◆6節から、少しづつ順に読みます。 … さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき … 『イエスがベタニヤで』とあります。ベタニヤとは地名です。エルサレムの東の方で、マルタ・マリヤ・ラザロの姉妹の家がここにありました。地名ですけれども、普通名詞としては、「悩む者の家」「貧しい者の家」という意味を持ちます。 出来事と、地名が持つ意味とが、ちょうど重なっています。 ◆7節。 … 一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、 食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。… 『一人の女』についても、ヨハネ福音書12章1〜11節では、マルタ・ラザロの妹マリヤとなっており、ルカ福音書では、『その町で罪の女であった者』となっています。 そこから、ラザロの妹マリヤとこの女とが同一視されたり、さらにはマグダラのマリアと混同されたりします。しかし、マルタ・ラザロの妹マリヤが罪の女、売春婦であったとするのはちよっと無理ではないかと思います。 それでも、高価な香油を持っていたことからして、ここに登場する女が、罪の女=売春婦であったと推測する人がいます。また、この当時、家族以外の女性が、男性の宴席に入り込むことは、滅多になかったそうです。 そうしますと、マタイ福音書にありますように無名の女がしたことが、解釈が加えられ、発展した結果が、ルカ福音書であり、ヨハネ福音書であると考えることが出来ますか。 このようにいちいち他の福音書と比較し、断っていると面倒なので、以下はなるべくマタイ福音書の記述に限定します。 ◆『香油』とは、オリーブ油に、ヒマラヤ原産の香草の根から成分を抽出した香料を加えて作ったものだそうです。非常に高価な化粧品であり、石膏の壺に保存されました。高貴人物を迎える時には、これをその人の体に塗ったそうです。さて、8〜9節。 … 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄使いをするのか。 9:高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」… ヨハネ福音書では、『ある人々』ではなく、『イスカリオテのユダが』とあり、何故そのようなことを言ったかという理由も、お金をごまかしていたからだと説明しています。 先程申しましたように、ややこしくなりますから、他の福音書にはあまり拘らないで、マタイ福音書だけで読みます。 高価なナルドの香油を振り注ぐという女の行いは、居合わせた人々を驚かせました。驚くのは当然でしょう。高価な油が地面に流れてしまいました。 ◆驚かせただけではありません。『憤慨』させました。確かに彼等の言うように、『高く売って、貧しい人々に施すことができた』かも知れません。無駄遣いに違いありません。 ユダヤ教は施しを重んじます。また、清貧を重んじます。この女の行いは、この二つの原則に照らし、批判される行為でしょう。厳しく咎められても仕方がないかも知れません。 しかし、私はこのように考えてしまいます。こんな批判的なことを言う人々は、もし自分が大金を持っていたとして、では、それを貧しい人々に施すでしょうか。このように、直ぐにお金のことに結びつけて、もったいないとか無駄だとかと言う人は、結局、そのお金を抱え込んでしまう人なのではないでしょうか。 ちょっと生々しい話ですが、私が実際に体験したことです。 松江北堀教会で会堂建築の時に、自分たちの会堂を建てることよりも大事なことがあると主張する人がありました。綺麗な会堂を建てるよりも、貧しい人々に捧げる方が大事だと言う主張です。そうかも知れません。 松江北堀教会は築後60年、酷く老朽化し、大風が吹いた時には、周囲の建物には何の被害がないのに、教会は会堂の窓ガラスが壊れて落下しました。無人だったから良かったのですが、礼拝中だったら、大事になっていたでしょう。牧師館も同様に老朽化していて、冬に蚊帳を吊って寝ました。蚊を避けるためではなくて、ゴミや壁のかけらが天井から落ちてくるからです。また、縁側の隙間から、草が生えてきました。 ◆綺麗な会堂を建てるよりも、貧しい人々に捧げる方が大事だと言うのは、その通りかも知れません。そう言う教会があっても良いかも知れません。 「それなら、教会を取り壊して、青天井で礼拝を持ちましょう、雨の日には傘を差して礼拝を持ちましょうか」と、私は言いました。 3年もの間、議論も準備もし、結局、会堂建築に踏み切りました。主の御旨が有ったからだと思います。たった40人の会員で、6800万円の会堂を建て、竣工時借入金も有りませんでした。それどころか、数年後には、3000万円近い余剰金が出ました。私が離任してから、そのお金を元に、隣接地を購入することが出来たそうです。 ◆さて、会堂竣工の直後から、年間蜜柑箱一つ程も寄せられる、諸献金依頼を、ノートに綴じて、教会の受付に置き、個々人で献金して貰うことにしました。 後でそれぞれの団体から送られて来る会計報告を見て分かりました。諸福祉事業に献金した人は、会堂建築を推進し、精一杯献金した人です。 綺麗な会堂を建てるよりも、貧しい人々に捧げる方が大事だと主張した人の名前はそこにはありません。そう言う人は、会堂建築にも、諸福祉事業にも捧げることはありません。 ◆さて、私がどのように感ずるかと言うことは、些末なことでしかないかも知れません。ここで女を咎めた人々は、本当に、貧しい人々を思いやったのかも知れません。ヨハネ福音書ではこれを言ったのは、イスカリオテのユダですから、私の感想で正しいと思いますが、マタイ福音書とマルコ福音書の場合は、違うかも知れません。 肝心なのは、イエスさまはどのように見られたのか、どのようにおっしゃったのかと言うことです。 11節。 … 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、 わたしはいつも一緒にいるわけではない。 … 『貧しい人々は、いつもあなた方と一緒にいる』。施しを、普段の行為として行うことを、イエスさまも否定していません。初代教会も、施しを信仰的な美徳として継承していたのは間違いありません。 『わたしはいつも一緒にいるわけではない』。勿論、十字架の予告です。直訳すれば、『あなた方は私を持っていない』と言う表現が用いられています。常にそうですが、ここでも、女の行為は、十字架の意義と結び付けられて理解されています。 全て、十字架の意味と結び付けられて理解されなければなりません。 ◆そのことは、12節で一層はっきりと述べられています。 … この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。 … 『葬る準備』と表現されています。マルコ福音書16章の記事からも分かりますように、死体に香油を塗って腐敗を防止し、弔いの備えをしました。 ここで、女がどんな考えで、これを行ったのかは、分かりません。王として迎え入れるためと解釈するには無理があるかも知れません。単純に、敬意の表現だったのかも知れません。しかし、何であれ、イエスさま自身が、これを十字架と結び付けて理解し、彼女の行いを肯定したのです。 ◆ちょっと飛躍しますが、5000人へのパンの給食を思い出して下さい。既に説教した箇所ですから、要点だけを言います。ここで、イエスさまは弟子たちに『パンを上げなさい』と確かに仰いました。弟子たちは、しかし、それは無理だと判断しました。そして、僅か5つのパンと2匹の魚が配られました。 結果は、ご承知の通りです。人々は、僅かに見えるもので、皆が満足しました。皆が養われました。ここで配られた5つのパンと2匹の魚は、神さまの御言葉のことです。 今、飢えた民にとって必要なのは、パンであって、腹を満たしてくれない説教ではないと言う主張は、ここで退けられたのです。飢えた人々は、御言葉で養われたのです。 『あなた方の手でパンを上げなさい』とは、勿論、伝道のことであり、礼拝のことです。 弟子たちの手で配られた5つのパンと2匹の魚は、イエスさまの十字架のことです。弟子たちは、十字架のイエスさまの肉と血を配ったのです。 『高く売って、貧しい人々に施すことができたのに』と主張した人々は、神さまの御言葉では満腹出来ない、イエスさまの十字架では、飢えは収まらないと言う人々です。そう言っているのに過ぎません。 ◆13節。 … はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、 この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。 … 『世界中どこでも』と言う表現は、世界宣教のことと聞こえますので、後の時代の挿入だと考える学者が多いようです。『記念として語り伝えられる』、記念として憶えられると言っていながら、当事者の名前さえ記録されていないのは不思議です。 確かに、不可解ではありますが、マタイ福音書は、この女を重要視するのではなく、女の行いそのものを重要視しているのだと考えます。 ◆ただひたすらに礼拝を守り続けるということは、そして、ただひたすらに御言葉を宣べ伝えるということは、貧しい人々のためには何もしないということではありません。 礼拝・御言葉よりもパンが大事だと考える人は、むしろ、貧しい人々を蔑むことです。 そして、礼拝・御言葉を何よりも大事だと考える人こそが、実際には、貧しい人々にパンを差し出す人です。その逆ではありません。 ◆阪神淡路大地震の時に、教団を二つに引き裂くほどの大議論が起こりました。 かたや「地域の復興なくして教会の復興なし」かたや「教会の復興なくして地域の復興なし」。この議論は、3.11の時にも蒸し返されました。 理屈から言えば、前者の方が正しいと聞こえます。地域が壊滅的になっているのに、教会だけ再建しても、集まってくる人が、そもそもいません。3.11の後、被害を受けた教会は全て再建されましたが、以前の半分ほども礼拝出席者がいないのが、悲しいかな現実です。新しい綺麗な礼拝堂で、数人が礼拝を守っているという光景があります。 ◆しかし、もうちょっと深く考える必要があります。実際に見聞きしていることでもあります。地域の復興、具体的には地域経済の復興でしょうか。そのために必要なのは、必ずしもお金だけではありません。人間の気持ちです。被災した人の感情です。 復興を願い目指し働く意欲です。その際には、単に金銭的援助があったからではなくて、応援を貰ったことが、気持ちの再建に繋がって行きます。金銭的援助だけではなく、自分たちは見放されていないという思いが、支えになります。地域、そこに住む人々にとっては故郷、ふるさとへの愛が、再建の意志を生み、意欲を生んで行きます。 ◆世界大戦の後、教会は再建されました。戦前よりも遙かに発展しました。欧米の援助もありましたが、それよりも、信仰そのものが再建されたからです。その時、教会には何もありませんでした。お金も建物も牧師も失った教会が大半でした。 しかし、信仰そのものが再建されました。 その時には、教会の存在が、平和の象徴となり、若い人が教会に集まり、何がなくとも夢があり、希望があり、それを語り合いました。語り合う仲間がいました。 その後、地域経済が復興し、建物が建ち、教会に集う人々の生活が豊かになりました。しかし、まるでそれに比例するかのように、教会に集う若者が少なくなり、夢、希望を語り合うことがなくなってしまいました。 ◆大曲教会には、クリスチャン17軒によって開拓された集落があります。戦後、満州からの引き揚げ者によって開拓されました。牛馬さえなく、人力で石や根っこを取り除く重労働でした。自分たちは、テントやバラックに住まいしていましたが、真っ先に礼拝堂を建て … 小屋ですが … 夜ごと集まっては聖書の勉強をしたと聞きます。疲れて居眠りする人が多かったそうですが、礼拝を守り続けました。 周囲の農家に蔑まれ、隣村で鶏がいなくなると、盗ったと疑われ、子どもは虐められました。しかし、ぐれる者はいません。蒸発、つまり出稼ぎ先から出奔する者が少なくなく、社会問題となった時代でしたが、この開拓地からは、一人の蒸発者も出ませんでした。自分たちはどんなに貧しくみすぼらしくとも、毎日、聖書を学んでいるという誇りが、彼らを救ったのです。 私が大曲教会に赴任した年に、最後の一軒が新しくなりました。しかし、その頃から、礼拝に出る者が減り、出稼ぎが増え、冬場は、年寄りと子どもだけが残されるようになりました。私が週1回通う出張礼拝には、年寄りと子どもだけでした。 苦労に苦労を重ねたおばあちゃんが、私に訴えます。「昔は良かった。貧しくとも、みんな一緒だった。」 ◆『愛と憎悪は同じ根から』という説教題から全く外れていると聞こえますでしょうか。そうでもありません。愛と憎悪も、そて希望と絶望も同じ根から生まれます。 |