◆ 26〜30節は、聖餐式の起源となる出来事で、私たちにとって決定的に重要な所です。だからこそ、その記事の前後に注目して貰いたいと思います。23節と25節。 … 23:イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、 わたしを裏切る。… … 25:イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、 「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。 「それはあなたの言ったことだ。」… 次に31節を読みます。 … そのとき、イエスは弟子たちに言われた。 「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。 すると、羊の群れは散ってしまう』と書いてあるからだ。… ◆教会の礼拝の始まりとも言える聖餐式・最後の晩餐の前後、厳密には、前後ではなく、聖餐式の中で、弟子たちの裏切りが予告されています。 この後、イスカリオテのユダは、イエスさまを役人の手に引き渡します。しかも、友愛の印である筈の口吻をもって、イエスさまを裏切ります。また、他の弟子たちは、イエスさまが捕らえられる場面から、逃げだし、イエスさまを見捨てます。 更に、弟子たちの筆頭株のペトロは、3度に渡ってイエスさまを知らないと、嘘をつきます。聖餐式の前後の出来事は、裏切りの出来事です。 ◆ 福音書の中で、聖餐式・最後の晩餐と並ぶほどに重要な出来事は、信仰告白でしょう。マタイ福音書ですと、16章16節。 … シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 … ペトロが弟子たちを、つまりは教会を代表して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。これに対して、イエスさまは、仰います。18〜19節。これは、教会への約束であり、教会に与えられた恩恵です。 … 18:わたしも言っておく。あなたはペトロ。 わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。 19:わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、 天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」… 弟子たちの信仰告白の上に教会が建てられること、その教会が大きな権威を持つことが約束されています。 ◆ しかし、その直後、16章22〜23節。 … 22:すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」 23:イエスは振り向いてペトロに言われた。 「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。 神のことを思わず、人間のことを思っている。」… 以前に読んでいますので端折って申しますが、ペトロはイエスさまを愛する気持ちからには違いありませんが、人間的な思いで、十字架を避けようとしました。教会は十字架の上に建てられます。その教会が、誕生した瞬間に、十字架を否定したのです。 このように、教会にとって決定的に重要な、聖餐式と信仰告白の出来事と、弟子たちの裏切りが重ねられて描かれています。 遡って、出エジプトの出来事でも、モーセを通して十戒が授けられた出来事と、民の不平・不満、裏切りが重ねられています。 繰り返しお話ししておりますように、最後の晩餐は、過越の出来事と不可分離的です。過越もまた、裏切りと、躓きとに満ちているのです。 ◆更に言うならば、16章に続く17章では、山に登ったイエスさまの姿が、白く光り輝くという不思議な出来事が描かれています。モーセも登場します。これは、天国の先取りとも言うべきでしょう。その直後には、20節 … イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。 もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、 『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。 あなたがたにできないことは何もない。」… 信仰を自分のものにすることが出来ない弟子たちの姿が描かれています。 ◆ この他にも、信仰上大事な場面は、裏切り、躓き、少なくとも弱さと重なります。 何故そうなのか。それが教会の、隠しようもない真実の姿だからでしょう。 そして、私たち一人ひとりの信仰者の、隠しようもない真実の姿だからでしょう。 「そんなことはない、私は確信を持って信仰生活を送っている。どんなことがあっても、躓いたり、まして、裏切ったりしない」と言える方があれば、それは、大変に結構なことです。嬉しいことです。そんな強い信仰の持ち主が、10人いたら、否、5人いたら、否、二人もいたら、教会は盤石です。 そんな人はいないでしょうなどと言うつもりはありません。いて欲しいと思います。 しかし、躓きや裏切りではなく、弱さならばどうでしょうか。なかなか難しいでしょう。 ◆ ペトロは、間違いなく、本気でイエスさまを信じ、かつ、愛していました。しかし、彼の弱さが、イエスさまを裏切らせました。そのことを聖書はちゃんと描き出しています。弟子たちの代表であるペトロが、その弱さ故に、イエスさまを裏切りました。 ここでも、「私は弱くない、どんな試練にも耐える覚悟・力がある」と言える方があれば、それは、大変に結構なことです。嬉しいことです。そんな強い信仰の持ち主が、5人いたら、否、3人いたら、否、1人でもいたら、教会は盤石です。 ◆ 今日の箇所に戻ります。28節。 … これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、 契約の血である。 … 最後の晩餐は、罪の赦しのために持たれました。『罪が赦されるように』です。 ですから、理屈から言いまして、「私には罪はない」と言う人は、「私には、最後の晩餐は要らない」と言うことであり、つまりは、「十字架は要らない」と言うことです。 ヨハネの第1の手紙1章8節。 … 8:自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、 真理はわたしたちの内にありません。… 聖書がこのように述べているのだから、仕方がありません。私たち人間は、人間であるが故に、全く罪を免れることは出来ません。 ◆ そのような人間のためにこそ、イエスさまは血を流されたのです。そしてこの血は、『契約の血』です。ここは、先週詳しくお話ししましたので、今日は繰り返しません。 受付には、先週の説教原稿もあります。 諄いようですが、この聖餐に与った者に、31節、 … 今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。… と言われています。躓いた者が、聖餐に与って、罪を贖われたのではありません。聖書は、聖餐に与って、罪を贖われた者に、『皆わたしにつまずく』と言われているのです。恐ろしいことです。聖餐に与って、罪を贖われた者が、しかし、罪を犯したならば、それから先どうしたら良いのでしょうか。 ◆ 初代教会には、洗礼志願者と呼ばれる人がいたそうです。 今日の洗礼志願者とは、大分意味合いが違います。洗礼を受け、聖餐に与ってから後、罪を犯したらどうなるだろうと心配して、洗礼を受けないのだそうです。死の間際になってから、もう罪を犯す心配がなくなってから洗礼を受けます。それが初代教会の洗礼志願者でした。正直と言えば正直です。狡いと言えば狡いかも知れません。 以前の教会員に、「私は2回洗礼を受けた」と言ってはばからない人がいました。最初の洗礼の後で、教会から離れてしまい。信仰的ではない生活をしていたそうです。そこで、再び教会に通い始めた時に、再び洗礼を受けました。それを自慢げに言うのです。 その人の気持ちは分からないでもありませんが、これは再洗礼に当たります。再洗礼は異端です。再洗礼をする教派がありました。これは、ローマ・カソリックからも、プロテスタントからも、異端と見做されています。 洗礼は2度3度と繰り返されるものではありません。再洗礼は、洗礼の意味を貶めるものです。再洗礼ならば、洗礼が繰り返されるならば、単なる禊ぎに過ぎません。禊ぎならば、諸宗教に共通してあります。 ◆ 禊ぎは何度も、毎日だって繰り返されますが、洗礼は1度だけです。何故ならば、それは神さまの契約だからです。神さまとの契約ではありません。神さまの契約です。 普通の契約ならば、規約、契約の条件があります。もし、これに違反したら、契約は無効になります。分かり易い例で言えば、毎年の保険金を滞納したら、保険は無効です。 人間が神さまとの契約に違反したら、契約は無効になるでしょう。しかし、神さまとの契約ではなく、神さまの契約だから、神さまは、失効だとは言いません。 この辺りは、ホセア書を読むのが一番有効でしょう。ホセアは、夫を裏切り続ける妻ゴメルを、その都度、買い戻します。妻が裏切っても、夫はこれを愛し続けます。それが神の愛だと、ホセアは主張しています。 ◆ 先を読みます。1節飛ばして33節。 … するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、 わたしは決してつまずきません」と言った。… ペトロは強い言葉で自分の心を表現しました。確信を述べました。しかし、これこそがペトロの弱さであり、ペトロの罪でしょう。 他の弟子たちと比較しています。もしかしたら、ペトロの言う通りで、他の弟子たちと比べても、ペトロはより熱心に信仰しており、かつ、他の弟子たちよりもより意志が強固なのかも知れません。しかし、それは比較の問題です。 また、信仰のことなのに、人間的な思いで、他の弟子たちよりも自分を高く評価しています。それが事実だとしても、このこと自体が既に罪です。他と比較すること、比較によって、自分を正しいとすること、既に罪です。 シモーヌ・ヴェーユが、その罪を指摘しています。 ◆ これは、イエスさまを心配するようでいて、実は、十字架を回避しようとした罪と同じ類いの罪です。繰り返します。 … 「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。 神のことを思わず、人間のことを思っている。」… 34節。 … イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、 三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 … この通りになってしまいました。ペトロは他の弟子よりも熱心だったかも知れません。しかし、それも人間的な思いです。人間的な思いは、躓くのです。裏切るのです。 ◆ 35節。 … ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、 あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。 弟子たちも皆、同じように言った。… ペトロも他の弟子たちも本心から、言ったのでしょう。そこに偽りはなくとも、それ自体が虚しいのです。 ◆ 32節に戻ります。 … しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。 … 復活のイエスさまに出逢う時まで待たなくてはなりません。そこにしか信仰の確信はありません。人間の心の中に、信仰の中に、確信を求めても無駄です。 今日の箇所について、読み方によっては、誰にも信仰はないのか、誰もが不合格なのかと、がっかりする人があろうかと思います。しかし、福音書が究極言いたいのは、そのような人にも、十字架の血が印として付けられている、救いは、このような人たちにも及ぶということです。 ◆ そもそも、12弟子の中に、模範的な信仰者など、一人も選ばれていません。12弟子の選びの場面を振り返ります。10章1節の始めと4節の終わりです。 … 2:十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンと−中略− 熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。… 12弟子の一人目と12人目は、躓いた人と、裏切った人です。 イエスさまは、これらの人々のためにこそ、十字架の上で血を流されたのです。 イエスさまは、私たちの罪を赦して下さいます。私たちの罪を赦すために、イエスさまは、十字架に架けられたのです。 |