日本基督教団 玉川平安教会

■2024年2月25日 説教映像

■説教題 「鶏が鳴く前に

■聖書   マタイによる福音書 26章69〜75節 


◆ この記事は、一連の物語の最終章に当たります。マタイ福音書で言えば、26章17節以下、特に21〜22節。

  … 21:一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、

   あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」

  22:弟子たちは非常に心を痛めて、

  「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。…

 弟子の裏切りを預言したイエスさまに弟子たちは、『まさかわたしのことでは』と反応します。これは、勿論、「わたしが裏切り者となるのでしょうか」という質問ではありません。「まさか、私のことは疑っていませんよね」という反発です。

 『代わる代わる言い始めた』とありますから、ペトロもその一人に過ぎません。

 25節の『先生、まさかわたしのことでは』、これはイスカリオテのユダの言葉です。


◆ 次の場面は、26章31〜33節です。

  … 31:そのとき、イエスは弟子たちに言われた。

  「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。

  すると、羊の群れは散ってしまう』/と書いてあるからだ。

  32:しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」

  33:するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、

  わたしは決してつまずきません」と言った。…

 ここで、22節の「主よ、まさかわたしのことでは」という言葉の意味が明らかになります。『たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません』

 皆がそのように思ったのでしょう。そのように言ったかも知れません。


◆ この場面には続きの話があります。34〜35節。

  … 34:イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、

   三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

  35:ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、

  あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。

  弟子たちも皆、同じように言った。…

 ここでも、『弟子たちも皆、同じように言った』と同じ内容の言葉が、繰り返されています。あくまでも、皆同じなのです。ペトロはその代表として描かれています。


◆ 36節以下には、ゲッセマネの園での出来事が描かれています。二週前に読んだ所ですので、肝心な事だけ読み返します。40〜41節。

  … それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、

   ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、

  わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。

  41:誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。

  心は燃えても、肉体は弱い。」…

 ペトロたちは、眠いことに勝てないという肉体の弱さにより、イエスさまを3度、落胆させてしまいます。


◆ 更に、56節。

  … このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。…

 捕らえに来た大祭司の手下と剣で戦うという抵抗を見せた後でしたが、結局は、『イエスを見捨てて逃げてしまった』のです。


◆ そして、今日の出来事になります。全ては一連の出来事です。ペトロ一人のことではありません。ペトロとは弟子たちのことであり、そして教会のことです。

 69節。

  … ペトロは外にいて中庭に座っていた。…

 『イエスを見捨てて逃げてしまった』ペトロが大祭司の『中庭に座って』います。

 『逃げてしまった』ペトロは、しかし、逃げ切れずに、引き返して来ました。

 少し飛躍した読み方かも知れませんが、聖書には、同様の場面が数多く描かれています。

 創世記3章8〜10節。

  …  アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、

  9:主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」

 10:彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、

   隠れております。わたしは裸ですから。」…

 人間が、神さまの眼を逃れ、隠れようとした最初の出来事・事件です。


◆ 続く創世記4章4〜7節、少し長い引用です。

  … 4:アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。

  主はアベルとその献げ物に目を留められたが、

  5:カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。

  6:主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。

  7:もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。

  正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。

  お前はそれを支配せねばならない。」…

 神さまから眼を背け、眼を合わせまいとした出来事・事件です。カインは兄弟を殺すという罪を犯し、また、神さまから眼を背け、神さまに対して嘘をつくという罪を犯します。

 同様の事件が、創世記を通じて繰り返されます。その他の旧約聖書でも同じです。

 聖書は、人間が神さまから目を背け、姿を隠し、嘘をつき、逆らった出来事の連続です。

 このように見てまいりますと、全くペトロの言動と重なります。


◆ 長い前置きでした。69節に帰ります。

 ペテロが、危険な中庭で火に当たっていたのは、情報収集とかの目的があってのことではありません。単純に寒いからです。ペトロは睡魔に負け、恐怖で逃げ出し、今は、寒さに震えています。これぞ、人間の肉体の弱さです。56節で、生命を惜しんで逃げ出したペトロが、ここでは、生命の危険も忘れて、ひたすらに寒いのです。

 少し前の、ゲッセマネの園では、眠りこけていました。ペトロの弱さが、次々と、容赦ない程に暴露されています。


◆ 70節。

  … ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、

   わたしには分からない」と言った。…

 ここでは、単に『「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った』に過ぎません。直接、イエスさまを知らないとは、言っていません。しかし、71節の証言を否定して、言いました。言ってしまいました。

 72節。

  … そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。…

 はっきりとイエスさまを知らないと言ってしまいました。


◆ 73節。

  … しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。

   「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」…

 『言葉遣いで』とは、ガリラヤ訛りのことでしょうか。そもそも、ペトロは教養人ではありません。日常の会話は、アラム語だったでしょう。エルサレムの市民、教養人の間で話される言葉はギリシャ語です。

 ペトロも、イエスさまに従い、かつ、弟子の筆頭として働いて3年にもなります。ある程度ギリシャ語も話せるようになっていたことでしょう。教養人の不利くらいは出来たかも知れません。しかし、恐怖と寒さで、全く余裕がなく、繕っていた外見は破れてしまいました。

 単に言葉や服装ではなく、繕っていた信仰そのものが破れ、本性が出てしまったとも言えるのではないでしょうか。実にみっともない光景です。


◆ まして、74節。

  … そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、

  「そんな人は知らない」と誓い始めた。…

 『呪いの言葉さえ』とあります。私たちはなんとなく聞いてしまいますが、これはユダヤ人にとっては簡単な言葉ではありません。その一番の証拠には、『ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら』と記していますが、具体的に何と言ったのかは記されていません。記されてはいけないからです。それほどに、悪しきことなのであり、非信仰的なことです。

 『たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません』とまでいった、つまり誓ったペトロが、ここでは、のろいの言葉を口にして、『そんな人は知らない』『と誓い始めた』のです。


◆ 人間の誓いは、呪いと、大差ありません。それどころか、肝心な所が共通しています。自分の考え、自分の意志が絶対と言っています。人間の誓い、呪いほど、頼りにならないものはありません。

 そして、誓いであれ、呪いであれ、自分の言葉を絶対とする者は、実に簡単に、自らの言葉を裏切るのです。眠いから、怖いから、寒いから、それで裏切ってしまうのです。

 少し厳密に見ますと、ペトロはその時々の誓いで、呪いで、イエスさまの言葉に逆らっています。イエスさまが弟子たちの裏切りを預言した時に、『たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません』と言ったことは、それがそもそも、イエスさまの言葉を信じなかったことであり、逆らったことであり、否定したことです。


◆ 先週申しましたように、多くの人がイスカリオテのユダを庇い、ユダが救われなければ救いはないとまで言う人もあります。逆の立場の人もいます。しかし、わたしたちには、イスカリオテのユダを庇うことも裁くことも出来ません。それは、神さまのなさることです。これは、ペトロにも当て嵌まります。

 聖書の中から、ペトロの手柄のようなものを数えることは出来ますでしょう。逆にペトロの罪、失敗を数え上げることも出来ます。

 ペトロを礼賛する人もいますし、逆の立場の人もいます。そのどちらも絶対ではありません。


◆ 75節。

  … ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」

   と言われたイエスの言葉を思い出した。…

 イスラエルの鶏も、その鳴き声は日本と変わらないでしょうか。2000年の時が経っていますし、品種改良もあったでしょうから、専門家が聞けば大きな違いがあるかも知れません。しかし、私たちの耳には大差ありません。

 鶏の声が、合図のように働いて、或いは目覚ましのように働いて、ペトロは、イエスさまの言葉を思い出しました。

 『鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』

 この言葉が言われたのは、26章34節です。その時に、ペトロは、何度も繰り返しますが、『たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません』と答えました。

 厳密には、答えたのではなく、イエスさまの言葉を否定したのです。ペトロがイエスさまの言葉を否定したのは、今日の箇所が初めてではありません。

 実は何度も否定しています。ヒィリポ・カイザリヤで、十字架の預言を拒否してイエスさまを諫め、結果『サタンの子よ』と叱られた時にも、他にも何度も。


◆ マタイ福音書16章22〜23節。

  … 22:すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。

  「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」

  23:イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。

  あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」… この直後には、このように記されています。

  … それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、

   自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。…

 『自分を捨て』とは、必ずしも財産を捨てるとか、家族と離れるとかと言う意味ではありません。イエスさまの言葉を信じて、自分勝手な思いを捨てることでしょう。ペトロがしたように、イエスさまの言葉に逆らう、まして窘めるようなことをしてはなりません。自分の考え・思想を優先してはなりません。


◆ ペトロはイエスさまの言葉を、思い出し、『激しく泣いた』とあります。最後に、イエスさまの言葉に立ち帰ったのです。