◇ 11節から読みます。 … このことのためにも、いつもあなたがたのために祈っています。… パウロ書簡では『祈っています』という言葉が繰り返されます。パウロたちの伝道団の使命は、祈ることにありま す。何事を行うにも、何事をなすにも、先ず祈りから始まります。祈って何事かを始め、祈って何事かを話しま す。 小松川教会に招かれて説教に当たったことがあります。何かの記念日でしたが、何かは忘れました。説教箇 所も説教題も覚えていません。その他のことも大概忘れてしまいましたが、一つだけ忘れないこと、忘れられな いことがあります。 それは、「説教の前にお祈りしてください。」と言われたことでした。 初めての経験でした。普通、説教の後にお祈りがあります。説教の後にお祈りがないのは、ごくごく例外的で す。私は二度しか経験がありません。一度は音楽会の時、3分のスピーチをさせられましたが、キリスト教の集 会ではないので、祈りはありません。スピーチであっても、説教ではなかったのかも知れません。 もう一度は、他の教会で奉仕した時ですが、司会者が間違えたのか、説教が終わるやいなや、割り込んでき て、「はいそれでは」と、別のプログラムになってしまいました。 ◇ 小松川教会の時は、思い掛けないことで一寸慌てましたが、説教の終わりに予定していた祈りの原稿で祈 り、説教の後はアドリブでした。ゲストだからと、お祈りの原稿を書いていましたが、普段の祈りはアドリブですか ら、特に問題はありません。 小松川教会は、旧ホーリネスの教会ですから、とても祈りを重んじます。説教も祈りに始まって祈りで終わるの だなと、納得しました。 玉川教会でも、これを採用したいと思いましたが、プログラムが一つ増えます。その分、礼拝時間が長くなりま す。何より、祈りの回数や時間を増やすことが、祈りに始まり祈りに終わるという意味ではないだろうと、思い止 まりました。 ついでに申しますと、教会によっては、牧会祈祷が20〜30分続くことがあります。一昨年の伊東教会がそう でした。牧師が祈る場合の方が多いのですが、伊東教会では司式者が祈り、これが20分、同じ人による礼 拝後の報告が30分でした。 私の説教は25分ですから、この人のお祈りの中に埋没した感じでした。説教の後のお祈りも20〜30分続 く牧師がいます。 こういうことですと、礼拝時間は一時間半から二時間になります。珍しくはありませんが、玉川平安教会の倍 です。 ◇ 余計なことばかりお話ししているかも知れません。本題に戻ります。 パウロは、何を祈ったのでしょうか。Uテサロニケ1章全体がパウロの祈りと言えるかも知れません。長いように も見えますが、長い祈りをする牧師からすれば、ごく短いとも言えます。 より直接的には、11〜12節が祈りの 言葉です。順に読みます。 … どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり… 『招きにふさわしいものとして』、これが第一の祈りです。 私たちは、一人一人が神に招かれて、礼拝に集います。神の招き以外に、理由・根拠はありません。 実際には、いろいろと理由があるかも知れません。何しろ、礼拝に出ない理由があるのですから、礼拝に出る 理由もあるでしょう。しかし、それは人の心の思いです。心の思いに過ぎません。神の招き、これだけが、私たち が真に理由と出来るものです。 ◇ そうして招かれた者に、パウロは言います。『招きにふさわしいものとしてくださ』いと、言います。 連想させられる聖書個所があります。マタイ福音書22章の『婚宴の譬え』です。往時の婚宴に招かれた 人々は、それを無視します。結果、9〜10節。王は家来に命じます。 … 町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』 10:そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、 婚宴は客でいっ ぱいになった。… ここまでは理解出来る譬えですが、その後に続きます。 … 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。 12:王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。 この者が黙っていると、 13:王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。 そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。 … 理不尽とも言えることが記されています。勝手に招いておいて、勝手に追い出したと言えば、その通りです。昔 から、解釈が難しいと言われる譬え話です。 この譬え話の結論部分は14節です。 … 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」… ますます難解かも知れません。 ◇ なるべく単純に考えましょう。『招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。』その通りでしょう。 婚宴に出て、盛んに飲み食いしていても、結婚を祝福する気持ちなどかけらもない人もいます。礼拝に出て いても、神さまの前に跪く気持ちがないならば、そんな人と同じです。 放り出された理由は、『婚礼の礼服を着ていない』からでした。これは、文字通りに晴れ着・礼服を着ていない と言うことではなく、その気持ちがないということでしょう。礼拝に出ていても、礼拝する気持ちが全然ないのなら ば、礼拝したことにはなりません。 礼拝に出るのに晴れ着は要りません。しかし、身に纏う必要があります。それは、祈りです。祈りという着物を 何重にも重ね着する必要はありません。1枚で良いでしょう。 ◇ マタイ福音書23章25〜26節。 … 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。 杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。 26:ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。 そうすれば、外側もきれいになる。… 礼拝に出るのにふさわしい衣装は、祈りという衣1枚です。 ◇ 大分回り道しています。11節の続きを読みます。 … また、その御力で、 善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように。… 『善を求めるあらゆる願い』です。神さまの前で祈るべきは、このことです。 そうではない祈りは、聞かれないでしょう。悪を求める祈りなんてものはないかも知れませんが、もし、悪を願い 求めて祈るならば、それは、祈りではなく呪詛でしょう。 合格祈願とかは、呪詛ではないかも知れませんが、誰かが合格すれば誰かが不合格なのですから、半分は 呪詛かも知れません。お天気になるように祈ることだって同じです。誰もが晴れを望むとは限りません。雨や雪を 願っている人だって、当然います。 ◇『善を求める願い』をする人は少ないでしょう。殆どいないかも知れません。正義を願い求める人はいるでし ょう。正義を願い求めて、敵を呪う人は大勢います。しかし、これも半分呪詛です。 私たちは主の祈りを唱えます。ここには呪詛の要素はありません。私たちがその言葉で祈り、叶えられ、その 結果、誰かが不孝になるようなことはありません。 唯一、『悪より救い出し給え』でしょうか。困るのは、悪、悪魔です。 私たちは、『みこころの天に成るごとく 地にも成させたまえ』と祈ります。 これに傷付けられるのは、悪魔だけです。 ◇ 8節に戻ります。 … 主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。 そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、 罰をお与えになります。… 裁きが語られています。罰が与えられると言われています。罰を与える厳しい神さまが描かれています。そんな のは嫌だと感じる人もありますでしょう。 しかし、パウロは間違いなくそのように言っていますから、これを誤魔化してすり抜けることは出来ません。『神を 認めない者』は、罪人なのです。 現代人の感覚では、『神を認めない者』は、罪人ではなく、ごく普通の人で、『神を認めない者』は、だからと 言って、決して悪人ではありません。 『主イエスの福音に聞き従わない者』も同様でしょう。イコール悪人ではありません。 しかし、パウロは、そのような者に『罰をお与えになります』と明言しています。 この理由だけで、キリスト教が嫌いになる人がいるでしょう。 ◇ 一方、このような言葉を振りかざして、これが聖書の教えだと言って、人を裁く人がいます。自分が信じる神 さまを信じない者は、不信仰者であるだけではなく、悪人だと考えています。恐ろしいとさえ思いますが、取り敢 えず続く9節を読みます。 … 彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、 永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう。… もっと恐ろしくなります。 誰がこのように裁かれているのでしょうか。4節に遡らなくてはなりません。 … それで、わたしたち自身、あなたがたが今、 受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、 神の諸教会の間で誇りに思っています。… テサロニケ教会員は、『迫害と苦難の中』にあります。その『迫害と苦難』を与えている人々が、8節に描かれ ている『神を認めない者〜主イエスの福音に聞き従わない者』です。特定されています。ですから、キリスト教を 信仰しない者は誰でも悪人だと言う意味ではありません。 ◇ この当時、キリスト教を迫害する力、特にローマ帝国の権力は絶大なものでした。絶対に止むことがないと 見える悪の力でした。とても抵抗出来ない圧倒的な力でした。 だから、パウロは、彼らは絶対的な力ではない、神の裁きの下にある存在に過ぎないと慰め励まし、ただ、忍 耐と信仰とをもって、これと戦うのだと勧めています。 3節にあります。 … あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、 忍耐と信仰を示していることを神の諸教会の間で誇りに思っています。… 「悪と戦う力は、忍耐と信仰だ」とパウロは言います。当時も、「力には力を持って戦う」と主張した人もいまし た。当然でしょう。その考え方の方が、当たり前で、多くの人がその立場に立つでしょう。 少し時間は遡りますが、エルサレムの市民は、そのように考えて、彼らなりの信仰で、ローマと戦い、そして、徹 底的に滅ぼされました。エルサレムは陥落し、イスラエルの国は滅び、人々は、世界中にちりぢりにされました。 初代教会の時代にも、ローマに対して武力で向かい合い、そして徹底的に滅ぼされた者がいました。 ◇ 先週読みましたように、5節。 … これは、あなたがたを神の国にふさわしい者とする、 神の判定が正しいという証拠です。 あなたがたも、神の国のために苦しみを受けているのです。… パウロは、この試練、この忍耐こそが、『神の国』のための試練、忍耐であり、それをくぐり抜けた者が、神の国 にふさわしいのだと説きます。 そして苦しめる者は、裁きを受けると言っています。 6節では『神は正しいことを行われます。』と言い、正しい裁きが行われると約束しています。 だからこそ、今、力に対して力で対抗し、結果は、破れ、滅んでいく必要はありません。 ◇ 今日の箇所で同じ意味のことが繰り返されます。12節。 … わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、 あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです。… この信仰による忍耐と抵抗が、誉れです。 『善を求めるあらゆる願い』は、叶えられます。「悪を願い求める」者の力に屈することはありません。 『善を求めるあらゆる願い』は、ただ、祈りによって実現されます。祈りだけが、役立つ武器です。『みこころの 天に成るごとく 地にも成させたまえ』と祈るのが、キリスト者の戦いです。あらゆる悪に対して、『善を求める〜 願い』、則ち、祈りで戦うのが、キリスト者です。 そうでなければ、祈りは、先ほど申しましたように、私にとっては願いであっても、他の人からすれば、むしろ呪 詛でしょう。 神さまはそんな祈りは聞かれません。 |