◆ 順に読みます。26節前半。 … 人々はイエスを引いて行く途中、 田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて… 『捕まえて』と言う言葉は、何か特別の意味がありそうだと思って調べましたが、日本語の文字通りでした。イ エスさまの逮捕、裁判に続く記事の中で使われていますから、逮捕したという意味がありそうに聞こえますが、そ うではないようです。 むしろ、逆で、【たまたま通りかかった者を『捉まえて』】という強調と思われます。たまたまシモンがいただけで、 誰でも良かったという意味合いです。 そうしますと、この十字架を背負うのは、本当ならペトロだったのに、他の弟子たちの誰かだったのに、と聞き取 ることが出来そうに思います。一旦そのように考えますと、『シモン』とは、『シモン・ペトロ』と同じ名前であることに 気付きます。ルカが著した使徒言行録の執事選任の箇所では、その名前を順に並べますと、「ヤァハァウェの 賜物」なる「安息日の子」にして「正しい」「彼(神)は加えられた」一つの文章になります。 ◆ ヨハネ福音書には、全く異なる描写があります。19章17節。 … イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、 すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。… マタイ、マルコ、ルカは『シモン』であり、ヨハネ福音書だけが、『イエスは、自ら十字架を背負い』となっていま す。この事実は昔から注目されて来ました。矛盾と言えば矛盾です。ある人は、これを時間差で説明します。 最初は『イエスは、自ら十字架を背負い』しかし、弱り果て、跪き、結果『シモン』が背負わされることになったと いう解釈です。その通りかも知れません。私は、もう少し違う意味が込められていると解釈します。 当時、死刑囚が自ら十字架の横木を背負うのが普通でした。物語では、自分が埋められる穴を、自ら掘る とも描かれています。 つまり、『自ら十字架を背負い』とわざわざ書く必要はありません。ここにも、「あの十字架を担うべきは、この 私だったのに」という強調があるのではないでしょうか。 ◆ そうしますと、マルコ福音書10章37節以下が連想させられます。 … 37:二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、 もう一人を左に座らせてください。」 38:イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。 このわたしが飲む杯 を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」…この『杯』そして『洗礼』とは、十字架の犠牲を指 しています。 ヨハネは、知らずしてイエスさまの十字架の苦難を背負うことを申し出ていたのに、それから逃げ出しました。そ の結果、『イエスは、自ら十字架を背負い』となったのです。 ルカとヨハネとでは、表面矛盾しているようでいて、 強調されていることは同じです。弟子たちが、特にヨハネが背負うべき十字架を、イエスさま自身が、或いは他 の無関係な者が背負った、と告白しているように思われます。 ◆ 26節後半。 … 十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。… イエスさまが前で、その後に十字架を背負った者が続きます。読み込み過ぎかも知れませんが、私は、この順 番が気になります。イエスさまが前で、十字架を背負った者は、その後に従います。マルコ福音書8章34節。 … それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、 わたしに従いなさい。… ここにキリスト者の生き方が示されています。イエスさまを信じる者は、『自分の十字架を背負って』イエスさま に従います。『自分の十字架』です。「自分だけの十字架」と考える人もあります。その通りでしょう。誰もが、 『自分の十字架』、「自分だけの十字架」を背負って、人生を生きます。イエスさまが代わりに担ってくれるとは 描かれていません。 ◆ 27節。 … 民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。… 『群れを成して、イエスに従った』人々がいました。そこには、弟子たちの姿はありません。殆どは、イエスさまを 『十字架に付けよ』と叫んだ人々です。しかし、その彼らも、とにかくに『イエスに従った』のです。これが、聖書特 有の逆説です。 『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。』と言われたの に、弟子たちは従わず、イエスさまを『十字架に付けよ』と叫んだ人々が、従ったのです。大いなる逆説です。 ◆ その一方、イエスさまを信じて、かつ従った者がいました。『嘆き悲しむ婦人たち』です。12弟子ではありませ ん。イエスさまに、神の国の秘密を問い尋ねた青年たちでも、学者たちでもありません。従ったのは『嘆き悲しむ 婦人たち』でした。 これも読み込み過ぎと言われるかも知れません。しかし、私にはどうしてもそのように聞こえます。 イエスさまに従う動機は、学問にも修業にもありません。『嘆き悲しむ』愛です。 ドストエフスキーは、「例えイエスがキリストではないとしても、私はイエスを愛する。」と、キリスト教信仰・神学 からしたら乱暴なことを言っています。しかし、これが本当ではないでしょうか。 学問や修業でイエスさまについて行くのではありません。その動機は、愛にあります。 そうしますと、聖書を読むことも、これに重なると考えます。聖書を読むことは学問や修業ではありません。 聖書を読むことは、イエスさまに出会うことです。イエスさまを愛することです。 ◆ 28節前半。 … イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。… 細かいことでしょうが、十字架を背負ったキレネ人シモンが先です。その後にイエスさまです。ですから、『振り 向い』たら、そこに『嘆き悲しむ婦人たち』がいます。 イエスさまの近くにいるのは、何時でも『婦人たち』です。 これこそ、読み込み過ぎと言われるでしょうが、イエスさまの近くにいるのは、何時でも、どの場面でも『婦人た ち』です。教会でも、全く当て嵌まります。 今日では、女性が男性がと言ったら、その瞬間に既に時代遅れの錯誤かも知れません。女性が男性がと言 わないにしても、この表現ならば、当て嵌まりますでしょう。 イエスさまの近くにいるのは、何時でも『嘆き悲しむ』人々です。学問的問いを持った人ではありません。修行 中の人でもありません。イエスさまに一番近いのは、『嘆き悲しむ』人々です。 ◆ 28節後半。 … 「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。 むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。… 『嘆き悲しむ婦人たち』に、もっと酷い悲しみ、苦難が預言されます。 イエスさまのために『嘆き悲しむ婦人たち』に対してです。優しい言葉、希望が語られて然るべき時ではないで しょうか。 それなのに与えられた言葉は、暗い、絶望的預言です。 ここの部分は他の福音書にはありません。ルカだけです。他の福音書では似たような預言が、他の出来事の 中で語られています。 ルカだけが、イエスさまの十字架への道と、この終末預言とが結び付けています。ここには、ルカの教会、時代 が重ねられているのでしょうか。 パウロと共に行動していたルカが、体験した事実が、この預言を語らせるのでしょうか。この厳しい現実は、しか し、イエスさまが歩いた道であり、神の国へと向かう道なのだと言うのでしょうか。 ◆ エルサレムに、ヴィア・ドロローサと呼ばれる所、所ではなく行事でしょうか、ヴィア・ドロローサがあります。ラテ ン語で苦難の道です。ピラトの裁判が行われたと思われる場所から、『髑髏の丘』と考えられている場所まで、 十字架を背負って行進がなされます。十字架を背負うのは、お金を払った観光客です。何とも、不可解な、お 祭りです。お祭りと言うのが正しいでしょう。お金を払わなければ、無賃乗車ならぬ無賃担ぎです。 残念なことに、ピラトの法廷も、『髑髏の丘』も、現在の地図で確定することは出来ません。当然、ヴィア・ドロ ローサ、イエスさまが歩いた道も分かりません。2000年の時が経っています。髑髏に見えた丘も、形が元通り ではないでしょう。富士山の形でさえ変わっているのですから。 また、2000年の間には、昔の道は、現在よりも平均で20メートル下にあります。現に、エルサレムの嘆きの 壁も、かなりの部分、土に埋もれています。 残念ながら、ヴィア・ドロローサは、十字架の道ではありません。 ◆ スペインに、マリア像を神輿のように担ぐお祭りがあります。マリア像が教会から運び出され、街を練り歩きま す。沿道の人々は、このマリア様に、ペタペタとお札を貼り付けます。何とも下品にしか見えません。しかし、人 気のお祭りです。 そも、マリア様を担ぐことが出来るのは、相応の寄付をしたお金持ちだけです。寄付のの足りない人には許さ れません。そこで、仕方なしに、ペタペタとお札を貼り付けます。 この光景を、グレアム・グリーンが描いていますが、どうしても小説の題名が思い出せず、確認できません。 日本のお祭りも似たようなものでしょうか。 本当に十字架を担ぐことが出来るのは、『嘆き悲しむ婦人たち』だけでしょう。 ◆ 29〜30節は、同様の趣旨の繰り返し、強調ですから、注釈は無用でしょう。省略します。26節に戻りま す。 … 田舎から出て来たシモンというキレネ人… マルコ福音書では、 … アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、 田舎から出て来て通りかかったので… 『アレクサンドロとルフォス』とは初代教会で知られた人物だったからこそ、ここに名前が出ていると推測する人 がいます。そうかも知れません。他の福音書にはありませんから、マルコの教会で知られていた人なのでしょう か。後の伝道者だと言う人もあります。そうだったら、面白いとは思います。無理矢理に十字架を背負わされた 人の子どもたちが、自らの意志で、十字架を担う者になったのでしょうか。 ◆『田舎から出て来て』は、各福音書に共通しています。その田舎が、『キレネ』なのも共通しています。『キレ ネ』、現在のリビアの東部、地中海沿岸の都市です。そもそもはギリシャの植民地でしたが、後にはローマの都 市となりました。リビア地方では最大の町です。この時点でも、栄えた町でした。とても田舎ではありません。 『田舎から出て来て』とは、この『キレネ』から、エルサレムの都に出て来たことであり、出て来たのは、過越の 祭を祝うためでしょう。つまり、キレネ人シモンは、ユダヤ人です。『キレネ』を田舎と表現したのには、何かしらの 意図があるのでしょうか。分かりません。 イエスさまの十字架は、過越祭の最中に起きました。ユダヤのお祭りでは、犠牲が捧げられます。イエスさまの 十字架自体がお祭りです。 ヴィア・ドロローサの道を歩きお金を払って十字架を背負う観光客は、とても愚かに見えます。そんなことをする よりは、教会の礼拝に出席した方が良いでしょう。ここでこそ、『嘆き悲しむ』人々が、自分の背負うべき十字 架を見出すことが出来るのですから。礼拝に出て、改めて、自分が背負っている十字架の意義を見出すことが 出来るのですから。 ◆ 未だ、31節を読んでいません。 … 『生の木』さえこうされるのなら、 『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」… 『生の木』とは無罪のイエスさまを表し、『枯れた木』とは、罪人である人間を意味するとする注釈書がありま す。それでも、まるで意味が通じません。 箴言11章30〜31節。 … 神に従う人の結ぶ実は命の木となる。知恵ある人は多くの魂をとらえる。 神に従う人がこの地上で報われるというなら神に逆らう者、 罪を犯す者が報いを受けるのは当然だ。… この言葉が背景にあると考えられます。それでも、良くは分かりません。 ◆『生の木』は、生きていますから、実を結びます。その果実とは、聖書では常に愛の実、信仰の実を意味しま す。信仰のある者にも、苦難は訪れます。しかし、愛・信仰の実は、創世記に依れば、命の木だから、最後に は、救いに繋がります。信仰のない者の未来は、愛を実らせることはなく、救いには繋がらず、悲惨だと言うこと でしょうか。 |