日本基督教団 玉川平安教会

■2025年2月2日 説教映像

■説教題 「休息をもって報いて」

■聖   書  テサロニケの信徒への手紙二 1章1〜12節 


◇ 今日から、二テサロニケ書が与えられています。聖書朗読箇所は、1章1〜12節までですが、今日は、主
に、前半の7節までを読み、後半は次週読みたいと思います。

3節前半から読みます。

 … 兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。…

 一テサロニケ書を読みますと、パウロとテサロニケの間には、随分とややこしい出来事があったと考えられます。
パウロなりにテサロニケ教会員を心配し、世話を焼いたことは事実ですが、パウロの思想も行いも理解しては貰
えず、苦労したと想像出来ます。その事実と、この表現、賛辞とは、何だかぴったとは合いません。

 多くの新約学者は、この手紙を、起源70年以降のものと考えます。そうしますと、使徒はパウロの著書では
ありません。

 それどころか、二テサロニケ書は、一テサロニケ書に反駁するために記されたものだと言う学者もあるそうです。

 そのような学説に拘っていますと、素直に聖書の言葉として聞くことが難しくなりますし、解釈にも困難を来しま
すので、一テサロニケ書との比較にはあまり触れないで、兎に角に、与えられている箇所を読んでまいります。ど
うしても必要なことだけは、その都度申します。


◇ もう一度3節前半。

 … 兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。…

 一テサロニケ書の冒頭は、

 … わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、

   あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。…

 殆ど同じです。既に申しましたように、二テサロニケ書と、一テサロニケ書とには、大きな隔たりがあると考える
人があります。その通りかも知れませんが、著者がパウロでも、他の伝道者だったとしても、テサロニケ教会、一
つの教会に向かい合う根本姿勢は同じです。違いはありません。

 その教会が建てられていることが、その地に存在することが、神さまの御旨だと信じて、伝道者は働きます。そ
の大前提を疑ったら、伝道者の務めは、成り立ちません。


◇ その教会で、現在信仰生活を送る教会員も同じことです。先ず感謝でしょう。そこに教会があることに感謝
です。礼拝堂があり、10時30分から、礼拝が始まることに感謝です。どんなきっかけであれ、その教会に結び
連れられて通っていることに感謝です。

 玉川平安教会の場合は、今年が89年目ですから、その成り立ちもはっきりしています。誰と誰とが、この地
を選び、誰が礼拝を建てたのか、全て分かっています。そのことに、その人にも感謝です。大きな努力が、大き
な犠牲があって、初めて、この教会は生まれ育ちました。そのことに感謝です。

 89年間には、いろんなことがあったでしょう。失敗もあったことでしょう。中には、取り返しが付かないほどのこと
が合ったかも知れません。あったでしょう。しかし、今日も、こうして礼拝が守られています。そのことに感謝です。

 これが、教会の土台です。この土台が揺らいだら、教会は崩壊に向かうかも知れません。


◇ 3節後半。

 … あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、

  あなたがたすべての間で豊かになっているからです。…

 かつて何があったにせよ、教会がここに記されている様子ならば、素晴らしいことです。感謝できます。

 『信仰が大いに成長し』、大事なことでしょうが、これは、当人にも良く分かりません。客観的評価など出来ま
せん。ただ、「信仰が大いに成長し」ますようにと祈るだけです。

 『お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっている』、これは具体的なことです。
目にも見えることです。目に見えない愛もあるでしょうが、全体的には分かります。見えます。

 初めて教会に入らした人の目に、教会がどのように映るでしょうか。簡単に言えば、仲良しだと映るでしょうか。
目に見える様子ではないかも知れませんが、分かると思います。

 逆にいがみ合っていたら、憎しみが教会を包んでいたら、これは見えます。隠すことは難しいでしょう。

 お互いに無関心で、信仰的にも人間的にも、交わりが希薄だったら、これは、いがみ合いや憎しみよりも、も
っと、目に付きます。

 私たちの教会が、使徒パウロに、その後ろにいるイエスさまに、『あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはい
られません。』と言って貰いたいなら、なすべきことは一つです。少なくとも、その逆は、あってはなりません。憎し
みに支配され、いがみ合う教会は、パウロに感謝して貰えません。イエスさまに喜んで貰えません。


◇ 4節。

 … あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、

  忍耐と信仰を示していることを、神の諸教会の間で誇りに思っています。…

 『あらゆる迫害と苦難の中』だそうです。テサロニケ教会は、平和で豊かな教会ではありません。テサロニケの
町は、ローマ帝国内でも、最も繁栄した町の一つです。辺境の地では戦が続いていても、テサロニケの町は、
平和だった筈です。しかし、テサロニケ教会は、脅威に囲まれていたのです。

 教会と文字を打つつもりで、脅威と打って仕舞いました。ふと思いついて、脅威の2文字の間に「か」と打って、
変換してみました。教会と変換出来ました。教会には脅威が付きもののようです。脅威の真ん中に教会は存
在するようです。

 『あらゆる迫害と苦難の中』にある教会、脅威に囲まれている教会は、しかし、パウロに感謝して貰え、イエス
さまに喜んで貰える教会だったのです。


◇ このような教会を、パウロは『神の諸教会の間で誇りに思っています。』とも言います。誇りです。パウロの伝
道の成果です。

 ここで、また、ふと考えました。パウロ書簡の中で、こんなにも人数が増えた、教勢が盛んになったと記されてい
る箇所はあるでしょうか。思い当たりません。使徒言行録には、最初の方の頁にありますが、パウロ書簡の中に
は、見当たりません。

 今ここで、パウロ書簡を全部読み返さなくては断定出来ませんが、思い出しません。

 私たちの教会も同様でしょう。教会は、人が集まることが大事です。教会とは、エクレーシアです。エクレーシ
アとは、ギリシャ語で、呼び集められた者という意味です。集会です。因みに、ユダヤ教のシナゴーグ、シュナゴ
ーゲーとは、矢張り集会を意味します。辞書で引きますと、ユダヤ教の会堂と出て来ますが、集会です。

 教会は、人が集まることが大事です。しかし、人数のことではありません。人数だけではありません。パウロに
誇りに思われる教会とは、愛が豊かに実っている教会ことです。

 人数が多く集まっていても、そこにいがみ合い、憎しみがあるなら、それは、パウロの目には、恥と映るでしょ
う。


◇ 白河教会は、1886年創立です。今年は139年目になります。私の在任中に、100周年のお祝いをし
ました。139年ですから、いろいろな時代がありました。会堂建築も2回、今は3回目の建築が迫っています。
その間、牧師が排斥もありました。

 白河教会員に、「先生の時が一番良かった」と言われることがあります。正直嬉しい気持ち、得意な気持ち
もしますが、しかし、それ以降は、落ち目だとなりますと、むしろ悲しいことです。喜んではいられません。

 今現在の白河教会員にも、「今が一番良い」と言う人がいます。礼拝出席は半分になりましたが、「今が一
番良い」と言う人がいれば、そこから離れた牧師には嬉しいことですし、誇りと思うべきことです。

 この話は、松江北堀教会についても、玉川教会についても、全く当て嵌まります。


◇ 玉川平安教会はどうでしょうか。随分な人数が教会を離れました。他教会に移られました。それらの人々
に、どんな話が伝わっていくのでしょうか。

 今、玉川平安教会で礼拝を守る人が、「今が一番良い」と言う人がいれば、離れた人が帰って来るかも知
れません。新しい教会できちんと信仰生活を送っている人は、帰っては来られないでしょうが、それらの人は、私
たちにとっての誇りでしょう。

 「昔は良かった」と言う人もいます。結構なことです。良かった時の想い出を語ることは、大いに結構です。その
時の楽しい想い出が、今の教会生活に生きるでしょう。その時の、具体的な集会やら事業なりが、今の教会
をどのように進めていくかと考える時に、ヒントになれば、とても良いことです。

 単なる追憶であっても、楽しい想い出なら、それ自体素晴らしいことです。


◇ 但し、その過去を持ち出して、今の人を批判するのは健全ではありません。今を作ったのは誰か、反省が必
要です。過去を引っ張り出して、今を批判するのは、自分自身を批判することでしかありません。反省ならば、
大いに結構なことです。

 良い想い出が、より良い現在を作り出すのが、健全なことです。

 自分がその年齢ですから、遠慮なく申します。「昔は良かった」と思うことがあります。しばしばです。当たり前で
す。その時は、若く健康でした。体力がありました。知力だって忍耐力だって、若い時、昔の方が良いに決まって
います。

 その時の体験を、どのように今に活かすかだけが大事なことでしょう。それこそ、若い人の力になることが大事
でしょう。


◇ 5節後半を先に読みます。

 … あなたがたも、神の国のために苦しみを受けているのです。…

 『あなたがたも』と言うのは、パウロが『苦しみを受けている』からです。宣べ伝える者にも、それを聞いた者にも
苦しみがあります。しかし、それは『神の国のため』です。

悲しむべきことではありません。『神の国のために苦しみを受けているの』なら、その苦しみをも含めて、栄光であ
り、パウロには誇りです。

 私たちが、パウロの誇りに思って貰える教会かどうか、それが大事です。それだけです。私たちが今楽しいか、
ではありません。しかし、パウロに喜んで貰える教会ならば、そこで礼拝を持つ人は、きっと楽しいでしょう。辛い
ことがあっても、楽しいでしょう。


◇ 5節前半を読みます。

 … これは、あなたがたを神の国にふさわしい者とする、

  神の判定が正しいという証拠です。…

 一寸ややこしい表現ですが、あまり難しく考えなくともよろしいでしょう。一人一人の人間を、『神の国にふさわ
しい者とする』のは、神の判定です。他の誰かがすることではありませんし、自分で出来ることでもありません。

 その判定の基準は、判定される側の人間がとかく言うことではありませんが、今日の箇所を読む限り、『お互
いに対する一人一人の愛』が、有力な基準と思われます。いがみ合い、憎しみがあったら、深刻なことです。危
機的なことです。自分が、神の国から外れるかも知れません。他人を批判するよりも先に、そのことを心配しな
くてはなりません。


◇ 6節前半。

 … 神は正しいことを行われます。…

 使徒信条には、「神の義を信ず」とはありません。

 しかし、『我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり』とあります。これは、「神の義を信ず」と同じこ
とでしょう。同じでなければなりません。

 いがみ合い、憎しみあいながら、『我は聖霊を信ず』と言う人があるならば、その聖霊は悪霊かも知れませ
ん。要注意です。『我は聖霊を信ず』と言いながら、『聖なる公同の教会、聖徒の交はり』は、信ぜずとは、ま
いりません。矛盾です。


◇ 6節後半と7節前半。

 … あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、

  また、苦しみを受けているあなたがたには、

  わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。…

 『我は聖霊を信ず』ですから神さまの裁きを信じます。神さまの裁きを信ぜず、『我は聖霊を信ず』と言うことは
出来ません。『聖なる公同の教会、聖徒の交はり』も同様です。

 そのような私たちに、『休息』が約束されています。嬉しいことです。

 私は慢性的に睡眠障害です。一晩に5〜6回と目を覚ますのは当たり前、日によっては7〜8回です。続け
て2時間と眠ることは出来ません。不信仰の故かも知れませんし、職業病かも知れません。

 常に、心配ごとがあります。薬も飲みます。休息を取ることが、一番の願い・憧れです。残念ながら、休みは
殆どありません。休息が、死によって初めて実現するのでは、信仰者としては情けないことです。心に平安を取
り戻し、一晩でも安らかに眠りたいものです。 故に、玉川平安教会の平安を、真剣に願い、祈っています。

 約めて言えば、牧師である私が、ゆったりとした気持ちで過ごし、夜はぐっすりと眠れるようならば、玉川平安
教会には明るい未来が開けます。