◇先ず4節から読みます。 … この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、 ついには、神殿に座 り込み、自分こそは神であると宣言するのです。… 『この者は』とあります。誰のことでしょうか。ローマ皇帝を指していると読んで間違いありません。『神殿に座り 込み、自分こそは神であると宣言する』、ローマ皇帝は、正にそのように振る舞いました。日本流に言えば現人 神であると宣言し、人々に、皇帝の姿を刻んだ銅像を拝むことを強制しました。厳密には死んでから、神に数 えられるのですが。 『神殿に座り込み』とは、エルサレム神殿の庭にさえ、皇帝の偶像が置かれたことを意味します。 テサロニケ書、特に第2テサロニケ書には、執筆者や執筆年代を巡って議論があるようです。そうしますと、こ の皇帝とは誰かということも、不明確になりますが、年代がずれても、皇帝の名前が違っても、本質的なことは 変わらないでしょう。 初代教会に共通した事柄です。 ◇5節。 … まだわたしがあなたがたのもとにいたとき、 これらのことを繰り返し語っていたのを思い出しませんか。… パウロはこの事態が起こることを警告し、それに巻き込まれないようにと、戒めたと言っています。 にも拘わらず、この事態に動揺する者や、逆に迎合する者さえいたようです。 「最早教会はおしまいだ。」と絶望する者や、「この世の終わりだ。」と慌てふためく者もいたようです。 ◇2節に帰ります。 … 霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、 主の日は既に来てしまっ たかのように言う者がいても、 すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。… 無理もありません。「この世の終わりだ。」と叫びたくもなるでしょう。教会にとっても、ここの信仰者にとっても、 そのような深刻な状況です。 ◇先週の説教で、一寸勇み足をしました。シモーヌ・ヴェイユの本を紹介して、当時のローマの専制政治が、 武力による弾圧が、どんなに酷いものだったかをお話ししました。それは、今日のこの箇所でこそ触れるべきこと だったと思います。 繰り返しになりますが、それはそれは残酷極まりないものでした。例えば、カルタゴとの戦争に於いて、恭順の 意を示している一つの城郭都市を、敢えて攻撃し続けます。兵糧攻めにし、死人を食らうというような状況に追 い込んだ上で、和平交渉を行います。 無条件降伏したカルタゴの町を、武装解除し、女子どもを奴隷とします。ここまでは、当時の世界では、まま 見られることだったかも知れません。しかし、ローマは、その上で、兵士となり得る男は、皆殺しにしました。 慈悲を示すよりも、徹底して残虐さを見せることの方が、周辺の国、部族を従えるには効果的だと判断した のです。 ◇これも先週申しましたように、シモーヌ・ヴェイユは、ローマの文明を美化する風潮を批判し、ローマとナチスと を重ねて描いています。シモーヌ・ヴェイユがこの本、『ヒトラー主義の起源にかんする若干の考察』を著した 時、1942年までには、ヒトラーが既に政権を掌握し、世界大戦が始まっていましたが、未だ、ホロコーストなど の悪行は表には出ていません。噂程度でした。シモーヌ・ヴェイユは、ナチの正体を見抜いていました。 日本には、ローマを礼賛する傾向があります。しかし、シモーヌ・ヴェイユが書いたことは、全くの事実です。何 故なら、殆ど、ローマ人自身の著作や記録を根拠として、この本は成り立っています。ローマ自身の証言なので す。恐ろしいことに、それらは自慢げに語られているのであって、悪を悔いるものでも、批判するものでもありませ ん。 ローマは寛容だったような説も、しばしばテレビなどマスコミで紹介されます。しかし、何度も申しますが、シモー ヌ・ヴェイユの本は、ローマ自身の証言・記録に依っています。 ローマを美化するのを見て、ローマやナチスが、今、この時代に息を吹き返しているのではないかと、危惧しま す。政治を語る時間ではありませんから、具体的には申しませんが、懸念は杞憂ではないでしょう。ローマやナ チスを礼賛する風潮が、とても心配です。 ◇さて、肝心なことは、同様の迫害や弾圧が、教会にも及んでいたという事実です。並大抵のものではありま せん。 これも先週申しました。日本でも、キリシタン弾圧が行われました。しかし、例えば、踏み絵を踏めば、棄教を 口にすれば、赦されました。しかし、ローマは、棄教した者をも、皆殺しにしたのです。普通に考えれば、棄教し た者は赦した方が、キリスト教信仰が拡がるのを抑える効果になりそうですが、ローマの判断は逆です。怯えさ え、絶望に追い込むことが、効果的だと考えたのです。 こんな政策を採っている国が現代にもあるように思います。それが、恐ろしいことです。 ◇もう一度2節の後半だけ読みます。 … すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。… 動揺しても止むを得ない、慌てふためくのが当たり前の時代状況でした。 その中で、パウロは、戒めているのです。 3節前半。 … だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません。… 欺す者がいました。おそらく、教会の外にも、中にもです。 3節後半。 … なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、 不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。… 『だまされてはいけません。』『なぜなら』、滅びの時ではない、救いの時が来ると言うのなら分かります。納得 します。 しかし、ここで、最初に読みました4節となります。もう一度読みます。 … この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、 ついには、神殿に座 り込み、自分こそは神であると宣言するのです。… マタイ福音書等の預言と同じです。偽キリストが現れます。 ◇6節。 … 今、彼を抑えているものがあることは、あなたがたも知っているとおりです。 それは、定められた時に彼が現れるためなのです。… 『あなたがたも知っているとおりです。』と言う言葉の意味は、私には良く分かりません。いろいろと考えました が、答えは見つかりません。事柄の確実性を強調するための、単に文学的な技法かも知れません。 何れにしろ、肝心な預言は、『定められた時に彼が現れるためなのです。』ここにあります。不可避的です。 必ず起こります。どんなに努力しても、工夫しても免れることは出来ません。 避けられないと言えば、絶望的な預言に聞こえます。しかし、パウロが絶望させるために言う筈がありません。 不可避的、避けられないことが、むしろ、大事なのです。 偶発的なことならば、これに遭遇したら、不幸、不運でしかありません。不可避的ならば、これに正面から向 かい合い、対処するしかありません。 ◇以下一寸脱線かも知れませんが申します。 人間は誰しも、不可避的な運命の下で生きています。人間は、必ず、老い、病を得、そして死んで行きま す。そういう存在です。もし、死が不可避的なことではないならば、それは、逆に大変です。死ぬ訳にはまいりま せん。あらゆる力を総動員して、死を免れるように、防御の工夫、努力をしなくてはなりません。 アイザック・アシモフの複数の小説に、そんな状況が描かれています。近未来世界、あらゆる病を、死そのも のを克服した世界で、人々は、全く孤立した城砦とも言える館の中で、単独、たった一人で暮らしています。盗 人を避けるためであり、疫病を避けるためであり、予測できない事故を避けるためです。 家族などはありません。全財産を自分のものにするためです。財産が尽きたら、命を長らえる術も尽きますか ら、子や孫に財産を譲ることなど出来ません。だから、子や孫を設けることはしません。 全く孤独で、ただただ、自分の命を守り続けるためだけに生きています。 ◇不可避的だからこそ、これに向かい合い、そして、本当に守るべきものを守ります。 7節に戻ります。 … 不法の秘密の力は既に働いています。 ただそれは、今のところ抑えている者が、取り除かれるまでのことです。… 『抑えている者』とは、神の側に立つ存在なのか、逆なのか、良く分からない表現です。 『不法の秘密の力 〜を、抑えている』のですから、神の側なのでしょうか。それならば、『取り除かれる』という表現とそぐわないよう な気がします。 良く分かりませんが、言いたいことは、今の状態は永遠に続くのではなく、終わりがあると言うことでしょう。 ◇終わりの時は、則ち救いの時とは言えません。 8節前半。 … その時が来ると、不法の者が現れます… 大変なことです。ここで『不法の者が現れます』。未だ救いの時ではありません。 その後、8節後半。 … 主イエスは彼を御自分の口から吐く息で殺し、 来られるときの御姿の輝かしい光で滅ぼしてしまわれます。… 散々な苦悩の後、やっと救いの時が実現します。 ◇8節後半が実現する時までは、未だ、9〜10節の時代が続きます。 … 9.不法の者は、サタンの働きによって現れ、 あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行い、 10.そして、あらゆる不義を用いて、滅びていく人々を欺くのです。 彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからです。… サタンが支配するような、困難な時が長く続きます。しかも、それらは、まやかしではない力を持っています。 『あらゆる偽りの奇跡』を行います。偽りとは言われていますが、奇跡です。サタンは奇跡を行います。『不思 議な業』を行います。人の目を奪い、跪かせます。 このような表現は、ローマの力を表現しているのでしょう。 ローマなんて大したことはないとは言えません。言ったら、それは嘘です。大変な力です。人間の目、物差しか ら見たら、奇跡であり、不思議です。ローマはそのような力を持っていました。サタンの力です。 ◇しかし、この力に負けてしまうのは、『自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかった』人たちです。そのような 人は、ローマに屈服すると言うよりも、神の裁きに遭います。 11〜12節。 … 11それで、神は彼らに惑わす力を送られ、 その人たちは偽りを信じるようになります。 12こうして、真理を信じないで不義を喜んでいた者は皆、裁かれるのです。… これでは、ローマにも負けない残酷さではないかと、反発する人もあるかも知れません。 しかし、パウロが言いたいのは、逆に、『救いとなる真理を愛』しているならば、ローマの悪魔的な力にも負けな いということでしょう。 『偽りを信じる』のは、悪魔の力に屈したからだと言いたいのでしょう。 ◇『偽りを信じる』のは、既に読んだ2節に描かれるような人々です。 『主の日は既に来てしまったかのように言う者〜すぐに動揺して分別を無くしたり、 慌てふためいたり』する者 のことです。 逆に言えば、『主の日は既に来てしまった』と言う嘘に欺されず、動揺せず、分別をなくさずに、ただ、『救いと なる真理を愛』して毎日を生きているならば、サタンに滅ぼされることはないと言っています。 ですから、厳しいことを言っているように聞こえますし、裁きを語っているようにも聞こえますが、基本は、救いを 語っているのです。 私たち現代のキリスト者も、全く同じことです。現代には、ローマのような、明確なサタンはいないかも知れませ んが、誘惑する者がいます。偽りの終末を説く者がいます。そして、何よりも、自分が神だと言って、人々を支 配しようとする者、国家があります。これに従う者がいます。ローマやナチスの時代は、未だ続いているのです。 もし教会にこのような力が働き掛けるならば、断固、退けなければなりません。 |