滅多にしないギリシャ語の講釈が必要です。

 ここには、ユーカリステーサスという字が使われています。ユウカリステオーの名詞形、ユウカリスティアは、今日の聖餐式の語源です。本来は感謝する、ありがたく感じるの謂であり、感謝の言葉(祈り)を言います。


◆杯は、旧約聖書では、神さまから人間に下される恵みの象徴として用いられることが多いのですが、ここでは、十字架の血を指しています。杯の内容、即ち葡萄酒と十字架の血とが似ていることが、比喩の元となっています。同時に十字架が、旧約の杯と同様に、神さまから人間に下される恵みであるという意味が込められています。

 ここでも一先ず約めて言いますと、聖餐式とは、主の十字架の血によって、マーキングされたことを感謝する儀式です。

 ですから、主の十字架の血によって、マーキングされた、つまりは洗礼を受けたことへの感謝です。だから、洗礼を受けていない人は、聖餐式ら与ることが出来ません。

 ちょっと飛躍に聞こえるでしょうか。この話自体は、他の聖書個所で、もっと丁寧にお話ししなければなりません。とにかく、聖餐は十字架への感謝です。


◆28節。

  … これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、

   契約の血である。 …

 血、勿論、葡萄酒を比喩的にこのように呼んでいます。シナイ契約も、血によって締結されました。

 出エジプト24章8節を引用します。

  … モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、

  これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」…

 血による契約です。このことは私たち日本人にも全然違和感がありません。大事な契約・約束は血判によって行われます。印鑑はその代用でしかありません。

 契約とは、神とイスラエルの民との契約であり、当然、十戒・律法と同じです。

 ここでは、契約によってイスラエル民族が成立したように、十字架の血による新しい契約によって新しいイスラエル、教会が成立することが、述べられています。この言葉は、初代教会で行われた聖餐式の際の言葉と考えられます。


◆『罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血』、これを忘れてはなりません。この言葉で、マタイ福音書は、主の十字架の意味を語っています。『罪が赦されるように』です。十字架は罪の贖いです。贖罪です。

 ですから、聖餐式に与る者は、その前提として罪を告白しなくてはなりません。

 罪を自覚しない者、罪を告白しない者は、十字架と無縁の存在になります。


? ここの箇所は、少し膨らませても、若干ずれても、私たちの教会生活と重ねて思い巡らす必要があります。洗礼とは、イエスさまと契約を結ぶことです。イエスさまの十字架の血を浴びて、マーキングされることです。イエスさまの印が付くことです。心の扉に、十字架の血が塗られることです。

 その血によって、罪を、災いを、過ぎ越すことが出来ます。それが救い、救済です。

 このような信仰は単純で、初歩の初歩の信仰のようです。それに違いありません。

 キリスト教以外の他宗教でも、信じること、深く関わることが、救いの条件と言われます。そうすれば、病や災いを免れ、幸福でいられます。それが、原始的な宗教の教えです。

 キリスト教信仰だって、その点変わりはありません。


◆しかし、これは同時に信仰の奥義でもあります。自分の存在を、むしろ実存を、キリストの十字架の血が塗られた者、マーキングされた者として、自己理解し、罪から解放された者、罪の生活から過ぎ越した者として、自己理解することは、信仰の奥義です。

 今日は、どうも小難しい話になっていますので、角度を変えてお話しします。

 トルストイにこんな話があります。脱線かも知れませんが、罪とは何かを説得力をもって説明しています。ギリギリまで要約して紹介します。

 二人の女が司祭の元にやって来て、その罪を告白します。一人は、罪を犯したという自覚はありません。そこで、罪と言うよりも、失敗・欠点をたくさん数え上げて告白します。

 司祭は、この女に、犯した罪に見合う小石を沢山拾ってくるように命じます。女は、容易に、犯した罪と同じ数の石ころを集めて来ます。

 もう一人の女は、重大な罪を犯したという自覚を持っていて、涙ながらにそれを告白します。司祭は、その罪に見合う、大きな岩を運んで来るように命じます。それは、大変困難な業でしたが、女は、何とか運んで来ました。

 すると、祭司は、岩を元の場所に戻すようにと命じます。運んで来るだけでも大変でしたから、元に戻すことは至難の業でしたが、何とか元に戻すことが出来ました。

 司祭は、最初の女にも命じます。集めた小石を元の場所に戻しなさい。

 小石は、集める時は容易でしたが、元に戻すことは出来ませんでした。


◆私たちは、罪を犯しながら生きています。他人を傷付けずには、罪を犯さずには、生きていられない存在です。かつ、自分では、その罪を贖うことが出来ません。ならば、救いはありません。

 主の十字架の血による贖いだけが、人間の罪を贖い、赦すことが出来ます。この理屈、この神学については、より詳しく述べる必要がありますが、今週はちょっと時間的にも無理です。中途半端な話に終わらないように、近々、別の箇所でお話しします。


◆とにかく、十字架だけが私たちを赦し贖うと言うのが、キリスト教信仰の根本の根本です。ですから、これは実に初歩的な信仰のように見えながら、実は、信仰の奥義です。

 礼拝に出て、聖餐に与る、これが救いの根拠です。

 良く、キリスト教は御利益宗教ではないと言われます。確かに、家内安全、五穀豊穣を祈願する信仰ではありません。キリスト教を信じていれば、健康でお金持ちになれる、そんな教えではありません。

 しかし、私はキリスト教こそが、御利益宗教だと考えます。御利益とは、家内安全、五穀豊穣でも、健康でも金儲けでもありません。御利益とは、罪の赦し、罪の贖いです。

 とてつもなく大きな御利益です。


◆29節を読みます。

  … 言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、

   今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」 …

 この食事が十字架を前にした、正に最後の晩餐であることが強調されています。

 同時に、『父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで』、つまり天国の食事を預言しています。

 ですから、地上での最後の晩餐は、天国での最初の食事に重なります。天国での晩餐を預言しています。

 

◆また同時に、地上での最後の晩餐は、天国での最初の食事は、教会の聖餐式を預言しています。

 教会が、この25節のイエスさまの言葉を保存し伝え、聖餐式を守り、葡萄酒を飲んだことは、教会が自分を神の国の実現として(自己)理解していたことの証拠となります。 神の国=教会というのは、神の国の一面に過ぎないかも知れません。神の国の終末論的側面を忘れてはなりませんが、神の国=教会と言う側面も軽視してはならないでしょう。

 『新たに飲むその日』とは、復活の主イエスを記念し、復活の主イエスが臨在する聖餐式に於いて、新しく飲むその際までと言う意味だろうと考えます。


◆30節の『オリーブ山』とは、弟子たちが、復活のイエスさまと出逢う場所です。その意味で正に教会です。私たちは『賛美の歌をうたってから』『オリーブ山』に登り、復活のイエスさまに出逢うのです。

 『賛美の歌をうた』うのは、感謝の気持ちからです。十字架の出来事への感謝、十字架によって、罪が赦され、災いが通り過ぎて行ったことへの感謝です。逆に言えば、感謝できるのは、罪が赦され、災いが通り過ぎたと思えるからです。そんな風に思えるのは、自分の罪の現実を直視したからです。罪を直視できることが、既にして、罪からの赦しです。