◇1節から、取り敢えず前半だけ、読みます。 … 終わりに、兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。… 『終わりに』と、パウロは言います。最後に、一言です。往々最後が一番大事なことがあります。「最後に」と 言ってから、30分くらい話す人がいます。「最後に」と3回くらい繰り返す人がいます。決して珍しくはありませ ん。 「最後に」から、30分くらい話を聞くのは一寸辛い思いがあります。しかし、大事なことだからこそ、どうしても 話したいのでしょう。聞くべきなのでしょう。 この書簡も、1〜5節、6〜15節、16〜17節と区切ることが出来ますので、『終わりに』が3回繰り返され ていると読むことも出来ます。 大事なことなのでしょう。どうしても話したいのでしょう。私たちは、「未だ終わらないの」とは考えないで、聞くべ きでしょう。もう一度姿勢を正して聞くべきなのでしょう。 ◇『終わりに』、パウロが言うことは何でしょう。 … わたしたちのために祈ってください。… です。これが、『終わりに』、繰り返し語らなくてはならない大事です。 『祈ってください。』は、1節、2節と繰り返されています。 しかし、この2箇所だけです。他にはありません。Tテサロニケにも全くありません。ローマ書にも1回もありませ ん。あらためて確認し、不思議に感じました。 ◇当然と思う人もありますでしょう。パウロをはじめ使徒たちは、他の人のために祈ります。この事例は、無数に あります。しかし、誰かに祈って貰うことは、殆どありません。福音書で、イエスさまに祈って貰う場面だけでしょ う。 その場面とは、実は、引用出来るようなぴったりの場面は、言葉はありません。 例えば、12弟子が選ばれた時でしょうか。他の牧師の説教で聞いたことがあります。 「イエスさまは常に弟子たちのために祈られた。12弟子を選んだ時にも、後に裏切ることになるユダのために、 後に躓くことになるペトロのために祈られた。」 普通にそんな言い方がなされます。 しかし、聖書を読むと、実際には、祈ってはいません。そのような言葉はありません。 ◇例えば、ゲサッセマネの園で、祈りが繰り返されます。 36節 …「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。 38節 … 「わたしは死ぬばかりに悲しい。 ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」 39節 … 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。 40節 … それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、 ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、 わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。 41節 … 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。 心は燃えても、肉体は弱い。」 42節 … 更に、二度目に向こうへ行って祈られた。 44節 … そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。 祈るのはイエスさまで、弟子たちは祈ってはいません。祈ることが出来ません。 イエスさまのために、弟子たが祈ると言う場面はありません。 ◇諄いほど申しましたが、パウロが言った『わたしたちのために祈ってください。』とは、極めて例外的な言葉で す。 手紙の終わりに、『最後に』と断って、しかし、繰り返し話したことは、矢張り、特別な、重要事です。 ◇その祈って貰いたい内容は、1節後半から2節に記されています。 … 主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、 速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、 また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、… これだけです。 内容を読むと、決して『わたしたちのために祈ってください。』ではありません。 結局、テサロニケの町のため、教会のため、何よりテサロニケ教会員のための祈りです。 1節は、福音の進展のために 2節は、教会員が健全な信仰の道を歩くように この2点であり、2点だけです。 ◇町を歩いていて、「あなたのために祈らせてください。」と声を掛けられたことが何度かあります。余程、弱った 迷子の子羊のように見えたのでしょうか。そうかも知れません。 何ともいかがわしく感じられますし、かつて、統一原理が、そんなことをしていましたから、祈って貰う気持ちはさら さらありません。 そういう時、つい答えてしまいました。「間に合っています。」 押し売りや、うるさいセールスを断る常套句です。 相手が証券会社や銀行ですと、「そんな余裕はありません。」と答えます。 「教会員に、そういう仕事の人がいますので。」と断ることもあります。 ◇「あなたのために祈らせてください。」の時には、「間に合っています。」と答えた後で考え込みました。 「間に合っているだろうか。間に合っていないのでは。誰か、私のために祈っている人はいるだろうか。」 この頃体調が悪くて、いろいろと差し障りが出ましたので、牧師の健康を覚え祈ってくださる人があります。あり がたいことです。祈って貰っていることを自覚できる日々です。 しかし、パウロが言ったのは、そういう意味ではありません。 繰り返しますが、 一つは、福音の進展のために 一つは、教会員が健全な信仰の道を歩くように この2点であり、この2点だけです。 ◇また、視点を変えて見て、パウロ自身は何を祈っているでしょうか。 どんな時にどんなことを祈ったのでしょうか。あまりに沢山の事例がありますので、引用することは出来ません し、必要ないでしょう。 殆ど全て、福音の進展のために、教会員が健全な信仰の道を歩くように、この2点であり、この2点だけで す。 幾つか弟子たちが起こした奇跡の記事もあります。病気の治癒を願う祈りもあったようです。しかし、それは例 外に過ぎません。 矢張り、祈るべきは、福音の進展のために、教会員が健全な信仰の道を歩くように、この2点であり、この2 点だけです。 牧師はそのために祈ります。教会員もまた、そのために祈るべきでしょう。 ◇世の多くの人は、祈りを、祈願と考えています。祈願、正に祈り、願うですから、祈願で間違いありません。し かし、ややもすると、祈り、願い、賽銭やお布施を上げ、その対価として、成就を期待します。ちょっと間違えれ ば、これは、取引です。神さまや仏様、その他の偶像を相手にした取引です。 その取引は大抵、損して終わるでしょう。見合わない取引です。 日本昔話に『鼠と馬』という話があります。仏教説話の『鼠観音』が下敷きだそうです。 日本昔話では、馬の立派な姿に憧れた鼠が、草むらに打ち捨てられていた地蔵さんに、「馬の姿に変えて欲 しい。」と祈願します。鼠は、せっせと働き、地蔵とその祠を綺麗にします。満願成就の日、果たして鼠は馬に変 身しました。しかし、サイズはもとの鼠の大きさでした。地蔵は、言い訳をします。「もっと信者が多ければ、祠が 大きくなれば、私の力も増し、願いも叶えてやれるが、おまえ一人が信者では、これが限界だ。」と。 『鼠観音』では相手は観音様です。鼠は顔だけ馬に変えられ、絶望し、悶死します。憐れんだ観音様が、鼠 を観音様の姿にしてくれたという話になるそうです。元々の仏教説話は、読んだことはありません。 実は、ギリシャ神話にも似たような話があります。ギリシャの神々は、その信者の数に応じて力が湧くのだそう です。馬力ならぬ、人力です。これは、読みました。 まあ、どちらにしても、これでは信仰・祈りの話ではなく、むしろ取引です。 1節は、福音の進展のために 2節は、教会員が健全な信仰の道を歩くように この2点であり、2点だけです。 ◇突然話題を変えるようですが、「情けは人のためならず。」という言葉があります。矢張り仏教が起源でしょう か。落語にもあるそうですが、聞いたことはありません。 この言葉の意味を取り違えている人が多いそうです。「情けは人のためならず。」「情けを掛け、甘やかすと、 かえってその人のためにはならない。厳しく接した方が良い。」と、誤解されているそうです。「情けを掛けても、 裏切られる。」意味だと、思っている人も少なくないそうです。 勿論、本当は「情けは人のためならず。むしろ、自分自身のためだ。他人に掛けた温情は、何らかの形で、 我が身に返ってくる。」という意味です。 しかし、この場合も、一種の取引でしょうか。損する場合が多い取引でしょうか。 ◇聖書は、パウロが言っているのは、そんな意味合いのことではありません。 3節以降を読みます。 … しかし、主は真実な方です。 必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。… 過去数週お話ししていますから、今日は省きますが、圧倒的な力を持ったローマ帝国に依って、キリスト者は 苦しめられていました。命さえ奪われました。 そんな時に、馬に変身したい教会員は多かったでしょう。馬の力が有ったら、戦えると考え人がいたでしょう。 逆に、とても適う相手ではないから、馬に乗って逃げだそうとした人もいたでしょう。一番多いのは、キリスト信仰 を隠して生きようとした人ではないでしょうか。そもそも、当時の教会は、所によっては、地下に潜っていました。 文字通りです。地下にある墓地で、礼拝を守っていたと言われます。 この墓地が、礼拝の場であり、情報交換の場であり、伝道の場でさえありました。今日の聖書は、多くの場 合、多くの場所で、人の口から、人の耳へ口へと伝えられました。口伝伝承です。 その際に、福音の内容と共に伝えられたのが、この3節の言葉です。 そして、この言葉が、そのまま祈りです。 本当に真実な祈りとは、何が欲しいとか、病を癒やして欲しいとかではありません。 「私の信仰を守ってください。」「教会の信仰を守ってください。」これが、祈りです。 ◇私たちも教会のために祈ります。「数十年後にも、この教会が存在し、礼拝が守られますように。」と祈りま す。玉川平安教会の現状では、切実な祈りです。 「そのために、もっと新しい人が、若い人が教会に集まりますように。」と祈ります。決して間違った祈りではあり ません。しかし、この祈りさえも、神さま相手の取引ではありません。まして、新興宗教のような商売繁盛の祈 願ではありません。 私たちの祈りは、「教会が盛んになりますように。」ではありません。 少なくとも、それだけではありません。大事なことは、「この福音が後々まで、正しく伝えられますように。」で す。「そのために、この教会を、教会員を用いてください。」です。そうでなければ、矢張り取引です。 「教会が盛んになりますように。」と牧師は、常に祈っています。盛んになることが牧師の手柄だと考えている人 もいます。盛んにならないことを嘆き悲しんでいる牧師もいます。私もその一人でしょうか。 しかし、本当に大事なことは、そこにはありません。「福音が後々まで、正しく伝えられますように。」であり、 「教会と出会い、救われる人が一人でも多くありますように。」であり、「そのために、この教会を、教会員を用 いてください。」であり、その前提があって初めて、「そのためには、教会員が増えますように。」です。 ◇4節も、パウロの願いであり祈りです。 … そして、わたしたちが命令することを、あなたがたは現に実行しており、 また、これからもきっと実行してくれることと、主によって確信しています。… 祈りであり、感謝でもあります。 パウロという人は、頻繁に皮肉言いますから、ここも、「そうでしょう。そうでなくては困りますね。」という皮肉か も知れません。 5節も同じです。 … どうか、主が、 あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。… |