◆.1節。論理展開、時間の経緯に拘るパウロにしては珍しく、結論を先に述べています。 … 兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。… 世の終わりの時期と場合を知る必要はありません。だから書き送る必要もありません。パウロは、明確に述べ ています。 この事実が、先ず大事なことです。パウロがこんなにもはっきりと断言しているのに、キリスト教の歴史2000 年を通じて、『何年何月、この世の終わりの時が来る』と、勝手に言う人がいました。現代にもいます。聖書的 根拠は何もありません。 そんなことは、誰にも分からないと言うよりも、誰も知る必要がありません。 ◆.大事なことですから、諄く聞こえても申します。福音書にも同じように記されています。 例えばマタイ福音書でも、『世の終わりの時』について、随分な紙数をかけて説明されています。その一部を 聞けば、マタイ福音書こそ、『世の終わりの時』を強調し、これに備えなさいと教えているようです。 しかし、同時に、むしろそれ以上に、『その時と時期について』は、知らなくて良い、偽預言者に欺されないよう にと強調しています。7章23〜26節。 … 23:そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、 信じてはならない。 24:偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、 できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。 25:あなたがたには前もって言っておく。 26:だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。 また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。… 更に7章36節。 … 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。 ただ、父だけがご存じである。… ◆.知る必要がないと言いながら、それでは、パウロは、何故そのことに触れているのでしょうか。人々の強い関 心が、そこにあったからです。そして、『世の終わりの時』、終末への関心は、時期と状況、徴を知ることにのみ、 流れてしまっていたからです。肝心な終末論から離れて、終末論の本質から離れて、その時と徴を知ることにだ け、関心がありました。 この点でも、現代と同じです。 2節。 … 盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、 あなたがた自身よく知っているからです。… 終末とは、時期と場合を知ることで回避できるようなものではありません。 『あなたがた自身よく知っている』とは、具体的にどのようなことなのか、はっきりとは分かりません。迫害・弾圧 のことでしょうか。テサロニケ教会では、その危機が迫っていたのでしょうか。既に、ローマに捕らえられた人がいた のでしょうか。 それとも、もっと普通のことでしょうか。病や事故、戦争などのことでしょうか。それならば、現代でも同じことで す。 いずれにしても、『あなたがた自身よく知っている』と言えば、誰もが頷くことだったりでしょう。わたしたちでも、 『あなたがた自身よく知っている』と言われば、思い当たります。私たちの身の回りで、2節に記されたような出来 事が、常に起きています。ある意味、特別のことではありません。 ◆.3節に記されていますように、『それから逃れることは決してできない』。ならば、時期と徴を知ることではな く、それに耐えられるように備えなければなりません。 3節。 … 人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。 ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、 決してそれから逃れられません。… トーベ・ヤンソン『ムーミン谷の仲間たち』の中に、『この世の終わりに脅えるフィリヨンカ』という話があります。 フィリヨンカは、日常の中に、「この世の終わりの徴」を嗅ぎ取ります。日常のどんな些細な出来事も、「この世 の終わりの徴」に見えてしまいます。ただただ怯え、安心はありません。 こういう人は、フィリヨンカに限らず、怯えが、むしろ、自分だけに与えられた得意な能力であり、怯えが、むし ろ、この人の優越性を表す徴です。 キリスト教2000年の歴史の中に登場した、「この世の終わり」に脅える終末信仰者は、大方、フィリヨンカに 過ぎません。 より正確に言うならば、こういう人たちは、本当には、脅えてなどいません。得意がり、喜んでいます。もし本当 に終末に脅えるならば、『決してそれから逃れられません。』という言葉をこそ、聞くべきでしょう。 ◆.4節に述べられていることは、信仰者は、この苦しみに遭わないということなのでしょうか、それとも、耐えられ るということなのでしょうか。 … しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。 ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。… そもそも、3節とは大分、色合いが違います。 3節では、『突然、破滅が襲うのです。』と述べられ、4節では、『突然あなたがたを襲うことはないのです。』と 述べています。真逆です。 ◆.そも、世の終わりとはどのようなものなのか、聖書はどのように描いているのか、もう一度問題にせざるを得 ません。その内容とは、4章13節以下です。先週の箇所全体です。 特に13節。 … 兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、 希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、 ぜひ次のことを知っておいてほしい。… このように述べて、復活信仰が説かれます。 「この世の終わり」は、世の人々にとっては、裁きの時であり、滅びの時です。しかし、信仰者にとっては、同時 に栄光の時でもあります。 決して脅えることではありません。このことについても、時期と徴候を知る必要はありません。 ◆.時期を知ることよりも、備えをすることよりも、普段の信仰生活を整えることが肝心です。弁えておかなくて はならないのは、その覚悟の程です。その時を見据えた生き方が問われるのです。 説教で引用するには恥ずかしい程に、良く知られた話があります。 ルターの「たとえ明日、世界が滅亡しようとも、今日私はリンゴの木を植える。」です。 手垢が付くほどに、有名な言葉ですが、ここに真理があるから、引用されるのでしょう。終末に向かい合う姿 勢について、これ程に、適切な言葉は他に見当たりません。私たちも「たとえ明日、世界が滅亡しようとも〜リン ゴの木を植える。」しかありません。 ◆.世の終わりとは、個々人の死の時だという説があります。半分賛成できます。しかし、4章15節を見れば、 使徒パウロはもっと別の考え方をしていたようです。 … 主の言葉に基づいて次のことを伝えます。 主が来られる日まで生き残るわたしたちが、 眠りについた人たちより先になることは、決してありません。… ここでは、パウロも終末の時について述べています。 しかし、そのことに拘泥しているのではありません。正に、時期と場合を知る必要はありません。一方で、その 時が確実に来ることを、私たちは知っています。 5章2〜3節に描かれるのは、人生観の問題です。死・滅びというものを全く念頭に置かない生き方をする 者にとっては、正にこのようにして、死は、滅びは、突然に訪れます。そして、その人の人生の一切を無に帰しま す。 ◆.しかし、イエス・キリストの十字架を見据えて生きる者にとって、不意と言うことはありません。5〜6節は、不 思議なことを描いているように聞こえます。しかし現実です。 刹那的に生きる者にこそ、死と滅びは突然に訪れます。しかし、死と滅びを真っ正面から見据えて生きる者 は、昼・光の中に生きています。 覚醒した生き方、それは、ことの真実を見据えていることです。 ◆.5節。 … あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。 わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。… 光の子、昼の子、が何を意味するのか、誰もが納得できるような説明は難しいでしょう。しかし、漠然としてい ても、その意味は誰にも理解できるとも言えます。皆が知っています。 私たちが脅えるのは、闇の中にいる時です。先が見えないから脅えます。文字通りの意味です。そして、心の 目の場合も同様です。心で見ることが出来ないと、つまり、理解や納得が出来ないと不安です。 明るい光の下で、しっかりと見ることが出来れば、不安は収まります。心に希望という光があれば、闇を追い 払うことが出来ます。 ◆.もっと身近な例で申します。人間の肉体には、いろいろな苦痛が与えられます。その中で、足がしびれると いう苦痛は、かなりなものです。長く正座した後のしびれ、その苦痛は耐えがたい程です。 しかし、誰もが知っています。このしびれは長くは続きません。数分で去ります。ですから、しびれを苦にして絶 望する人はいません。しびれを早く取り去る方法もあるようですが、何よりの対処方法は、せいぜい数分のこと ですから、我慢することです。 耐えがたい程の苦痛を味った時も、同じことです。最も適切な対処方法は、我慢することです。そして、希望 があれば、我慢出来ます。 ◆.6節。 … 従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、 身を慎んでいましょう。… 世の終わりに備える対処方法は、これしかありません。普段通りの生活をすること、信仰者として歩き続ける こと、これしかありません。世の終わりに脅えて騒ぎ立てることではありません。まして、その恐怖を他人に伝染さ せることではありません。そんなことをする人は、闇の伝道者でしょう。サタンの手下に過ぎません。 ◆.8節。 … しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、 救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。… 6節と全く同じ内容が繰り返されています。 当たり前の信仰生活を、当たり前に続けること、これが悪・絶望との戦いです。 そのような信仰生活の真逆は、罪に染まった生き方、裁きを恐れない不遜な生き方です。裁きの存在そのも のを否定する虚無的な生き方に由来します。 何故、人は悪いことができるのでしょうか。恥を知らないのでしょうか。そうかも知れませんが、何よりも、神の 裁きを信じていないからです。 ◆.死・滅びと闘う具体的な力が、ここで示されています。それは、信仰と愛、救いの望み、救いの望み、これ こそが、信仰と愛を産みます。そして、信仰と愛だけが、死・滅びと闘う真に有力な防具となりうるのです。 9節。 … 神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主 イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。… 怒りは、力にはなりません。慎んでいることが、真の戦いです。 10〜11節には、教会が何をなすべきかが説かれています。これが実際的なことです。11節。 … あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、 お互いの向上に心がけなさい。… 十字架による救いを信じて生きること、その信仰に立って、慰め合い、励まし合うのが、正しい教会のありよう です。 ◆.10節。 … 主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、 目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。… 『目覚めていても眠っていても』、喜びの時も、悲しみの時も、信仰者は、『主と共に生きる』のです。 このことをこそ、このことだけを知ればよろしいのであり、信じればよろしいのです。何時、どんな風にして、確か にそんな関心を持ちますが、それは、最重要なことではありません。日々の備えも特別なことではありません。 淡々と、日々の務めを果たすだけです。 |