日本基督教団 玉川平安教会

■2025年1月19日 説教映像

■説教題 「希望を兜として」

■聖   書  テサロニケの信徒への手紙一 5章1〜11節 


◆.1節。論理展開、時間の経緯に拘るパウロにしては珍しく、結論を先に述べています。

 … 兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。…

 世の終わりの時期と場合を知る必要はありません。だから書き送る必要もありません。パウロは、明確に述べ
ています。

 この事実が、先ず大事なことです。パウロがこんなにもはっきりと断言しているのに、キリスト教の歴史2000
年を通じて、『何年何月、この世の終わりの時が来る』と、勝手に言う人がいました。現代にもいます。聖書的
根拠は何もありません。

 そんなことは、誰にも分からないと言うよりも、誰も知る必要がありません。


◆.大事なことですから、諄く聞こえても申します。福音書にも同じように記されています。

 例えばマタイ福音書でも、『世の終わりの時』について、随分な紙数をかけて説明されています。その一部を
聞けば、マタイ福音書こそ、『世の終わりの時』を強調し、これに備えなさいと教えているようです。

 しかし、同時に、むしろそれ以上に、『その時と時期について』は、知らなくて良い、偽預言者に欺されないよう
にと強調しています。7章23〜26節。

 … 23:そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、

   信じてはならない。

  24:偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、

   できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。

  25:あなたがたには前もって言っておく。

  26:だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。

   また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。…

 更に7章36節。

    … 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。

    ただ、父だけがご存じである。…


◆.知る必要がないと言いながら、それでは、パウロは、何故そのことに触れているのでしょうか。人々の強い関
心が、そこにあったからです。そして、『世の終わりの時』、終末への関心は、時期と状況、徴を知ることにのみ、
流れてしまっていたからです。肝心な終末論から離れて、終末論の本質から離れて、その時と徴を知ることにだ
け、関心がありました。

 この点でも、現代と同じです。

 2節。

 … 盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、

   あなたがた自身よく知っているからです。…

 終末とは、時期と場合を知ることで回避できるようなものではありません。

 『あなたがた自身よく知っている』とは、具体的にどのようなことなのか、はっきりとは分かりません。迫害・弾圧
のことでしょうか。テサロニケ教会では、その危機が迫っていたのでしょうか。既に、ローマに捕らえられた人がいた
のでしょうか。

 それとも、もっと普通のことでしょうか。病や事故、戦争などのことでしょうか。それならば、現代でも同じことで
す。

 いずれにしても、『あなたがた自身よく知っている』と言えば、誰もが頷くことだったりでしょう。わたしたちでも、
『あなたがた自身よく知っている』と言われば、思い当たります。私たちの身の回りで、2節に記されたような出来
事が、常に起きています。ある意味、特別のことではありません。


◆.3節に記されていますように、『それから逃れることは決してできない』。ならば、時期と徴を知ることではな
く、それに耐えられるように備えなければなりません。

 3節。

 … 人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。

   ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、

   決してそれから逃れられません。…

 トーベ・ヤンソン『ムーミン谷の仲間たち』の中に、『この世の終わりに脅えるフィリヨンカ』という話があります。

 フィリヨンカは、日常の中に、「この世の終わりの徴」を嗅ぎ取ります。日常のどんな些細な出来事も、「この世
の終わりの徴」に見えてしまいます。ただただ怯え、安心はありません。

 こういう人は、フィリヨンカに限らず、怯えが、むしろ、自分だけに与えられた得意な能力であり、怯えが、むし
ろ、この人の優越性を表す徴です。

 キリスト教2000年の歴史の中に登場した、「この世の終わり」に脅える終末信仰者は、大方、フィリヨンカに
過ぎません。

 より正確に言うならば、こういう人たちは、本当には、脅えてなどいません。得意がり、喜んでいます。もし本当
に終末に脅えるならば、『決してそれから逃れられません。』という言葉をこそ、聞くべきでしょう。


◆.4節に述べられていることは、信仰者は、この苦しみに遭わないということなのでしょうか、それとも、耐えられ
るということなのでしょうか。

 … しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。

   ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。…

 そもそも、3節とは大分、色合いが違います。

 3節では、『突然、破滅が襲うのです。』と述べられ、4節では、『突然あなたがたを襲うことはないのです。』と
述べています。真逆です。


◆.そも、世の終わりとはどのようなものなのか、聖書はどのように描いているのか、もう一度問題にせざるを得
ません。その内容とは、4章13節以下です。先週の箇所全体です。

 特に13節。

 … 兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、

   希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、

  ぜひ次のことを知っておいてほしい。…

 このように述べて、復活信仰が説かれます。

 「この世の終わり」は、世の人々にとっては、裁きの時であり、滅びの時です。しかし、信仰者にとっては、同時
に栄光の時でもあります。

 決して脅えることではありません。このことについても、時期と徴候を知る必要はありません。


◆.時期を知ることよりも、備えをすることよりも、普段の信仰生活を整えることが肝心です。弁えておかなくて
はならないのは、その覚悟の程です。その時を見据えた生き方が問われるのです。

 説教で引用するには恥ずかしい程に、良く知られた話があります。

 ルターの「たとえ明日、世界が滅亡しようとも、今日私はリンゴの木を植える。」です。

 手垢が付くほどに、有名な言葉ですが、ここに真理があるから、引用されるのでしょう。終末に向かい合う姿
勢について、これ程に、適切な言葉は他に見当たりません。私たちも「たとえ明日、世界が滅亡しようとも〜リン
ゴの木を植える。」しかありません。

 

◆.世の終わりとは、個々人の死の時だという説があります。半分賛成できます。しかし、4章15節を見れば、
使徒パウロはもっと別の考え方をしていたようです。

 … 主の言葉に基づいて次のことを伝えます。

  主が来られる日まで生き残るわたしたちが、

  眠りについた人たちより先になることは、決してありません。…

 ここでは、パウロも終末の時について述べています。

 しかし、そのことに拘泥しているのではありません。正に、時期と場合を知る必要はありません。一方で、その
時が確実に来ることを、私たちは知っています。

 5章2〜3節に描かれるのは、人生観の問題です。死・滅びというものを全く念頭に置かない生き方をする
者にとっては、正にこのようにして、死は、滅びは、突然に訪れます。そして、その人の人生の一切を無に帰しま
す。


◆.しかし、イエス・キリストの十字架を見据えて生きる者にとって、不意と言うことはありません。5〜6節は、不
思議なことを描いているように聞こえます。しかし現実です。

 刹那的に生きる者にこそ、死と滅びは突然に訪れます。しかし、死と滅びを真っ正面から見据えて生きる者
は、昼・光の中に生きています。

 覚醒した生き方、それは、ことの真実を見据えていることです。


◆.5節。

 … あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。

  わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。…

 光の子、昼の子、が何を意味するのか、誰もが納得できるような説明は難しいでしょう。しかし、漠然としてい
ても、その意味は誰にも理解できるとも言えます。皆が知っています。

 私たちが脅えるのは、闇の中にいる時です。先が見えないから脅えます。文字通りの意味です。そして、心の
目の場合も同様です。心で見ることが出来ないと、つまり、理解や納得が出来ないと不安です。

 明るい光の下で、しっかりと見ることが出来れば、不安は収まります。心に希望という光があれば、闇を追い
払うことが出来ます。


◆.もっと身近な例で申します。人間の肉体には、いろいろな苦痛が与えられます。その中で、足がしびれると
いう苦痛は、かなりなものです。長く正座した後のしびれ、その苦痛は耐えがたい程です。

 しかし、誰もが知っています。このしびれは長くは続きません。数分で去ります。ですから、しびれを苦にして絶
望する人はいません。しびれを早く取り去る方法もあるようですが、何よりの対処方法は、せいぜい数分のこと
ですから、我慢することです。

 耐えがたい程の苦痛を味った時も、同じことです。最も適切な対処方法は、我慢することです。そして、希望
があれば、我慢出来ます。


◆.6節。

 … 従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、

   身を慎んでいましょう。…

 世の終わりに備える対処方法は、これしかありません。普段通りの生活をすること、信仰者として歩き続ける
こと、これしかありません。世の終わりに脅えて騒ぎ立てることではありません。まして、その恐怖を他人に伝染さ
せることではありません。そんなことをする人は、闇の伝道者でしょう。サタンの手下に過ぎません。


◆.8節。

 … しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、

   救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。…

 6節と全く同じ内容が繰り返されています。

 当たり前の信仰生活を、当たり前に続けること、これが悪・絶望との戦いです。

 そのような信仰生活の真逆は、罪に染まった生き方、裁きを恐れない不遜な生き方です。裁きの存在そのも
のを否定する虚無的な生き方に由来します。

 何故、人は悪いことができるのでしょうか。恥を知らないのでしょうか。そうかも知れませんが、何よりも、神の
裁きを信じていないからです。


◆.死・滅びと闘う具体的な力が、ここで示されています。それは、信仰と愛、救いの望み、救いの望み、これ
こそが、信仰と愛を産みます。そして、信仰と愛だけが、死・滅びと闘う真に有力な防具となりうるのです。

 9節。

 … 神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主

   イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。…

 怒りは、力にはなりません。慎んでいることが、真の戦いです。

 10〜11節には、教会が何をなすべきかが説かれています。これが実際的なことです。11節。

 … あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、

  お互いの向上に心がけなさい。…

 十字架による救いを信じて生きること、その信仰に立って、慰め合い、励まし合うのが、正しい教会のありよう
です。


◆.10節。

 … 主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、

   目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。…

 『目覚めていても眠っていても』、喜びの時も、悲しみの時も、信仰者は、『主と共に生きる』のです。

 このことをこそ、このことだけを知ればよろしいのであり、信じればよろしいのです。何時、どんな風にして、確か
にそんな関心を持ちますが、それは、最重要なことではありません。日々の備えも特別なことではありません。
淡々と、日々の務めを果たすだけです。