◆ 順に読みます。36節前半。 … それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、 「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。… ゲツセマネとは、油搾りの意味だそうです。どこか意味深です。この後に描かれるイエスさまの苦悶の様子と、言葉の響きが重なります。イエスさまの、血を、命を搾り取られるような、心を毟られるような苦しみと、ゲツセマネ、油搾り園、ぴったりと符合します。 ◆ 順に読みます。36節後半。 …「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。… 何故かイエスさまは、この一番大切な祈りをなさる時に、弟子たちから離れられます。 『弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て』と記されているのに、その後、何故か弟子たちから離れられたのです。一番大切な祈りだからでしょうか。 マタイ福音書6章6節。 … あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、 隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、 隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。… ゲツセマネの園では、とはありません。しかし、戸を閉じるように、弟子たちから離れられました。 また、『祈っている間、ここに座っていなさい』とあります。「ここにいて、祈っていなさい」ではありません。『座っていなさい』です。それには何か意味がありそうです。後で触れます。 ◆ にも関わらず、37節前半。 … ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われた … この3人は、しばしば、他の8人とは違う扱いになります。 マタイ福音書17章1節。 … 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、 高い山に登られた。… 同じ顔触れの3人です。 この箇所を読んだ時に申しましたし、先週も繰り返しました。マタイ17章の所謂山上の変容は、天国の先取りです。 今日のゲツセマネの園の出来事もまた、天国の先取りなのではないでしょうか。少なくとも、天国への道筋で、必ず通らなければならない場所なのでしょう。 マタイ17章に描かれる、イエスさまの光輝く姿、栄光に満ちた場所に行く着くには、ゲツセマネの園を通らなくてはならないのではないでしょうか。 ◆ これは、全く私の個人的解釈で、専門家には受け入れられない解釈かも知れません。 ペトロ、そしてヤコブは、後に殉教者となります。使徒言行録12章1〜4節。 … 1:そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、 2:ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。 3:そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。 それは、除酵祭の時期であった。 4:ヘロデはペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。 過越祭の後で民衆の前に引き出すつもりであった。… 12弟子の中でヤコブが最初の殉教者となったことが、記録されています。ペトロも、本来は、この時に殺される段取りでした。 他の弟子たちも全員殉教者も知れませんが、取り敢えずは、ペトロ、そしてヤコブです。ヨハネはその証人でしょう。他の弟子たちも、やがては殉教者となりますが、今は、未だその時ではありません。 ◆ 37節後半。 … そのとき、悲しみもだえ始められた。… いよいよ、十字架が始まりました。殉教の時が近づきました。ここは、38説と一緒に考えたいと思います。38節。 … そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。 ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」 … この言葉は、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけに言われました。他の弟子たちにではありません。他の弟子たちは聞いていません。聞こえません。 『わたしは死ぬばかりに悲しい。』とは不思議な言葉です。「悲しみのあまりに死にそうだ」という翻訳もあります。 芥川龍之介の短編に、こんな話が記されています。武家の婦人がキリスト教に興味を持ち教会に通い、強く心惹かれるようになります。しかし、十字架の場面を学び、躓きます。死を迎えるイエスさまの姿に、「およそ、男子たる者にふさわしくない」と、躓いたのです。今日のこの場面、この言葉こそ、躓きとなるでしょう。 ◆ 躓きにならないように、こんな風に解釈、説明することが可能でしょう。 この悲しみは、ご自身のことではなく、弟子たちへの憐れみだと解釈、説明出来ます。 ヨハネ福音書17章12〜13節。 … 12:わたしは彼らと一緒にいる間、 あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。 わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。 聖書が実現するためです。 13:しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、 これらのことを語るのは、 わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。… 『彼らを守りました。』と明確に記されています。『わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。』とも言われています。滅びたのは、イスカリオテのユダだけでしょう。 ゲツセマネの園の祈りと同じではないでしょうか。 ◆ 39節。 … 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。 「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。 しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」… ここも、ご自分の苦しみのことではなく、少なくとも、ご自分のことよりも、殉教者となる弟子たちのことを案じ、憐れんでいると読むことも出来ましょう。 十字架を預言した時に、その言葉を諫めたペトロに、イエスさまは、『サタンの子よ、引き下がれ、あなたは神のことを思わないで、人間のことを思っている』と、強く叱られました。そのイエスさまが、今、十字架を逡巡するのは、奇妙な話です。不整合です。 ◆ しかし、このような解釈こそ、『神のことを思わないで、人間のことを思っている』からかも知れません。 人間的な会社を加えずに、平たくそのままに読めば、イエスさまは、死を十字架を恐れているように見えます。その通りではないでしょうか。 常に申しますが、神の子が人間の姿になられたとは、つまり、受肉とは、姿形が人間のようになられたという意味ではありません。人間の弱さを、人間の儚さを、人間の苦しみを知り、体験されたという意味です。人間の弱さ、人間の儚さ、人間の苦しみ、その究極は、病であり、死です。 人間の死を、死の恐怖さえも、イエスさまはご存じです。それが、受肉、神の子が人間の姿になられたと意味です。 ◆ 39節後半をもう一度読みます。 … この杯をわたしから過ぎ去らせてください。 しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。… 殉教者に定められているペトロやヤコブ、その他の弟子たちへの憐れみかも知れません。しかし、ご自分のことでもありましょう。 イエスさまは、人間が人間であるが故に免れることが出来ない弱さ、儚さ、苦しみ、その究極の、病、死をも、死の恐怖をもご存知なのですから。 ◆ 何度も繰り返してお話ししています。人間の犯す罪で殺人が一番罪深いものでしょう。しかし、それよりも酷い罪があります。それは、人を殺させることです。この人間最大の罪を、今も犯し続けている人がいます。そういう人が、豪傑と呼ばれたり、英雄と評価されたりします。 自分の死をも恐れず、戦う人が豪傑、英雄なのかも知れません。しかし、自分の死をも恐れず、戦う人が一国の指導者だったら、こんな怖いことはありません。もし、その指導者が不治の病に罹っていて、自分の命も、人の命も、ゴミ屑のようにしか考えなかったら、この人は国を滅ぼすでしょう。 今の時代には、自分の死をも恐れず戦う人は少ないでしょう。兵隊には殺人を命じておいて、自分は、安全な所に暮らし、自分の家族のためには、莫大な資産を蓄えている、そんな指導者が多いようです。反米のテロリストの親玉が、アメリカに資産を持っています。500億とも言われています。だから、アメリカは、時にこの資産を凍結します。反米を野萎えながら、凍結されるような資産がアメリカにあること自体が、全くの矛盾です。 イエスさまは、これらの偽キリストと、真逆です。 ◆ 40〜41節。 … それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、 ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、 わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」… その通りでした。人間は弱いのです。だからこそ、祈らなければなりません。自分の弱さを見つめて、そのために祈らなければなりません。ペトロは、人間の弱さの象徴として描かれています。ペトロを神さまみたいに礼賛する人は、この聖書個所を否定しています。 ◆ 42〜44節で、同じことが繰り返されます。それ程に、人間は弱いのです。 『心は燃えても、肉体は弱い。』それが人間です。 マタイ福音書が記された時代、迫害が深刻になって来ていました。この記事は、マルコと殆ど共通していますから、マタイ福音書が記された時代も、マルコの時代にも、この記事は、その時代を反映していると思います。『心は燃えても、肉体は弱い。』これは、観念的なことではありません。文字通りです。ハリウッド映画に描かれているような残酷な場面が、現実だったのです。 ◆ 45節。 … それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。 「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。 人の子は罪人たちの手に引き渡される。… 弟子たち則ち教会なのですから、『眠っている。休んでいる』弟子たちの姿は、教会そのものの姿です。そして、人間そのものの姿です。 そのままにまどろんでいられるものならば、それでも良いかも知れません。しかし、それは適いません。『時が近づいた』のです。これも、人間の姿です。『眠っている。休んでいる』間に、その『時が近づい』て来ます。どうしようもない、人間の真実の姿です。 明日何が起こるか分かりません。10分後かも知れません。1分後かも知れません。しかし、その時は確実にやって来ます。それが、人間の現実です。 地震も、病も、その他にも、もろもろ、その時は確実にやって来ます。 ◆ 46節。 … 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。… やって来たのはイスカリオテのユダです。聖餐の場から消えたユダです。45節では『人の子は罪人たちの手に引き渡される。』、罪人とはユダですが、ユダはその象徴でしかありません。 ペトロを弾劾するのも、庇うのも無意味なように、イスカリオテのユダについても、弾劾するのも、庇うのも無意味でしょう。何故、ユダは裏切り者となったのか、2000年間、諸説飛び交います。聖書が記しているのは、銀貨30枚で売ったということだけです。それにさえも理由はあるかも知れませんが、詮索しても答えはありません。確かなことは、イエスさまが、裏切り者によって売られた、この一点です。裏切り者は、使徒の一人でした。その裏切りは、聖餐式の最中に預言されました。 ユダの心情とか、事情とか、聖書に記されていないことを詮索してもらちがあきません。聖書が記しているのは、人も教会も罪を免れ得ないという一点です。救われがたい存在です。そんな教会のために、人間のために、イエスさまは十字架の血を流されたのです。 この十字架の血だけが、私たちの救いの根拠です。 |